2-2. その涙は、誰のために
夜襲の前のひと眠り――。
ザラは本陣に敷設されたテントの中で眠っていた。浅い眠りの中で自分が行ってきた数々の行いを夢に見る。
「武力で制圧された聖ティラール王国の復活のために、武力を掲げて何が悪い!」
ザラが捉えた幼馴染のハルーグ・ウォンは、処刑台の上でそう叫んだ。
「ザラ、君だって聖ティラール王国の復活を願っているはずだ!」
「いいえ」
処刑台を見上げながら、ザラは首を振った。
「私は妹に平和であって欲しいだけ。あなたたちの行いは、妹を、レイザを脅かす! それに力に力で対抗したら、本当に苦しむのは力のない人たち。そんな犠牲の上に取り返した血まみれの国になど、何の意味がありましょう」
「君の手は僕らの血にまみれているじゃないか!」
「私の手など、どうでもいいのです、ハルーグ」
ザラは両手を握りしめる。背中の傷痕がたまらなく疼く。回復してからの初仕事が、聖ティラール王国の、ザラの故国の残党狩りだった。彼らは帝都や大きな都市の井戸に毒を流し、多くの要人を暗殺した。もちろん、罪のない人々も、子どもたちすら犠牲になった。
ザラはそれまで聖ティラール王国の残党狩りには消極的だった。情けをかけてやったことも一度や二度ではなかった。だが、第三次統合戦争翌年に起こったこの「三月の毒水事件」を機に、それをやめた。
むしろ、聖ティラール王国の残党狩りを率先して行うようになった。それが翌年のラガンドーラの十将入りの後押しとなる。
「あなたたちは卑怯でした。取り返しがつかないほど、卑劣なことをしました。ラガンドーラが私たちにしたのと同じ、いえ、それ以上に」
「仕方ないじゃないか、ザラ! 僕ら力なき者がラガンドーラを転覆させるには!」
「だからと言って、数多くの子どもを殺していい理由になりますか!」
ザラは処刑台に上がる。そして無様に両手を拘束された幼馴染を見下ろした。そして斧を持った処刑人を見る。処刑人は目出し帽の奥から、野太い声を発した。
「よろしいので?」
「ええ」
「この、冷血女め! 祖国への愛もなく、恩も感じず、略奪者に尻尾を振り同胞を殺す、この女狐め! お前の血は、氷だ!」
「なんとでも、言ってください」
ザラは斧を構えた処刑人に視線を送る。処刑人は不満げに斧を下ろす。
「時間がねぇんですがね」
「ごめんなさい。それでも私は言わねばならないことがあるのです。担当者には私が後ほど。ご迷惑はかけません」
奴隷階級である処刑人にさえ、ザラは礼節を欠かさない。それゆえに、数多くの部下がザラを慕っている。今この処刑場にも、ザラの身を案じた部下たちが大勢集まっている。
そして同時に、聖ティラール王国の残党や、それに連なるものたちも大勢いることをザラは察知していた。彼らが一斉に襲い掛かってこないとも限らない。
「あなたたちは弱すぎたのです」
ザラは群衆に聞こえるようにはっきりと言った。
「この強大なラガンドーラ帝国に抗うには、私たちの故国、聖ティラール王国はあまりにも弱すぎたのです。そしてあなたたちも!」
空気が仄かに怒りを孕んだ。多くのティラール関係者がいるということだろう。
ザラはそれと承知で声を張る。
「弱すぎるから、卑劣な手に出る。弱すぎるから、救いようのない論理で自らの正義を描く。私とて、聖ティラール王国の再興を、あの日々の復活を思い浮かべないことはありません。しかし!」
きつく握りしめられた両手の拳が、ザラの怒りを物語っている。
「それによって、多くの血が流れるのなら。幼い子供たちが苦しむというのなら! 私はそんな夢、破り捨ててしまった方がいいと思うのです」
「やられっぱなしで、強者に蹂躙される世の中が正しいとでも!」
「いいえ!」
ザラは首を振った。わずか十七歳の少女とは思えない威厳がそこにはあった。銀色の髪がゆらゆらと流れる。
「しかし、私たちの祖国は立派に戦いました。何万人も死にました。多くの人々が苦しみました。私も幼い妹を抱えて途方に暮れていました。日々痩せていく妹を見て、平和な日々を奪ったラガンドーラ帝国を呪わない日はありませんでした」
「それならなおのこと、ラガンドーラに」
「されども――」
ザラはハルーグの言葉を遮った。
「私たちを救ってくれたのもまた、ラガンドーラの人々でした。私たち姉妹を引き取り、愛情を注いでくれたのも、ラガンドーラの人々でした」
「そんなものまやかしだ! 奴らの罪悪感が生んだ偽善だ!」
「その偽善……その偽善がなければ私たちは死んでいた!」
ザラは強い口調で言った。ハルーグは首を振る。
「そうであれば僕たちの計画は成功していたのだろうがな!」
「弱者の論理です」
「じゃ、弱者だって?」
「聖ティラール王国は弱かった。私たちを救えぬほどに弱かった。そして何をすることもできなかった!」
ザラは故国を糾弾する。
「こ、この裏切り者め! 我らが故国を、愚弄するか!」
「現実を見るべきでした、あなたは」
ザラは悲しげに目を伏せる。
「そして仮に――私が存在していなくても、あなたたちの計画は、より一層むごたらしく失敗していたことでしょう。大勢の人々を苦しませ、嘆かせることはできたでしょう、今回のように。しかしその後はよりいっそう惨めに、こうして最後の会話をする機会すら得られず、のたれ死んでいたに違いありません」
その時、ザラは処刑台のすぐそばにヴェルギアがやってきていたのに気が付いた。
「ザラ」
「ヴェルギア。わざわざ来てくれたのですか」
「心配ですから、あなたは」
「ごめんなさい」
ザラは小さく頭を下げた。ヴェルギアは首を振る。
「三月の毒水事件は、聖ティラール王国の人々への迫害を強めることになるでしょう。ザラ、あなたへの風当たりも」
「わかっています。そうであるからこそ、私は力を持たなくてはなりません。聖ティラールも、ラガンドーラもなく。より弱き人々を救う力を得るためにも」
ザラの言葉にヴェルギアは頷いた。
「お供するわ、ザラ。でもまず、その前に」
「ええ」
処刑人に向けて頷くザラ。うんざりした様子で待ち構えていた処刑人は、待ってましたと言わんばかりにその巨大な斧を振り上げた。
ザラは鋭く息を飲んだ。しかし目を伏せることはしない。
ハレーグの頭部は、簡単に転がり落ち、待ち構えていた巨大な桶の中で鈍い音を立てた。
あなたと過ごした幼少時代は、もう思い出になってしまったのよ――ザラは首のないハレーグを見下ろして唇を噛む。
「悲しいものですね」
ザラは処刑台を降りて、ヴェルギアと抱き合った。ザラはささやく。
「大義名分とおためごかし。その組み合わせは人を盲目にするわ」
「あなたは、ラガンドーラ帝国を恨んではいないのですか、ザラ」
「恨んでいますよ」
ザラは群衆を掻き分けて広場を縦断していく。
「でも、事の発端をいつまでも恨んでいても、私たちは前に進めません。今ここにいる人々の幸福を願うことこそ、私にとっての正義だと私は思うのです」
「ご立派です、ザラ」
ヴェルギアは微笑む。濃褐色の瞳がザラを柔らかく見つめている。ザラは胸に溜まった空気を一気に吐き出した。
「氷血の女狐、か」
「言わせておけばいいのよ」
ヴェルギアは目を細める。ザラは頷く。
その瞬間、ザラは剣を抜いた。そして背後から襲い掛かってきた男の喉元に、切っ先を突き付ける。
「ぐっ」
「ヴェルギア!?」
男の胸をヴェルギアの剣が貫いていた。剣を引き抜いた拍子に、大量の血液が二人の騎士を濡らす。
「ここでこの者を生還させようものなら、あなたは永遠に脅かされ続けるでしょう。これにより、わずかでも抑止力になればよいのですが」
ヴェルギアは鋭く周囲を睨みまわし、しばらくして剣を収めた。ザラは無表情のまま立ち尽くしている。
「ザラ、あなたは死んではならないのよ」
「ヴェルギア……でも、この人だって」
「この男はあなたを殺そうとした罪人。それだけよ。これは命の価値の話じゃない。私があなたに長生きして欲しいからしたこと。あなたが嘆く理由は、ひとつもないわ」
ヴェルギアはそう言って、ザラの前を行く。
「あなたはより良い未来を生み出してくれる。そう信じているから、私はあなたの剣にもなれば鎧にもなる。そこにはなんの悔いもないわ」
「ヴェルギア……!」
ザラもようやく剣を収めて、その後を追った。
「……!」
ザラは飛び起きた。ヴェルギアの名を呼んでいたように思う。ごまかしようがないほど、頬が濡れていた。誰もいないテントの中で、ザラは唇を噛み締める。
ヴェルギアの率いた部隊は全滅した。今、そこに敵は、異界の騎士は陣を張っている。それ以上の状況を確認する手段はなかった。
「ガレン・エリアル……」
彼は圧倒的な強者。
エディオ将軍を容易く倒し、また、精鋭であるヴェルギア中隊をも粉砕した。異界より訪れた謎の騎士、人知を超越した戦闘力の持ち主。
「今、行きます」
ザラは着衣を整え鎧を纏い、愛用の長剣を帯びた。
「あの時の借りを、返しに伺います、ガレン・エリアル」
そう言い置いて、ザラはテントから出ていった。