6-3. 正しさの代償
ナーヤと、おそらくは同年代の若い女が睨み合う。暗黒色の布地に赤い刺繍の入ったローブを来た女は、銀色の鋭い目でナーヤを見つめている。その髪の色は暗黒色だ。
「カレンファレン、よくも騙し討ちをしてくれたねぇ」
ナーヤはすっかり傷の癒えた左腕を軽く振りながら、挑発的に言う。カレンファレンの後ろにはウルが立ち、逃がすまいと剣を向けている。ウルは声を張る。
「陛下を暗殺しようなど、万死に値する」
「勝ったとでも思っているのか、ナーヤ」
「あんたは負けたのよ」
ナーヤはそう言うと、右手を大きく振り上げた。炎の球がそこに生じる。
「女王陛下、やっちゃっていいですよね」
「お前の旧友だと聞いているが?」
「昔の話です」
ナーヤは顔を歪める。左腕が痛んだのだ――ナーヤはそう思い込む。
「ただではやられはせんぞ」
「悪あがき!」
ナーヤは火球を叩きつける。カレンファレンが咄嗟に張り巡らせた結界が、その威力を殺す。
「俺まで黒焦げになるところだったぞ」
「ウルなら平気でしょ」
「あのな」
ウルはそう言って、カレンファレンの喉に剣を突きつける。
「おとなしくしろ。帝国に帰る未来もあるだろう」
「……甘い」
カレンファレンは膝をつき俯いた状態で呟いた。
「大陸統一は私の悲願でもある。世界が一つになれば、人は争いを忘れ、理不尽な悲しみもなくなる!」
「あんた、昔からそれで一貫してるけど」
ナーヤはカレンファレンの前に片膝をつき、顎を掴んで顔を上げさせる。銀と群青の視線が互いに突き刺さる。
「国が一つになろうと、世界が一つになろうと、人が平等でいられない限り、必ず誰かが踏みつけられて、誰かが泣いて、苦しむんだ」
「だったら! 何もせずに見ていろというのか! お前は昔からそうやって現実を俯瞰しているかのように! そういう立ち方が私は大嫌いだった!」
カレンファレンの本来色白の肌が、興奮で赤く染まっている。が、ナーヤも負けてはいない。右の手のひらでその頬を一撃する。
「世界を一つにするために、あんたは何万人踏みつけて、苦しめて、泣かせるつもりなんだ!」
「その結果、何十万何百万が救われるなら!」
「矛盾してんだよ!」
ナーヤは今度は手の甲でカレンファレンの右頬を叩いた。
「未来の誰かのために、今の誰かを苦しめていいとか! そんなのは他人が決めることじゃない!」
「だからその汚れ役をやっていると言っている!」
「気取ってんじゃないよ!」
ナーヤの鋭い声が周囲の空気を切り裂く。
「人間は、一人なんだよ、カレンファレン。どの人間も、たった一人しかいない。それは誰かにとっての大切な一人なのかもしれない。あるいは、その一人は誰かを思う優しい人なのかもしれない」
ナーヤの声のトーンが急激に落ち着いた。
「もちろんそうじゃないのもいるだろうけど、それを判断するのはあたしじゃない。そして、あんたでもない。もちろん、皇帝でも教皇でもない」
「しかし、世界が割れていては」
「あんたやあんたの皇帝みたいな思想を持つ奴が、世界を戦火に巻き込むんだ」
ナーヤは言う。
「互いの共同体で生きていれば、こんなことにはならなかった。今日だけで何人死んだと思う。よき父、よき母、よき息子、よき娘……何百人の未来を消し去ったと思っている」
「ベレクの教えが広まれば、すべての人がベレク神を信じれば! 世界は変わる!」
なおも折れないカレンファレンの顔を睨みつけ、ナーヤは立ち上がる。カレンファレンは未だ立ち上がれずにいる。
「すべてはベレク神の教義を現実のものとするための犠牲。尊い犠牲だ!」
「狂ってるんだよ、あんたは。ベレクに出会ったその時から、あんたは狂っちまったんだ」
ナーヤの声には悲しみが滲んでいた。
「ベレク神を愚弄するか!」
「神を愚弄したわけじゃない。あたしは、あんたを、軽蔑しただけだ!」
ナーヤの右手に魔力で作られた長剣が出現する。
「立て、カレンファレン」
「手負いのくせに、私と戦おうとでも?」
「あんたに負けたことなんて一度もないけど」
その言葉に、カレンファレンは立ち上がり、やはり右手に長剣を生じさせた。
「お前はこの世の悪だ。私が成敗してくれる」
「悪だ善だと言い始めた瞬間に、宗教は戦争の道具になる!」
だからあたしは無神論者なんだ――ナーヤの目に涙が浮かんだ。カレンファレンは幼少期から共に過ごした親友だった。
十二歳にして共にラガンドーラの魔導研究所に入ったのだが、そのすぐ後から、カレンファレンの様子がおかしくなった。――突如ベレク大聖教に傾倒し始めたのだ。
そこからあれよあれよという間にカレンファレンは帝国の中枢に食い込んでいった。彼女の専門魔法は従魔術。人間より強い力を持つ魔神や魔竜を従わせることで、世界は戦わずして平和になる、という理屈だった。
「世界はラガンドーラの力の前に、無条件にひれ伏すべきだ。武器を捨てれば戦争は終わる、いや、始まりもしない!」
「それは故郷と尊厳を奪われるのを黙って見ていろと言っていることと同じだと、なぜわかんないの」
ナーヤの糾弾に、しかしカレンファレンは揺らがない。
「強いものに従えば、おのずと未来は拓ける! 強きは弱きを助け、導く!」
「それは強者の論理にすぎない」
ナーヤが右腕一本で斬り込んだ――左腕の傷は癒えていたが、まだ違和感が残っていた。カレンファレンはそれを危なげなく受け止める。一瞬、蛇のような影が見えた。
「召喚魔法を織り込んでいるのか」
「専門だからな」
カレンファレンは剣を構えなおす。
「弱者が抗うから、強者が戦わなければならない。ゆえに、強者は、そして、私は! それを許さぬくらいに強くならなければならない。魔竜や魔神の手も借りてな。それによって世界は――」
「平和になんて、なるもんか!」
ナーヤが残像を引きながら襲い掛かった。カレンファレンは一撃、二撃と受け止めたが、三撃目で魔力の長剣が力を失った。
「クッ?!」
右肩に突き刺さる刃を左手で強引に引き抜く。その弾みで手のひらが大きく裂けた。
「世界の敵どもめ! 皇帝陛下はこの世界を完全なる平和に導こうと――」
「自国内の平和すら実現できてない皇帝が、何を言うのかな」
ネフェスがぼそりと呟いた。カレンファレンの殺気立った目がネフェスを捕らえる。二人の間には十分な距離があった。そしてその中間にはウルがいる。
「お前が死ねば!」
カレンファレンが身体増強系の魔法を仕掛け、強烈に地面を蹴った。
ウルの視線がナーヤを捕らえる。
ナーヤは涙を浮かべながら頷いた。
ウルの盾がカレンファレンの一撃を止める。
一瞬動きの止まったカレンファレンの鳩尾に、ウルの幅広の剣が深々と突き刺さった。肉と内臓と骨を砕く音が同時に響く。
「がはっ……!」
大量の血を吐きながら倒れるカレンファレン。その顔の前にしゃがみ込んだナーヤは、カレンファレンの黒髪を撫でた。
「どうしてこうなっちゃったんだろうねぇ」
涙声のナーヤに、カレンファレンは微笑を見せる。
「お前は、いつでも、正しいな」
「そんなことはないよ」
ナーヤは首を振る。カレンファレンは自らの血液と苦痛に溺れながらも、その左手をナーヤに向けて伸ばした。ナーヤは右手でそれをしっかりと捕まえる。
「今のお前は、正しい。そうじゃなければ、私が、報われない。だろ?」
「ファレン……」
ナーヤの両目からとめどなく涙が流れて落ちる。その雫がカレンファレンの頬にも伝う。
「本当は、気付いて、いたさ。お前の言うことくらい、わかって、いたよ」
「だったらどうして!」
「エゴだよ」
「エゴ?」
「私の、魔法で、ジェルケギニアを従えて、それがどの程度……平和に結びつくか。見てみたかった。私の魔法の、存在意義を、証明したかった」
「馬鹿な人」
ナーヤは涙も拭かずに震える低い声で吐き捨てる。醜悪なほどに晴れ渡る空の色が一層に重たくなる。
「ナーヤ」
「……うん?」
「言いたいことはたくさんあるんだがなぁ」
「わかるよ」
ナーヤはカレンファレンの冷たくなりつつある身体を抱きしめる。ナーヤの白いローブが赤く染まっていく。
「お前は、私の、誇りだった。憧れ、だった。そして、妬みの対象だった」
「あたしも同じ」
「なんだ」
カレンファレンは目を細めた。穏やかな笑みだった。
「そうだったんだ……」
同じ、かぁ――カレンファレンは最後の力でナーヤの背中に手を回した。
「あったかいよ、ナーヤ」
「うん……」
「楽しかった、なぁ……」
カレンファレンの腕がぱたりと地面を打った。
「ファレン? ファレン!」
突如物を言わなくなってしまったカレンファレンの身体を必死に揺らすナーヤの肩に、ウルが手を置いた。
「ウル……ってなんであんたがそんなに泣いてるのよ」
「面目ない」
ウルはその巨体を振るわせて泣いていた。
「あんたのせいで全部引っ込んじゃったわ」
「……俺たちも何をしているんだろうなって考える。少なくともここに一人、不幸な女の子を作ってしまった」
ウルは自らのマントを外してカレンファレンの亡骸にかけた。
「最期はそうじゃなかったって信じさせてよ、ウル」
「ああ、きっとな」
ウルは目を閉じて、カレンファレンに向けて黙祷を捧げた。
「とりあえず――」
目を開けたウルの隣にネフェスがいた。
「危機は去ったと見るべきか」
ネフェスは聖剣を収めると、本陣があったあたりを眺めた。魔竜ジェルケギニアの姿はもう跡形もない。
「たが、ガレンたちにはもう少し帝国内で動いてもらう必要があるだろう。いま、我々が襲われたらさすがに凌げない」
ネフェスはナーヤとウルの消耗を考えて呟いた。帝国にはまだ将軍たちがいる。彼らがガレンを無視できない状況にしておく必要があった。
「ナーヤ、ガレンに指令を。帝国深部に侵入し、将軍たちを討てと」
ナーヤは左手を確かめるようにして握りしめ、ふらつく足で立ち上がった。
「了解しました」
その声にはもう、悲嘆の色はなかった。




