14.信じる力
氷床ノ宮家の広い座敷に、祝詞は静かに寝かされていた。広間には重厚な木の梁が天井に走り、障子から差し込む柔らかな光が部屋全体を包んでいた。畳の上にはふかふかの布団が敷かれ、その上で祝詞は穏やかな顔で眠っている。周囲には古美華が心配そうに見守り、理人先生も静かに見守っていた。部屋の隅には美しく生けられた花が飾られ、静寂の中に生命の息吹を感じさせた。外の庭からは風に揺れる竹の音が微かに聞こえ、穏やかな時間が流れていた。
「状況を整理すると、トイレで家紋を風の代表に見られて、突き落とされたということだね?」理人先生は静かに問いかけた。
「はい。」
祝詞は酷い打撲と足首の捻挫だけで済んでいた。日頃鍛えている成果といえる。彼の体は痛みを感じながらも、内心でその鍛錬が役に立ったことを実感していた。
「それにしても、よく無事で済んだね。」
理人先生は感心した様子で頷いた。
「まぁ、鍛えてたおかげですね。」
古美華はまた泣き出した。
「私が…。離れてたせいで…。」
「先生、神様も泣くんですね。」
「神様も今は人間ですから。」
祝詞は古美華の涙を拭い、「古美華、大丈夫だから…。」と優しく囁いた。
古美華は涙を拭いながら、祝詞の手を握りしめた。
「ごめんね、祝詞君。私、もう離れない。」
祝詞は顔を赤らめながら、「え?う、うん。別にいいけど。」と答えた。
理人先生は溜息をついて、「神楽さんの様子を見てきます。」と言って、静かに部屋を後にした。
二人だけの空間に残された祝詞と古美華。祝詞は少し照れくさそうに古美華を見つめ、「本当に大丈夫だから、そんなに心配しないで。」と優しく言った。
「あのね、祝詞君。今まで私は…いえ、先代の氷の神たちはね。死んでもいい人間ばかり選んで戦わせてたの。」
「え?」
祝詞は驚いて彼女を見つめた。
「どうせ負けて人間として終わってしまうなら、死んでしまった方が罪悪感が少なくて良いでしょ?でも、今回、私はそうしなかったの…。」
古美華の瞳には深い悔恨と決意が宿っていた。
「どうして、俺を選んだんだ?」
古美華はしばらく黙ってから、静かに言葉を紡いだ。
「最初はただ…地味で目立たないあなたを選ぼうとして観察してたの。でも、あなたがどんなに一生懸命に生きているかを知るたびに、心が動かされたの。妹さんのために自分を犠牲にして働く姿、誰にも頼らずに頑張る姿…その全てが私にとって、とても特別に見えたの。」
古美華の瞳には、祝詞への深い愛情と尊敬が込められていた。
「あなたがどんなに辛くても、決して諦めずに前を向いて進んでいく姿を見て、私はあなたのことをもっと知りたいと思った。そして、気づいたら、あなたが大切な存在になっていたの。でもね、祝詞君…妹さんの病気は九神本懐のプレイヤーにならないと治せないのよ。」
祝詞は驚いて古美華の顔を見つめた。
「どういうことだ…?」
「私は、あなたを選ぶしかなかったの。妹さんの病気を治すためには、あなたがプレイヤーになるしかなかった。本懐を遂げなくてもいい。ただ、プレイヤーになって支援できるようにならないと、妹さんを救えないの。」
古美華は真剣な表情で続けた。
「だから、あなたをプレイヤーに選んだの。あなたの強さと優しさを信じて。そして、あなたの大切な人を救うために。」
祝詞は古美華の心情を深く理解し、その重さを実感した。愛する人の大切な家族を守るために、愛する人を危険な戦いに送り出さねばならない古美華の苦しみが、胸に突き刺さるように伝わってきた。
「古美華…ありがとう。俺を選んでくれて…。俺、やるよ。神楽の病気が治ったとしても、古美華を泣かせないように頑張るから。もう泣くなよ。」
祝詞は左手で古美華の涙をすくった。
古美華は涙をこらえきれずに、祝詞の左手を自分の頬に当て、「お願い…死なないで…。」と震える声で言った。
それから、すぐに冬休みがやってきた。祝詞の捻挫と打撲は順調に治り、彼は再び訓練に戻った。痛みの修行や、手足がちぎれたときの処置など、理人からの厳しい指導を受けた。冬の冷たい風が肌を刺すような日々の中、祝詞はその痛みに耐え、さらに強くなろうと努力を続けた。
ある晩、祝詞が広い座敷で休んでいると、古美華が静かに部屋に入ってきた。彼女の表情はいつも以上に真剣だった。
「祝詞君、九神本懐は年明けと同時に始まるわ。1月1日に出雲で集まるの。そこで魔の神が始まりの宴をするの。」
祝詞はその言葉に身を引き締めた。
「いよいよか…。準備はできているよ。」
「絶対に負けないで…。」
祝詞は深呼吸をして気持ちを整えた。
「俺は必ず勝ち抜いてみせる。」
その後も祝詞は理人の指導の下、さらなる厳しい訓練に励んだ。理人は祝詞に対して、一つ一つの動作や技術を丁寧に教え、彼の体力と精神力を極限まで引き上げるよう努めた。
「祝詞君、これからの戦いでは、冷静さが何よりも重要だ。どんなに厳しい状況でも、自分を見失わないように。」理人は真剣な表情で祝詞に言った。
「はい、理人先生。ありがとうございます。」
冬の間、祝詞は毎日訓練を続け、心と体を鍛え上げていった。寒さに耐えながら、彼は自分の限界を超えようと努力を重ねた。
そして、とうとう12月31日の夜が訪れた。祝詞と古美華は神化し、出雲へ向かう準備を整えていた。
「俺たちだけで行くのか?」
「えぇ、そうよ。祝詞君、絶対に顔を見られないようにね。」
祝詞は黒衣のような格好をさせられていた。頭から足まで黒い布で覆われ、顔には白粉が塗りたくられていた。万が一、顔の布が取られても正体がばれないようにとの配慮だった。
「これで本当に大丈夫なのか…」
「大丈夫よ、祝詞君。」
古美華は微笑みながら、祝詞の手を握りしめた。
祝詞はその言葉に勇気をもらい、深呼吸をして心を落ち着けた。
「わかった。」
二人は夜空の下、静かに出発した。冷たい風が吹き抜ける中、祝詞は古美華の手をしっかりと握り、出雲への道を進んでいった。闇夜に紛れて、二人の姿は見えなくなっていく。