3曲 私は知ってるよ
「部活、何にするか決めた?」
一人の女の子が、廊下でもう一人の女の子に話しかけている。
私的にも一般的にも、それはよく見る光景なのだけれど、その子は少し様子が違った。
「ううん、まだ……」
そう答えるのは、隣のクラスの子。名前までは知らないものの、割と小さく低めのツインテールが特徴で、移動教室の時なんかによく見かける子だ。
「あっ、もしかして」
「え?」
「────」
小声で喋ったそこの部分は分からなかった。でも、部活だったら可能性はあるのかな……とも、少しだけは期待してしまう。
その子はびっくりして後ずさり、ぶんぶんと首を横に振る。
私はそのまま教室に入った。その後の一言を、聞かずに。
「私に、合唱なんて………」
♢♢♢
これは、私が知る由も無いお話。
私───清谷七歌の脳裏に蘇るのは、小学校に入りたてのあの頃。夏の晴れた日のこと。
「お前、よええなー!」
「お姉ちゃん……」
「あんたたちー!!」
男の子たちに虐められて、私はしゃがみ込んで、泣いていた。スカートの裾は土で汚れ、膝には赤くすりむいた傷がある。ぼそぼそと姉のことを呟きながら。
「七歌!」
「お姉ちゃん…」
「げっ、逃げろ!」
男の子たちは、姉の姿を認識すると逃げていく。お姉ちゃんはしゃがみ込んで泣く私を立たせて、土をほろってくれた。
私はそれを申し訳なく思いつつ、姉に最大限の感謝をしていた。
「帰ろう」
「うん!」
歌いながら、私たちは手を繋いで、家へと帰った。
家についてからすぐに、お姉ちゃんは私の傷を消毒して絆創膏を貼った。
そして、自分の筆箱から何かをおもむろに取り出して、ひらひらと揺らし、私の興味を引かせる。
「七歌、これを使って」
「ペン?」
そう言って私に差し出してきたのは、スイーツの絵柄が描かれた赤いペン。お姉ちゃんは身振り手振りで、強引だけれどわかりやすく、私にペンを理解させる。
「そう。七歌を悪者から守ってくれる、魔法のペン!これがあれば、あんな子たちには負けないよ!」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
ぱぁっと笑顔になった私に、お姉ちゃんはぎゅっと自分のお気に入りの赤ペンを握らせた。
♢♢♢
「あの!」
隣の教室の子が、部活に行こうとしていた私に話しかけてきた。もじもじしながら、顔を赤く染めて、私に話しかけてくる。
「は、はい」
「合唱部、に入ったんですか?」
「そ、うです」
沈黙が広がる。遠くからは、先生たちの「早く帰れよー」という声が聞こえる。たどたどしく答えてしまう私は、その子にそっと聞き返した。
「名前は?」
「え…」
「名前、なんて言うの?」
名前を聞いてみる。
「七歌です」
「七歌ちゃん、よろしくね!」
ぐいぐいと押す。と、そこにこの間七歌ちゃんと話していた子が歩いて向かってきた。
「お姉ちゃん」
「七歌ちゃんのお姉ちゃん?」
二人の顔を見比べる。確かに、鼻筋から口の辺りや輪郭が似通っている。目元は、七歌ちゃんがたれ目っぽくて、七歌ちゃんの姉は少しつり目がち。
七歌ちゃんの低い位置のツインテールとは違い、さっぱりとした短い髪。
その人は、七歌ちゃんに問いかけた。
「七歌、部活は決めた?あと、その子は?」
「は、初めまして!七歌ちゃんの友達で、合唱部の星永奏です!」
私は深々と頭を下げる。顔をあげると、七歌ちゃんのお姉さんはにこりと笑った。
「七歌の姉、律歌です。妹がお世話になってます」
ぺこりと頭を下げられて、よくある親同士の会話っぽくなる。笑いながら、私は内心ばくばくしながら答えた。
「合唱部って、言ってたっけ」
「あ…はい!」
「妹を、いれてあげられないかな?」
お姉ちゃん!と七歌ちゃんが止めに入る。でも、律歌先輩は彼女のことなぞつゆ知らず。
「七歌は、ずっと歌うことが好きでした。でも、引っ込み思案な性格で、ずっと私に遠慮していて……
あなたなら、彼女をどこかに連れて行ってくれそうだから」
七歌ちゃんがさっきよりも顔を赤く染める。恥ずかしさと、嬉しさなのだろうと予想する。と、律歌先輩ははにかんで、彼女の手を取った。
「ちゃんと、言いに行こう」
七歌ちゃんは、その言葉に躊躇いながら、「うん」と頷いた。それは、七歌ちゃんがきっと、勇気を出して下した決断。私に限らず誰もがそれを、祝福したいと思うだろう。
♢♢♢
「入部希望の子?」
「はい、七歌ちゃんっていう隣のクラスの子です」
一足先に部室に行った私は、2人のことを説明する。先輩たちは「そっか」と頷き、私は2人を招き入れる。
「お姉ちゃん……」
俯く七歌ちゃんに、律歌先輩はぐっと肩を掴む。強引に上を向かせて、律歌先輩は口を開いた。
「私は知ってるよ」
律歌先輩が、七歌ちゃんに諭す。
「あなたが、ずっと歌いたいと思っていたこと。歌が、大好きだということ。
ここに、合唱部があることを知って、ずっと前から入部を決めていたことも。
密かに練習していましたね。努力は、無駄になんてなりません。あなたのしてきたことは、これから役に立つ。
合唱の知識が無くったって、大丈夫。
やりたいことを、やりなさい。」
「お姉ちゃん………」
2人が私たちに、向き直る。
「私、1年C組の清谷七歌って言います。人見知りで、優柔不断で、歌だって下手です。でも……」
口ごもる彼女の肩を、律歌先輩はそっと手で押し出した。
涙が弾け飛んで、反射的に七歌ちゃんがまっすぐ前を向く。
「歌うことは、他の何にも負けないくらい大好きです!…だから、だから私を、合唱部に入れて下さい!」
そう言ってお辞儀をする彼女に、響先輩がそっと手を差し出した。
「あ………」
七歌ちゃんは、その手を取って握りしめる。
ぱっと笑顔になって、律歌先輩の方を見た。姉としての、綺麗な喜びを表したような笑み。でもどこか、寂しげな笑み。
「お姉ちゃん…」
「律歌先輩!」
私は前に出る。
彼女に向けて、手を差し出した。
「律歌先輩も、やりませんか?」
「私が?」
「お姉ちゃん」
一歩成長した七歌ちゃんは、敬愛する姉に、一本のペンを差し出した。
「お姉ちゃんのペンは、もういらない」
「七歌…」
「でも、お姉ちゃんと合唱がしたい」
そのペンを取って、律歌先輩が笑う。
さっきとは違う、満面の笑みで。博愛する妹の成長を、誰よりも喜んで。
「七歌、ありがとう」
♢♢♢
「高いのに澄んでいて綺麗!」
「えへへ、ありがとう」
照れながら、七歌ちゃんは楽譜で顔を隠す。姉妹揃ってソプラノと判断され、妹の七歌ちゃんに関しては「澄んだ良い声」と響先輩は評した。
「一旦全員で通します」
「はい」
ぱんぱん、と手でリズムを取る。
「1、2、3」
………
「はい、ストップ」
今のハーモニーは、綺麗に行った気がする。
カデンツというハーモニー。和音で表された短い音で、女声合唱でリズムが合えばそれは美しい空間を作り出す。
「うん、いい感じだね」
「これなら、来月は大丈夫そうね」
響先輩の声に続いて聞こえる、大人の女性といった声。ドアの方を見れば、そこにいたのは……
「音香先生」
「早いけれど、少し良いかしら?」
長い妖艶な髪を一房耳にかけて、お洒落でびしっと決まった格好で部室に来たのは、部活顧問の音香先生。
音楽の先生ではないけど、私たちにはとっても親身に優しく音楽のことを教えてくれる先生。
「なら、ミーティングにして今日は終わります。大事な話のようですし」
「そうしてくれると助かるわ」
にこっと音香先生が笑い、私たちはその場に整列する。
「気をつけ。これから、合唱部のミーティングを始めます。礼!」
深く礼をして前にいる響先輩と音香先生を見る。まずは互いの反省を言ってから、先生の話に移る。
大事な話って、なんだろう?