~三十五周目~その五
それからしばらくして、グランテニア当主は社交シーズンにも関わらず、病気を理由に領地に帰った。
流石に当主交代までには数年から十数年かかるとはお父様の言だが、もう帝都に来ることは二度とないらしい。
贈り物が届き、ある日わたしは、いつも以上に胡散臭い笑顔のブラッドに帝都の最高級料理店をご馳走された。
彼はその席にグレイドを同席させ、上流階級らしい傲慢さを見せず、まるで友人かのように扱った。
「君がアシュトランと縁を結ぶのであれば、今後も私と関わってくるだろうからね。ぜひ今回の噂に関する恩を忘れず、仲良くしてくれたまえ」
一応、わたしは結婚と同時にお父様から商会を一つ譲り受け、その商会長としてグレイドを婿に取る予定だ。
つまり、アシュトラン派閥の新たな上家を興すことになる。
とはいっても、当主が女で一般帝国民の婿となれば、大した影響力のない派閥の末端になるだけだけれど。
だからこれは、単に自分の障害を取り除く手伝いをしたことへの礼なのだろう。
グレイドにもはっきりと愛情を口にされてはいないが、祭りの日以降、二人でいると明確に甘い雰囲気になるようになった。
きっとわたしを好きでいてくれている…はず…。
それでも自信はない。
大魔女の言葉から考えれば、ある程度の好意程度では死に戻りは抜け出せないように思える。
彼女は『愛されれば』と言っていたのだ。
愛と言えるほど、彼はわたしを思ってくれているのだろうか。
とはいえ、これ以上できることはないように思えた。
あとは運命の日まで、ただグレイドと日々を過ごし、関係を深めるしかない。
毎日のように一緒にお茶をして、色々なところに出掛けた。
初めて会った頃の無表情が嘘のように、グレイドは笑ってくれて、それが嬉しくてわたしも笑った。
毎日楽しかった。
この時間がずっと続けばいいのに。
この日々が終わらなければいいのに。
わたしは心からそう思った。
もう死に戻りたくない。
次の周回では同じようにできる?
もっと上手くできる?
まだ足りなくて、もっと幸せになった時に、この死に戻りが終わる?
そんなのはおかしい。
今この時、この周回の全ては、もう二度とない。
何度繰り返しても、『同じ出来事』などない。
この周は確かに幸せだ。
けれどあの、無かったことになった日だって尊い日だった。
時は不可逆であるべきだ。
過ぎ去った時は二度と戻らないからこそ、人は一瞬一瞬を懸命に生きる。
一日一日をより良くしようと努力し、明日はもっと良くなると信じて生きるのだ。
今のこの日々を、なかったことになんてしたくない。
けれど、特に何か大きな出来事はなく、日々は過ぎていった。
そして遂に、運命の日を迎える。
あと一刻、あと半刻…わたしは時計の針を見ながら緊張していた。
これまでのどの周回より、緊張していた。
そして遂に…その時が訪れる。
暗い部屋に溶け込むような黒尽くめの男が、音もなく現れる。
ああ…駄目だったのね…。
わたしは目を閉じた。今回に関しては、何も話したくない。
今話したら、きっとわたしはみっともなく、どうして愛してくれないのかと叫ぶだろう。
しかし、いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。
恐る恐る目を開ける。
グレイドが、黒尽くめの男を拘束していた。
いつの間に入ってきたのか、何の音も聞こえなかったが、彼は暗殺者を止めてくれたのだ。
黒尽くめの男、という時点で反射的にグレイドと思ってしまい、衝撃と悲しみからよく見ていなかった。
改めて見てみれば、体型こそ似ているものの、目付きが全く違う。
「グレイド…」
「大丈夫ですか、姫様。怖い思いをさせて申し訳ありません。なかなかの手練れで対応が遅れました」
「ううん…いいの、いいのよ…グレイド、ありがとう」
わたしは溢れる涙を止められなかった。嗚咽し始めたわたしを見て、グレイドが男を捻り上げる。
男が苦しそうなうめき声を出した。
「我が姫に手をかけようとした罪、思い知らせてやる。楽に死ねると思うなよ?」
わたしが泣き続けるので、やがて扉の外に待機していたティティが来て、おろおろとして最終的に一緒に泣いた。
騒ぎを聞きつけてネーリが来て慰めてくれる。護衛の騎士が暗殺者を連れて行った。
わたしはグレイドに抱き着いた。
声を上げてわんわん泣いた。数十年分泣いたと思う。
お父様もお母様も来て、お兄様はわたしを抱きしめるグレイドに「今日だけだぞ…」と剣呑な声を出していた。
ネーリが香草茶を淹れてくれて、わたしの部屋にしばらく皆いてくれた。
「今日は朝まで皆でこうしていたいわ」
よほど怖い思いをしたと思われたのだろう。
グレイドにくっつきながらそう言ったわたしの頬に、お母様は口づけをしてくれた。
お父様は頭を撫でてくれて、お兄様はグレイドから強引にわたしを奪い、抱きしめてくれた。
皆がわたしを愛してくれている。
グレイドもわたしを愛してくれている。
わたしも皆を愛している。
誰よりもグレイドを愛している。
心は五十歳のお婆ちゃんだと言うのに、わたしは子供のように笑って、泣いた。
ああ、素晴らしきこの世界!
ああ、素晴らしきこの人生!
その日、朝までわたしの部屋から話し声が途切れることはなかった。
暗殺者はグランテニア当主が差し向けたものだった。
自分を隠居に追い込んだ原因であるわたしを憎んでのことだったらしい。
ブラッドはわたしに謝りつつ、これで一層身動きできないように手配できるから安心しろと言った。
こいつ、グレイドが防ぐことを見越して止めなかったんじゃないだろうな。
そうして、わたしの日々は未来へ進んだ。
下働きの少年とティティは付き合い、孤児の少女は学校に通い始めた。アイエイラ様の第二皇妃入りも決定し、ヴィエラ様からは手紙が届いた。
ヴィータ様の試練を乗り越え、わたしはかけがえのない日々を、未来を取り戻したのだ。
「こういう状況に置かれた人間としては、異例の早さで成し遂げたわよね」
どこかの星の、どこかの町、どこかの家で、魔女は微笑んだ。
「え?いやあんたの嫌がらせのせいなんだから、笑ってるんじゃないわよ」
魔女は虚空に話しかける。
「あたくしはいいのよ。この世界に干渉しないって、あんたとの約束でしょ。だからただの傍観者だもの」
「いやいや最低限の助言しかしてないでしょ。修正が早まったんだから、あんたにとっても悪くないし」
「はあ?ていうかあんたの試練ってあの子は言ってたけどね。いつもいつも、単なるバグの修正をただの人間に押し付けるんじゃないわよ」
それからも、魔女は虚空に話し続けた。
その声はいつまでも楽しそうだった。