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コバルト短編小説新人賞への投稿作

落ちこぼれの天才児

作者: 日咲ナオ

コバルト短編小説新人賞に投稿し、選外だったものです。

「次の定例試験で最下位を取った場合、君は素質なしと見なし、退学してもらうことになった。やる気も素質もない人間より、他の生徒に時間を割いた方が有意義だ」

 月に一度行われる、総復習の試験。これでことごとく最下位を取るのは、そう難しくない。わかっていても、書かなければいいだけだ。できることも、しなければいい。

 やる気がない。素質がない。そう言われても、仕方がない部分はある。やる気に関しては、確かに否定できない。

 何しろ、学校には来ているが、教室以外の場所でぼんやりしていることが多いのだ。

「そうですね」

 ニッコリ微笑んで、少女は暗い灰色のローブを両手でちょいとつまむ。ペコリと頭を下げ、部屋を辞した。

 魔法使いを養成するバルシュミーデ魔法学校は、アッセルバッハ王国にある。難関とされる入学試験の受験資格者は、十三歳になった者のみ。機会はたった一度。学費はとにかく高いが、五年間みっちり勉強して無事卒業すれば、就職先には絶対に困らない。

 そんな素晴らしい学校の退学勧告を受けたのは、ついさっきの出来事だ。

(マノン先生が言うには、入学試験の時、校長先生に『百年に一人の逸材』とか何とかって言われたらしいんだけどなぁ……)

 懇意にしている教師からの又聞きなので、本当か嘘かは知らない。どちらでも一向にかまわないし、取り立てて知る気もない。

 左手でギュッとカバンをつかみ、トボトボと廊下を歩く。分厚い絨毯の敷かれた廊下は、足音一つしない。廊下に並ぶ大きな窓の外には、まだ鮮やかな青空が広がっている。

 手すりをつかんで、階段を下りる。一段ごとに、金色の羽毛に似た髪が、肩の辺りでフワフワ揺れた。

 一番下まで下りきり、少女は外を目指す。その途中で、ふと振り返ってみる。

 窓ガラスと大して変わらない大きさの紙が、床からふわりと宙に浮く。ススッと滑らかに横へ移動する様は、透明な誰かが軽快に持ち運んでいるようだ。教室と教室の間の白い壁に、その紙はペタリと張りつく。直後、その隣にあった、少し色あせた紙が、ペロリとはがれた。ひとりでにクルクル丸まった紙が、ポトリと落ちてコロコロ床を転がる。真新しい、丸まっていた紙がふわっと広がって、空いた場所にペッタリくっついた。

「うわぁ……!」

 思わず、感嘆の声が漏れる。

(ひょっとして、ひょっとしなくても、本物の魔法使いだ!)

 突然の声に驚いたのか。転がった紙を拾い上げていた少年が、驚愕に染まった顔を向けた。茶褐色の瞳は、限界まで開かれている。癖のない明るい褐色の髪が、窓から吹き込んできた風にゆるゆる揺れていた。

「ね、ね、お兄さん! 今のって、お兄さんの魔法? すごいね!」

 少女は駆け寄って、興奮気味にまくし立てた。

 ふっくらしたやわらかそうな頬は、かすかに赤が差している。ぱっちりした大きな灰青色の瞳は、幼い子供のようにキラキラ輝いていた。

「……すごいって、基本中の基本だろう?」

 少年の視線が、少女の襟元に落ちる。そこには、学年を示す徽章がつけられていた。少女の徽章は黄、少年は黒色だ。

「まさかと思うが、君はこんなこともできないのか?」

「うん、できないよ」

 臆面もなく、ニッコリ微笑む少女は言い切る。少年は小さく息を吐き出し、軽く眉を寄せて少女を見下ろした。

「次の試験でまた最下位だったら、退学なんだって」

「どうしてそんな他人ごとみたいに……待て、毎回最下位? この三ヶ月、ずっとか?」

「うん、そう」

 相変わらず、少女はニコニコしたままだ。

 頭痛がしたのか。少年は左の指先を、ギュッと自身の額に押しつける。指先は色がなくなっていて、やけに白っぽい。

「勉強する暇、なくって」

「遊びほうける暇があるなら、五分でいいから毎日教科書を眺めろ。実践してみろ。それでも上達しないなら、素質はない。追い出されて当然だ」

 少女があっけらかんと答えると、彼はひどく冷ややかな声で言い放った。表情や雰囲気の端々に、怒っている様子がうかがえる。

 まったくもって正論だ。だから、反論はもちろんのこと、暇がない理由も、少女は一切説明しない。

(……できるようになったら、お兄さん、驚いてくれるかな?)

 目の前で同じことをやってのけたら、どんな反応をするのだろう。そればかりが、気になって気になって仕方がない。

「五分、勉強すればいいの?」

「まずは五分。習慣がついたら、時間を延ばせばいい」

 きょとんと少年を見上げていた少女は、不意に真剣な顔を見せる。

「そういうものなんだぁ。マノン先生は、ちゃんと勉強しなさい、しか言わないから、いつどれだけやればいいのかな、ってずっと思ってたんだけど……五分なら……うん、何とか作れるかも!」

 再びパッと花が咲いたような笑みを浮かべ、少女はしばし彼を見上げた。

「お兄さん、ありがと! 今日から早速頑張ってみるね! ……あっ、時間!」

 視界の隅に入った時計は、いつもならばとっくに学校を離れている時刻を示している。

 少女は慌てて駆け出し、途中でクルッと振り向いて、少年に勢いよく手を振った。


        §


 翌日の昼。少女は上機嫌で階段を下りていた。正面の窓に『1』と書かれた廊下を、右に折れる。

 ちょうど、昼休みが始まったばかりだ。数人の固まりが何組か、楽しげに笑いながら散らばっていく。きっと、天気がいいから、昼食を別のところで食べるのだろう。

 自分よりずっと背の高い人波を避けつつ、少女はのんびり歩く。

 各階に教室は一つ。その教室の両側に、階段がある。少女の目的は、教室の反対側にある階段──ではなく、その階段の正面にある通路だ。

 わざわざ遠回りをしたのは、単にこの教室の前を通りたかっただけ。

 朝、マノンに会って頼みごとをした際、徽章の色について聞いたのだ。ローブの色に近い、黒い徽章は五年生のものだと。

 どうせ一階に用があるのなら、彼のいるだろう教室の前を通ってみたい。ただ、それだけだ。

 なるべく、速度はゆっくりにして。ドアも窓も全開の教室を、チラリと覗く。

(あ……)

 すぐにわかった。後ろ姿でも、十分確信が持てる。そのくらい、間違えようがない。

 思わず足を止めた少女は、しばらく瞬きも忘れて、ジッとその背中を見つめた。

 視線に気づいたのか。はたまた、話していた相手に指摘を受けたのか。彼は、おもむろに振り返った。とたんに、表情が驚愕の色に染まる。

 何か言わなければ。

 そんな強迫観念に駆られて、口をついたのは。

「お兄さん、こんにちは!」

 他愛のない、ごくごくありふれた挨拶。

 ちゃんと笑って言えただろうか。引きつってなかったか。そんなことばかりが、やたらと気になってしまう。

「……こんにちは」

 唖然とした様子ながらも、挨拶は返してくれた。たったそれだけで、今すぐ空まで舞い上がれそうなくらい、嬉しい。

「昨日は五分、頑張ってみたよ」

「……そうか」

「でも、最初から順番じゃなきゃダメって、ちょっと面倒だね。最近のとこ開いたら、前のとこが必要で、そこもやっぱり、その前がなきゃダメなんだもん」

「……何でもかんでも、最初からやるのが当たり前だ」

 重いため息をついて腕を組み、彼は硬い表情のまま素っ気なく答える。対する少女は、何がそんなに嬉しいのかと尋ねたくなる、花が咲いたような笑顔だ。

「あ、でもね、昨日のお兄さんみたいに、何かを浮かせることはできるようになったよ」

 言うが早いか、少女は小声で呪文を唱える。同時に、頭の中で、手に持っている教科書やペンが、フワフワと空中に浮かんでいる姿をはっきり思い描く。

 直前までばっちり見ていた風景と、毎日使っているもの。だから、想像の中ではどれも鮮明で色鮮やかだ。

 思ったとおりに浮かび上がる持ち物に、両腕を大きく広げた少女が満足げに笑う。首を痛めそうなくらい傾けている彼女の視線を、彼はひどくゆっくりと追った。

 教科書はきちんと閉じられ、本の形で浮いている。本のそばにあるペンも、見事なまでの直立不動だ。

 抜群の安定感に、近くにいた生徒たちがこぞって見上げている。

「…………」

 ありとあらゆる表情が、彼からすっかり消え失せていた。

「明日は、もっと違うことができるように頑張るね!」

 浮いているものをたぐり寄せ、小脇に抱えてから、少女はブンブンと思い切り手を振る。そのまま、彼女は反対側へ駆け抜けていく。

 しかし彼には、彼女を目で追うことも、手を振り返すこともできなかった。


 がっちりと壁で覆われた、窓のない渡り廊下を一気に駆け抜ける。少女は突き当たりを右に曲がって、行き止まりにあるドアへ向かう。

 唯一の『橋』を渡ったここは、実験棟と呼ばれている。その名のとおり、少々危険の伴う魔法を使ったり、斬新な使い方の練習をすることが目的だ。

 もちろん、一年生の少女がおいそれと使える場所ではない。

 引き戸をガラッと勢いよく開け、中に声をかける。

「遅くなりました!」

 左手をピンと伸ばして、まずは元気よく謝った。

 部屋の中央辺りに、一人の女性が立っている。年の頃は三十手前といったところか。ゆるく巻いた薄茶色の髪が、ふわりと揺れた。女性は、ゆっくりと振り返る。

 目を引くのは、紅の塗られた色っぽい唇。

「エヴァが言い出したくせに、初日から遅刻とはいい度胸ね」

「ごめんなさい。だって、ちょっと遠回りだけど通り道だし、お兄さんに先に見せられたら、って思っちゃったから」

「お兄さん? 五年生の誰かしらね」

「内緒!」

 遅れた原因を詳細に語らないことに、悪びれた様子はひとかけらもない。エヴァは、にこやかな表情を一切崩さなかった。

「あたしに、五分でいいから教科書を眺めろって言ってくれたの。マノン先生は、そんなこと言わなかったでしょ?」

「毎日復習しなさいって、最初に言ったわ。でも、エヴァはちっともやらなかったの」

「だって、最初は覚えることが多くって、時間ばっかりかかるから、すぐ嫌になっちゃったんだもん。五分は、寝る時間をちょっと削って……」

 言った瞬間、エヴァは『しまった』という顔を見せる。マノンが聞き逃すことはもちろん、見逃すはずもない。

「ちょっと、エヴァ? あなた……さらに睡眠時間を削ったの? 今、毎日だいたい何時間寝てるわけ?」

「え、えーっとぉ……」

 右に左に目を泳がせながら、真剣に数えてみる。

 学校が終われば、すぐに街へ出る。そして、最初の仕事先である喫茶店へ向かうのだ。そこで夕食時を過ぎるまで働き、それからまた別の店へ。そこでは、滅多に来ない客のために、閉店まで店番をしている。さらに、朝は喫茶店で朝食をもらって、学校の時間まで接客をこなす。

 この二軒は、十五のエヴァを雇ってくれた、貴重な仕事先だ。大陸の端っこにある貧しい実家には、この学校の学費は到底出せない。ここで暮らし、学校に通う資金を、エヴァはすべて自力で稼いでいるのだ。

 その分、勉強する時間も、睡眠時間も、容赦なく削られる。

「いつも日づけが変わってから寝て、朝は夜明けくらいかな。うん、まだもうちょっと削っても大丈夫だと思う」

「育ち盛りに何を言っているの! 今は若いから無理がきくけど、すぐにあちこちガタがくるわよ?」

 呆れた顔で叱るマノンは、苦笑いと同時にため息をついた。

「それで、お兄さんに言われて頑張ったエヴァは、どこまでできるようになったの?」

「ここまで!」

 先ほど彼に見せたように、エヴァは持っていたものをフワフワと浮かせる。

 ただ、嬉しかった興奮がまだ残っているのか。浮いたものたちは、ユラユラと左右に揺れて踊っていた。

「……浮かせて、踊らせるまでできるのね」

 頭痛を堪えているような表情のマノンに、エヴァはニッコリ微笑む。

 この学校で一番最初に習う魔法で、基本中の基本だ。その代わり、コツをつかむまで、うまくできないことも多い。

 たった五分でここまでできる。それがいかに驚異的か、エヴァはまったく理解していないのだ。

「そんなエヴァに朗報よ。校長先生に、あなたがやる気を出したと伝えたら、五年生が卒業する前日までに、五年分の全工程を習得した場合に限って、五年生と同時に卒業を認めるそうよ」

「へぇ……それで、あたしにどんないいことがあるの?」

 可能だと思われていることよりも、実行した結果が、エヴァにはとにかく気になるようだ。それが彼女らしいのか、マノンは苦笑しながら指折り数える。

「まず、一年で卒業するほど優秀な人材は、大金を積んででも欲しがるところが多いわ。それこそ、実家へ十分な仕送りをして、あなたがこの町でちょっと贅沢な生活を送っても余るくらいにね」

 真顔になり、黙り込んだエヴァへ、マノンはさらに畳みかけた。

「それから、学費も一年分で済むでしょ? 残り四年分の時間もお金も浮くわ」

 深く考え込んでいたらしいエヴァが、バッと勢いよく顔を上げた。ジーッと真っ直ぐ、マノンを見つめる。

 エヴァの瞳には、強い意志がはっきりと宿っていた。

「じゃあ、頑張ってみる。その代わり、授業は出なくてもいい?」

「……後で、校長先生に聞いておくわ。とりあえず今から、ものを移動させる魔法を練習しましょうか」

「はーい!」

 マノンが唱える呪文に耳を傾け、動きを見せてもらう。それからエヴァは、少女らしいピンク色で、全体に小さな花柄の入ったペンを手に持つ。

「マギーア フリーゲン!」

 言いながら、手にしたペンが他の場所へ動いて落ちる様子を、できるだけ鮮明に思い浮かべる。

(これができたら、お兄さんがまた驚いてくれるかな?)

「あ……」

 余計なことを。

 それに気づいた時には、ペンは手から消えてしまっていた。

「……ちょっと、エヴァ。あなた、どこへ飛ばしたの?」

「多分、お兄さんのとこ? 見せたら驚いてくれるかな、って考えちゃったから」

「あなたって子は……」

 頭痛を堪えている表情のマノンに、エヴァはえへへ、と笑ってごまかす。

「まあ、ペンは他のがあるし、帰りにでももらってくるから大丈夫!」

 ため息をこぼしたマノンだが、今取りに行かせれば、しばらく戻ってこないと踏んだのだろう。教科書を開かせて、教えることを優先したようだ。


 すべての授業が終わる少し前に、エヴァは『橋』を渡って校舎へ戻った。鐘が鳴って授業が終わるまで、邪魔にならないよう、隅に隠れてジッと待つ。

 授業が終われば、生徒は基本的に帰っていく。雑用を頼まれた者は残ることがあるが、それも滅多にない。

 鐘と同時に授業が終了し、ややあって、教室からゾロゾロと生徒が流れ出てきた。

(えーっと、お兄さんは……あっ!)

「お兄さん!」

 帰っていこうとする後ろ姿に、急いで声をかける。足を止めた彼に、後続の生徒は迷惑そうな表情と視線を向けた。

 すぐに人はいなくなり、彼は面倒くさそうに振り向く。

「ねね、お兄さん。あたしのペン、飛んでこなかった?」

「……ペン? もしかして、ピンクの花柄の?」

「うん、そう! やっぱりお兄さんのとこに飛んじゃったんだね」

 ニコニコ笑っているエヴァが、よほど奇妙に映るのだろう。彼は怪訝な顔を隠さず、胸ポケットから件のペンを取り出した。それを、エヴァの胸ポケットにグッと差し込む。

「返したからな」

「ありがと!」

 嬉しそうに頬を上気させているエヴァに、彼はますます首を傾げる。

「お兄さん、また明日ね!」

 ブンブンとちぎれそうな勢いで手を振り、エヴァは外に向かって駆け出した。


        §


 最下位ならば退学、と勧告されていた定例試験。その結果が張り出された時、一年の教室がある五階では、激しいどよめきが起きていた。

 これまでずっと、最下位で固定されていたエヴァの名が、一位の下に燦然と輝いていたからだ。

 その話はあっという間に、上級生たちにも伝わっていく。当然、エヴァがお兄さんと呼ぶ彼も、その話を耳にしていた。

 その後も、定例試験では毎回、一位にエヴァの名が輝いている。

 もはや、唐突に目覚めた逸材『イヴァンジェリン』の名を、知らない生徒はどこにもいない。しかし、元から授業にはほとんど出ていなかったエヴァだ。本人を見たことのある者は、同級生も含めほとんどいなかった。

「お兄さーん!」

 朝から終業直前まで、エヴァは実験棟で過ごしている。終業後から、仕事に間に合うギリギリの時間まで、彼と話すのが今や日課だ。

 その頃には、一年で卒業させてもらう約束の期日まで、あとひと月ほどとなっていた。

「イヴァンジェリンは、どうしていきなりやる気になったんだ?」

 恐らく、彼からしたら、素朴な疑問を問いかけただけのつもりだったのだろう。

「校長先生が、お兄さんが卒業する前日までに五年分の工程を全部終わらせたら、一緒に卒業させてくれるって言ったからだよ」

 言ったとたん、彼の表情がはっきりと強張った。

 学費や生活のため、学校の時間以外はひたすら働いている。今まで機会がなかったため、その事実はまだ彼に伝えていない。

 学業に終わりが見えてきたことで、エヴァはすっかり浮かれている。彼の変化にも、まったく気づいていなかった。

「学費がいらなくなるって、すごいことだよね! それに、卒業したら、今までの休日くらい、毎日働けるってことだもん。オールディンリッジの家族がどれだけ楽になるかな、って考えたら、それだけでワクワクするの!」

 ニコニコ微笑んでいるエヴァから、自然な素振りを装って目を背けていた。そんな彼が、バッと顔を向けてエヴァを見つめる。その彼を、エヴァが上気した頬でジッと見上げた。

「それに、それができたら、お兄さんと一緒に卒業できるでしょ?」

 パッと破顔したエヴァに、彼の思考は追いつかなかったようだ。目を瞬かせている彼を見て、エヴァは楽しそうに首を傾けている。

「お兄さんがいない学校なんて、絶対つまんないもん。だから絶対、お兄さんと一緒に卒業するって決めたの!」

 ふふっ、と嬉しそうに笑ったエヴァは、不意に立ち上がった。

「あっ、いっけない! 仕事行かなきゃ!」

 駆け出そうとした瞬間、手を引っ張られてエヴァは後ろに倒れ込む。引っ張った手前か、彼は小柄なエヴァをしっかりと抱き留める。

「えっ? な、何? お兄さん、どうしたの?」

「……仕事、頑張って」

「……? うん、頑張るね!」

 名残惜しそうに離された手を、気に留めることなく。エヴァは今度こそ、街へ向かって駆け出した。


        §


 ヒラヒラと、真っ白な雪がちらつく日。バルシュミーデ魔法学校は、卒業式を迎えた。

 講堂で一堂に会した五年生たちは、整然と並んでいる。後方で彼らを見守る在校生たちも、卒業生に真っ直ぐ視線を注ぐ。

 しんと静まり返って、まさに厳かな雰囲気に包まれている。

「卒業生代表、クルト」

 最前列の中心にいた人物が、スッと前に出る。落ち着いた足取りで壇上へ上り、クルリと振り向いた。

 見つめていたエヴァは、思わず息を呑む。

(……お兄さんだ)

 卒業生の代表として挨拶するほど、優秀な人だった。その事実をたった今、初めて知ったのだ。

 頭がクラクラする。彼が何を話しているのか、言葉が耳に入ってこない。

 軽く頭を下げて、彼は再び元いた場所へ戻っていった。

「卒業証書を授与します」

 エヴァのいる側から、証書の束を抱えたマノンと、校長が壇上へ進む。卒業生は、反対側から順に、一人ずつ上っていく。

 一人ずつ名を呼ばれ、証書を受け取っている。クルトも無事に受け取り、ホッとした様子を見せた。それからふと、彼はエヴァへ視線を向ける。

 壇上で並ぶ卒業生たちは、誰も彼も、ひどく晴れやかな表情だ。

「最後に、イヴァンジェリン」

 名を呼ばれて、エヴァは慌てて姿勢を正す。それから、マノンの頷きに促されて、中央から壇上へ向かう。

 クルトと一部の教師以外、イヴァンジェリンの名は知っていても、姿形は知らないでいた。初見の天才児に、静まっていた講堂内がざわめきに包まれる。

「卒業おめでとう」

 穏やかに微笑んだ校長は、エヴァに証書を手渡す。そこにはしっかりと、イヴァンジェリンの名が記されていた。

「……あたしも?」

「ああ。約束だっただろう?」

 証書をジッと見つめ、それから校長を見上げる。一度だけだが、はっきりと首肯されて、エヴァは証書をそっと胸に抱き締めて、心底嬉しそうに微笑む。

 これでもう、学費は必要ない。雇ってくれるところがあれば、いくらでも働ける。残してきた家族にも、少しは楽をさせてあげられるだろう。

 何より、彼のいない学校に、通わなくていいのだ。

「以上、二十二名の卒業を認めます」

 ワッと拍手が巻き起こり、響く音は洪水となって、エヴァをしっとりと包み込んだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 明るいです。 主人公の天真爛漫さと、無垢な魂に魅かれます。 単なる天才でも落ちこぼれでもない設定がとても好きです。 本人も気づいていない初恋(?)が可愛らしいなと思いました。 [気になる点…
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