堀からの声
その堀で、釣りをしてはならない――
1.
置いてけェ、って聞こえたんだよーー
そう⾔うと、弥吉は空になった猪⼝をたん、と卓に置いた。
この男とは知り合って三年ほどになるが、未だに何の仕事をしているか判らない。
だいたい、故郷がどこかも知らぬ。
働いてはいるようだが、⻑続きしない――ようだ。
それでも、⽉に幾度かはこうやって酒を呑んでいるということは、それなりに⼝に糊することはできているのだろう。
そんなことを思っていると、何だ怖くないのか、と聞かれた。
怖いというよりも不思議だろう、と返す。
その堀で釣りをしていたのが弥吉ひとりで、誰もいないはずの場所から声がするのなら、それはただただ不思議なだけだ。
すると、弥吉は⽣薬でも⼝にしたような顔で解ってねぇなぁ、と⾔う。
いいか、あのお堀はただのお堀じゃねえんだ。
絶対に釣りをしちゃあいけねえ堀なんだよ。
声⾊を変えて⾔われたものの、余計判らぬ。
釣りをしてはならないというのなら、それは誰かの場所であったり、危険な地形であったりするからだろう。
あるいは⽔が悪いのかもしれぬ。
詳しくは知らないが、甲斐のほうには悪い⽔による⾵⼟病もあると聞く。
それなら、釣りをするなというのも当然ではないか。
そうじゃないんだよ⾺⿅だなお前は、と弥吉は呆れた顔をした。
こうまでさらりと⾺⿅にされると腹も⽴たぬ。
いいか、明瞭した理由なんかねえんだよ。
理由なんか何もねえんだ。
理由がある場所に近づかないなんてェのは――
そら獣だってそうするぜ。
理由なんかないから怖いんじゃないか――
弥吉は今度は真⾯⽬な顔でそう⾔った。
よく顔つきの変わる男である。
まあ、それで⾔わんとするところはなんとなく解った。
所謂怪談とか、七不思議の類か。
釣りをするという禁忌を破ると、怪異が起こるとかそんなものであろう。
そうであれば、まあ釣りなぞしないほうが身のためではある。
わざわざ禁忌を破ることもあるまい。
すると――
でな、釣りをしちゃいけねえっていうからよ。
弥吉は何となく⼩声になってから――⾔った。
⾏ってみたんだ、釣りに。
駄⽬じゃないか。
2.
だって知りたいじゃねぇか――
そう⼝を尖らせると、弥吉はまた空になった猪⼝を置く。
私に諭されると、この男はいつもこんな顔になる。
⼦供か。
そらお前の⾔うとおりだよ、⾏くなっつうんだから。
⾏くのは⾺⿅のやることだよ。
でもな、何が起こるか知りたいじゃねえかよ。
俺たちゃ獣じゃねえんだからよ――と、弥吉はなぜか偉そうに⾔った。
だから⾺⿅なのだと、そう⾔ってやった。
獣ではないのならば、知恵があるだろうに。
何が楽しくて禁忌を破るのだ。
しかもわざわざ夜に。
しかも⼀⼈で。
⾺⿅か。
あまり――釣れなかったそうである。
誰も釣りをしないのならば、さぞ沢⼭釣れるであろうと思ったそうだが、実際のところ二、三匹程度しか釣れなかったそうだ。
⼆刻ほど粘ったが、夜も更けてきたうえに釣果も芳しくない。
何より――何も起こらぬ。
弥吉はすっかり飽きてしまい、幾分軽く感じる⿂籠を⼿にすると帰ることにしたという。
そうして堀を背にして⼗数歩も歩いたころだろうか。
背後の暗がりから。
声が聞こえてきたという。
置いてけぇ――
⾵がそう聞こえたのではないか、と⾔った。
あるいは、禁忌を破った後ろ暗さから、聞こえもしない声が聞こえたのではないか。
とかく⼈は、ないモノを⾒たり聞いたりしがちだ。
というよりむしろそれが得意なのだ。
そうじゃねえ、⾵なんか吹いてなかった、提灯の⽕だって揺れちゃいなかったんだ――
弥吉はそう気⾊ばんだ後、さらに⼩声でこう⾔った。
それにな、それだけじゃないんだ。
会ったんだよ、⾒ちまった――
⾒たって何を、と聞くと、弥吉は真剣な顔で⾔った。
のっぺら坊だよ――
酒を噴いた。
3.
三⼈だぞ三⼈――
そう⾔いながら、弥吉は猪⼝をくるくると弄んだ。
三⼈と聞いて、また噴きそうになった。
酒がもったいない。
三⼈て。
多いだろ。
最初は――⼥だったそうだ。
気味の悪い声を振り切るよう急ぎ⾜で帰る途中、ふと⽬を上げると。
道の真ん中に、⼥がいた。
背を向けて蹲まっている――ようだった。
弥吉という男は、まあ働いても⻑続きせぬしいつもふらふらしていて何をしているか判らぬし禁忌を好んで破ろうとする⾺⿅ではあるのだが――悪い男ではない。
どうした困りごとかい、と声をかけたそうである。
すると。
⼥は妙な事を言ったそうだ。
顔を、落としてしまいまして――
顔を、落としたって。
聞き間違いかと思ったという。
顔がどうしたって、と聞き直した時。
ふと弥吉は、
⼥の周りがやけに冥いことに気づいたという。
落としてしまいまして。
顔が。
おかげでこんなふうに――
ゆっくりと振り返った⼥の顔は。
⽬も、⿐も、⼝も――
よく覚えてねえよと弥吉は⾔って、酒を呷った。
私はと⾔えば、腕を組んで渋い顔をするよりなかった。
堀から聞こえる奇怪な声までは――まだいい。
⾵だの空⽿だの亡霊だの、解釈のしようがあるからだ。
しかしのっぺらは、これはない。
ありかなしかでいうと絶対にない。
相⼿にしようがない。
のっぺらはないだろう、と⾔うと、坊をつけろと謎の答えを返された。
祟りがあるかもしれんだろと、さらに謎の深まることを⾔う。
とにかく顔がなかったんだ、⾒たんだよ俺は――
俄かには信じられぬが、本⼈がそう⾔うのなら、これはもうどうしようもない。
そう⾒えたのと、本当にそうであったのかの違いは、本⼈には判らないのだ。
おおかた⾒間違いであろうとは思うが、それを⾔っても詮ないことではある。
さらに弥吉は続けて⾔った。
そのあと、⼆⼈⽬ののっぺら坊がな――
⼆⼈⽬ののっぺら坊という、あんまりな⾔葉に――私は思わず俯いて笑いを堪えた。
4.
蕎⻨屋があったんだ――
猪⼝の縁をなぞりながら、弥吉はそう⾔った。
死にもの狂いで駆け続けた弥吉は、明かりを⾒つけて⼤層安⼼したそうだ。
堀端にある、⼩さな蕎⻨の屋台であった。
ほとんど倒れかかるようにして、弥吉は屋台の⾵鈴を鳴らしたという。
荒い息は、もちろん駆け続けたからだけではなかった。
怖かったんだ、と弥吉は⾔った。
最初は愕いたんだが、逃げてるうちに怖さが増してきちまってよ――
追いかけてくるんじゃねぇかと――
それは確かに――少し厭だ。
顔がないだけならば、驚きこそすれ怖がることはあるまい。
弥吉が思わず逃げ出したのは、その⼥が異形であるからだけではなく――
何をしてくるか判らなかったからだろう。
まあ、追いつかれたら追いつかれたで、何をするつもりなのか聞いてみたいところではあるのだが。
明るい店の中で聞く分には、怖さよりもそんなことを考えてしまう。
暗がりで異形に遭遇したら、私も同じように怖いと思って逃げるのだろうか。
⼝も効けないほどに動揺していたのか、⽔をくれ、と言うのがやっとだったという。
蕎⻨屋の主はこちらに背を向けたまま器を⽚付けている途中のようだった。
どうなさったね――
ずいぶん慌ててらっしゃるようですが――
主は柄杓を⼿に取りながらそう⾔った。
随分のんびりした⼝調だったので、弥吉は少しだけ苛⽴ったという。
いい迷惑だ。
どうもこうもねえよ、恐ろしいのなんのって――
その時、弥吉はのっぺらのことを話そうとしたのだが、その前にお堀の声の話もしなければ、と――妙に話の構成を考えたのだという。
そこは冷静なのか。
⼀瞬のことなのではあろうが。
それで。
その僅かな間に。
蕎⻨屋の背中を⾒て――
ああ、こいつも冥い――
そのことに、弥吉は気づいてしまったのだという。
主が振り向くより早く、弥吉は屋台を⾶び出した。
⽬の端に映った主の顔は。
やけに⽩く⾒えたんだと、弥吉は⾔った。
5.
解るだろ、流れが――
猪⼝を酒で満たすと、弥吉は当然のことのように⾔った。
流れもなにも、結局蕎⻨屋の顔は⾒ていないではないか。
のっぺら扱いされた主⼈が気の毒だ。
そう⾔ったが、お前もあの場にいたら解ったはずだと⾔われてしまった。
その場にいなかったから解らないのだが。
あれは、あの感じは絶対に普通じゃなかったんだ――あの⼥と同じだって、誰だって気づくさ。
そうして猪⼝を空にした弥吉は、⼤きく嘆息した。
聞いている分には⾯⽩いのだが、本⼈としては⼤真⾯⽬なのだから始末が悪い。
怖いとか恐ろしいとかの感覚⾃体は、紛れもなく本物なのだから――
よっぽど怖かったのだろう。
何度か転んだが、竿と⿂籠はしっかり持っていたそうだ。
提灯は落としてしまったというから、⽉明かりを頼りに家まで駆けたのだろう。
ようやく⻑屋にたどり着くと、勢いよく⼾⼝を閉めて突っ張り棒を噛ませた。
そして――
⼾⼝に背を預けたまま、へなへなとその場にしゃがみこんだのだそうだ。
⿂籠の中の⿂のほうが、俺より元気なくらいだったよと、弥吉は⾃虐めいて⾔った。
あれは、何だったのか。
⿂籠の中の⿂をちらりと⾒る。
置いてけぇ――
あの声に――⽿を傾けなかったからか。
それで――いや、しかし何で――のっぺら坊なのだ。
混乱する弥吉は、とにかく考えるのをやめた。
無性に喉が渇いていることに、ようやく気づいた。
水甕に⼿を伸ばそうとした時。
薄暗い部屋の奥から――
声がした、という。
おかえりなさい、お前さん――
どうしたんですそんなに慌てて――
まるで――
お化けにでもあったようじゃありませんか。
もう声で判ったよと、弥吉は⾔った。
⼥の声ではあるんだがな、暗さが――冥さがな、判るんだ。
それに何より――
三回⽬だったからな。
部屋の隅に座っていたモノが振り返るより先に――
弥吉は、とうとう気を失ったそうだ。
6.
気づいたときには、⼟間にひっくり返ってたのさ――
名残惜しそうに猪⼝を置いて、弥吉はそう⾔った。
竿も⿂籠も、なにもかもそのままだったという。
ただ――⿂籠は空っぽだった。
だったら夢ではないか。
⻑い時間をかけて話を聞いたが、落ちが夢でした、はあんまりだろうと⾔うと、⿂籠に⽔は⼊ってたんだと弥吉はむくれた。
だから、⼦供か。
体中擦り傷だらけだったしな。
痛ェのなんのって――
そう⾔いながら体をさする友⼈を、私は半ば呆れながら⾒ていた。
きっと悪い夢を⾒たのだろう。
釣りをしてはならぬお堀。
そんなモノの噂を聞いたものだから、お堀からの声だの、のっぺらに襲われるだのの夢を⾒たのだ。
いや、正確には襲われてもいないのだが。
話を聞く限り、寝惚けた弥吉が⼀⼈で驚き、戦き、慌てて、転んだだけである。
それも三回も。
⼤⽴ち回りである。
家でごろごろしておるからそんな夢を⾒るのだ。
働け――
そう⾔うと、弥吉はまた⼝を尖らせる表情をして、徳利に残った酒を呑み⼲した。
7.
そろそろ帰るか、今⽇も遅くなると悪いしなあと⾔い乍ら、弥吉は⽴ち上がった。
あんまり遅くなると、あいつが煩いんだよ。
恐ぇしよ――
それはお前が招いた恐さだろうと笑って、私は店を出る弥吉を⾒送った。
しようのない奴ではあるが、悪い男ではない。
何より、数少ない気の置けない友⼈である。
もう少し話を合わせてやってもよかったかと、私は少し苦笑った。
そして――
家路に付こうと踵を返した時――
私はあることに気づいた。
あいつは――弥吉は。
たしか独り⾝だったはずだ。
おかえりなさいお前さん――
思わず弥吉が帰った⽅⾓を⾒やる。
逃げ帰った弥吉を迎えたのは、誰だったのか。
いや、それも夢の話なのだ。
誰か居たわけでは――いや。
あんまり遅くなると、あいつが煩いんだよ――
そういえば友⼈は、少しやつれたように⾒えた。
悪夢をみたせいであると、思っていたのだが――
恐ぇしよ――
弥吉は――何と逢ったのか。
何者と――居るのだろうか。
⽇が薄れゆく⼣暮れの中に⽴ち尽くして――
私は、ようやく、
畏怖くなったのだった。