一. Tattoo You
一.
「――――トワイライト」
名前を呼ばれたのとほぼ同時だった。
裸の肩に触れた手のぬくもりで我に返り、トワイライトは自分が夢を見ていたことに気がついた。たった今、浅い眠りから目覚めたということにも。
先ほどまで自分が見ていたのは紛れもなく夢だった。
蒼く美しい竜の面影。
漠然とした御伽噺から自分の注意を引くイメージだけを取り出したような、夢の切れ端。
でも、それは夢というより幻に近かった。そして、幻よりも過去の記憶の断片というほうが正しい。
倦怠感を追い出すように頭を振って、手術台の上でゆっくりと身を起こす。
ずき、と頭が痛んだが、急に体勢を変えたせいだろう。あるいは昨夜の夜更かしのためか。
まあ、別にどっちだっていいのだが。
顔を上げれば自分の耳飾りが揺れて、しゃらん、と涼しげな音を鳴らし、ふわりとこぼれた前髪が視界を薄暮色に染めた。
意識が明瞭さを帯び、すぐに世界も色彩を取り戻す。
「…………んん」
「ようやくお目覚めかえ?」
甘く涼やかな声がして、半眼のまま傍らを見やれば、椅子に座った白衣姿の女と眼が合った。……妙齢の美女である。
女は黒檀の机に頬杖をついて、組んだ脚を投げ出している。油を流したようにしっとりと輝く濡れ羽色の髪が、その脚線に絡まっている。
長い髪は椅子の背もたれにも零れ、不定形の海藻みたいに広がっていた。
煙管をふかす唇はぽってりとして厚みがあり、紅を引かずとも瑞々しい薄紅色。
つり気味の大きな瞳は紫色で、想像力を掻き立てる謎めいた色あいを帯びている。今はその奥に意地の悪い成分が見て取れた。
瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。
「……オマエ、ひょっとして何か」
「ひとの仕事中、気持ち良さそうに寝息を立てられると、つい腹が立っての?
だから、下腹部及び殿部にわたしの名前とハート型を組み合わせた紋様を新しく彫りこんでおいたぞ。これらに関しては特別サービスなので、追加料金は不要じゃ」
「あンだとっ!? な、な、まさかオマエほんとに! えうっ!?」
慌てて帯を解きにかかるトワイライトの狼狽ぶりを見て、女は一瞬の沈黙の後、にんまりと愉快そうな笑みを浮かべた。
「嘘じゃよ」
「……は」
「御主、ちょっと焦りすぎじゃ」
我に返って視線を落とせば、どうやら作業はとっくに済んでいたらしい。
ニードルも何もかもが台の上に元通り並べられていた。
「…………ハル。オマエ、また騙しやがったな」
目覚めるまで寝顔を見られていたこと、その上自分がからかわれたことに気がついて、トワイライトは長い溜息を吐く。
それには呆れと苛立ちも勿論含まれていたが、どちらかといえば取り返しのつかない事態を免れたことによる安堵の成分の方が多く含有されていた。
まったく、とんだ寝起きドッキリをかまされたものだ。
「あー、もう」と呻き、髪の毛をくしゃくしゃ掻き回す。ジト目になると、傍らでけらけら笑い声をたてる女を睨めつけた。
「ったく。オマエ、よくそれで名代の彫り師が務まるよなァ? そのうち訴訟沙汰とかになっても俺は知らんからな」
「御主が心配せずとも、他の客にはこんな悪戯はせぬよ。トワイにだけ、特別じゃ」
「そんなとこだけ特別扱いされてもね!?」
「トワイはいつも律儀に騙されてくれて飽きないからのう」
「だからってオマエな。冗談にも程があんだろうがよ!」
「おきぬけじゃろ。まあ、少しは落ち着け」
「……むぐ」
彫り師の女・ハルは、抗議の声も何処吹く風と聞き流し、自分の指に挟んでいた煙管を差し出すと、トワイライトの口に咥えさせた。穏やかではあるが有無を言わせぬ動作だった。
目覚めの一服。気遣い半分、悪戯への文句を封じる意図が半分。
いつもの通り、彼女のペースに乗せられている。
トワイライトは渋い顔をしつつもゆっくりと煙草を味わって、それからぷか、と煙を吐き出した。
それを律儀に待ってから、女は涼しい顔のまま問うてきた。
「それで、今日も寝不足かえ? おおかた、ま~た女遊びにでも耽っておったのじゃろうが」
「……うるせえよ。なんでそんなことがオマエに分かる」
「触れば分かるし、見るだけでも分かるのじゃよ。体調の変化はすぐ肌に出るからの。ほらな……」
女の手のひらがトワイライトの頬に添えられ、きめ細やかな指先が輪郭をくすぐる。
耳元にそっと唇を近づけて、ハルは囁きかけてくる。
「なぁ、トワイライト。御主、精気が足りておらんのじゃろ?」
「いや、そんなことねェけどよ……」
「隠し立てしようとしても無駄じゃと言っておろうに」
深みのある声色。かすかな薫香が鼻をくすぐる。素馨の花の香りだった。
血色のよい指先が唇にそっと押し当てられて、血の通った肉の温かさを伝えてきた。
ついでに脇に押し付けられたたわわな乳房の感覚も、種類の違う熱をもたらした。
「……またテキトウ言いやがって」
トワイライトはくすぐったがるフリをして、ぐい、と女の身体を押しのけた。
ハルはトワイライトの手からさりげなく煙管を取り上げると灰を落とし、盆の上に戻す。
「ふむ。私の言葉をあてずっぽうだと思っておるのかえ?」
「べつにィ。そういうわけじゃねえしー?」
ハルの紫の瞳の奥には好奇心と、それとは異なる暖かな色合いが垣間見えた。
ばつの悪くなったトワイライトが視線を逸らすのを、ハルは愉快そうに見守っていた。
「さて。冗談はさておき、もう施術は終わっておるよ。ひとまず背中の紋様は完成なのじゃ」
手を伸ばしたハルが、トワイライトの背に触れる。彫り終えたばかりの刺青の箇所だ。
まだ、じんわりと熱を持っている気がする。
現時点ではただの傷と変わらないのだから仕方ない。疼きはすぐに収まるはずだ。
性質の悪い冗談を言いこそすれ、彼女の腕はけして悪くはない。
「ああ、さんきゅ。……アー、またボンヤリしちまってたよな? 俺」
「なに、施術中はたいてい皆そうじゃよ。一種の催眠状態のようなもので、多くの患者が記憶の断片やありえない幻影をみるものじゃ」
そう口にしながら、ハルは意味ありげな微笑を浮かべる。
艶めいてぽってりとした唇は優美な弧を描き、紫水晶の瞳は魔的な光を帯びている。妖しくて凄みのある相貌だ。
最近になって、ハルは師傳であるリンレイにますます似てきたような気がする。
ハル、と名前を呼びかけたはいいが、少々恥ずかしくなって、トワイライトは一度つと口を噤んだ。
それから僅かに間を空けて再度尋ねた。
「なんだ、その。俺、また竜がどうとか言ってたかね」
「うむ。もう何回目か数えるのも忘れてしもうたが、また寝言で例の蒼い竜のことを言っておったよ。いつもの夢、じゃろ?」
「……そうだよ。過去の死に損ないの俺を誰かが呼んでるってアレ」
「なに、ただの譫言じゃ。あまり気にするでない」
実際なんでもないという顔をしてみせ、ハルはトワイライトの肩をぽんと叩いた。
やっと完全に目が醒めた気がした。
此処は、魔都黒数の大繁華街・懺骸地区。その裏路地街に店を構える咒術屋、青燐堂。
ハルはこの店の主人であり、女彫り師だ。
同時にトワイライトと同じく女仙リンレイに師事した師姐で、今では腐れ縁の女でもある。
リンレイから正式に大方の物事を受け継いだのは彼女だ。
一方、トワイライトが受け継いだものといえば、この近所にある小さな医院くらいだ。
他にも、死してなお彼を縛る師の呪いや命令ならば脳髄の奥にしっかりと刻み込まれているのだが、果たしてそれを〝遺産〟と言えるのかどうか。
ともかく、彫り師としてのハルは同業者の多い裏路地街でも屈指の職人で、腕は相当なものだ。
トワイライトはもうずっとハルにしか自分の入れ墨を任せていない。
最初にトワイライトの体に刺青を入れたのはリンレイだったが、彼女が逝った今となってはハルにしか任せられないからだ。
ハルは通常の刺青も彫る。むしろ昨今ではそちら、表のお客が九割を占めている。
しかし、彼女にはもうひとつの顔がある。
迷宮探索者――とりわけ召喚師が用いる特殊な紋様を施すことのできる、紋様術師としての側面が。
扱える者の極めて少ないその技術を、トワイライトはおそらく誰よりも必要としていた。
この街には法術使いも彫り師も大勢いるが、魔術の素養に彫り師の手腕、その両方を兼ね備えた職人はそう多くない。
その上、トワイライト自身がもつ性質を熟知して施術を行える者となれば、彼女のほかにはいないのだ。
「どうしたのじゃ? まだ寝惚けておるのか……」
蒼い竜の夢のこと、ハルのこと、そして呼び起こされた自らの記憶。
それらについて考え込んでいると、いつの間にかハルが気遣わしげな視線を寄越していた。
余計な心配をかけたくはないし、この女を面倒事に巻き込むつもりはない。トワイライトは軽く苦笑して見せた。
「……べつに何も。ただ昔の体験が絡んでいるからって、こうもしつこく夢に出てくるもんかと思ってね」
「まあのう。それでも、悪い感じはせんのじゃろ?」
「そうだけどよ。なァんか知らんが、終いにゃホントに誰かに呼ばれている気さえする。最近じゃ、迷宮でもマボロシを見るんだぜ。おかげでネロからはアタマのネジが緩んだ病人扱いされるしよ」
「そんなにはっきり見えるのか。ところ構わず」
「いや。なんつーか、見えるっつーより感じる……みたいな? 妙な予感のような、胸騒ぎのような。ほら、アレ」
「既視感かえ?」
「そう、それ」
「それは難儀じゃな。しかし、聞く限りでは特別嫌な気はせぬのだが。トワイの蒼い竜の話、私は好きじゃぞ?」
何度聴いても飽きない、そう付け足してハルは紫色の瞳を細める。
他人事というよりもむしろ、おまえの頭がオカシイのはいつものことだと、どうやらそういう捉え方をされているらしい。
いったいなんて扱いだろう。
それでも、ハルの対応には危機感とか緊張感とか、そういう負の類の感覚は含まれていない。
ハルは何かと勘のいい女だ。ただ乳がでかいだけの女ではない。独特だが、信用に足る嗅覚を持ち合わせている。
この女が好感を示すなら、トワイライトが視る幻もそう悪いものではないのかもしれない。しかし、
「そう言われてもね」
よくわかんねえよ、と吐き捨ててトワイライトは肩をすくめた。
どんな性質のものであろうと意味がわからないことに変わりはないし、そんな幻や夢を見続けるのもあまり良い気分ではない。
夢を見るのは施術のせいだとハルは言う。
刺青を刻む間に傷口から入り込む気の流れやなんかが自分の記憶と混ざり合い、ああいう不思議な幻想を見せるのかも知れない、と。
そして、それを消すすべを自分では分からないことも癪に障るのだ。
「そも、トワイ。御主は本当に迷宮で竜をみたのかえ」
「アー、ね……自分でもいまいち分かンねんだよなぁ~。血ィ出しすぎてマボロシ見ただけかもしれないし、あの時は死に掛かって神経がイカレっちまってたからねぇ」
「記憶か幻か曖昧なのじゃな。面白いのう」
「オマエ、完全ひとごとだよな」
適当に言葉を交わしながらも、ハルは大きな姿見を引っ張ってきて促した。
彼女は彫り終えたばかりの刺青の出来を確かめてくれと急かしている。手術台からすとんと降りて、トワイライトは鏡に映る自分自身と対面した。
上半身は裸だ。刺青だらけの肌。今日は背中をやっていたので何も身につけていない。
指から始まり、手の甲から上腕、首から腰まで、体のいたる所に奇怪な模様の刺青が彫り込まれている。
その全てが呪的な意味合いを帯びており、一説には竜族に伝わる秘密の紋様――異界への扉を表すとされるものだ。
トワイライトはそれらの禍々しい紋様を刺青として、自分の身体に彫り入れている。
「だいぶ刺青が増えたのう」
「そうかもな」
「体調はどうじゃ? 痛みや違和感はないか?」
「ん~」
ハルの声色にはどことなく気遣わしげな響きが含まれている。
ハルは自分の施術が師弟であるトワイライトの心身に負担をかけていないかを気にしている。
この女は共犯者的な感情のほかに、どこか罪悪感を抱いてもいるのだ。トワイライトはそれをとっくに知っていた。
だから平然と答える。
「ない。平気」
それで鏡に映る表情が揺らぐことはなかった。
トワイライトは、続けて自分の体を子細に点検し始める。
上半身には既に多くの刺青があるが、反面、それが施されていない部分の肌は雪を欺くように白い。
鏡に映るのは、見る者の心を蕩かす婀娜な姿態だ。
良く発達した筋肉によって被覆された腕や背中、胸に対し、腰まわりは妖しげに括れており、細身である。肋骨下縁から骨盤にかけての贅肉が無く、引き締まった体つきをしている。……背丈は、まあまあ。
齢は二十歳をとうに過ぎているが、実年齢相応かそれより下に見られることが多い。
姦悪で歪な表情に彩られた唇は赤く、面貌はどこか女じみてもいる。男か女か、服を着ていれば容易に判断がつかないだろう。
ただ、トワイライトが性別を間違われることは少ない。目を見れば誰しもすぐに見当がつくという。
トワイライトの眼に宿るのは野蛮で底なしの、男の欲望そのものだからだ。
狂気と理性が崩壊寸前のバランスで混ざり合う、黒渦のような瞳。
鼻梁や顎にかけての精悍な輪郭も、内面の暴悪さをそのまま描きだしている。
総じて、容貌は絶美にして淫靡。ひとたび眼にすれば忘れられぬ姿だろう。
だが、その姿は滴り落ちる毒のような陰惨な魅力のために、底知れぬ邪悪さもまた感じさせる。
トワイライト自身だって、別に下種の類の雰囲気を隠そうとはしていない。自分がろくでもない人でなしであることを、しっかりと自覚している。
それはべつに自己卑下などではなく、単なるひとつの事実としてだ。
「トワイ、刺青の具合はどうじゃ?」
襟足を長く伸ばしたざんばら頭は夕暮れ色。紅が藍に沈む寸前の、日没間際の複雑な空の色。瞳も同じ。
そして前髪がその表情の半分を覆い隠している。
「もし…………トワイライト、御主、聞いておるのかえ?」
そういえば、ちょっと目のあたりに疲労がたまっているなぁ。うわ、白髪とか混じっていたらどうしよう。
ハルに指摘されたとおり昨晩はほぼ徹夜だし、最近は特に不摂生な生活が続いているかもしれない。
トワイライトは、鏡の前でべろりと舌を出したり、眼球をぐりぐりと動かしてみた。
「うええ、やっぱちょっと荒れてっかなァ……」
「おい、ナルシスト。鏡を見るのがそんなに楽しいか」
「ちがわい! あー、ちょっと……その、俺老けたかもと思って見ていただけだって」
「では、トワイ爺さん」
「それやめろ」
「新しい刺青はいかがかの? 我ながらなかなかイイ出来だとは思うのじゃが、どこか問題はないかえ?」
そうだった。自分の身体を子細に点検している場合ではない。
我に返ったトワイライトは慌てて刺青の出来を確認しようとする。身を捩るのを見て、ハルがもう一枚姿見を蹴り出す。
これで合わせ鏡になって、ようやく全体を視認することが出来た。
背中の紋様は極めて精緻に描かれている。欠陥なんて当然どこにも見当たらなかった。
「相変わらずいい腕してやがる。リンレイ先生もお前が継いでくれて本望だろうよ」
トワイライトの返事を聞くと、ハルはどうしてか一瞬だけ複雑な面持ちになった。
しかし、間をおかずにいつもの妖艶な笑みで取り繕うと、答えた。
「そう言って貰えて嬉しいが、私ではまだ遠く及ばない。時間も経験も必要じゃ」
「そういうもんかねェ。では修行ついでに次も頼むぜ、彫りかけの」
「尻か? 尻だな」
「腕だ! 右腕の三つ目のやつだ」
「そうじゃったかの? 予約の帳簿には確かに御主の筆跡で殿部と記入が、ほら、ここに」
「してないしてない、してないぞ!」
「ちっ」
彼女には筆跡を真似るくらいお手の物だ。
ハルは隙あらばトワイライトの身体――尻やその他のきわどい箇所に刺青を入れようとする。
過去に幾度か針の振動を肌に感じて目醒めたことがあるが、幸いどれも未遂で終わっている。
うち三回は転写式シールで本当に模様を入れられてショックのあまり膝から崩れ落ちるという、世にも無残な寝起きドッキリ体験が含まれているのだが。
実際に妙な図柄でも入れられたら最後、外で女と交わることなんてとても出来なくなってしまう。
ハル曰く「トワイライトは彫り師にとって理想の肌をしている」そうなのだが、単にじっくり眺めて弄くり倒したいだけに決まっている。
いや、理想の肌をしているからといって全身に、というか、局部にまで図柄を入れようとするのがまずおかしい。
悪質な嫌がらせか、はたまた歪んだ愛情表現か。ヤクザじゃあるまいし、まったく恐ろしい嗜好である。
「ったくよォ。油断も隙もねえ痴女だな、オマエは」
「御主に言われたくないわい。だいたいそんなに上等な肌質を持ってして、なにを出し惜しみすることがある。その肌を私のような彫り師の前に晒しておきながら手を入れさせぬなど、むしろ芸術に対する冒涜じゃ。要するに、おとなしく墨を入れさせるのじゃ」
「……それはどういう理屈ですか」
「芸術には理屈もなにもない。情熱があればいいのだ」
仕事に没頭する余り、やや常軌を逸してしまっているところが彼女の欠点だ。
たしかに、刺青は性的装飾や、黒社会などにおいては組織帰属の意味合いを持つ場合もある。
しかし、トワイライトの刺青はそういった装飾の類とは違う。仕事のために不可欠なものだ。
別に身体装飾や儀式的な目的で刺青を増やしているのではない。
「俺が副業のために入れているってことを忘れないでくれよな?」
「むう」
「とにかく魔法が尻から出ちゃ困るんだよ!」
トワイライトは医術士であり、また、迷宮召喚師でもある。依頼に応じた役目を果たす、闇の界隈の人間だ。
その実態は、闇医術や召喚魔術をのべつまくなしに操る外法術師である。
さまざまな魔術体系から実践的なものばかりを抜き出し、何にも分類し難い術を用いる。
その有様は、極めて混沌としていて、邪悪ですらある。
しかし、それが左道を行く者――外法の使い手の在り方だ。
迷宮での戦闘時、トワイライトは迷宮内に溢れる魔的エネルギー『竜素』を体内に取り入れ、それを触媒のひとつとして、自身の体に神や精霊を呼び入れる。そういう召喚術を行う際に、自身の身体に施した紋様を用いるのだ。
だから、とにかくむやみやたらに悪戯されるわけにはいかないのである。
勿論、女遊びに支障をきたすとか外で不用意に服を脱げなくなっちゃうとか、諸々の理由もあるにはあるが。
「仕方がないのう。尻は今度トワイが寝ている間にこっそり彫ろう。左右でアシンメトリーの柄を入れたら可愛らしいと、予てからトワイ用に練っていた図案があってな?」
「いや、不穏な内心が丸っと聞こえてるから。つーか俺用の図案って何よ、それ」
「私からの友愛のしるしじゃ」
「そんな歪んだ愛情表現いらんわ!」
ハルは袖で口元を隠し、くけけと不気味な笑い声を漏らした。
言い知れぬ恐怖を感じたトワイライトは慌てて自分のシャツを引っ掴んで羽織り、ハルの視線から身体を隠した。
次回からは何があっても施術中に居眠りしないように気をつけよう。
トワイライトは自身に向けて固く誓いを立てた。
「なんじゃ? もう帰り支度か」
「ああ。報酬はいつもの通りに振り込むから」
「…………そのう、もう少し休んでいってもいいのじゃぞ? 奥に茶菓子の用意もしてあるし」
「俺だってやりかけの仕事が残ってンだよ」
「つまらんやつじゃな」
「わるかったな、退屈男で」
端末を通じ、所定金額を振り込んで決済を終える。
その様子をハルは椅子の背もたれを抱え込み、そこに顎を乗せた姿勢で不服げに見つめていた。
トワイライトはそんな様子に気づかないふりをして告げる。
「よし、終わりっと。それじゃ、また来週な――」
と、そう言い掛けたところで横目に見守っていたハルがやおら立ち上がり、トワイライトの背後から胸元に腕を回してきた。
背中を隔て、密にくっついた熱い身体と柔らかな乳房の感触が伝わる。
いっそ自分の肉体が邪魔だと思えるくらい、心地がよかった。
「……あー、ハル?」
「今日はこれで店じまいな。さて、奥でこれまでの仕事をじっくり眺めさせてくれる時間はあるかえ? のう、トワイライト」
「さっき忙しいと言ったばかりだけども」
「知っておる。さっき聞いた」
振り返ったトワイライトが呆れ顔をするのを見て、しかし、ハルはくすくすと笑った。
「外で女を喰ってまわっているくせに、この私の相手は出来ぬと抜かすか」
「それ、嫉妬?」
「ほざけ。……御主の魂の権利書は私の手の内にあるのじゃぞ」
ハルはまともには答えず、ただ謎めいた微笑みを浮かべた。有無を言わさぬ態度だった。
トワイライトは舌打ちひとつ。
渋るトワイライトをわざと煽るように、ハルが白衣を脱ぎ捨てる。艶やかで扇情的な肢体が露になった。
自分と大して変わらぬ年だが、ハルはやけに大人びて見える。
彼女は女性にしては上背があり、肉感的で、体幹の整った健康的な体つきをしている。そして、それをたゆまぬ鍛錬によって保ち続けてもいる。ハルの完成された肉体は遺伝と環境、両方の賜物なのである。
それがどんな抱き心地であるかも、触れれば彼女がどんな反応をするかもとうに知ってはいたが、トワイライトは思わずこくりと息を飲んだ。
「……御主には拒否権などこれっぽっちも与えられない。とっくに分かっておろうに」
いつも通りの言動であるが、ハルの声はどこか暗く、低い。
理由は漠然と分かっていたが、知らないふりをした。彼女にではなく、自分自身に対してだ。
反論を口にする余地は最早なく、女はぎゅっと体を寄せてきた。
むっちりとした尻から太腿を引き締まった脹脛と足首のラインが引き立たせ、腰は少女のそれのように細くたおやかだ。
なのにハルの胸ときたらこの上なく豊満で、というか、たゆんたゆんのばるんばるんで、夢も理想も凌駕した形状なのだ。
だからつい胸に目が行くというか、気を抜くとそこしか見えなくなってしまう。
別に乗り気じゃないわけではないのだが。
トワイライトは頭を振って、傍にくっついたままのハルを睨めつけた。
「……オマエは、なんでそういつも力押しなの」
「トワイがつれない態度をとるからだ。医院だって、どうせほんとは今日も暇なのじゃろ」
「今日もというのは余計だ」
素っ気無く答えると、ハルはトワイライトの首に腕を回し、後ろ髪を軽く引っ張った。
「痛い。離せ。というか離れろ」
「なあ、外はまだ雨じゃぞ? 軽く雨宿りしていけばいい。なに、戻る頃には止むじゃろうて」
擦り寄ってくるハルを邪険にしつつも、トワイライトは彼女の格好を間近く眺めた。
胸の膨らみを強調するような紅色の肚兜と丈の短い薄手のボレロ、それと同じ色使いの紐付き内衣で一揃えに誂えられている。
一言でいえば、相当けしからん格好だということだ。
つまりこいつは下着の上に白衣を直接羽織って仕事をしていたのだ。相変わらずあきれた師姐である。
そのまま視線を滑らせれば黒い紐釦で彩られた間隙から、大腿に彫り込まれた刺青が覗いて見えた。
本来ならハル自身にしか知りえぬような部位の数箇所に、古く秘密めいた言語で呪文のような節句が彫られているのをトワイライトは知っている。それがどんな言葉なのか、どういう意味なのかも含めて。
……実際、他にも何人かは知っている奴がいるのだろう。
「のう、トワイ」
そんなことを意識すると、胸中で薄暗い情欲が頭をもたげた。
ハルは少しいぶかしげに微笑んだままだ。トワイライトは指先で女の前髪をもてあそび、その手指を頬に、首筋に、肩に落としていく。
そして、胸に浮かんだ情念をまるで今思い出したみたいに吐き出した。
「気にいらねえな」
「なにが……」
トワイライトはやにわにハルの腰を強く抱き寄せると、強引に唇を奪った。
無粋な内心はとっくに見透かされていたようで、ハルは抗うことなく唇を重ねてきた。
噛み付くように唇を抉じ開け、舌を捻じ込んで蕩かせば、口内は内臓の温度。熱く濡れそぼった粘膜がトワイライトの舌を包み込み、受け入れた。
互いの口内を貪るように暫し口付けを交わして顔を離すと、悪戯な笑みを浮かべたハルがこちらを見つめていた。
「御主こそ、妬いておるのじゃろ」
「違う。違うね」
「ふうん、じゃあどうする?」
「……どうするもなにも」
ハルはくすくすと怪しげな笑い声を立てて、トワイライトの頬にふわりと手を触れた。嫌になるほど温かい手だ。
ハルはそのまま再び口づけてきた。今度はトワイライトが愛撫を受け入れる番だった。
探るような舌先のキスは次第に熱を帯びて、執拗に、けれども心地のよい肉の温度で舌や歯列や口内を撫ぜていく。
柔らかく、ざらざらとした感触が、背筋のぞくりとするようなごく軽い快楽をもたらす。
肉の内側を犯されている、そういう不快感は嫌いじゃない。
……俺がどうするか、ハルはいつもこうやって試すのだ。答えなんかとっくに知っているくせに。
そうだ。選択肢なんか一つしかないのに、あえて俺が自分でそれを選ぶようにしむけて、そうして試している。
愛や良心が、この俺の中にありはしないかと。たとえ遊び半分であったとしても、彼女は探しているのかも知れない。でも、所詮ないものねだりだ。
唇をなぞる生温かい舌の感触。押し付けられた嫋やかな体。
肉体の境目が半ば曖昧になりかけた体温を愛しく感じながらも、トワイライトの胸中では暗い羨望と嫉妬が渦巻いて、御し難い嗜虐心を煽り立てた。
さらりとした闇。ハルの濡れ羽色の髪を指で弄び、暴いた首筋に唇を滑らせる。甘く噛み付けばハルは喉を仰け反らせ、生じる痛みと快感を押し殺した。その白さが目に付くとさらに嗜虐的な衝動が湧き上がる。
……柔肉に爪を立て、内面を暴き、いっそ犯りあげてしまいたい。
ハルの眩しさや気高い魂。トワイライトは無性にそれが羨ましくて仕方なかった。かれこれ、出会ったときからずっとそうだった。
だから、結局いつも不埒で下劣な手段でもって、自分のいるところまで彼女を引きずり下ろしたくてたまらなくなるのだ。
実際、彼女にとっては親同然であった師匠もトワイライトが奪ったようなものだし、そのほかにも色々なものを奪い続けて台無しにしている。今、この瞬間だってそうだ。
そして、俺はそれでもまだ飽き足らない糞野郎だ。いつもこうなのだ。
けしかけられては、結局自分から同じことを選ぶ。汚して、奪うことを。
同じ場所まで貶めて、そうじゃないと、だってそれからでないと、とても触れられそうにないから。
「わかっているくせに、聞くな」
好きだとか憎いとか、あるいはもっと別の素直な感情を言葉にして伝えればそういうものは消えてなくなるのかもしれない。
でも、混沌としすぎた内心はとても自分の頭では言葉にすることが出来ない。
だから、その代償を求めて肉体言語を好むのだ。
触れていた手を掴まえると、彼女は淡い笑声を立てた。胸がちくりと痛んだ気がした。
ああ、いつもこれだ。
いつか聞いた師傳の最後のことば。
リンレイの遺言と最後の呪い、「ハルを守れ」という約束をこれで果たしていることになるのか疑問だった。
ただ傍にいるというだけで、守るどころか手ひどく汚しているんじゃないか。
師傳は俺の内心なんかとっくにお見通しだったろうに、どうしてこんなことを俺に頼んだのだろうか。
よりによって、彼女を貶めたいと一番願っているであろうこの俺に。
「…………ほんとに物好きな女」
「御主こそ、相当物好きな男ぢゃよ。そして、女にとっては絶ちがたい麻薬のように性質の悪い男じゃ」
「うるせえよ」
なら、俺なんかやめておけよ。そう言って突き放す愛情や憐憫すらも持ち合わせていない、ひどい男。
トワイライトは諦観と共に羽織りかけた上着を脱いで椅子に放りなげた。
「雨上がったら本当に帰るからな」
「御主は雨男じゃからのう」
ハルは髪を解いて歩き出し、奥の部屋へと手招きしていざなってみせた。彼女らしい挑発的な動作だ。
燕の尾のような黒髪がするりと衝立の向こうに消える。
雨の匂いに、ハルの体から立ち昇るあまやかな芳香が混ざりあい、季節感を狂わせた。
トワイライトは黙って後に続いた。