トウシューズ
舞台袖は、深い海の底のように静かで暗かった。深い海の底に行ったことはないけれど。
もさもさとした真っ黒い袖の間からのぞく舞台は、真っ白に光っていて眩しくて、舞台袖とは別の世界のように感じられた。
貫奈は唇をきゅっと結び、真っ直ぐに舞台を見つめて自分の出番を待っていた。 照明の中で、前の出場者が踊っている。
ジゼルという名の、平凡な村娘に扮した彼女は緊張しているのか、腕の動きがぎこちなく、跳躍の高さもリハーサルより低かった。
何度ぬぐっても、手のひらに汗がじわじわと滲む。まだ踊ってもいないのに、貫奈の心臓はすでに踊った後のように激しく打っていた。背中や肩がぶるぶると震えているが、暑いのか寒いのかわからない。
貫奈は、すううう、と深呼吸をして自分に言い聞かせた。
(落ち着いて、呼吸を整えて。普段どおりに、いつも教室で踊ってるみたいに踊る。でも、普段よりももっと楽しむの)
舞台上で踊っているジゼルは、バリエーション(ソロで踊る踊りのこと)の中でも一番の難所にさしかかった。曲から遅れてしまった分を取り戻そうとしているのか、足さばきは軽快というよりも雑という言葉の方がふさわしい。 軸足がぐらつき、彼女はバランスを崩した。 かろうじて転倒は避けられたが、見せ場のステップは途中で止める形になってしまった。
自分の出番の直前に誰かが失敗する姿を見て、動揺する。自分もあんなふうに、いや、もっとひどい失敗をするかもしれない。取り戻す方法もわからなくなって舞台上で立ち往生してしまうかもしれない。
(考えるな! 深呼吸、深呼吸……。私はバレリーナになるんだから……!)
貫奈は小学四年生の時、バレエを習い始めた。
きっかけは、バレエを習っていた同じクラスの友達に、発表会へ招待されたことだ。
一緒に来ていた母は途中でかっくんかっくんと居眠りをしていたが、貫奈は腰を浮かせて前のめりになって、初めて見るバレエを食い入るように見つめていた。 つややかなサテンの生地と繊細なレースでできた、ピンクやオレンジ、黄緑などの色とりどりの美しい衣装は、どこか遠い国の夢の世界に迷い込んだようだった。つま先立ちをした妖精たちが舞台を交差し、軽やかに、時に力強く宙を舞う。 たった一度で、バレエの独特な世界観にすっかり魅了された。自分もあの世界に入って一緒に踊りたい。そう強く思った貫奈は両親に頼み込んで、その週のうちにバレエ教室に通い始めた。
バレエ教室に入って最初に履いたのが、バレエシューズというぺらぺらの布靴だった。
「先生、この靴でどうやってうららちゃんみたいにつま先で立つんですか?」
貫奈は、発表会に招待してくれた同じクラスのうららを指差しながら尋ねた。うららはレッスンが始まる前に教室に来て自主練習をしていた。先生から渡されたバレエシューズは、うららが履いて踊っているものとは違うように見える。シューズとはいうものの、靴下とほとんど変わらない。
「ああ、トウシューズ? ごめんね、貫奈ちゃんはまだ履けないのよ。トウシューズはたくさん練習して筋肉をつけて、体がバレエの動きをよく覚えてからでないと、怪我しちゃうから。始めはバレエシューズで練習して、慣れてきたらトウシューズね」
貫奈はバレエシューズに足を入れた。つま先の方だけ皮でできていて、少しひんやりとしている。厚紙ほどの靴底が貼られているが、床の固さが足裏にじかに感じられる。立って歩いてみると、やはりぺたぺたと靴下のようだった。うららのトウシューズが床を蹴る音が、貫奈の後ろで響いていた。
バレエを習い始めたからといって、すぐにあの発表会で見たように踊れるわけでないというのは、初回のレッスンでよく分かった。 レッスンの最初にやるストレッチの時点で、体が痛くて他の生徒たちの半分もこなせなかった。バーレッスンという、バーにつかまって行う基礎的なレッスンでは、先生から注意されすぎて、どう動けばいいのかわからなくなってしまった。バーから離れて行うセンターレッスンは、舞台で踊っているのに一番近い形だったのでわくわくしたが、回転で目が回ってしまい、最後のほうはレッスン場の隅っこで見学していた。うららが背筋をピンと伸ばし二回転、三回転とくるくる回るのを見て、「きれいだなあ、すごいなあ」と、ぼんやりした頭で思った。
ただ、音楽に合わせて体を動かすのはとても楽しかった。
レッスンは週二回だったが、それではとても足りなくて毎日踊りたいと思った。貫奈は先生に頼んで、レッスンで流しているCDを焼かせてもらい、家でも毎日教室でやったことを繰り返した。
何週間、何か月と毎日練習をしていると、だんだんと上達しているのが自分でわかった。
レッスンでは相変わらず先生によく注意されるが、ごくたまに、褒められるようにもなった。
バレエを始めて一年半経ったころ、貫奈は先生からトウシューズを許可された。
ジゼルを踊っている出場者は、途中で止まってしまった難度の高いステップを基礎のステップで埋め合わせをして何とか場をつなぐと、最後の見せ場を踊り始める位置へ向かって軽やかに駆け出した。 内心、ショックと焦りでかなり動揺しているはずなのに、変わらず笑顔を保っている彼女に対して、貫奈は尊敬の念を抱く。
彼女の踊りはもうすぐ終わる。このコンクールでは観客が拍手することは禁止されているから、出場者はあっさりと舞台から去り、すぐに次の出場者の出番が来る。
トウシューズのつま先を立て、床にぐりぐりと押し付ける。大丈夫、ちょうどいい。本番に合わせて、いい具合に足に馴染んでいる。リボンも固く結ばれていて、準備は万全だ。
(キトリになりきることだけを考えよう)
コンクール本選に来るまでの練習量を信じよう。体は勝手に動くはずだ。あとはどれだけリラックスして、自分の踊る役に入り込めるかどうかだ。貫奈は踊りで使う扇子を構えて、開いて、閉じてを繰り返した。
「五千二十六番、ドン・キホーテよりキトリのバリエーション」
アナウンスが流れると、貫奈は舞台の光の中へと躍り出た。
「貫奈ちゃん、バレリーナなの? 将来の夢」
その日、いつものように学校へ行くと、下駄箱でうららに会った。うららは外靴を脱ぎながら、貫奈の顔を見ずにぼそっとした声で訊いてきた。
その頃はちょうど六年生に上がったばかりで、担任の先生がクラス全員に自己紹介カードを書かせて教室の後ろに貼り出していた。そのカードの中には、「将来の夢」という項目があり、貫奈はそこに「バレリーナ」と書いていたのだ。 貫奈はうららの様子が少し気になったが、元気よく「うん!」と答えた。
うららは、一生懸命バレエに打ち込んでいる。当然、貫奈の夢を応援してくれるに違いない。うららの自己紹介カードはまだ見ていないけれど、ひょっとして自分と同じく将来の夢はバレリーナなのではないか、だからこうして訊いてきたのでは、と思った。
しかし、貫奈の考えていたこととうららの口から出た言葉は、全く違っていた。
「なれるわけないよ。貫奈ちゃん、四年生から始めたよね。遅すぎるよ」
「え?」
「私は、現実見てるから。自分の実力を考えずにバレリーナになりたいなんて言わない」
うららはそう言い放つと、上靴を履いてすたすたと教室へ向かった。 冷たい声に心臓が切り裂かれるように感じた。 貫奈はしばらく呆然として、その場に突っ立っていた。
「松橋さん、どうしたの? 中、入らないの?」
クラスメイトの男子に声をかけられ、貫奈はようやく靴を履き替えた。足が大きくなるのに合わせて新しく買ったばかりの上靴がぶかぶかで、教室に着くまで何度も転びそうになったことをやけにはっきりと覚えている。
うららがどうしてあんなことを言ったのか、貫奈にはわからなかった。
うららは五歳のときからバレエを始め、貫奈が教室に入るずっと前からトウシューズを履いていた。教室の中でも抜群に上手で、先生からコンクールに出ることや、有名ダンサーの短期スクールへ参加することを勧められていた。 うららの自己紹介カードの「将来の夢」の項目には、「薬剤師」と書かれていた。そして小学校を卒業すると私立の中学へ進学し、そのままバレエ教室には来なくなった。
うららが辞めてから、先生は貫奈を「うららの代わり」にしようと考えた。当時の生徒の中で貫奈の実力は中の上だったが、バレエを始めてから二年でここまで上達する生徒は、なかなか見たことがなかったからだ。 うららにそうしていたように、貫奈にコンクールやワークショップへの参加を勧めた。レッスンでは、他の生徒のお手本をやるよう、たびたび指名されるようになった。 貫奈は、いつも自分とうららを比べる先生に対して疑問を抱いていた。失敗すると「うららはそんな勿体ないミスはしない」と言われ、「うららの三倍は練習しないとコンクールでは予選落ちだ」とも、たびたび言い聞かされた。うららはもう、辞めてしまったのに。 先生がうららの名前を口にするたび、貫奈はうららに言われた言葉を思い出すのだ。「バレエを始めたのが遅すぎる」「自分の実力を考えずにバレリーナになりたいなんて言わない」。そのうち、先生の顔を見るだけで、うららのその言葉を思い出してしまうようになった。頭にこびりついたものはなかなか落とすことができない。前は待ち遠しかったレッスンの日が近づくと、気が重く感じるようになっていた。
そんなとき、二年に一度の発表会の配役が発表された。
「貫奈ちゃんがクララだ!」
「やっぱり思ってた通りだ。貫奈ちゃん上手いもん」
その年の発表会は、「くるみ割り人形」の抜粋版と、個人のバリエーションや何人かのグループでの創作バレエのオムニバスという二部構成だった。貫奈は「くるみ割り人形」の主役であるクララ役に抜擢されたのだ。
主役とはいえ、抜粋版なので見せ場はそれほど多くなかった。それでも貫奈は実力が認められたことが嬉しかった。今まで味わったことのない、体の奥からやる気がほとばしり、頭や指先がじんじんするような不思議な感覚を覚えた。
発表会に向けて練習に打ち込むうちに、うららの言葉は忘れかけていた。先生も、うららが辞めて大分過ぎていたので、もう彼女の名前を口にすることはほとんどなくなった。
クララの振り付けを、来る日も来る日も踊った。とにかく練習した。踊りすぎて足が血豆だらけになった。淡いピンクのトウシューズは、錆が付いたともカビが生えたともいえるような妙な色合いに変色してしまった。傷だらけの足が痛くて、トウシューズを履くときに涙がこぼれ落ちることもしばしばだった。 それでも、発表会本番を終えた貫奈は、いくら痛くても苦しくても絶対にバレエを踊り続けようと、強く心に決めた。それほどまでに、舞台で踊ることは魅力的だった。気の遠くなるような時間をかけて練習し、本番はほんの一瞬で終わってしまうが、その一瞬のためならどんなことでも耐えられる。そう思った。
中学二年の夏、初めてコンクールに出場することになった。
「何から何までお金がかかるのね、バレエって。余裕のある家庭じゃないと続けられないって聞いてたけど本当だったわ」
「冬のボーナス下がったしなあ。もともと雀の涙だったのに。今回は貯金を崩せば何とかなるけど、これが続くとしんどいよ、正直」
布団に入った後で、父と母がそんな会話をしているのを聞いてしまった。
参加費、コンクールのために増えたレッスン料、衣装のレンタル代、交通費、宿泊費などといったもろもろの出費は、平均より余裕のない家計には痛手だった。今だって、月謝とすぐに履きつぶしてしまうトウシューズ代で月に数万円飛んでいるのだ。
ドアの隙間から漏れてくる両親のひそひそ声は低くて暗かった。聴き取りにくい声のはずなのに、耳に吸い付いてくるような粘りがあって、いやにはっきりと聴こえた。
「……ねえ、あの子バレリーナになるとか言わないわよね?」
貫奈の心臓がどくんと大きく跳ねた。
貫奈の夢は小学生の時から変わっていなかった。将来はバレリーナになって、日本中、世界中の舞台で踊りたいと思っていた。
だが、両親にはまだ言っていなかった。
次の父の言葉に、貫奈は息を止めた。
「まさか。さすがに言わないだろ。ただの習い事を続けて食べてこうなんて……しかも芸術だろ? 無理だってわかってるはずだよ、もう中二なんだからさ」
反対されるのは、想像がついていた。だが、自分のいないところでこんな風な会話がされていると思うと、悲しくて仕方がなかった。
「うん……先生がその気にさせようとしてるんじゃないかと思って心配なのよね。発表会で主役をやったりしてて頑張ってるのはわかるんだけど、バレリーナなんて狭き門、無理よ」
「まあ今回は、いい思い出作りになるとでも考えたらいいんじゃないか。今はずいぶん熱をあげてるみたいだけど、そのうち気が済むだろう」
貫奈はうつぶせになって枕に顔をぎゅっと押し付けた。
両親の本心は、うららの時のように、いやそれよりももっと強く、貫奈の頭の中でぐるぐると回るようになった。両親の言葉が頭の中で再生されるたびに、何とも言えず暗い気持ちになる。
それでも、コンクール本番は着々と近づいてきた。このコンクールで賞を獲れば、父も母も認めてくれるかもしれない。
そう考えて、がむしゃらに練習した。
「もう、ご飯のときくらい、きちんと座りなさい! ストレッチなんてお風呂上りにでもやればいいでしょう!」
食卓に座っている間でさえストレッチをして母に怒られた。一分一秒も無駄にしたくなかった。それくらい、一心不乱にコンクール入賞を目指してバレエに打ち込んでいた。
しかし、結果は予選落ちだった。
「ごめんなさい。オーロラ姫を選んだ私の判断ミスだった。オーロラではあなたの良さは十分に出なかったのに。ダイナミックでアップテンポな踊りの方がよく似合うとは思ったんだけど……つい守りに入ってしまった。キトリとかディアナを踊っていれば、本選へ行ったでしょう」
先生にそんな風に謝られるとは思いもしなかった。貫奈は驚き、先生の言葉に異を唱えようとした。しかし、顔の筋肉が凍ったように全く動かず、口を開くことができなかった。
「そんな、とんでもございません。貫奈の実力不足ですから、そんな風におっしゃらないでください!」
先生と母が話すのを、貫奈はどこか他人事のように聞いていた。
舞台から見た客席は真っ暗だった。照明が眩しすぎて目がくらみ、何も見えないと言った方が正しいかもしれない。 跳ねるような快活な脚運びで舞台に出た。客席に自信満々の表情を向け、何百回と鏡の前で試行錯誤したポーズを決める。ほんの少しでも肘の向きが変わったり、後ろに上げた脚が落ちたりしていると、明るく堂々としたキトリにはならない。
(うまく決まった)
もちろん鏡はないので目で確認することはできないが、美しいポーズができたかどうかは体の感覚でわかる。失敗したときは関節がぴりっとして、目線がぐらつくような感じがする。反対に、成功したときは視界がぱっと開けて明るくなる。目に光がたくさん取り込まれて、体中の皮膚が一斉に呼吸する。そして、永遠に続けられると思うほど体が楽で、無理がないのだ。 視覚が研ぎ澄まされ、いつもは見えない自分のつま先や肩口が、まるで顕微鏡で見ているかのような細密さで、はっきりと目に映った。
この振付けでは、貫奈の得意とする跳躍が序盤で四回入る。
助走をつけて右足にぐっと力を込め、勢いよく床を蹴ってジャンプする。少し力み過ぎたのか、着地が雑になってしまった。二回目、三回目と続けるうちに余計な力が抜けていく。四回目は、一番高く、宙を泳ぐように綺麗に跳べた。
すとんと着地して、扇子を開いて上品にあおぐ。ここの扇子の角度と振り方も、しつこいほど研究したところだ。客席から扇子の面が見えるように動かさなければ、動きが窮屈に見えてしまう。貫奈は余裕たっぷりに、でもお姫様や女王様のように気品が出過ぎないよう気を付けながら扇子を振った。キトリは庶民の娘なのだ。
曲の調子が変わり、踊りは中盤にさしかかる。 序盤ほど動きは激しくないものの、両足を交差させたポジションとつま先立ちを繰り返すステップは、見た目以上に脚に負荷がかかる。上半身は優雅に扇子をあおぎながら、ステップを繰り返す。合間に回転をはさみ、また同じステップを続ける。ぷつぷつと出始めた汗が照明に反射してきらきらと輝いている。
(楽しいとかじゃ表せない……)
幸せだった。ずっとこのまま、照明の熱気に包まれ、無限に広がる宇宙のような舞台空間の中で踊っていたいと思った。
両腕を上に上げて連続で1回、二回、三回と回転したのち、軽く跳びながら舞台の端まで移動する。
貫奈の耳には、トウシューズが床を蹴る音と、ドン・キホーテの音楽だけが聞こえていた。 視覚と同じように聴覚も研ぎ澄まされている。主旋律だけでなく、奏でられている全ての楽器の音がはっきりととらえられた。初めて聴く音がたくさんあって、聴きなれたはずの音楽が別の曲のように感じられる。
踊りは早くも終盤にさしかかった。 右足と左足を交互に出し、つま先で床を掻くようにして進んでいく。「馬のステップ」を表すパ・ド・シュヴァルと呼ばれるこの動きは、足先だけでキトリを表現するという難しさがある。足先の動きは繊細だが、そればかりに気を取られてはいけない。上半身にもよく気を配っておかなければ、道化のように滑稽な動きになってしまう。 パ・ド・シュヴァルをしながら、顔半分を扇子で隠して客席にちらちらと目線を送る。いたずらをしているような楽しさは練習の時には感じなかったものだった。 扇子を持った右手をリズムに乗せながら上に上げていく。左手は肘の先が上に向くようにして腰に当て、だんだんと動きを大きくしていく。 貫奈は舞台中央までくると扇子をぴしゃりと閉じて、最後の回転へ向けて体勢を準備した。終着点へまっすぐ視線を定め、体の中心軸をイメージする。丹田に力が入りきゅっと引き締まる。
(これで最後だ)
貫奈の強みは運動神経の良さだと教えてくれたのは、コンクールの翌年の発表会で先生が呼んだゲストダンサーだった。
「キミ、身のこなしが素晴らしいね! 動きにキレがあるわ。小気味よくてつい目が行く踊りだな。運動神経の良さとかめっちゃ単純だと思うじゃん? でもダンサーにとって一番頼りになる武器なんだよ」
コンクールに落ちて間もないときだったので、貫奈は彼の言葉に大いに励まされた。まるで何週間もどんよりした天気が続いたあと、今日も曇り空かと朝起きてカーテンを開けたら目を見張るような晴天だったときのような、爽やかな気持ちで胸がいっぱいになった。
しかし、理解者というのは本来得難いものだ。
何の前触れもなく現れた彼は、本物ではなかった。
「へえ、あの子、松橋貫奈っていうんですか。確かに女子だとあんまり見ないくらい跳躍は高いし、踊りの雰囲気も独特だけど、あの年で予選落ちしか結果がないんじゃプロは厳しいんじゃないですか?」
次の週のレッスンに来たとき、彼が先生と話しながらそう言っているのがドア越しに聞こえた。
貫奈はレッスン場に入ろうとしてドアノブに伸ばした手を引っ込めて、廊下の壁に背中を預けた。
わかっている。自分がこの世界でプロになるのがどれほど険しい道なのか。毎日踊るたびに嫌というほど思い知らされている。寸暇を惜しまず練習しても、レッスン場の鏡に映る自分の踊りは線が硬く、優雅さや気品とは縁遠い。音楽に体が十分反応できていない、踊りがちぐはぐな印象だと指摘され続けた。録画した自分の踊りを後で見ると、一連の動きの連続性がまるでないひどい有様だった。今日も鏡に映るのは、完璧とは程遠い、醜い自分の姿だ。
そのまま座り込んでしまいたくなったが、目線を下げたとき、おろしたばかりのトウシューズが視界に入った。貫奈はひざにぐっと力を込めて踏ん張った。
右足を踏み出してひざを曲げ、そこから素早く立ち上がり、両足をそろえてつま先で床に鎖を描くようにして回転しながら進んでいく。シェネと呼ばれる回転の一種だ。
回り始めてすぐ、やってしまった、と後悔した。両足に体重を乗せる直前に勢いをつけすぎたのだ。 真っ直ぐに通した体の軸がぶれるのがわかった。ほんの少しのぶれに回転のエネルギーが加わって、上半身があらぬ方向に引っ張られる。リズミカルに繰り出すはずの足がもつれた。 転倒すると思った。
その一瞬、貫奈の意識は時間の概念と隔絶されたところへと移り、怒涛の勢いで転倒を回避する方法を探しはじめた。
貫奈は右肘に力を入れてぐっと引き、ぐらついてもつれそうになった両足を立て直した。全身にかかる大きな回転のエネルギーに負けない速さで交互に足を繰り出す。
今までにない速度のシェネ、ぎりぎりでの体の制御。
極限の集中で頭が真っ白になる。数は数えられなかったが、いつもより二回以上は多く回っていただろう。
気がつくと、貫奈は扇子を高々と掲げ、最後のポーズをとってぴたりと止まっていた。すぐ目の前には、もったりと垂れる黒い袖幕が見える。貫奈ははっとして、すぐさま後ろに上げた左脚を下ろすと、レヴェランスをして舞台袖の真っ暗闇へ再び戻っていった。
舞台袖に入った途端、体中から汗がどっと噴き出した。
貫奈は優秀賞を受賞した。
貫奈の他には、十二名の参加者が優秀賞を授与された。その他に賞を受賞したのは、第一位から第十位までの十名だった。
表彰式が終わり、人でごった返していたロビーの喧騒も段々と落ち着き始める。 貫奈は一人でホール入り口近くのソファに腰を下ろした。何気なくスマホを取り出しみると、新着メッセージが入っていた。
『優秀賞おめでとう。いい思い出になったね』
仕事中の母からだった。貫奈はスマホを鞄にそっとしまった。そして、目を閉じて心の中で五秒数え、両手でパンパンと頬を叩いた。近くを歩いていた男性がその音に驚いて貫奈の方を振り返った。 貫奈は返却された講評用紙の束が入った薄茶の封筒を開け、講評に目を通した。不思議なことに、自分が今一つだと思っていた点はほとんど指摘されず、心配していなかった点がやたらと改善すべきとしてコメントされている。
講評を読みふけっていると、頭上から「すみません」と、知らない少女の声が降ってきた。
びっくりして顔を上げると、高校生くらいの、レモンイエローのパーカーを着た少女が、にこにこと笑顔を浮かべて貫奈の顔を覗き込んでいた。
「松橋貫奈さんですか?」
「え? あ、はい、そうですけど……」
貫奈が困惑しながら頷くと、彼女は人懐っこい笑顔をさらに輝かせた。まったくの初対面のはずだが、彼女の顔にほんの少し既視感を覚えた。体型や姿勢、ぎちぎちに纏めたシニヨンでバレエをやっていることはすぐにわかる。このコンクールの出場者だろうか。
「私、あなたの今日の踊りを客席で見てて、すごく感動したんです。一番素晴らしかったです。いきなり話しかけちゃってすみません。でもこの気持ちを伝えないままじゃ帰れないと思って、つい!」
晴れやかな表情には一切曇りがなかった。ひたすらに純粋な、心の底から湧き出るような喜びがまっすぐに向かってきて、貫奈の心臓を貫いた。
貫奈はすぐには言葉を返せなかったが、彼女はお構いなしに話を続ける。
「本当に雑念がなくて、すっきりしてて、いつまでも見ていたいくらい心地よかったんです。それに、踊りを楽しんでることが、こう、ぐわーって押し寄せてくるみたいに、なんかすっごい伝わってきて、はぁー。憧れました。とにかくすっごく良かったです!」
かなり興奮していて一気に喋っている。貫奈はその勢いに圧倒され、しどろもどろになりながらも礼を述べた。
「ありがとうございます。あの、あなたも、このコンクールに?」
「はい! 私、神田晴良っていいます。バレリーナを目指してます。あなたも、ですよね」
一瞬だけ迷った。
高二になって中規模のコンクールで上位入賞できない自分が、このままバレリーナを目指し続けるのは身の丈に合っていないのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
しかし、貫奈は晴良の問いかけにこくりと頷いた。
晴良は微笑んで、
「一緒に頑張りましょう。またあなたの踊りが見られるのを楽しみにしてます」
それだけ言うと、新幹線の時間がもうすぐだからと慌ただしく去って行った。
しばらくの間、貫奈はその場に留まって、彼女から受けた賛辞を反芻した。あれほどまでに熱烈な感想を伝えられたのは初めてだった。自分の踊りが、誰かの心を動かしたことが嬉しくて、顔がほころぶ。
(あの子の名前、神田晴良って言ったよね)
そこではたと気づいた貫奈は、目を大きく見開いた。神田晴良は、第一位の受賞者だ。
自分より遥かに優れた踊り手が、自分の踊りを絶賛してくれた。貫奈は自分の身に起きたことがうまく呑み込めず、天井を眺めて放心した。
飴玉のように大粒の涙があふれ出し、頬を伝ってこぼれ落ちた。
貫奈の頭の中に、先月亡くなった、先生の声が響いた。
『貫奈には才能がある。よく知らないのに、無理だとか決めつけないでちょうだい。あの子はこのまま諦めさえせずに精進し続ければ、必ず素晴らしいバレリーナになる。信じ続けられることこそが才能と呼べるのだから』