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迷宮のウルトラブルー  作者: 津島修嗣
第一章 リトルドラゴン
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序話. Call My Name 〈后〉

 


 序話〈后〉




 どれくらいの時間が経ったのだろう。数時間か、それともほんの数分か。

 俺は何かの気配を感じて目を覚ました。というより、いつの間にか現れた何かが目蓋の裏に届く光を遮っていることに気がついた。どうやら気絶していたらしい。

 なんだよ、まだ俺は死ねないのかよ。

 内心で悪態をついて、そっと目を開ける。いや、実際には開けなかったかも知れないが、とにかく俺はそれを視たのだ。


 それは蒼い竜だった。


 小さな体躯の竜が、思っていたよりずっと傍に近づいて俺を見下ろしていた。

 そいつは硬質な鱗に覆われた体から蒼い燐光を溢れさせ、何をするでもなくただ静かに佇んでいた。眼は桃色の宝石を嵌め込んだみたいにきらきらと美しく輝いている。

 冴えた月のような蒼銀色の竜。

 こんなにきれいな生き物を、俺は他に見たことがなかった。

 思わず息を飲んで目を瞠れば、向こうも少し驚いたように瞳を大きくした。桃色の瞳の奥には強い引力でもって心を惹き付ける不思議な耀きが宿っていた。


「生キテル。驚イタ」

「は…………それ、はこっちの、台詞、だ」


 あんまりたまげたもんだから、出なかった筈の声が出た。相当掠れているし、ひゅうひゅうという喘鳴も混じっている。

 相手からは聞き取りにくいだろうが、俺は思わず竜の呟きに言葉を返していた。


「ソウナノカ?」


 竜は人語を解するようだ。かなりのカタコトだったが、俺と同じ言語を使って口をきいた。

 体の構造がヒトと全く違うためだろう、多少の違和感があるが、声は奇怪な楽器の音色のように深く澄んでいる。少女あるいは少年のような、中性的な声色だ。

 雌雄は判別できそうにないし、もしかすると、もとより性別など無いのかも知れない。


「オマエみたいな、生き物……初めて見たし……」


 子供騙しのおとぎ話なんて端から信じちゃいないが、これだけ深くに落ちたのなら、なるほど、竜の一匹や二匹居てもおかしくはない。

 でも、こいつは何だってこんな世界の果てみたいな場所に一匹だけでいるのだろうか。


「オマエ様ハ、人間カ?」


 暢気な問いかけだった。こちらの戸惑いなど意に介していないのか、蒼い竜は無垢な瞳で物珍しい漂着物であろう俺を観察している。

 俺の方も初めて見る生き物をじっと見つめ返した。


「…………まだ、辛うじて、な。勿論、オマエは竜、だよな?」


 竜は何も言わなかったが、否定の態度ではない気がした。ならば本物なのだろう。

 墜落死した巨大な竜の亡骸が迷宮の骨組みとなり、そして、本来その巨竜は竜族が造った生ける〝箱舟〟であった、と。伝承にはそういう続きがある。

 常識では考えられないほど巨大な生物の亡骸が朽ちて、その残骸が魔都の地下に広大な迷宮を築いた……という、あの話の続き。

 迷宮竜は、竜族が異界から現世を浸潤しつづける魔の族との戦争に打ち勝つため生み出した「生ける兵器」であったとされている。

 この世ならざる神話の生き物。かつて世界は彼ら、竜族のものだった。

 それが本当だとすれば、眼前に現れた蒼い竜もその眷属か何かに当たるのか。


「オマエ、なにもん……」

「確カニ竜ダ。デモ、正確ニハ、竜ノ意識体。コノ大キナ船にカツテ宿ってイタ魂ヲ知覚できるヨウ、竜素ヲ集めて仮に構成シタものダ。……モットモ完全デハ無イケレド」


 竜素とは迷宮に満ちる魔的なエネルギーのことをいう。つまり、目の前の竜は〝箱舟〟とやらを動かしていたシステムを、ある種の魔法をもとにして、俺のような人間にも分かりやすいかたちで仮構築した幽霊ということだ。

 いや、正しくは「幽霊のようなもの」というニュアンスか。

 巨竜の肉体が滅んでも、その残り香である竜素が迷宮に満ちているのと同じく、眠れる魂もこうして奥深くに残っていたのかもしれない。


「つまりこの抜け殻の中身ってこと……」

「概ネ、ソウイウコトダ」


 このチビ竜がバカなのか、それとも俺がバカにされているのか、どうにも説明がアバウトで適当だった。めちゃくちゃザックリしているし。

 どうせ言っても分かんねぇだろとか思われていたら、ちょっと哀しい。


「うは、もう何でもあり、じゃねえか……今更……どうでもいい……けどさ」

「オマエ様、スゴク投ゲ槍ナ人間ダナ」

「こちとら死に掛け、なンだよ、ばか」

「死ニ掛ケ……ニンゲン」


 それにしても妙な竜。小柄で、言動もどこか幼く感じられる。

 完全ではない、さっき確かにそう言ったが、だから子どもじみて見えるのかもしれない。

 そう勘ぐったけれど、俺だってまだ餓鬼だ。形の違う子ども同士が、互いの肉と心を境界として隔たりながら向き合っている。それだけのことだ。

 自分でも不思議な光景だと思うが、いまいち実感が湧かないのは死の間際の高揚感のせいだろう。


「人間、カ。ソレじゃ……」


 喋りながらだった。眼前の竜の姿が震え、ぐにょりと歪む。

 銀鱗が弾けるようにいっせいに剥がれ、風もないのに渦巻いて竜の体を包み込む。肉厚で壮麗な牡丹の花弁に埋もれたみたいな光景に、俺は息をするのも忘れて魅入っていた。


「……こっちの方が分かり易いかな?」


 そして、竜は一瞬後にはもう別の姿に変化していた。

 ちょうど俺と同じ年頃の子供の形だった。

 どちらかというと少女のような容貌で、柔らかな髪がつやつやとした光沢を帯びている。その色は蒼。アーモンド型の大きな瞳は鮮やかな桃色。幽鬼のように青白い肌がとても美しかった。

 つるりとした無垢な裸身を、蒼く透き通る髪が辛うじて隠している。


「なんだよ……器用、な、奴」


 この期に及んで高く脈打つ鼓動を押し隠したくて、俺はわざと皮肉めかして言った。


「雌雄も含め、おまえ様に合わせてみただけ。もっと近くに寄って見られるように」


 竜は俺の傍らに座ると、今度はすぐそばから視線を向けてきた。ヒトの形を取ることで距離を詰めたかったらしい。案外茶目っ気がある竜だ。


「なぁ、死ぬのか? おまえ様」


 と思ったら、愚直なうえに不躾な質問をぶつけてきやがった。

 いまさら分かりきったことを聞くんじゃねえよと言いたかったが、舌にのせる前に言葉は苦痛によって掻き消された。俺の口からは「うぐ」という呻き声しか出なかった。


「なぁ?」


 煌々と輝く瞳が至近距離から俺の顔を覗き込んだ。頬が触れそうなくらい近く、柔らかな髪が垂れて俺の顔の輪郭をくすぐった。

 小さな手のひらがちょうど俺の心臓の位置に添えられていた。


「てめぇが近すぎる、せいで、今すぐにでも失血死しそうだよ……」


 竜はきょとんとして首をかしげた。こいつ、本当になんにもわかっていないんだ。

 間抜け面め、と思ったが、そんなに嫌な感じはしなかった。


「弾けとんだ星みたいな見てくれだ。どうしてそんな目にあった?」


 肉や骨や臓物を晒して横たわる俺を見て、竜はこともなげに聞いて見せた。


「星の死に際を、実際見たことがある、ってのかよ」


 謎めいた一瞬の微笑。からかわれているってことか。それとも真実なのか。


「クソ」


 ……それに、何だか臓腑を見られているのってちょっと恥ずかしいな。

 どのみち、俺みたいな人間なんざ、竜の目には端から単なる薄汚い肉塊に見えているだろうけど。


「オマエの知った、ことじゃ、ねえ、よ」


 覚えた羞恥を誤魔化すように桃色の双眸を睨みつける。よく考えてみりゃあ、わざわざ話して聞かせる義理もないのだ。


「怖くないのか? おまえ様の汚れきった魂では、彼岸には渡れないぞ」

「余計な、お世話だ。クソガキ」

「でも」

「黙れ、ばか」


 こんな死に際だってのに、御伽噺の生物にまで暴言を吐かれるなんてさすがに複雑な気分だ。

 俺は最初から道を誤っていて、しまいにゃそれを自分で自覚している阿呆だが、いくらなんでもそこまでいわれる筋合いはないと一応思う。

 しかし、よく見れば竜に悪意はないようだった。純粋に俺の全てを見通し、ただ事実を指摘しただけなのだろう。

 俺の中途半端な魂じゃあの世にも渡れねえってか。言ってくれるよ。

 でも現実が既に地獄めいているんだから、未来永劫どこにも行けずに彷徨うのだって同じことだろ。


「……俺はな、自分がどこにも行けねえ出来損ないだってこと、くらい、ちゃんとわかって、んだよ」

「おまえ様は出来損ない、なのか」

「だいたいなぁ、オマエだって、こんな地の底に一匹きりじゃねえか。ぼっち竜がなまいってンじゃあ、ねえよ……」


 竜は少し困ったような、よくわからない曖昧な顔をした。


「ぼっち?」

「ひとりぼっちって意味」


 右手だけひらひらさせて説明してやる。どうでもいいけど絶対折れてるな、手。

 左手はもう付いてんだか付いていないんだかすら分からない。それをわざわざ確認しようとは思わなかったが。


「ひとり、ぼっち」


 竜は竜で一瞬だけ虚をつかれた風になり、その後はまた凪いだ表情に戻った。

 ただ俺を見下ろす目はどこか寂しげで遠かった。


「それじゃあ、おまえ様のいうとおりだな。わたしは置いていかれた。バグがあって皆と共に行かせてもらえなかった、竜の出来損ないだ」

「意味、わか、らんが、お気の毒さま」

「もう何十万年もこうだ。慣れている」


 俺の皮肉に、竜はただ微笑を浮かべるだけだった。

 それがかえって哀れげに見えて、事情が分からないなりにも罪悪感を覚えた。


「先にけしかけてきたくせに、かわいそぶるなんて、性質悪い」

「ええと、すまない?」

「…………でも、まぁ、ぼっちがイヤだってんならさ、ここから掻っ攫って地上まで一緒に連れていっても、いい、けどな。怪我が無かったら、の話だけどよ」

「おまえ様は嘘つきだ。その気もないし、もうじき死ぬというのに」

「嘘、じゃなくて、リップサービスと言え」

「どう違う?」

「えーと、優しさの成分は後者のが多く含まれて、おります……ってな」

「…………呆れた人間」


 軽口はすぐに見破られたが、竜は少しだけ柔らかい表情を浮かべた。その瞳は真剣だった。


「それでも、おまえ様は美しいな。夕暮れ色の髪も目もとてもきれいだ。ここでこのまま朽ち果てるのを放っておくのは悪い気がする」

「へへ、血まみれのガキ、相手に、綺麗もなんもねえだろが。でも……まあ、あんがとよ……」

「リップサービス」


 意味が分かっているかどうかは別として、こいつなりの冗談なのだろう。竜はしっかりとやり返してきやがった。

 そのあと、さして表情も口調も変えずにぽつりと言った。


「わたしが介錯してさしあげようか」

「汚れる、ぞ。やめとけ……」

「それじゃあ、助けようか。傷を癒し、もと居たところへ戻れるように」

「それも、いらない」


 俺は捻くれた笑みを浮かべて答えた。


「なにも望まないというのか、おまえ様は。きっと最後だというのに」


 少女の形をした竜は、呆れたような、それでいてもっと複雑な顔をした。これも人間の表情や行動パターンの模倣か何かなのだろうか。

 ともあれ彼女はその後少し考え込んで、再び俺のすぐそばに屈みこんだ。

 そして、こぼれ落ちる花びらのような美しい髪を片手で押さえて顔を近づけると、俺の口元の血をぺろりと舐める。

 唖然として見つめれば「不味い。海の水みたいな味がする」とだけ言った。馬鹿だろう。むしろ汚いし。でも、それからもう一回だけ唇を舐められた。

 キスでもなんでもない、滑稽で初心なだけの青臭い行為だった。愛も憎悪も、欲望すらもない。

 何も望まず、また望まれない交わり。こんなことは初めてだった。

 それでも温かくはあった。

 抗議かツッコミか、まあどっちでもいいが、出そうとした言葉は出ずにただ呻き声が漏れた。

 出来れば今くらい淫らで物欲しげな目をしていないかどうか気をつけたかったが、果たして竜の目に俺はどう映っていたか。

 ちっちゃくったって竜は竜。雌だというなら尚更だ。

 餓鬼だとはいえ、仮にも淑女にそんな視線を向けるのは失礼というものだ。


「なぜ。わたしには分からない、人間。おまえ様がどうしてそんなに哀しそうな顔をするのか」


 哀しいだって?

 それこそ馬鹿げているよ。チビ竜め。

 竜のような高位存在の考えることなんて、俺にはつくづく分からない。

 眼前の竜は美しく物珍しくもあったが、いい加減飽きてきたし、そろそろ眠くなってきた。血を流しすぎたせいかもしれないな。

 そういえば、きっと此処は蒼い竜の棲家だったのだろう。

 汚して悪かったね。そう詫びようとしたが、いつの間にか唇を僅かにひくつかせることしかできなくなっていた。

 そろそろほんとにお終いってか。


「まだ、名前も聞いていないのに」


 遠く聞こえる呟きに、何故か俺は必死に答えようとして声を絞り出す。

 もしも、俺の名前を呼んでくれるのなら。


 …………それなら、ほんの少しは。


「ああ……名前、ねぇ……それなら――――」


 熱が抜け落ちて、感覚がどんどん解けていく。

 すると、急に寂しさを感じた。胸をちくりとさすような小さく鋭い痛みを覚えた。

 愚かで情けないことに、そして驚くべきことに涙がこぼれた。腸をひきさく傷よりも、折れた骨より何よりも、よっぽど痛くて堪らなかった。

 これがどういう意味合いを持つ涙なのか、いまだに俺には分からなかった。分からないことだらけだった。そして、それを理解しないまま死ぬのだ。

 ああ、さすがにそれは寂しいな。

 …………とても、寂しい。

 今になって気がつくなんて、ほんとに救い様のない馬鹿だ。

 そう自覚したときから、どんどん涙が溢れて止まらなくなった。目の端からぽろぽろと次次に滴がこぼれた。

 頬を伝って唇に触れた水滴は熱く、甘かった。なんだか鉄臭くて血の味に似てもいた。

 さっき、蒼い竜が俺を哀れんだ理由がようやくわかった。

 嗚咽を殺して泣いていると、目元を拭う熱い指先を感じた。知らない間に、誰かが寄り添い、頭を抱いてくれていた。

 やがてそいつは俺の名前を呼んだ。

 だいじょうぶだと、まるで幼子をあやすような調子だった。

「どうすべきか勝手に決めさせてもらうことにした」と声はそうも告げた。おまえ様があんまり可哀相だから、と。

 そして、それは名前を呼びながら優しく触れてきた。

 こんなに優しく温かなものに触れられたのは初めてだった。

 地上の空の色に似た蒼が視界の端をよぎった。


「もし目が醒めて、いつかわたしのことを思い出したら、次はわたしの名前を呼んでくれ」


 そうか。さっき声を振り絞って答えたのは、誰かに名前を呼んでほしかったからだったんだ。

 そして同じように、地底にひとりぼっちで遺されていた竜も自分の名前を呼んで、誰かにその存在の輪郭を確かめてほしいと訴えている。

 もしもいつか叶えることができるのならば、本当にこの場所から連れ去ってやってもいいと俺は思った。

 そう思った、かもしれない。

 そして、遠くて近い呼び声だけが尽きかけの魂を手繰り寄せる。



 夢から醒める直前の浮遊感があった。



 夢の名残ように、今じゃ殆ど全てを忘れっちまったが、俺の名を呼ぶ声はどういうわけだか今も耳に残っている。

 その呼び声は、呪いめいた運命と共に魂の奥深くに刻み込まれている。




 ――――トワイライト。






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