タラチネノ母ノ命ヲ一目見ン
『サンフランシスコ行きの飛行機は霧の為、運航を停止しています』
ラスベガス空港に着いた途端のアナウンスに、文彦は焦った。一刻も早く帰国したいのに、霧でサンフランシスコ空港がクローズしているのだ。
『サンフランシスコが駄目なら、ロサンゼルスで乗り換えたい』
慣れない英語で、今日中に日本に帰らないといけないのだと空港カウンターに文句を付けたが、売り切れだと素っ気なく告げられる。
『母が危篤だと連絡があって……』
カウンターの係は、気の毒そうに肩を竦めた。
文彦は病気の母を置いて、ラスベガスに視察を命じられた我が身の不幸を嘆いた。カジノを合法化したいと言い出した市長に心の中で悪態をつく。ロサンゼルス便も満席だが、キャンセルが出るのに期待をかける。
受け付けカウンターの雑踏を離れて、携帯で妻に事情を説明する。
「喪主が留守だと困るわ」何気ない言葉が突き刺さり、まだ死んでないだろう! と声を荒げてしまった。
「ごめん、悪かった」と、病気の母の看護をしてくれている妻を労う。
「疲れているだろうけど、一刻でも早く帰国するから」
危篤の母の耳に携帯を当ててもらう。
「お母さん、文彦だよ! 直ぐに帰るから、待っていてくれ」
妻に、呼ぶべき親戚の名前を告げて、携帯を切った。空港の堅い椅子に座って、苛々と時計を見つめる。サンフランシスコから関空への飛行機に間に合うのか? ロサンゼルスからの飛行機には空きがあるのだろうか?
『サンフランシスコ行きの搭乗手続きを致します』
アナウンスでサンフランシスコ行きが運航し始めたのに気づいて、有り金を叩いて、チケットを交換してもらい、飛行機の中で、日本行きにギリギリだと時計と睨んで過ごす。
『日本行きの飛行機に乗り遅れそうなんです。先におろして下さい』
フライトアテンダントに事情を説明して、ファーストクラスの席に着陸前に移らせて貰う。
サンフランシスコ空港に着陸した途端、文彦は端にある日本行きの搭乗口まで走ったが、そこには誰もいなかった。荒い息で、搭乗カウンターの職員に、関空までのチケットを見せる。
『その便は、定刻通りに出立しました』
空港が霧でクローズしていたのに、何故、定刻通り出立したのかと、腸が煮えくり返ったが、こんな所で揉めていても飛行機は飛び立った後だ。同じエアラインのカウンターまで急ぐ。
日頃の文彦は、地方の公務員らしく穏やかで、声を荒がけたりはしないが、カウンターでは強硬な態度をとってしまった。グランドホステスが無礼な態度に不愉快そうな顔をした。後ろに並んでいるアメリカ人も、長々と粘る文彦に苛つきを隠さない。
『成田行きのビジネスクラスなら一席空いています』
関西空港への便は、他のエアラインも満席だ。日本へ帰国できれば、後はどうにかなるだろうと、ビジネス料金をカードで支払う。
サンフランシスコから成田までの飛行時間が、文彦には行きの何倍にも感じる。折角のビジネスクラスを楽しむ余裕など無いが、知らぬ間にうとうとしていたようだ。
『文彦、そんなに無理をしなくても良いのに……馬鹿な子だねぇ』
病に窶れた母ではなく、まだ老いても美しさを保っていた母が優しく微笑んでいた。
『お母さん、病気が治ったのか?』言った瞬間に、文彦はこれは夢だと悟った。母の病は治るものではない。それは、医師から告知された時から覚悟を決めていた。しかし、こんなに急に、それも自分が海外出張中に悪化するとは考えてもみなかった。
『美恵子さんには世話になったねぇ。ちゃんとお礼を言うんだよ』
末っ子で甘えたの妻の美恵子だが、文彦の母にはなついていた。そのせいか、看病もよくしてくれた。
『お母さん!』自分の声で目が覚めた。ブルブルと身震いが止まらない。
『お客様、大丈夫ですか?』
大の大人が涙を流して震えているのだ。フライトアテンダントだけでなく、ビジネスクラスの客も不審そうに文彦を眺めている。
『大丈夫です。少し夢を見て……』そう言い繕って、涙をハンカチで拭く。アイロンの当たったハンカチがぐちゃぐちゃになる。
成田空港に降り立った文彦は、携帯の電源を入れた。直ぐに妻に電話をかける。
『貴方、お母様が……』妻の泣き声を聞きながら、呆然と立ち尽くした。
「美恵子、お母さんがよく見てくれたとお礼を言っていたよ。今、成田空港に着いたばかりだけど、直ぐに帰るから……」
やはり、あの時に母は亡くなったのだと、文彦は国内線のカウンターへと急ぎながら、最期に会えて良かったと、涙をぐちゃぐちゃのハンカチで拭った。




