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2曲 私だって歌いたい

 静謐な時間がゆったりと、彼女を夕日が照らして過ぎていく。


 透き通る低音はよく響き、部屋いっぱいまで私の奏でる言葉が広がる────。



♢♢♢




 誰かいる。


 私、奏は中学生になり、小学生の時に見た、あの歌声に憧れて合唱部に入った。

 そして今、授業が終わって部室に入ろうとしている。


 ドア越しにうっすらと聞こえるのは、きっとアルトの音域だろう。

 安定していて、でも透き通るような、凛々しい歌声。



「あ………」



 聞きほれていた人影の視線がこっちを向く。



「ごめんなさい」



 がたりとドアを開けられ、高い位置で結んだサイドポニーテールの伏し目がちな横顔をした綺麗な人が、急いで去っていく。

 一瞬こっちを向いて、「しーっ」と口の前で人差し指を作って、また早足で歩き去っていった。



「あ、奏ちゃん早いね!」


「心音先輩、こんにちは」



 メゾの2年生、心音先輩。

 ふわりとした声をしていて、話している時の高い声とは裏腹に、メゾの中音域で勢いのあるその声はその雰囲気を全く逆のものに感じさせる。


 それから他の先輩たちも集まった。

 そして、休憩中。



「誰かが部室(ここ)で歌ってた?」



 はい、と頷く。

一人で秘密にするのもなんだか嫌で、私は先輩たちに話した。



「────・・・」


「誰か心当たりありますか?」



 心音先輩は、ううんと首を横に振る。

けれど周りはなんだか静かに、誰かの声を待っている気がした。



「凛じゃないの」



 響先輩の声で、急に重々しくなる空気。

と、絃先輩が慌てて「ちょっと響!」と止めに入った。


 けれど、尖った氷のような響先輩の声はまだ冷たい風のように他の5人に突き刺さる。



「問題を起こして、去年辞めた3年生。」


「えっ、そんなのまた合唱部に誘って…」


「そんな簡単なことじゃないの!」



 私の提案に心音先輩が立ち上がり、その柔らかな声を荒げる。



「…ごめんなさい…」


「あ…ち、違うの。ごめん、奏ちゃん」



 心音先輩が俯いて黙り込む。



「はいはい、この話は終わり」



そう響先輩は手を叩きながら、険悪な雰囲気を断ち切るように練習を再開させた。




♢♢♢




『凛、やめなさい!』


『響………』



 私は、顔を強ばらせて響に掴まれた右手の力を抜いた。

 心音の頬は赤く腫れ、その場で放心したように私だけを見つめている。



『自分が何したか、分かってる?』



 自分が映りこむ響の瞳で、私は彼女から、そう心に問われた気がした。



『後輩を、叩いたよね』



 そう、言われる。わかってしまうのはテレパシーか何か……なのか。彼女の思いが、掴まれた腕ごしに分かるような、そんな気がした。


 だから私は、これだけを言った。

それ以上言えば、私が爆発してしまいそうだったから……


『……私に合唱、やる資格なんて無いね』



 私は言うだけ言い残し、自分のリュックを背負って部室から走って出て行った。立っていた所には、ぽた…と一粒の涙が落ちていた。


 廊下には誰もいなくて、私は憚ることもなく泣いた。声を上げて泣いた。


 それからすぐに、顧問の先生から「やめた」と告げられた時、心音は自分を責め立ててやめようとしたらしい。

 しかし、新たに部長となった響は、絶対にそれを許さなかった。



『凛があなたを叩いた。それは、理由がどうであろうと凛が悪い。』



 「凛」という少女が、そんなことをするはずがないと、心ではそう思っているのに───。



♢♢♢




「あの!」



 数日後、私は凛先輩の元へと向かった。

3年C組にいるサイドポニーテールをしている先輩。横顔は綺麗に整っているけれど、この間の歌っているときの生き生きとした表情は、先輩にはまるで無かった。



「あ、この間の」



 そう言って凛先輩は、他の先輩に見られないように、手を引いて、私を校舎の裏へと連れ出した。



「どうかしたの?」



 優しい微笑みで、でも氷が張り付いた笑みで私のことを見ている。



「あの」



 私は、緊張と空気に負けじと声を出す。



「いいんですか、合唱」



 凛先輩は、驚いた顔を浮かべて「うん」と頷いた。「でも…」と言いかけた私にゆるゆると首を横に振り、口を開く。



「私が合唱をする…理由が無い」



 理由…「りゆう」…その三文字が反芻する。



「奏ちゃんにはあるでしょ?」



 合唱をする…

途端に私は何も言えなくなり、逃げるようにその場から足早に去ってしまった。


 分からなかった。その言葉が。


 凛先輩が、「ほらね…」と寂しげに呟いていることになど、全く気付かずに。



「理由……」




♢♢♢




「理由?」


「私には、無いかな」



 先輩は揃って「好きだから」と答える。

私はう~んと頭を抱える手振りをして、心音先輩をちらっと見つめる。



「えっ、私?」



心音先輩は少しだけ考えてから、その声をはっきりと聞こえる大きさで言った───。




♢♢♢




「凛!」


「凛ちゃん!」



 凛先輩が振り返った時、そこに居たのは響先輩と心音先輩。

 サァ……と鋭い風が、梢を揺らしている気がした。



「合唱に、理由なんて要りません!」


「………っ!」



 心音先輩が、彼女に心をぶつける。まさに、心の音を。凛先輩は揺さぶられるように俯いた。



『私には、理由なんて無い…かな』



 心音先輩が言ったその言葉は、全員に鋭く、ぐさりと突き刺さった。

 そして、それはきっと凛先輩にも───。



「凛、本当にやりたいことには、理由なんて必要ない…!」


「もう一度、もう一度、私たちと歌いませんか!」



 響先輩と私が、そう言って手を差し出した。

 凛先輩の綺麗に束ねられたサイドポニーテールが、春特有の生暖かい風でなびいていく。


 私たちは後ろから、心音先輩の肩をそっと押して、彼女だけを前にする。



「皆…」



 私たちに気がついた凛先輩は、涙を見せないように前を向いた。



「…たい………」



 聞き取れない言葉に、全員が耳を澄ます。



「私だって歌いたい!」



 ぐるりとこっちを向いて、大粒の涙を顔に伝わせる。生暖かい春風が、止む。



「連れ戻しに来てくれるのを、ずっと待ってた。でも私が、取り返しのつかないことをしてしまったから、自分が悪いって。

 でも、やっぱり合唱は好きなままなの。このメンバーで歌うことが大好きなの。自分勝手なのは分かってる。

 でも、響と、絃と、琴と心音と……皆で歌いたい、歌いたいよ………!」



 心からの叫びが、心音先輩に届いていく。

膝からゆっくりと崩れ落ちた凛先輩の涙を乱暴に拭って、心音先輩は彼女を抱き締めた。



「そんなの……ちゃんと言ってよ……!

 凛ちゃんが真剣に合唱してることなんてずっと前から知ってた、分かってた!

 私はそんな凛ちゃんに憧れた!奏ちゃんだってそうだよ、この学校の響かせる声に惹かれて。私が今、大好きなものは、ほんのちょっとの勇気と、誰かへの憧れで始まったの!

 合唱を始めたのは、凛ちゃんに憧れたから!でも、凛ちゃんのようには出来なくて、凛ちゃんは辞めて…私なんか、いる価値なんて無いと思った!

 ………それでも今、私がここにいられるのは、凛ちゃんのおかげなの…!!」



 泣きじゃくる心音先輩に、凛先輩は一筋の涙を流して、頭を撫でて言った。



「心音…ごめんね……」



 翌日。



「凛、このAからCまで出してみて」



 響先輩の声に、凛先輩は厳かに息を吸い上げて、声を響かせる。長らくやっていないから、声が出ないな…としょぼんとしていたのも束の間。


 ───すごい声量!!


 アルトの固い低音ではなく、清らかで柔らかく包み込むような響き、ふわりと軽く広がるような高音も綺麗!



「凛!」



 響先輩の声に、びくっとしつつ楽譜に思ったことや参考になりそうなことを書き込んでいく。



「そのファの音はシャープついているけど」


「調和を高める為に、もう少し高く、ね?」


「……そう!」



 響先輩の言うことを分かっているなんて、と目をキラキラさせながら、笑いあう二人を見ていた私に、心音先輩はこそっと呟いた。



「あの二人、本当はすごく仲良いんだよ」



 その言葉には納得するものの、一つ気になることがあった。



「心音先輩は凛先輩のこと、凛ちゃんって呼んでいましたよね?」


「あはは、私たち、幼なじみなの。私が2歳の時にこっちに来てね。中学校に入ったら先輩呼びて決めてたんだけど……」



 えへへ、とはにかむ心音先輩が可愛らしい。

───と、凛先輩の声が響き渡った。



「さぁ皆、合わせるよ!」


「はいっ!」



 片手を思い切り上にあげて、立ち上がる。



「っとと!」



 勢い余って転びかけ、部室中に笑い声が溢れ出す。


 けれど外では、新たな波乱を求めるような、不穏な風が吹いていた。



「───……」



 ────廃部阻止まで、あと1人。

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