書けぬ記事、書く手帳
明治二十四年 五月十三日 午後七時半 読売新聞社・編集部
部屋に、熱気と煙草の煙が渦巻いていた。
校正の済んだ版下が束ねられ、机上の時計が締め切りの針を刻んでいる。だが、それでもまだ紙面は固まらない。
「……やはり、警察庁筋からの情報は曖昧すぎる」
「津田の素性は掴めてる。だが、襲撃の“動機”が書けん。これは困るぞ」
「宮内省の対応は? どの新聞にも載ってない」
編集会議と称する怒声の飛び交う空間で、川辺は黙って席に座っていた。
背筋を伸ばしたまま、彼の視線は机上のメモ──いや、急ぎ書き殴った取材記録に落ちている。
──内務省、門前払い。
──政務課の人間は「回答できない」の一点張り。
──宮内省に問うても、無言の応対。
──他紙の動き:読売は「一巡査の凶行」と見出し、毎日は滋賀県庁に記者を派遣済み。
「おい、川辺」
主幹の声が飛ぶ。いつの間にか、全員の視線がこちらを向いていた。
「昨日の件、どう見る」
「……まだ、核心には届いていません」
川辺は立ち上がり、言葉を選びながら返す。
「ただ、封じられている感触があります。事実が、意図的に絞られている」
「それだけじゃ紙面は埋まらん」
編集長が唇を歪めた。「ペンは凶器だ。抜いた以上は切る覚悟をしろ」
「だからと言って、根拠なき憶測は書けません」
声が強くなった。思わず拳を握るのが自分でもわかった。
「……今、政府は情報を出していない。それは、情報が“ない”からじゃない。
“出せない”だけだ。僕は、そこに何があるのかを見たいんです」
短い沈黙。だが、主幹が目を細めて笑った。
「よし。今夜は泊まれ。明朝、滋賀へ向かう便に乗せてやる」
「えっ」
「特派の北畠は明日未明には大津入りだ。合流しろ。お前は“宮廷担当”の下っ端だが、現地で学べることはあるだろう」
──つまり、紙面にはまだ川辺の原稿は載らない。
しかし。
「ありがとうございます」
川辺は一礼し、席を離れた。
紙面の締切は過ぎようとしている。だが、彼の中の火は、むしろ今、静かに燃え始めていた。
*
1891年(明治24年)5月13日 午後三時十五分 東海道線・下り列車内
川辺は、手帳を膝に、窓の外を見ていた。
揺れる車窓の向こう、遠くに霞んで見える山並み。田畑を抜けるたびに、初夏の陽が白く反射した。
記者になってまだ一年も経っていない。
これまでの取材は議会、地方案件、たまに火事。
だが、今回ばかりは違う。
明治という時代に起きた、かつてない「政治事件」の渦中へ、自分は向かっている。
「……一社だけじゃないな」
前の席の記者がぽつりと言った。
東京日日か、それとも朝日か。川辺は声をかけず、黙って耳を澄ませた。
「上からの指示で、記事にできることは限られてる。けど、それでも動かざるを得ない。読者の関心は既に“あの皇太子が、なぜ狙われたのか”に向かってる。これは、ただの傷害事件じゃない」
誰かが応じる。「仮に命を落としてたら……どうなってたろうな」
一瞬、沈黙が落ちた。
それは全員が胸に抱いている問いだった。いや、恐れだった。
川辺は、手帳に小さく書いた。
【津田】警察官による皇族襲撃/動機不明/精神疾患の線あり?
【現地取材】警察署・病院・宿所/滋賀県庁・現場周辺聞き込み
【他社記者】接触を警戒。情報交換は慎重に。
彼は書いては消し、また書き足しながら、自分の使命と、そこにある限界を秤にかけていた。
記事にできるのは事実だけだ。推測を書けば、社の責任になる。
だが、事実すら、今は国によって囲い込まれ、新聞社とて自由には扱えない。
列車が大津に差しかかろうとしていた。
川辺は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
その中には、手帳と筆記具と、今朝、主幹から渡された内務省通達の写しがある。
「警察署長に取材許可を求めよ。正面から行け。変な真似はするな」と言われたのが最後の言葉だった。
列車が停まり、扉が開く。
駅の空気はどこか、重く湿っていた。
詰所の警官、見張りのような男たち、時折視線を向ける市民――
街全体が“何かを見られている”と感じているようだった。
川辺は、帽子のつばを軽く整え、構内を出た。
少し先に、彼と同じく東京から来たらしい記者がいた。互いに目は合ったが、声はかけない。
ここからは――言葉より、動きの勝負になる。
(続く)




