刃は落ちた
――明治二十四年 五月十一日、午後。
京の春は、例年に比して肌寒い。
午後一時を回り、会議の疲れに誰もが少し緩みかけていた内務省庁舎の奥。
その時、廊下を駆ける足音がひどく異様に響いた。
「大津より急報!……ニコライ皇太子、襲撃されました!」
書記官が半ば叫ぶようにして扉を開け放った瞬間、室内の空気が一変した。
ざわつきはなく、逆に時間が止まったかのような静寂があった。
「……なんと?」
応接机の奥、上座にいた男――大臣付きの秘書官・村岡理一は、目を剥いた。
書記官が一枚の電報を差し出す。村岡の指がわずかに震えた。
>【至急】
> 本日午後一時二十分頃、大津にてロシア皇太子ニコライ殿下に対し襲撃事件発生。
> 加害者は警察官一名(津田三蔵)。サーベルにて殿下の顔部を切りつける。
> 傷は重いが命に別状なし。犯人は現行犯逮捕済。
> 滋賀県知事、現地で対応中。続報待て。
> ――滋賀県庁
「……馬鹿な……」
誰かが呟いたが、それはもう部屋の空気に吸い込まれ、誰の言葉だったかもわからない。
「巡査が……よりによって、外国の……いや、ロシアの皇太子を……」
机を囲む男たちの顔色が次第に蒼白に変わっていく。
日本は、今、世界列強のただ中にいる。そのことを忘れていたわけではないが、こうして現実に戦争の火種が目前に転がり込んできたとなれば――。
「大臣は? 松方閣下は今どちらに」
「御前会議中です、ただちに――」
「宮中に報せる前に、外務省を動かせ。青木周蔵閣下に連絡を。……ロシア大使館への使者も用意しろ。陛下へのご報告は……そのあとでよい。下手をすれば……」
村岡は言葉を飲み込んだ。
下手をすれば、それは宣戦布告に等しい報復をロシアに許すことになる。
一人の警官による暴走。それがこの国家の命運を傾ける。そんな理不尽が、いま現実になろうとしていた。
机の上の急報が、まるで焼けるように熱く思えた。
「……全省庁に、至急の態勢を整えさせろ」
村岡は低く言った。その声には、わずかな震えと、すでに始まった「戦い」の響きがあった。
役所というものは、基本的に鈍重である。
だが稀に――極稀に――臓腑が痙攣を起こすように動く瞬間がある。
この日、午後一時四十分。京の内務省は、確かに震えた。
村岡はすでに廊下へ出ていた。会議室に残った数名の書記官が彼を追って走る。
「まず、外務省政務局長――長谷川男爵だ。青木閣下は神戸へ出張中。代わりを立てねばならぬ」
「はい!」
「陸軍省からも人を。警備上の責任が問われる。大山閣下が不在なら、井上参謀でも構わぬ」
廊下は異様に静かだった。皆が何かを察して、口を利かない。
役人たちは一様に立ち止まり、目で村岡の動きを追った。
「通信局に至急。大阪電信局の回線を抑えよ。これより政府筋以外の発信は禁ず」
「報道は……?」
若い課員が口を挟んだ。村岡は歩みを止めないまま短く答えた。
「封じろ。事実関係が固まるまでは一切外に出すな。もし新聞社が先に書けば……火が付くぞ」
書記官が足をもつれさせながら電報文の写しを抱えて走り去る。
村岡は廊下の奥、閣僚控室の扉を叩いた。
「村岡です。至急、太政官より連絡を仰ぎます」
扉の内側がざわめき、ややあって内記の一人が扉を開けた。
「何事ですか」
「大津にて、ロシア皇太子が襲撃を受けました」
「……」
しばし沈黙の後、その男は即座に扉を閉め、内側で何人かが小走りに動く音がした。
村岡は、ため息をひとつついた。
空は晴れていた。だが、その青がむしろ不気味だった。
内務省の石壁が妙に白く、眩しい。血の気を引いた頭には、風の音すら刺さる。
「村岡様!」
後方から声。年若い書記官が駆け寄る。
「ニコライ殿下の容態、続報が入りました」
「言え」
「擦過傷とのこと。創は浅く、意識もあると。……ただし」
「ただし?」
「……皇太子は、襲った男が日本の巡査であったことに、激しく憤っていると。同行のロシア大公が“これは暗殺未遂である”と周囲に……」
村岡の顔から、すっと色が抜けた。
「……やはり、そう出たか」
“これは、政府の命運ではない。国の命運だぞ”
誰かがさっき呟いた言葉が、いまようやく実感として迫る。
ロシアは皇太子を襲撃された。
それも、日本の「治安」を担う者に。
これは、民間人の犯罪ではない。――国家の失態として裁かれる。
「よろしい。話は早い」
村岡は少しうつむいて、まるで一枚の地図でも頭に描いているかのように呟いた。
「大臣には、御前会議から戻り次第、上奏の準備を。……それまでに我々で下地を作る。滋賀県庁、警保局、兵庫県知事、大津署、すべて繋げ。関係資料を五時間以内に。臨時閣議を要請せよ」
書記官たちが散っていく。足音が廊下に反響する。
村岡は一人、立ち止まった。
すべてが急いている。
だが、内心で彼は静かだった。むしろ静まりすぎていた。
(これは、国の終わりに通じる道だ)
それでも、自分の責務はひとつだけだった。
――国家に理性を残すこと。
激昂でも、後悔でもなく、「法」によって事態を運ぶこと。
だが、この件に「法」は通じるか?
果たして、理性の通る相手か?
刃を振るったのは、一警吏。
だが、試されるのはこの国のすべての構造だった。
村岡は、袖口で額の汗をぬぐい、再び歩き出した。
(続く)




