8曲 憧れ
「河川敷を、あの橋で折り返してきて。じゃあ、よーい……スタート!」
♢♢♢
「こんにちは」
その日、部室に入ってきた絃先輩は、なんだか様子がおかしかった。いつもより集中力がないというか、合唱に心が入っていないというか。
「何か、ありました?」
「あ、ううん、なんでもない」
6月のテストの結果でも悪くて落ち込んでいるのかな、と思い、私は何も言わなかった。
もう7月も中盤なのに。
「ありがとうございました~」
部活が終わり、全員が部室から出て行く。
絃先輩は、はぁ…とため息混じりの息をついて、家へ帰って行った。
「────?」
「奏ちゃん、帰ろう」
「あっ、うん…」
七歌ちゃんに促され、気にかかりながらも合唱に満ちた日々は過ぎていく。
そして、一学期の終業式の日になった。朝練の発声練習で、気合いを入れる。
「みんな、行くよ!」
「音宮中合唱部─────!」
「「レインボー、ミュージック!!」」
きっと成功する。そう信じて。
「それでは、合唱部と吹奏楽部、演劇部の激励会を始めます。その部活の代表は、登壇してください」
生徒会の司会の人がそう言い、吹奏楽部と演劇部の部長が登壇する。それぞれ一礼し、話し始めた。
「おはようございます。吹奏楽部です。私たちは、夏休みに行われる、吹奏楽コンクール地区予選に出場してきます。暖かい応援を、よろしくお願いします」
「おはようございます。演劇部です。私たちは、7月、8月に行われる、演劇発表会、演劇部中文連に出場してきます。応援、よろしくお願いします」
ぱちぱちぱち…と拍手が起こる。部長2人は降壇し、入れ替わりに私たちが登壇した。
響先輩が一礼して話し出す。
「おはようございます。合唱部です。私たちは8月8月に行われる、全国音楽コンクールA地区予選に出場します。そして、今から演奏する曲は、その課題曲です。それでは聞いて下さい」
「みんな、行くよ」と先輩が合図を出す。
そして────────。
♪~下弦の月があんなに輝くように
歌い出し。いつもとはなんだか勝手が違う気がして、ふっと力を抜く。その時気付いた。
声が、響いていかない…!その初めての感覚に、私の声は後ずさる。けれど、迷惑をかける訳にはいかない。必死に声を出して、歌う。
歌うことが、こんなに苦しいなんて。
「─────っ」
「───!………のねだるくせ───」
絃先輩が詰まった。が、響先輩の見事なフォローによってそれは杞憂に終わる。
まずまずの成果で、終業式の発表は幕を閉じた。
「そっかそっか。本番慣れしてないっていうのが大きいかな」
放課後練習で、すずさんはそう言った。
けれど、ミスをしたところはいつもならすぐに修正する絃先輩が、それをしないのが引っかかった。どうしてだろう。
響先輩に甘えているなんてことはないと思う。なら、何故。
「響先輩」
「奏ちゃん、どうしたの?」
「あの、最近…絃先輩の様子がおかしい気がして…」
絃先輩の目を盗み、私は響先輩に告げる。
コンクールの地区予選、こんなギクシャクしたままは嫌。
「うーん…急に私と奏ちゃんのパートが変わっちゃったから調整してるんじゃないかな。奏ちゃんは気にしなくて大丈夫だよ」
「あ……はい」
「うん、いい子いい子」
わしゃわしゃと無機質に頭を撫でられる。
「────絃……」
響先輩の小さなつぶやきは、私には聞こえなかった。
翌日。
夏休み初日。爽やかな晴天で、夏の訪れを感じる。セミがところどころでミーンミーンと鳴り、向日葵がめいっぱいに太陽の光を浴び、青々と草木が生い茂っている。
私たちは開け放った窓から流れる涼しい風と蒸し暑い陽気が対立する部室で、半袖短パンのジャージ姿で並んでいた。
「今日から夏休みです。私は仕事があるから、頻繁には顔を出せないけど、すずさんと一緒にしっかり練習に励んで下さい。コンクールに向けて、頑張りましょうね」
「「はい!」」
音香先生が部室から出て行く。私たちはすずさんが来るまで各々、首もとの体操や発声、腹筋背筋をして自主練をする。
「ねえ絃、ちょっと」
「響?」
絃先輩の手を強引に取って、響先輩は部室の外へと出て行く。絃先輩はその急さに驚きつつも、嫌がることはなく響先輩に続いて廊下へと出て行った。
♢♢♢
奏ちゃんに、絃の様子がおかしいと告げられた。終業式、確かに彼女にはミスがあった。でも、それだけで様子がおかしいと思うのか。
私は夏休み初日、強引に絃を廊下に連れて行った。
「─────絃」
「何?」
「…何かあった?」
徐に私はそう聞いた。でも、この質問が間違いになるなんて私はまだ分からなかった。
「…響には、関係ないよ」
「でも」
「響」
絃が、それ以上詮索しないでという目線を私に向ける。
「………ごめん」
私はそう言い残して再び部室へと戻った。
絃は、その場に立ち尽くしていた。
そして、場面は冒頭に戻ってくる。
「河川敷を、あの橋で折り返してきて。じゃあ、よーい……スタート!」
すずさんの合図で、9人が一斉に河川敷を走り出す。ゴール地点は2つ後の青と白の至って綺麗な橋。律歌ちゃんや奏ちゃん、音葉、凛は快調にぐんぐん飛ばして走り、七歌ちゃんと琴は自分のペースでゆっくり走っている。
どこかから吹く風が心地よい。
「───絃、あのさ」
私は少し前を走っていた絃に追いついて、絃に話しかける。
「何、響」
「最近、何かおかしくない?」
「だから、絃には関係無いって」
「絃!」
丁度1つ目の橋の影に差し掛かる。日陰で絃は立ち止まって、私は日なたで止まる。
「私は、響とは違うの!だからほっといて!」
「え……?」
思ったものとは全く違う返しに、私は戸惑う。絃はこっちを向いて、私が伸ばしかけた手を拒絶する。
「響はいいよね。どのパートも出来て、声も出て、歌も上手いし、音だって正確。技術だって誰よりも洗練されていて、すごく綺麗」
「絃?」
「でも、私は、私はそうじゃない!私は3年間ずっとアルトでやってきた。なのに、ぱっとこっちに来た響に、あっさり追い抜かされた!悔しい訳無いじゃない。どれだけアルトの声を、質を、技術を磨いてきたと思っているの。なんでも出来るあなたが羨ましい。私は、入部した時から響に………」
絃が言葉を詰まらせる。私は途端に申し訳ない気持ちで心が満たされて口を噤んで俯いた。
「…………憧れてた」
「憧れ」
絃の本心を聞いた気がして私は黙る。そんな風に思われていたのは嬉しい。嬉しい……のに、物凄い申し訳ない気持ちで、心臓が押しつぶされてしまいそうだ。
「あっ、響せんぱ………」
奏ちゃんが私たちに気づき、そっと止まる。
それに続いて、先頭組が次々に静止した。
「絃、ごめん。約束も守れない、心も傷つけるような友達で……部長で、ごめん。本当に……ごめんね」
「─────違う」
絃は首を振り、力なくうなだれる。
「私がいてほしい響は、そんな響じゃない」
「えっ…」
「凛を連れ戻したり、奏ちゃんを支えたり、しっかりしていて、皆を引っ張るのが、響。私はそんな響を見守って、そして後ろからそっと背中を押す。それだけ。だから、そうやって私に謝る響を…私は見たくないな」
「絃」
ん?と絃は首を傾げた。とっさに身体が前に出る。腕が彼女の細い身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう、響。コンクールまであと少ししか無いんだよー。甘えてたらだめだぞー。また……わたし…にそうやって、響ー、泣かない、泣かない────っ………ありがと、響」
ぽろぽろと、大粒の涙が溢れる。私はこんなにも絃に大事にされていた。憧れられていた。私を親のように心配して、支え、ずっと背中を押してくれていた。
琴でも、凛でもない、絃が。ずっと。
私を慰める絃の声が、だんだん細く、脆く嗚咽が漏れて、ぐす…と鼻をすすっていた。
照りつける太陽は、私たちの涙を空へ飛ばす。
「行こう。みんなが待ってる」
「うん」
もう一度駆け出した私たちの瞳に…涙は、ない。少し前を走る絃が一瞬だけ振り向いて、力強く言い切った。
「取ろうね、金賞」
「────うん」
爽やかな晴天は、私たちのわかだまりを溶かし、青春の1ページを刻み、新たなページが描かれていく。
歌は広がる。人の心に響いていく。