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47・少女は涙を落とす



 足を踏み入れた広い部屋にウェルジオの微かな呼吸の音が響く。

 瞳は固く閉じられ、体中に巻かれた白い包帯が鮮やかなほどの赤に染められていた。


 部屋中に漂う鉄の香りに思わず足がすくむ。それ以上踏み込むことができずに、扉のそばで立ち止まった私の前でセシルが、レグが、ウェルジオの横たわるベッドに縋りついて必死に声をかける。

 私はそれを、ただ見ていた。


「お兄様っ! おにぃ、さま……っ」

「ジオ、お願い、起きてよ」


 死を経験したことがないわけじゃない。小学生の頃にはおばあちゃんが。高校生のときにはおじいちゃんが。そのどちらもすごくすごく悲しくて、いっぱい泣いた。

 けれど、その別れはとても静かで、穏やかなもので……。こんな、血の匂いを纏うようなものでも、悲痛な声が響くようなものでもなくて。


(何してるの、私……。突っ立ってる場合じゃないでしょ)


 この気持ちを何と呼べばいいのだろう。

 心の底から湧き上がる。鉛のように重くて、氷のように冷たい、この気持ちは。


(私よりもずっと、セシルのほうが辛いはずよ、レグのほうが、ずっと…………。()は大人なんだから、しっかりしなきゃ……、こんなときこそ二人を支えてあげなきゃ……)


 そう、思うのに。

 なのにどうして。私は動くことができないの。

 二人のように彼のそばに行くこともできずに、こんな所で立ち止まったままでいるの。


「…………ぅ」


 どうして、こんなふうに、泣くことしかできずにいるの。




『だから危ないと言っただろうが……っ!!』

『やる。受け取れ』

『はっ、馬鹿らしい、そんな言葉の何が嬉しいんだ』

『私と一曲、踊っていただけますか? レディ?』

『貴族の令嬢がいつまでもうつむくんじゃない』




 何度も何度も聞いた。あの嫌味ったらしい声が頭をよぎる。

 いつもいつも嫌味じみていて、どこか見下すようで。だけど本当は、とても温かくて、優しい声が。



「ぴぃ……、ピピィ……?」


 そんな私を心配するように擦り寄ってきた小さな身体を力の入らない腕で抱きしめた。

 じわりと伝わる温かさに、確かな命の存在を感じる。

 ああ、そうか。これは。



 ――――――――――――――――恐怖、だ。



 ぶっきらぼうな態度に隠された優しさ。プラチナブロンドに隠れた耳元がほのかに染まる瞬間。

 それを見るのが、実は密かに好きだったなんて、きっと貴方は知らないでしょうね。


 ああ、そういえば。まともに名前で呼ばれたこともなかったような気がする。

 おい、とか。君、とか。一度もきちんと呼ばないままだなんて、レディに対してちょっと失礼すぎません? 紳士として失格ですよ? このままじゃずっとそのレッテルを貼られたままです。いいんですかそれで。嫌なら早く起きてください。


 目を開けて、あの嫌味ったらしい声で、いつもみたいに偉そうな言葉をかけて。


 失くしてしまうかもしれない。そのことが身が裂けるほどに恐ろしくて、動くこともできずにいる私を、嘲笑って見せてよ。


「お兄様っ!!」

「ジオ!?」


 セシルたちの悲痛に満ちた叫び声にとびかけた意識が浮上する。


「ぁ、……」


 かすかに聞こえていた、ウェルジオの呼吸が……細い。

 セシルが、公爵様が、レグが。必死に彼の名を呼ぶ。叫ぶように、神に懇願するように。


 刻一刻と近づいてくる、その“瞬間”がすぐそこまで来ている。

 立っていたはずの足から力が抜けて、ふらりと倒れかけた身体をお父様が慌てて支えてくれた。



 大好きなものや、大好きな人たちは。そばに在ることが当たり前のように感じていた。

 でもそれは、決して当たり前などではないんだと。奇跡のように恵まれていることなんだと、咲良(わたし)は身を持って知っている。



 “――――咲良、どうしたの?”

 “――――悲しいことでもあったのか? どれ、お父さんが聞いてやるぞ?”



 ときに無情に、残酷に。あっさりと奪い取られてしまうこともあるのだと。

 いつもと同じ明日がこれから先もずっと続く保証なんて、どこにもないんだと。

 この世界で目を覚ましたときに私は知った。


 これが現実なら、乗り越えていくしかないのだろうか、新しい人生を受け入れたときのように。今回も。


(いやよ……)


 そんなこと、できるわけない。


(いやよ、……そんなの、いやだ……っ)


 子供のように、幼子のように、頭の中を巡るのはその言葉だけ。


 ねぇ、誰でもいい。誰か、この人を助けて。誰か。神様――――。



 ぽろぽろと溢れ出る涙は頬をつたい、抱きしめたピヒヨのくちばしにポタリと落ちた。











 そして、異変は起きる。




 ――――――――――『ナカナイデ、アヴィリア』



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