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迷宮のウルトラブルー  作者: 津島修嗣
第一章 リトルドラゴン
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序話. Call My Name 〈前〉

 


 序話〈前〉




 落ちる。

 落ちていく。

 ぽっかりとあいた黒穴の奥深くまで、延々と落下し続けている。何秒、あるいは何分が過ぎたのか、数えるのはとっくに止めていた。

 かわりに、その間じゅう、ずっと竜のことを思い浮かべていた。

 遥か昔に墜落死した巨大な竜の亡骸が朽ち果てて、その骨骼が街の地下に馬鹿でかい迷宮を形作ったという。その伝承の竜のことを。

 別に意味なんてない。ただ何となく墜落のイメージが自然とそれを連想させただけだ。

 もし巨竜にも感情とやらがあったとしたら、その瞬間は一体どんな気持ちだったのだろう……なんて、俺は珍しく感傷的なことを考えた。

 地上には魔都と称される猥雑極まりない街があり、その真下には未知に溢れた広大な地下迷宮がある。長い間、誰の眼にも触れることなく眠っていた迷宮は、それほど遠くない過去にふとしたきっかけから発見された。

 ――――そして、目覚めた。

 富と名声を求めた人びとは、奇妙な迷宮を冒険する「探索者」として名乗りをあげ、こぞって地下迷宮の攻略に乗り出した。野心に溢れた探索者たちの存在が街の経済を更に潤わせ、迷宮魔術と現代科学が混沌とまぐわう魔の都を作り上げていった。

 俺も、その命知らずで愚かな探索者の一人だった。

 全て失うまで、そう、たった先刻までは。





 失敗した。

 俺はやり損ねたんだ。それも最悪の形で。


 そう自覚したときにはもう全てが後の祭りだった。

 仄暗い地の底、異界の門、あるいは冥府への入り口。なんでもいい。とにかく、地下に広がる迷宮の、その極めて深い場所へ突き落とされた後だった。

 最下部に辿り着くまでの落下は途方もなく長く、そして緩慢で、ともすれば永遠に続くんじゃないかと錯覚するほどだった。

 迷宮深部の異形構造を自らの目に映しながらも、俺の頭はそれらの景色を全く認識していなかった。

 唯一覚えているのは、なんの感情も伴わない生理的な涙が地上に向かって舞い上がり、泡のように散っていく様。それだけだ。それをぼんやりと他人事のように眺めていた。

 そうしてひたすら落ち続け、最後には岩か何かの硬いものにぶつかってワンバウンド。受身をとる余裕のないまま盛大に砂埃を巻き上げてどこぞへと背中から突っ込んだ。ひどく無様だったが、幸い落下はそれで止まった。

 細かく柔らかな砂が堆積していたおかげで即死は免れたけれど、どうやら色んな意味でここが終点のようだった。 

 ああ、なんだ。

 俺はこんなところで死ぬのかよ、ちくしょうめ。

 自分が置かれた状況を理解することは出来た。でも、為す術なんてこれっぽっちも思いつきやしなかった。いやはや、完全にお手上げだった。

 だから、せめて無意味に大声出して笑ってやろうとしたけれど、俺はもう声すら出せない状態だった。残念なことに唇からは掠れた喘鳴が漏れるだけ。

 叫びも祈りも、勿論いつものように悪態をつくことすらかなわない。

 諦めて視線を彷徨わせれば、蒼く澄んだ闇がある。寄せては引く波が砂を動かし、そのたびに腰や背中を細かい砂粒が擦っていく感覚がある。生き物の死骸の匂い――辺りには潮の香が満ちている。ここは波打ち際だった。

 今更何があっても驚かないが、迷宮深部は海のようになっていたのだと初めて知った。

 こんなことを知っている探索者なんて俺をのぞいたら殆どいないだろう。どうしてって、自力でこんなに深い層まで辿りつけるやつなんかまずいないからだ。

 でもまあ、知ったところでこれきり最後だろうけどな。半身が水に浸ったまま此処に転がっていれば、いつかは波に飲まれてしまう。もしくは波打ち際に打ち寄せられた死体のように、ゆっくりと腐敗しながら崩れていくだけかもしれない。

 どっちにしろ、終わりはそう遠くない。

 体はもう取り返しがつかないくらいめちゃくちゃにやられている。弾けた肉の袋のように内臓をぶちまけて、それでも千切れかけた四肢が辛うじて繋がっているので、俺は何とか人間の形を保っている。まったく何て有様だ。左手なんて付いてるんだか付いていないんだか、もう自分でも分からない。

 こんなになっても生きていられるのは、俺が生まれつきそういう風にできているからだ。でも、いかんせん損傷が酷すぎる。だからたぶん長くは持たないだろう。もはや死の気配は色濃く、間近に感じられた。

 どんなに美しく頑丈に出来ていたって生きてりゃ死ぬし、形があればいつかは壊れる。物事に価値や意味が生じるのは、それらに永続性が伴わないときだけだ。

 ともかく、最後に見る景色がこれなら文句は言えないだろう。迷宮中階層の冷たくて硬い壁に囲まれたまま死ぬよりよっぽどマシだ。屍肉を食い荒らすような下等な獣の姿も見えない。

 でも、それは魔物に限ったことじゃない。辺りには自分のほかに誰もいない。ひとっこひとり見当たらない。

 当たり前か。当たり前だ。他に誰が落ちてくるはずもない。

 孤児だった自分を引き取り育ててくれた師傳まで失った。そうだ、リンレイは俺を庇って死んだのだ。

 師姐が知ったら、ひどく心を痛めるだろう。憎まれたきり、口も利いて貰えなくなるかもしれない。だけど、この分なら再び顔を合わせることもない。面と向かって嫌われなくて済むのは、この状況では唯一の慰めだ。

 …………でも、きっとあいつ泣くよな。それなら傍で眺めてからかってやりたいとも思う。

 優しく甘く宥め賺して、何ならついでに抱いてやってもいい。強情な女が流す涙はさぞかし甘くていい味がするに決まっているのだから。

 それじゃあ俺自身はどうだろう。

 誰かに死を悼んで、そして泣いて欲しいんだろうか。分からない。そんなこともはっきり分からないまま死ぬなんて、ただの阿呆だ。まあ、それもとっくに自覚しているからいいけどな。

 ただっぴろい空間には心地よいホワイトノイズの繰り返し。音を食うような音が延々と鳴り響いている。穏やかな漣だ。

 仰向けに横たわったまま見上げる天井はどこまでも蒼くて遠い。音のせいなのか何なのか、脳味噌がこの数時間に起きた出来事を好き勝手に再生し始める。


 きっと走馬燈みたいなもんだろう。





『…………ねえ、まだ生きているのよね』


 囁くような、呼び声。


『聞こえているのでしょ? 返事をなさいな』


 このわたしが呼んでいるのよ、と。

 そして俺の名前を呼ぶ、甘く滴る毒のような笑声。咽返るような血の匂いと花弁の芳香。

 

 記憶は、頭のごく浅い領域にこびりついた感覚から再生を始めた。


『人間ってあんがい脆いのね。ねぇ、ちょっと、眼だってまだ見えているのでしょ? ほんの少し弄っただけなのに、ほら見てよ。腕が千切れちゃった』


 自らぶちまけた血反吐の中に這い蹲る俺の頭を、女の足がぎちぎちと踏みつけていた。

 言葉通り、四肢には焼け付く様な鋭い痛みがある。視野は赤く狭窄し、まともに状況を受け入れたら最後、イカれてぶっ飛んでしまいそうな理性を、この痛みが繋ぎとめていた。


『確か自分の手で父親の仇を取るんだとかなんとか言っていたわよね? でもそれじゃあ、あんた、肝心の腕が無くなっちゃったらどうするのかしら……?』


 更に頭上から降る無慈悲な言葉。くふふ、と心底愉快そうな含み笑いが聞こえるが、こちらにとっては不快なだけだ。

 仇敵。仇討ち。恨み憎しみ。

 俺が、この俺自身がただひとつだけ持っていた目的。暗くて、でも熱い情念だった。

 脳裡に刻まれた記憶が電流のように弾けて、手放しかけていた意識を取り戻す。

 激しく咳き込み、それでも酸素を求めて喘ぐように呼吸する。自分の血で溺れかけていたのだ。


『イイ顔』


 口の端から血泡を溢しながらも顔を上げ、女を無理やり睨め付ければ、そいつは頬をほのかに蒸気させてニッコリと微笑んだ。

 この上なく美しく、そして淫らで、婀娜な貌だった。


『目は死んでない。これなら、まだもうちょっとだけ愉しめそうね』


 女は俺の腰の上に屈み込み、外気に晒された臓物に鼻先を埋めて口付けし、じっとりと熱い体を重ね合わせてきた。

 もう何度目か分からない、猥りがましく苛虐な拷問。今となっては快楽すらもただの苦痛で、痛みだけが唯一の救いだった。


 探索者の多くは、迷宮を攻略し、富や名声を手にすることを目的としている。でも、俺は別に名誉や金が欲しくて探索者になったわけじゃない。

 狭いし暗いし、気色悪い異界生物がてんこもりの陰気なクソ迷宮は大嫌いだった。どいつもこいつも夢ばかり追うつまらない探索者たちにもウンザリだった。

 それでも迷宮探索をしていたのは、ただ父親の無念を晴らしたかったからだ。

 俺の親父は地下迷宮第十三階層で魔の族に殺された。それはとても惨たらしい死に方だった。俺は惨殺された父親の復讐のために迷宮探索を続け、仇敵を捜し求めてきた。

 そして、先刻。ついに合間見えたのだ。

 父の仇は、この世ならぬ美貌を持つ異形の女悪魔だった。魔の族の女王とでも呼ぶべきか。

 俺は躊躇も怖れも感じなかった。剣を抜き、持てる力の全てをかけて勝負を挑んだ。

 しかし、その全てがことごとく失敗に終わった。人と悪魔じゃ端から勝敗は決まっていた。実力もなにもかもが違いすぎた。

 別に知らなかったわけじゃない。勝てないことだって全部分かっていた。

 知ったことかクソッタレ、とそれだけ思っていた。勝てなくったって、どうしても挑まずにはいられなかった。この命にかけても、そうせずにはおれなかった。ただそれだけだ。

 そうして割とあっさり敗北を喫した俺を、悪魔の女はすぐには殺さず、暫くの間いたぶって弄んだ。

 口にだして言えないようなおぞましい行為を何度も何度も繰り返されて、体は襤褸切れのようにずたずたに傷ついていたけれど、心は何ら痛みを感じていなかった。むしろ、その苦痛を欲していたくらいだ。


『…………さて、名残おしいけれど潮時かしら』


 やがて、悪魔女がふいに離れた。俺を犯して虐げることにもそろそろ飽きが来たってところか。

 歯を食いしばり、それでも汚泥から顔を上げ折れた剣に手を伸ばそうとすれば、女はうっとりした貌をさらに綻ばせ、酷薄な笑みを浮かべた。


『許さないわよ。死ぬことも、私を傷つけることもね』


 情欲に塗れているが、恐ろしく美しい顔立ちだった。

 折れた刀は蹴飛ばされ、からんと音をたてて転がった。


『さようなら、可哀相な男の子。迷宮の深部なんて、きっと地獄よりつまらないでしょうね』


 女は俺の頭を抱いて血で汚れた顔を引き寄せると、甘い声で囁いた。肌が粟立つような声音だ。ねちっこくて舌ったらずな喋り方だが、いつまでだって聞いていたいと思わせる性質の悪い囁き声だった。

 女の体から立ち昇る芳香が鼻先を掠めた。思考を蕩けさせるような、これもまた甘ったるい体臭だった。


『もちろん私に刃向かった罰として、わざとそこに転送るのだけど。あんたはどうするかしらね。這い上がって、またわたしの前に立つ日が来るのかしら。それとも、ただ塵の様に死ぬだけかしら』


 女悪魔はぺろりと舌なめずりをしてみせた。


『どっちにしろ、しばらくはお別れね。たぶん、長いお別れになるでしょう』


 寂しいわ、と女は言った。

 アバズレ女悪魔は悪意の滴る淫猥な笑みのまま、別れの口付けをして寄越した。自分の手で俺をこんな風に追い詰めておきながら。

 誰より淫らで低劣な存在のくせに、それはまるで聖女がするような慈悲の篭ったキスだった。

 唇を割って入る肉の器官は熱く濡れていて、一瞬のまぐわいは内と外、互いの境界を曖昧に感じさせた。俺は口付けのさなかに唾を吐いたが、女は意に介さなかった。

 舌を絡めて唾液を舐め上げ、顔を離すと意地悪く笑って舌なめずりしてみせた。俺の精一杯の悪罵など、まるで気にも留めていなかった。


『あんたは黒渦のような眼をしてる。強欲そうで、不吉な眼』


 そうね、それだけはわたしに似ているわ、と付け足して。


『運があんたに味方するなら、また迷宮で会いましょう』


 女はとうとう俺から手を放した。

 奈落の底にむかって、俺の肩を押したのだ。

 いつまでだって待ってあげるのだわ、と最後に女の唇が言葉を紡ぐのを見た。





 そうして気がついたときには、この通りの有様だった。


 勝算なんてなかったけれど、相打ちするための策ならあった。

 ただ思いを果たせればそれでいいと思っていた。けれど、結局俺は糞餓鬼でただ愚かなだけの探索者だった。抜け目無いあの女には全てを見抜かれていた。窮地に駆けつけた師に命を救われたはしたが、自分の愚かで中途半端な覚悟が結果的に師を巻き込み殺めてしまった。

 思えば、そういう展開すらもあの女の目論見通りだったのかもしれない。

 そして、自分自身もじきに死を迎えようとしている。

 怖くは無い。思いを遂げられずに終わったのに、気分は不思議と晴れやかですらあった。死の苦痛を和らげようと、脳がむやみやたらに幸福物質を垂れ流してやがるんだ。

 迷宮なんか、本当に嫌いで。

 片っ端から何もかもを壊して回ることだけに低俗な悦びを見出すくらい、大嫌いで。

 迷宮の中でなら半ば合法的に暴れられることだけが、やがて唯一の気晴らしになっていた。魔物や悪魔を好き勝手に狩って回れば、それがかえって賞賛されたし、稀少な素材を流して荒稼ぎすることだって出来た。ダンジョン内で無法な行いをする人間どもをぶちのめして回ることだって出来た。

 なんつーか、何でもありだった。

 要するに、俺は地下迷宮も探索者も何もかもが気に食わなかったのだ。

 すべて壊してしまいたいとさえ考えていた。わりと本気で。今考えりゃあ、イミューンとかいう魔物どもと同じくらい有害だったな。

 それなのに、どうしてか最後に流れ着いたこの海はとても美しいと思った。

 ここは地の底で、迷宮の中の筈なのに、どういうわけだか蒼穹を見渡せる。空は幻かもしれないし、地上の空とは違うのかもしれない。

 こうなると、もう殆ど異界と違わない。きっと向こう岸はこの世ならざる場所なのだろう。この小さな海を隔てて彼岸と此岸は向かい合っている。その曖昧な境界に自分は流れ着いたのだ。

 …………で、どうしたらさっさと向こう側へ行けるんだ?

 死がどういうものなのか、まだ辛うじて生者である自分には窺い知ることができないけれど、ここまで来たらいっそ死んでみたいとすら思う。

 死の瞬間にそれ自体が認識できなくなるのなら、それはそれで構わない。

 だから、穏やかな波がこのまま自分の体を攫ってくれるのをじっと待ち続けてみる。そうじゃなくても血反吐を垂れ流しているうちにどうせ死ぬだろう。

 結果が同じなら、別にどっちだっていい。

 そのうち目を開けていることも億劫になって、俺はそっと目蓋を閉じた。

 

 

 ただ、その時が来るのをゆっくりと待った。





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