3-3. この世界を守るために
イジュヌ……!
ガレンの後ろにいたザラは、ニーレド王国の騎士の具足を身に着けていた。面頬の奥の顔は、誰からも見えない。
しかし、イジュヌはザラの存在に気が付いていた。薄い微笑を浮かべ、なおも印の展開を続けている。
ガレンも初めて出会う手合いを前に、どう動いたらよいのか判断をしかねている。
「その資格があるかどうか、私が確かめて差し上げます」
イジュヌの周囲の空間が破れ、無数の剣が姿を現した。
「呪・魔神の剣舞」
剣が一斉にガレンに襲い掛かる。超音速で空間を切り裂く剣たち。
「……っ!?」
その場の誰もが絶句する。ガレンはそのすべてを叩き落とした。剣が生み出したすさまじい圧力に、丘の頂上の地面が抉れに抉れた。
すごい……。
ザラは一瞬とはいえ、この男に正攻法を挑もうとした自分に恐怖した。ヴェルギアの仇ではある。だが、そうなるように仕向けたのは自分自身だ。
「次はどう出る、魔導師」
ガレンは剣を振り、イジュヌに向かって歩を進める。
「なるほど、この程度では、ですか」
イジュヌは両手を合わせる。すると光の剣が生み出された。淡く赤く輝くその刃は、禍々しい。
「俺に剣で?」
「で、あるならば?」
イジュヌの姿が消えた。その直後、ガレンの背後に現れる。突き刺さる直前に、今度はガレンが消えた。
「消えた!?」
ジャマルカがヘルミナルの右目を止血しながら呻いた。ヘルミナルが包帯の具合を確かめながら首を振る。
「巻き上げた土煙を利用したんだ」
「それにしたって速すぎる」
「あの速度についていけるのは、ランサーラくらいじゃねぇか」
ヘルミナルは舌打ちする。
周囲に部下はいない。誰もが遠巻きにして彼らを眺めている。
「俺たちがイジュヌを応援することになるとはねぇ」
「仕方あるまい。それにお前はもう戦えまい」
「右目一つで何言ってやがんだ」
ヘルミナルは長戦斧を杖に立ち上がる。そこでイジュヌが明確に言った。
「お二方は手を出さぬように。私の邪魔はご遠慮ください」
「イジュヌ、お前、勝算があるのか」
「なくはない、と言ったところでしょうか、ジャマルカ」
イジュヌの口角が明確に上がった。この状況にあって、確かに笑っていた。
「呪・天雷の棘陣」
暗い空から稲妻が落ちる。空間と大地を激しく揺らす。通常なら一撃で蒸発していてもおかしくない一撃だった。そこに次ぐ、地面からの尖突。鋭くとがった大地がガレンを檻のように取り囲んだ。
ガレン!
ザラは声を出さぬように苦労した。数多くの反乱軍の指揮官たちを葬り去ってきた魔法だ。あの魔法の檻に囚われては逃げることはできない。
「終わり?」
イジュヌは幾分かがっかりしたように呟いた。だが、すぐに顔を上げて満面の笑みになる。
「そう、そうじゃないと! それでいいのよ、異界の騎士、ガレン・エリアル!」
檻が砕ける。中から無傷のガレンが姿を見せる。ところどころ放電が見えていたが、ガレンは気にした風もない。
ガレンが声もなく、地面を蹴った。空気を引き裂く轟音が周囲に響き渡る。
だが、そのガレンの瞬殺の一撃を、イジュヌは防いだ。何もないところから出現した剣の群れが、その斬撃をことごとく止めていた。
イジュヌは高笑いをしながら攻撃に移り、ガレンを後退させる。
あの異界の騎士が下がった?
ヘルミナルが呻く。ジャマルカは槍を構えなおした。
「奴の退路を断てば!」
「待て、ジャマルカ」
「お前はここにいろ」
「ジャマルカ、待てッ!」
ヘルミナルの制止を聞かず、ジャマルカは地面を蹴る。イジュヌは驚いた様子もなく、攻撃を続けていく。
「死ね、ガレン・エリアル!」
ジャマルカの背後からの攻撃がガレンを襲った。その穂先は確かにガレンを捕らえた――かに見えた。しかしそれはガレンの残像を穿っただけだった。ガレンはジャマルカを一瞥し、地面を踏みしめるとその銅を一閃した。
「がっ……!?」
「ジャマルカ!」
ヘルミナルが長戦斧を杖に思わず一歩前に出る。だが、その時にはジャマルカの身体は完全に分断され、地面に転がっていた。誰がどう見ても即死であった。
イジュヌは「はははは!」と高笑いをしている。
「もっと、もっと死を。命の散華を。その断末魔の力を!」
「イジュヌ、てめぇ、仲間の死を笑うのか!」
ヘルミナルが怒鳴ると、イジュヌは左手の人差し指をヘルミナルに向けた。
「いい加減、うるさいですよ、ヘルミナル」
「っ!?」
ヘルミナルの首から上が消滅した。激しく噴き上げる血液が地面を濡らす。一切の憐憫の情を見せず、イジュヌはまた満面の笑みを見せた。
その一瞬の隙に、ガレンが必殺の斬撃を浴びせる。
「聖剣一閃!」
「これが異界の力! あはははは!」
空間を歪めて、イジュヌは寸でのところで回避する。
「この場には五万五千の命がある」
イジュヌはガレンとまともに打ち合いながら、囁いた。
「つまり、五万五千人分の生贄があるということ!」
ガレンの剣がイジュヌの顔をかすめ、目隠しが千切れ飛んだ。
「ふふふっ! 何万何十万の犠牲を捧げようと、外敵からこの世界を守るためなら安いもの!」
イジュヌは目を開ける。眩しそうに細められたその目は、真紅だった。
「さぁ、そろそろいいでしょう。魔神ヴァレゴネア、顕現せよ!」
闇の空から光が降ってくる。それは距離をとったガレンとイジュヌの間に落着する。猛烈な爆炎の過ぎ去ったのちにそこにいたのは、巨大な獅子の身体と騎士の上半身を持つ魔神だった。全身を黒光りする装甲で覆い、手には巨大な馬上槍と円形の盾を持っていた。その兜のせいでどんな顔かたちをしているのかは不明だった。
「ヴァレゴネア!? まさか、あれを従魔にしたというのですか!?」
ザラが思わず叫んだ。ガレンの背中には恐れはない。だが、それは無知故だ――と、ザラは思った。しかし――。
「晦冥の七柱の一柱。最強の災禍。だっけな」
「ガレン、知っていたのですか?」
「ナーヤにしつこいくらいに聞いている。晦冥の七柱のことは。俺がかつて倒してきた魔神とは格が違うこともな。俺が倒せない存在がいるとすれば、そいつらだと」
その時、魔神ヴァレゴネアが槍を空に掲げた。イジュヌがその赤い目を輝かせた。
「禁呪・不条理な終焉」
そう呟くと、イジュヌは大量の血液を吐いた。
数秒遅れて、周囲を取り囲む兵士たちが敵も味方も問わずに血の塊と化していく。
「ザラ、離れるな」
「はい」
これはすべてが不可視の斬撃によるものだ。
ガレンはその軌道を読み切り、ザラを守る。鎧にいくらか傷はついたが、一撃の威力は高くはない。どうにでもなるとガレンは読んでいた。
「ふふふふ、わかる、わかりますよ、無数の悲鳴が流れ込んでくるのが」
イジュヌは口元を拭い、鮮血に彩られた顔で笑う。凄絶な笑みだった。イジュヌは明らかに致命傷を負っていた。魔神ヴァレゴネアともあろうものが、人間ごときに従うはずもないのだ。
『不遜なる人間よ。我が贄となって滅ぶがよい』
ヴァレゴネアの低い声が大気を揺らす。イジュヌはしかし、それでもなお笑っていた。
「この力! この力こそ、私の求めていたもの。世界を救う力! これで私は、この不便な肉体という頸木より解き放たれる。感謝しますよ、ヴァレゴネア!」
『……っ!? なんだ、この力は。人間風情が我が躯体を奪う、だと?』
動揺を見せたヴァレゴネアにガレンは斬りかかる。
「ガレン!」
ザラの制止も間に合わない。
ヴァレゴネアの盾がガレンの一撃を防ぐ。
「聖剣一閃!」
ガレンの奥義が炸裂する。
『っ!?』
激しい爆発と共に、ヴァレゴネアの盾が大きく欠ける。
「次でとどめだ、魔神!」
「そうは、させませんよ」
不意にイジュヌが、ガレンとヴァレゴネアの間に姿を現した。ガレンの剣の勢いは止まらず、イジュヌの首が軽々と宙を舞った。
『これで私は完全になる』
イジュヌの声がガレンとザラの脳内に響いた。
『感謝しますよ、ガレン・エリアル。ふふ、ふふふふ……!』
その笑声が消えぬうちに、魔神ヴァレゴネアが一層苦しみ始める。
「ガレン、とどめを」
「聖剣――」
しかしその技は炸裂しなかった。その前に、ヴァレゴネアは文字通りに消滅してしまったからだ。
「消えた……?」
ザラが呆けたように呟き、ぺたりと座り込んだ。
濃密な魔力の残滓こそあったが、殺意のようなものはもはやどこにも見当たらない。
しかし、丘はその麓に至るまでが血の海だった。それどころか、肉片と化した敵味方の兵士たちの残骸が、ぐずぐずと溶けていく。脳が眩むほどの悪臭が辺りを覆いつくしていた。
「ザラ、敵も味方もほとんど残っていないのは確かだろう」
「しかし、妹を助けないわけにはいきません。イジュヌは私に気付いていた。ランサーラに知られたら、その時は」
ザラは唇を噛む。ガレンはザラを助け起こして頷いた。
「ヴァレゴネアとの再戦もあるだろうが、今は救出作戦だ。まずはゲシュタイルに向かおう」
ナーヤもいずれ状況を把握するだろう。ヴァレゴネアの件も、おそらくは。
「よろしくお願いします、ガレン・エリアル」
ザラは心から頭を下げた。




