第43話 ただ、もう一度
まただ。
リーベルタースを失った時もそうだった。掌から命が溢れてゆく感覚。もう二度と、そんな思いをしないと決めていたのに、またしても彼女の命は彼の掌から溢れていった。
当然の様にあると思っていたものは、気づけば掌から消えている。
空虚な目で彼女を見た。それはあまりにも安らかで、それ故に彼の胸は抉られそうだった。
己が弟子一人守れないのか。罪悪感よりも無力感が彼の身を痛めつけた。
「これで邪魔者はいなくなったな」
パックスは彼女の血が付着した大剣を再び頭上に翳す。だが、それを見ても、もう何も感じない。彼女の死はおよそ彼から感情というものを容易く奪い去った。
束の間、呼吸すら忘れそうになる。彼は、願う事なら早く殺してくれとさえ思っていた。
最早、生きる意味はない。だが、彼女が息絶えた今、死ぬ理由もない。ただ、無意味で無価値な肉の器になったレンは思考を放棄した。
その時だった。彼の耳に懐かしい声が響いた。
「何、ぼけっとしてる? レン」
女性であろうその声は彼に叱咤の声を飛ばす。長らくその声を聞いていなかったが、それでも他ならぬレンが忘れる筈もない。
高圧的で、高慢的だが、同時にそれは優しさの裏返しでもある声。
「下を向く事を私は教えたつもりないぞ」
銀髪の吸血鬼にして、七人いる真祖の内の一角にして、レンの師。
その女の事を彼は強く脳裏に刻んでいる。
「師匠!」
彼は振り返る。
リーベルタース。第二真祖の吸血鬼であり、レンの師匠である人物。レンに戦闘の技術の全てを叩き込み、レンの為に命を落とした人物。
そして、気づく。そう、彼女は死んだ筈なのだ。
だというのに何故、この場所に忽然と現れたのか。何故、その姿が見えるのか、声が聞こえるのか。レンには理解できない。
「リベラ……」
パックスもその姿が見えているのか彼女のあだ名を呼ぶ。だが、一瞥与えるだけで、彼女はパックスから直ぐにレンに向き直った。
レンは目を擦り、抱いた疑問を率直に彼女にぶつける。
「どうして、師匠がここに? まさか、生き返った?」
その問いにリーベルタースは微妙な顔をする。
「いや、その表現は適切でない。この体は霊体だ」
「霊体?」
それがなんたるかはレンは知っていた。実体を持たず、物質の概念に囚われず、魔力だけで存在する事のできる存在。
肉体が死を迎えた時、偶発的に誕生するのが霊体だ。
だが、そこから意思を持つのは非常に稀有な存在であり、まして、生前の記憶を持ち合わしているものなど聞いた事もない。
レンは追及しようとする。だが、それを彼女が制した。
「悪いが、時間がない。これ以上はまたの機会だ」
そして、リーベルタースは単刀直入に本題に切り出す。
「今、こんな体なもんで加勢出来ない。だから、私はお前に助言を与えにきた」
「……助言?」
レンは少し遅れて問い返した。そんなもの、あまりに遅すぎる。もう、エラは呼吸を止めた。それだけが事実だ。現実だ。
「そんなもんいらねぇ! もう、こいつは、エラは死んだ! 今更、何もできない!」
レンはがなり声で吠える。
だが、彼女はそれでも眉一つ動かさない。狼狽ない。己の弟子がどういう反応を示すかくらい予想はついていた。
「助言と言ったろ? お前を助ける言葉だから助言だ。泣いて諦めて喚くのは聞いてからにしたらどうだ」
その言葉にレンは黙る。だが、今更何が出来るというのか。
訝しむレンに彼女は続けて言葉を綴る。
「さっき、お前はその娘が死んだと言ったな? まず、それは早計じゃないか?」
彼女は試す様にレンに尋ねる。だが、彼にはその言葉の意味が理解出来なかった。
「は? よく見てみろ! もう、呼吸をしていない」
「あぁ、そうだな。だが、それは肺機能が停止しただけだ。まだ、心臓は動いている」
レンは彼女に言われ、エラの方へ振り返った。そして、胸に耳を当てる。やはり、呼吸はしていない。
だが、薄弱ながらその心音を聞いた。だが、それだけだ。例え、心臓が動いてたとしても————
「確かに、心臓は動いている。だが、肺が動いてないんじゃ心臓もいずれ————」
その先は言わずとも分かる。自明の事だ。だが、リーベルタースはその言葉に対し、
「だとしても、今、心臓は動いている」
そう、言葉を続けた。
それに、レンはとうとう頭を傾げてしまった。彼女が自分に何を伝えようとしているのか、全くわからない。そんなレンに呆れた口ぶりで彼女は補足した。
「鈍臭い奴め。少しは頭を使ったらどうだ? お前と私が初めて出会った時、お前に私は何をした?」
「あ……」
間抜けな声を漏らして、彼は思い出した。そして、彼女の言葉の真意をようやく理解した。
確かに、エラの心臓は動いている。ならば、可能の筈だ。
吸血鬼化が。
かつて、リーベルタースが瀕死のレンを死の淵から引っ張り出した方法。考えれば分かった事だ。
だが、一度だって自分の眷属を作って来なかったレンにとっては忘却しかけていた事だった。
だが、それは彼女を救える反面、別の問題も孕んでいる。
「エラを吸血鬼に……」
両親も、弟も吸血鬼に殺されたエラ。そんな彼女が果たして吸血鬼になってまで延命を望むのだろうか。
その、問いにぶち当たったレンにリーベルタースは告げる。
「その少女を人間のまま死なせてやるのか、吸血鬼として生かすのか。どちらが正しく、どちらが間違っているか、という問題じゃない。これはお前の選択だ。だから、お前にとって後悔が残らない方を選べ」
その問題に彼は思考する。
「俺は————」
彼女がどちらを望むのかレンには分からない。
だが、自分がどちらを望むのか、となれば答えは一択だ。躊躇いなく、迷いなく、即答だ。
「俺は、人間だろうと吸血鬼だろうと関係ない。お前に生きて欲しい」
それが、自身のエゴである事は百も承知だ。彼女の意思をおよそ度外視した選択。
故に、後でどれだけ叱れようと、詰られようと、嫌悪されようと、縁を切られようと、その遍くを受け止める。
それだけの覚悟と意志を持って、この決断を下す。
ただ、もう一度彼女の笑顔を見る為に。
レンのその様子に、リーベルタースは満足そうに言った。
「やる事は決まったな」
そう言うと、彼女は彼の背を押した。優しく、しかしまた強く。
「負けんじゃねぇぞ」
その声は再び彼を奮え立たせる。消えかけていたその闘志を焚きつける。
「あぁ」
彼は口角を吊り上げて、彼女に伝える。
「あんたの弟子は負けず嫌いなんだ」
その時、彼は、リーベルタースの気配が消えていくのを感じた。もう、彼女とは会えないかもしれない。
だが、レンはそんな彼女を振り返るような野暮な真似はしなかった。




