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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第三章 遠ざかる天蓋
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消さぬ余熱

 1891年(明治24年)5月13日 午後一時 外務省・次官室


「……これは、“遺憾の意”を述べたつもりでも、ロシアには謝罪と受け取られない」


 書面を置いた石井次官の声は、あきらかに不快を滲ませていた。

 村岡はそれを正面から受け止める。


「“謝罪”という語を、故意に外しました。責任を認めることで、日本の司法の独立が揺らぐ可能性がある。外務の判断とは食い違いがあると承知しております」


「言葉の綾で国際問題は解決せん。陛下が昨日お見舞いを送られたというのに、それ以上の“公式な謝意”を、この紙には感じられない。相手は皇太子殿下だぞ。巡査が刃を向けたのだ」


 石井は机の上に指を叩いた。


「……お前は、“外に出る声”の重さを軽視している。火消しの水を打ちすぎて、かえって煙を立たせることになりかねん」


「我々が守るべきは、“法の正当性”です。外交的妥協を先に出せば、それは“初めから筋書きの決まった裁き”と映ります。ロシアにも、国内にも」


「君は理想論を語っているのではないか?」


 村岡は言い返さず、静かに一礼した。


「外務の反論も、私の責任として持ち帰ります。官邸に進言する上で、調整の余地を模索します」


「……君がそう言うならいい。だが、“責任を背負う覚悟”だけでは、国は動かんぞ」


 ⸻


 1891年(明治24年)5月13日 午後二時 司法省・刑事局長室


 刑事局長・斎藤の表情は、やや神経質にこわばっていた。


「……重過失傷害か、あるいは殺人未遂か。どちらにしても、被害者が皇太子となれば、司法としては慎重にならざるを得ません」


「刑罰の重さではなく、手続きの正統性こそが問われるのだと考えます」


 村岡は、今朝の草案を机上に置く。


「“死刑にせよ”という声も政界から出ておりますが、法に基づかない刑罰を“政治の都合”で出すことはできません。それを日本の司法がした瞬間、もはや制度ではなくなる」


「……言われなくとも、それが危機であることは承知しています。だが、“皇太子”を斬りつけた津田を“正当に裁いた”と、どれだけの国が納得するか。国際的には、国家の謝罪の形式を司法が代行するよう求められるかもしれません」


「我々がやるべきは、“それを跳ね返せる制度の形”を守ることです。どうか、刑事局としても、政治の要請に安易に流されぬよう、内部で確認を」


 斎藤はため息をついた。


「まったく、……これほど一人の巡査の行動が、日本の司法と外交とを串刺しにするとはな」


 ⸻


 1891年(明治24年)5月13日 午後三時すぎ 内務省庁舎・階段室


 打ち合わせを終えた村岡が庁舎に戻ると、午後の西陽が階段の窓から差し込んでいた。

 風もなく、ただ熱だけが空気を揺らしていた。


 各所を回った結果、外務・司法は不満を抱きながらも草案に明確な拒否は出さなかった。

「官邸が決めるならば」と、条件付きで回覧を許可する。

 火は、消えていない。だが、水を打つ手段はまだ残っている。


 村岡は袖口で汗を拭い、つぶやいた。


「“何かを伝える言葉”と、“何も語らぬ沈黙”――今はどちらが、火を遠ざけるのか」


 この日、村岡は官邸へ向けて最終草案を送付する。

 それが、翌日から広がる新たな外交の波紋の、前奏となった。


(続く)

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