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刑吏の刃  作者: 長谷川慶三
第二章 火のついた地図
13/58

境界の報告書

 1891年(明治24年)5月12日 午後七時 内務省・政務課


 午後七時を過ぎると、政務課の机上から紙の束がひとつ、またひとつと外されていく。

 記録課員が手早く回収し、厚紙で括った報告書の体裁に整えられた。

 今日一日で作成された速報文書のうち、最も注目度の高い一通が、最後まで村岡の手元に残された。


「……ようやく、か」


 村岡は万年筆のキャップを閉じ、文書に目を通す。

 内務省から外務省、そして首相官邸へ送られる「対露報告要旨」。

 その文面は、どこまでも慎重だった。


 ⸻


 一、犯人津田三蔵巡査は、滋賀県大津警察署所属の警察官にして、事件当時勤務中の身にあり。

 一、犯行の動機については未詳なれど、供述は混乱をきわめ、精神的失調の可能性を警察は否定せず。

 一、皇太子殿下の御容体は安定し、現地医師団の観察下にあり。

 一、被疑者の身柄は厳重に拘束され、刑事訴訟法に則り、法定手続をもって厳正に裁断の予定。

 一、本件は個人の犯行にして、日本国政府および皇室、あるいは各官憲の意図と無関係なり。


 ⸻


「大丈夫ですか?」と、若い政務書記が声をかけてくる。


「……大丈夫ではないが、これが限界だ」


 村岡は小さく笑った。

 この報告書は、政府の意志であると同時に――「ここから先は我々の責任ではない」と、外交と司法に手渡す境界線だった。


「これを……印刷課に回してくれ。五部。外務、宮内、警視庁、そして首相官邸」


「かしこまりました」


 書記が報告書を受け取ると、再び執務室には沈黙が戻った。

 しかし、沈黙は安らぎではない。

 まもなく、返答が戻ってくるだろう。ロシアからの電報か、あるいは宮内省からの新たな伝言か。


 村岡は椅子に浅く腰をかけ、書き損じの紙片を一枚手に取った。

 すでに不要となった「初期稿」――。そこには、津田を「激情による凶行」とした草案が残っていた。


(これを採用していれば、どうなっていたか)


「判断の一行」が、事態をいかようにも変えてしまう現実。

 それを今日だけで幾度、村岡は目にしてきたか。


 政務課の時計が、七時十五分を告げる。


 外はすでに暮れ始めていた。


(続く)

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