2
どれくらい走ったことでしょうか。猫はいつの間にか知らない土地に迷い込んでいる事にきづきました。見慣れていたビルや木造で作られた民家などはどこにもなく、見渡せば暗い森林が生い茂っている中にぽつんと自分しか見当たらず、辺りを見渡して森の中を見ても、暗闇で何も分からないので、猫は更に不安が心を締め付けました。暗い森は二度とその場所から出て来られないかのような雰囲気を漂わせていました。
猫は街の外にこんな場所が存在していた事を知りませんでした。しかも猫が必死で追っていた美しい蝶は、いつのまにか何処かに姿を消してしまっており、猫は見失ったのだと気づきましたが、それでも蝶の手がかりを求めて森の中を歩き回りましたが、美しい鱗粉や蝶の飛んだ痕跡すら見つける事ができません。
猫は不安になりました。普段から猫は一匹ぼっちでしたので、孤独には慣れていたはずなのですが、今は来たことも見たこともない、見知らぬ場所にたった一匹しかいないのです。
不安が胸を締め付けました。辺りは風が木々をざわめかせ、虫はりんりんと音を鳴らし、草花がかすかに揺れる葉音などの、自然が奏でる音も今は孤独という不安を膨らませます。
「実は森には何か得体のしれない、凶暴な動物がいるのではないだろうか?」
猫は不安を紛らわそうと、口に出して気持ちを和らげようとしましたが、今の状況ではあまり役にはたちませんでした。
じっとしていて何も始まりませんでしたので、猫は意を決し心を奮い立たせ、蝶の辿った痕跡を探す事に決めました。
微かな手がかりも見落とさないよう、猫は蝶が通りそうな場所を必死で探し、森に生い茂るツタをかき分け、蝶が羽を休めそうな花を丹念に確認し、蝶の鱗粉がついていないか隅々まで調べましたが、蝶の痕跡は1つも見当たりませんでした。
“その時には ”既に蝶を完全に見失ってしまっていたのです。
猫は更に途方にくれ、近くにあった切り株の上に座ると、またボロボロと泣いたのでした。
「あなたっておかしな猫だね」
突然吸い込まれそうな、空の闇から声がしました。空からまたあの美しい鱗粉が、猫の上に落ちてきました。闇の中から聞こえてきた声は、まるで異質な声質で、猫は初めて聞く音に驚き、体を固くさせこわごわと辺りを見回しました。猫に落ちてきた鱗粉は、濡れて固まった猫の毛に落ちてピカピカと輝かせています。猫は驚いて、声のする方を見上げました。すると、近くにあった身長の低い木の葉に、先ほどまで追っていた蝶が止まってこちらを見ていたのでした。
「ねぇ、猫さん。あなた、ずっと私を追いかけてきていたでしょ。空を飛んでいた時に、ガタンバタンと、塀や色んなものにぶつかるし、猫のくせに地面に体から落ちるし、変な猫だ!おかしいって、空を飛ぶ退屈な気持ちもどこかに消えていたわ。おかしな猫だね」
蝶はふわりふわりと、近くに咲いた花の上に降りてきて、ねこをまじまじと見ながら、楽しそうに喋ります。
「汗でビショビショになりながら、おかしな猫に追いかけられたら怖いでしょ?何この猫!怖い!と思いつつ、空を飛ぶのも暇になっちゃったし、鱗粉は勝手に舞うし、とにかく暇だったから、何か面白くなっちゃったの。だから途中から適当に飛んで様子をみてた。あなたおかしな猫ね」
猫は緊張のために、どんな言葉を返していいのか分かりませんでした。それもそうです。猫は今ままで、他の猫から意地悪な言葉を言われるしかありませんでしたし、優しい言葉を言われることなど無かったので、無言で気にしていない振りをして、立ち去ることが多かったのです。初めて普通に、しかも対等に喋ってくれるこの蝶を前にして、何を話せばいいのか分からずに、緊張していたのでした。しかも、自分は猫で相手は蝶で、種族が違うものに喋りかけられるのなんて初めてだったのですから。
猫の身体からまた汗が吹き出ました。周りの木々と草花が、さわやかで、涼しげな風がふいてきますが、緊張した猫にはそれすら流れる汗の原因にしかなりませんでした。
猫は震えながら蝶に喋りかけました。
「綺麗でつい追いかけてしまったんだ」
蝶はくすくすと笑いました。
「やっぱりおかしな猫だね。初めて会った時にそんな事を言ってきたの、猫や蝶や色んな虫達でも初めてだ。やっぱり君って、面白いおかしな猫だね」
と、言うやいなや、ふわふわと、猫の頭の上に蝶は腰掛けて、羽をたたんでふふふんと得意気に笑いました。
「私の名前はメイプっていうんだ。おかしな猫さんのお名前は?」
名前を聞かれた猫ははてと答えに困りました。というのも、名前というものが無かったのです。親猫すらどこにいるのか分からなかったので、名前というものの事を考えたことも、何かにつけようとした事もありませんでした。名前はそこにあるものだと思っていたのです。ですが、ニコニコと笑顔で、蝶のメイプは答えを待っていますし、猫は名前がないと言ったら話が途切れてしまうのではないか、嫌われるのではないかと焦ってしまい、口を開くことができず、何も喋ることができずに、そのまま黙ってしまいました。
蝶には明らかに動揺し焦っているのが手に取るように、仮に他のものでも分かったことでしょう。蝶はふと、笑顔のまま、真剣な眼差しになり、猫の目をじっと見つめました。
「もしかしてあなた名前がないの?」
猫は気恥ずかしく申し訳ない気持ちで、名前はないと低い声で答えました。誰もつけてくれた事がないとも。
蝶のメイプは真剣な表情になると、パタパタと羽をばたつかせて、猫の周りをとんで何かを考えています。ふと、蝶のメイプは何かを思いついたように、また頭の上に降りて羽をたたんで、猫の方を向きました。
「記念に私がおかしな猫さんの名前をつけてあげる。汗でビッショビショだから、ビショって名前はどうかな?すごく似合っていると思う。おかしな猫さんの名前はビショね!」
猫はビショという名前は、あまりいい名前だとは思いませんでしたが、自分の名前を初めて考えてくれた、しかも蝶のメイプが名前を考え決めてくれたという事が嬉しくて、いいよと頷きながら答えました。
「私は、メイプ。メイプというの」
とても良い名前だなと猫は思いました。
「実は僕はこんなんだから仲間、他の猫とも喋ったことがないんだ。まともに口を聞いてくれたのも、メイプ、君が初めてなんだ。だからさっきから緊張して、酷く胸がドキドキして、何を喋ったらいいのか分からなくて、思いついたまま喋っているんだ。僕は変なことを喋っているだろうけれど、それくらい緊張しているんだ。何度も言うけれど、生まれてから仲間にすら嫌われていたし、僕はずっと一匹だったから」
ビショは同じ事を繰り返して喋っているのにも気づかずに、ただ頭に思いついたままの言葉を発するのが精一杯でした。メイプは空を飛びながら、何かを考えているようでした。ふと思いついたように、ビショの鼻に着地すると、器用にビショの小さな鼻を歩き回りました。ビショは嬉しい気持ちの反面、あまりに頭のてっぺんを歩き回るものですから、くすぐったくて仕方がありませんでしたが、嬉しい幸せな気持ちが膨らんでいたので、止めることはせずに我慢していました。ビショがくすぐったい気持ちを我慢しているのに気づいたメイプは悪戯っぽく笑い、わざとちょこちょこと鼻の上を歩きます。ビショはそれも我慢して、メイプは更にまた鼻の上を歩きまわります。
「ビショが他の猫に嫌われているのはそんなに辛いことなのかしら。まぁ、私は嫌ってないってだけでいいんじゃないかしら」
メイプの言っている事が何でも、ビショには幸せな気持ちにさせました。ですが、どこかで何かがこみ上げてくるような気持ちにもなりました。ビショはこの変な気持ちは何だろう、きっとメイプが言うことが嬉しいからだろうと無理矢理に納得させ、また、メイプが近くにいて、姿が目にうつった時にはどうでもよくなってしまったので深く考えませんでした。
「僕はメイプの事が知りたいんだ」
メイプは「ふふ」と笑いました。
「私の何が知りたいというの?私が生まれてからずっと蝶で、ずっと空を飛んで、勝手に鱗粉は飛んで、花から草へ、恐ろしい蜘蛛の巣を避けながら、空を飛んで、そんな私の何が知りたいのかしら。色々な出会いもあったけれど、そんなに長いお話をしたら、私の命が尽きてしまうかもね」
メイプはパタパタとからかうようにして、びしょの湿った鼻の上をくるくると回っています。
「そんなに綺麗な体で、とてもうらやましい」
メイプの色は間近で見ればみるほど色彩豊かで、桃色と黄色で彩られた体には、間近で見れば見るほど、羨望が沸き起こってくるのでした。
“こんな美しい色をした猫になれれば、僕も嫌われなかったのかな……”と、また屋上にいた時のような卑屈な気持ちが込み上げてきました。しかもメイプはとても快活で、心でさえも色彩豊かにできているように感じられるので余計にビショと呼ばれた猫の心にある影を浮かびあがらせました。