いまだ蕾のモラトリアム
ずっとこの春にいたい。
「おいしくなってリニューアル」そんな文言を目に留めて私はのばした手をひっこめた。
コンビニのチルドケースに並ぶサンドイッチは、私の大好物、だった。
つい先日までは。
でもきっともう違うのだろう。
期待をもって手にとっても、その期待がむなしく散るだけなのを私は知っている。
知っている。
私には好きな人がいた。
話したことはない。友人、だとかクラスメイト、だとか近しい関係性であらわせる距離感でもない。家が近いとか通学路が一緒とか、そんな接点もない。あえて言うなら、同じ学校の、でも別の学科の人。
見知らぬ他人、のような彼に抱く気持ちが一般的に言う恋なのかは私にもわからない。
でも。
好き、なのだ。
声が好きだった。いつも私に問いかけてくるような、しゃべるときの抑揚が好きだった。柔らかな所作が好きだった。顔は恥ずかしくて直視できなかった。いつも遠くから、きらきら日差しに溶ける髪を、目に焼きつけていた。
『……でね、バレンタインのメッセージ、ありがとう』
イヤホンから流れる心地よい声に耳を蕩けさせながら、私は机の隅に置いたままのラッピングギフトへ視線を移した。
……けっきょく渡せずじまいだった。
きっとほかに何人もの人から貰っているだろうし、私が渡したところで、そのなかのひとりになってしまうだけだと考えると、一歩どころか半歩も踏み出せなかった。お菓子になった私の気持ちは机の隅で燻ったまま、このまま腐ってゆくのかもしれない。メッセージだけでも送っていれば、いまごろ「ありがとう」と言ってもらえていたのに。
配信を流し続けるスマホを持ったまま私はベッドへ横になった。そうしていると、まるですぐそばでおしゃべりしているような気になれて、心がふわふわした。
いまどき一般的でも気軽に配信ができる時代だ。友達とのおしゃべりだってグループ通話だし、カラオケに行けばなんとなく歌の配信を始めたりもするし、私もSNSで縁のある人の配信を聴くことはよくあった。
……たまたま目にした彼の配信枠をタップしたのが、おそらく始まり。この気持ちの、始まり。同じ学校だと知ったのはそのあと。奇跡みたいな偶然だったけど、だからって彼と私の距離が近くなりはしなかった。
奇妙な感覚だった。
こんなにそばで声を聴けてレスポンスできるのに、実際は限りなく遠い。同じ校舎にいるのだから本当に遠い、というわけでもない。勇気を出せば、一歩進んでみれば、知り合い、なり、友人、なりそういった呼びかたができたかもしれない。
でも私は何もしなかった。何も変えようとしなかった。
遠くて近い、近いのに遠い、そんな距離感のままで、私はいたかったのだ。
変わる勇気が、私にはなかった。
……変わるために行動を起こすことは、本当に「勇気」と呼ぶのだろうか?
「お母さん、ずいぶん熱心に見てるね」
母と私、ふたりぶんのカフェオレをテーブルに置く。晩ごはんの片付けもすみ、一日の終わりのささやかな自由時間、私はいつも母にカフェオレを淹れていた。
母はありがとう、と言ってマグカップに口をつけるがその視線はテレビに向けられたままだ。私もつられて目線を投げると、どうやらドラマのようだった。最近よく見る俳優が画面の向こうでせつなげな表情を浮かべている。
「お母さんの好きなドラマなのよ。青春をともに過ごしたわぁ」
「青春って」
恋愛ドラマらしいが配役はみんないまどきの役者ばかりだった。
「この春の新番組じゃないの」
「そうよ」
母は頷く。
「だってお母さんの青春時代がどうとか」
「そうそう。リメイクされたの。キャストも一新されて」
「じゃあ昔観たドラマと違わない?」
母の隣に座り、私も一緒にドラマを見る。
「そうねえ。ストーリーも、なんだか設定も変わってるし、同じじゃあないわね」
同じどころか私には別物に感じられるけど。内心首をかしげながら母に訊いてみた。
「好きだったのに変わったら悲しくならない?」
「そりゃ悲しいわよ~。やっぱりお母さんの時代にやってた主役が好きだし。ああ思い出すといまでもドキドキしちゃう」
そう、そうでしょ。
私は安堵の息を吐く。変わらないほうがいいの。そう感じるのは、私だけじゃないの。
だけど、と母は身を乗り出す。
「やっぱり昔のほうが好きなのは変わらないんだけど、演じる役者さんが変わるとこんなふうになるのね、って発見があったりもするし、ここのヒロインのセリフはもしかしたら別の意味だったのかしら?って気づいたり、世界観が現代風になってて面白いのよね」
「……でも、好きなのとは違うんでしょ?」
「それはそれ、これはこれよ。新しい魅力は新しく好きになるのよ」
いまいいとこだからあとで、と母は再び真剣な眼差しをテレビへ向ける。そんな母の横顔を見ながら私はぬぐいきれない胸のモヤモヤと戦っていた。
新しく好きになる?
新しい魅力?
そんなのなくていい。そんなの知らなくていい。
コンビニのラインナップはリニューアルしなくていいし、好きな小説本は改訂版にならなくていいし、好きな音源は別リミックスにならなくていい。
別に否定したいんじゃない。私が否定したいわけじゃない。
否定されているのは、私のほうなのだから。
好きだと思っていたものが、変わって、「こっちのほうがいいよ」と提供側から言われてしまったら。
じゃあ、私が好きだった、好きだと感じていた気持ちたちは、どこへやればいいの?
みんな新しいものを受け入れて愛していく。作った側の人達ですら。
私が、私だけが、ずっとずっと取り残されたまま、好きだったモノの脱け殻を抱いて座りこんでいる。
変わる勇気なんて欲しいと思えなかった。
……留まったままの私を、許してほしかった。
好きな人がいた。
ついに言葉を交わす機会もないままその人は卒業していった。一学年下の私は桜色の校舎に残って、おそらくもうこれまでのように姿を見かけられる幸運にも巡り会えないだろう。
近しい関係性になりたくなかったと言えば嘘になる。
でも、こうして別離を目の当たりにすると、……やっぱり、とても、さみしくて、悲しい。
春は変化の季節。否応なしに、変わっていってしまう。
私を置いて。
部活中の声があちこちから響く春休みの廊下に私はひとりたたずんでいた。窓の向こうはまばゆく霞む青空と散り始めた桜並木のパステルカラーであふれていて、春を謳歌するとはきっとこんな陽気の日を言うのだろうと、私はこれ以上ないほどの惨憺たる胸中にいながらそれを恨めしく思った。
SNSを開いたままのスマホに目を落とす。
そこにあるのは別れの言葉。
好きな人からの、別れの言葉。
もうおしゃべりを聴くこともできない。たまに更新されるSNSに心踊らせることも、突発的な配信に慌てることも。
何もかもが新しく変わっていく。
翌月になれば彼がいた場所には別の誰かが居座って、彼が続けてきた活動の続きを、当たり前のように始めるのだ。
それはきっと「ますます魅力的」で「誰もが喜ぶ」のだろう。その「誰も」になれなかった私の心は数には入らない。無いも同然なのだから。
次にこのSNSを更新するのが誰なのか私は知らない。耳に入れないようにしてきた。見ないようにしてきた。
だって私はきっとその人を許せない。
許せなくて、憎らしくて、嫌いになってしまう。
快く迎えられない。受け入れられない。
こんな気持ちでいてはいけないと、わかってはいるのに。
でも彼は言ってくれた。言ってくれたんだ。私が欲しい言葉を。無いも同然には、しないでいてくれた。
私はそのメッセージが流れてしまわないようブックマークする。下を向いたときにぱたりと涙がこぼれて、泣いていたのだと初めて私は気がついた。
「あれっ、なんで泣いてるの?」
通りかかった友人が心配そうに覗きこむ。春休みでも活動している部活が多いとは言え、学校で会うなんて珍しい。
「ううん……花粉症」
「なーんだ、よかった」
気遣ってくれたことに感謝して、私は涙をふいた。
「そっちこそ、どうしたの。今日って確か、好きなゲームの発売日とかって言ってなかった?」
すごく面白いゲームなのだと、前作のときに熱っぽく語っていたので私も覚えていた。きっと発売初日からプレイするのだとばかり思っていたけれど。
ところが友人は困ったように眉をひそめた。
「そうなんだけどー」
「だけど?」
「アタシ前のナンバリングが好きすぎてさー。まだ新作を遊ぶ心の準備ができてないんだよねー」
「心の、準備?」
「そーそーそー。コンスタントに新作出してくれるのは嬉しいんだけど。いやね、絶対面白いんだよ? のめり込むに決まってるんだけどさ?」
「うん」
「でもまだ前作を好きなままのアタシでいたい、っていうかさ? まだまだ熱はおさまらないし、遊び尽くせてないし、だからアタシがやりたくなったらでいっかーって」
新作出るペース早いよねーと友人は笑った。
私は、……私は、ただ、うん、と頷いた。
「そっちはどーなの? 好きな配信者やめちゃうんでしょ。だから泣いてるのかなって焦ったよー」
「……うん。変わっちゃう、んだけど」
「あー。ヤダよねーリニューアルって」
「うん」
私はまた頷く。さっきまでの重い心が嘘のように軽かった。
「でも、いままでのアーカイブ残してくれてるし。聴けなかった回もあるから、……私もまだ、好きなままの私でいる」
いていい、って彼は言ってくれた。止まって、座って、休んでていいって。ここにいたままでいいって。
またね、って。
「アハハ一緒」
笑う友人と連れだって廊下を歩く。三学期も終わり、けれどまだ始業式前の、モラトリアムのようなこの時期を、春と呼ぶのなら。
私は気がすむまで、この春に留まり続けよう。
好きなあの人に、また会えるまで。
〈いまだ蕾のモラトリアム/完〉