二十. 烨丰医院
二十.
魔都北西部・懺骸地区の路地裏街。
退廃的で妖しげなこの区画は、大繁華街から数ブロック離れた山側に位置しており、中央通りの喧騒も遠巻きである。
占い館、按摩院、雀荘に、刺青スタジオや画廊といった健全とは言い難い店が立ち並び、路上には屋台も出ている。軒を軋り、棟を並べる建物の間には、細い裏道がいくつも張り巡らされ、壊れかけた旧式ホログラム看板が昼夜を問わずに明滅を繰り返している。
まるで迷い路だが、昼間は基本的に安穏とした街だ。
普段であれば、外には露店を行き交う客たちや軒下で昼寝をしている老人の姿があり、残飯目当ての野良犬がうろついていたりする。
――ただし、今日は例外だった。
路地裏街の隅に建つ雑居ビル。一階から三階まで個人病院が入った古臭い建物だ。
〈烨丰医院〉という看板が出ているが、なにぶん文字が不鮮明で、病院であるということしか分からない。
いま、表玄関の前には、外国産高級車と防犯型の有蓋商用車がそれぞれ一台ずつ停まっている。車と医院の間には点々と血の滴った跡がある。なにかを引き摺った赤黒い痕跡も。
さらに扉の前に黒服の男が二人立って、辺りを睥睨している。
そして紅い扉には、『出诊中』『面会谢绝』『停诊日』と乱暴に書き殴った札が幾枚も無造作にぶら下がっていた。
御覧の通り、白昼からそうとう不穏な様相だ。
しかし親切か否かはさておいて、これは明確な意思表示ではあった。表の車のような来訪者以外の存在を敢えて遠ざけようとしていることがまるわかりだ。
そういうありさまが、逆説的な説得力をもって、この医院が然るべき相手を主要取引先に据えた商売をしていることを物語っていた。
闇医者。闇医療。違法な施術……。
すなわち、〈烨丰医院〉は裏界隈では名の知れた呪医が経営する黒暗診所なのである。
通りに満ちた緊張感の原因がここにあることは、誰の目にも明らかだった。
実際、医院の地下室では、違法かつ真っ黒な犯罪的診療行為が行われている最中だった。
♦
映画のフィルム越しに描かれるような、青みがかった闇の中。
地下一階の〈処置室〉には、すえた匂いと粘つく退廃の気が満ちていた。
上向きの格子窓から差し込む霞んだ明かりが、その場にいる二人の人物の輪郭を照らし出している。
外から降る光は複雑な格子模様をそれぞれの背に、そして床に投射していた。
……まるで魔方陣のように。
「どう? そろそろ吐く気になりましたァ?」
黄昏色の三つ編みを揺らして振り向く男の表情は笑顔。どこまでも底知れない笑みだった。
そしてそれは、魂を掻っ攫っていきそうな甘く殺人的な美貌である。
闇の中でも浮かび上がるように肌は淡く、白い。同時に瞳はどこまでも邪悪だ。
細く括れた腰つきに甘い顔立ちは、女のようでもある。しかし、その双眸に渦巻く底なしの欲望が、彼を男として際立たせていた。
トワイライト。この医院の主である。
今、トワイライト医師の両手指には医療用の鍼が三本ずつ握られていた。紺のスクラブにしぶいた血が、黒い華を咲かせている。
彼がこの瞬間までどのような所業を働いていたのか、姿を見ただけで大体のところは察しがつくだろう。
そして、トワイライトが振り返った先には、まだ若い男が椅子に座らされていた。
肌蹴て血と汗の染みた柄シャツに、泥だらけのスラックス。恐怖にひきつり、疲弊しきった表情。
青年の様子からも、なにをされていたのかが見て取れる。
椅子に座ったまま、男はなにかを訴えようと必死にもがくが、わずかに身じろぐことしかできないでいる。
声は出せるが動けはしない。主要な関節の経穴をすべて封じてあるからだ。
「あ、あ、た、頼むっ! 頼むから、もうやめてくれっ! ……すべて喋った、知っていること、は、ぜんぶっ……!」
涙を流し過ぎて爛れた瞳が、懇願の色を浮かべて訴えかける。もう限界という様子だった。
鼻歌混じりで宙を向いていたトワイライトの双眸には、対照的に嗜虐的な色が浮かぶ。
ぐるり、と渦巻く黄昏色の眼だけが青年に向けられた。
「ンン~? どうしよっかなァ。だって、お前が喋った内容にはいちばん聞きたいことが入ってないんだもん。協力者のリストが欲しいって、さっきから言っているだろ?」
「知らない! 知らないよ! 名前も顔も伏せられていたから、お、俺はなにも……本当に知らな」
「シーッ! 黙って。そう……静かに、ね? ってかこの期に及んで俺はなんにも知らないンですぅ、とかさすがにないでしょうよォ。それはァ?」
わざとらしく困り顔をしたトワイライトが小首を傾けた――次の瞬間、青年の口から絶叫が迸る。
「あんた幾らなんでも芝居が下手すぎなんだよねぇッ!」
先程までトワイライトの手中にあった鍼が消え、青年の太腿にそのすべてが突き立っていた。深く脂肪の層を貫き、その奥にまで食い込んでいる。
予備動作は無く、投げ放つところは見えなかった。第三者がいたとしても同じだろう。
なにも見えないくらいに速かった。
そこを蹴りつけ、傷口をぐしゃぐしゃにいたぶって、トワイライトは幽かに微笑む。
べつに面白いわけではないので、ゲスのド外道らしく「キャハハ!」などと大笑いしたりはしない。……とりあえず、いまのテンションでは。
「……ねッ♥ 痛い思いは嫌だよなァ。おれも心が痛むのはいやだ」
トワイライトはわざと音を立てて椅子ごと詰め寄り、青年に目線を合わせた。
背もたれに顎を置いて微笑めば、男はがくがくと震えて呻く。
「ぐ、う、わかった、わかったからっ! 知っている名はぜんぶ言うからぁ!」
「あっそ。じゃあ最初からそうしてよ」
途端に面倒くさくなったトワイライトは、欠伸をこらえながらも尋問を続けようと試みる。
退屈でありふれた仕事だった。集中するのも退屈なくらいにありがちなパターン。
裏路地街が緊張感に包まれているのも、彼の医院の前に怪しげな車が止まっているのも、元はと言えばこの依頼が原因なのだが。
……つまらない仕事。潜入がバレて逃走した対立組織の構成員を捕えて情報を吐かせろという、〈藍洛幇〉の幹部・洛 雷生からの依頼だった。
とくに男の協力者のリストが欲しいとかなんとか。詳細を聞いたような気もするが、どうでもよい感じだったのでとっくに忘れたことにしている。
要するに、拷問、暗殺。いつもの汚れ仕事。今回の件もそのひとつ。
たしかに退屈ではあるけれど、標的が迷宮まで逃げ込まない限り、地下よりはよっぽど安全だ。それに額面を見れば、おそらく割にはあっているのだろう。
「まったく、あんたのお仲間はえらいよなァ? ちゃんとおれにオマエのことを教えてくれたんだもの。あっさり吐いたんだよ、おまえの居所も、なにもかもね?」
「そ、んな! 嘘だ!」
「どうだろうね。ちょっとは粘ったかも知んないけど、いまこうしておれがオマエに会えてるってこたァ……ご愁傷様だね」
トワイライトの背後には、もう一人男が倒れていた。
眼前の青年よりよっぽど頼もしげな体格だが、既に事切れている。首から上はいずこか、行方が知れない。
あらゆる傷口、その断面には呪符が幾枚も貼りつき、全身に拷問用の針がつき立っている。ひどい最期を迎えたに違いない。
リノリウムの床にはまだ乾ききらない血の跡が点々と続いている。ところどころ掠れているのはトワイライトが歩きまわったためだ。
鮮やかな朱色が緑の床とのコントラストで生々しく映えている。
手術着の緑が血腥さを緩和するというが、あれは嘘だ。
「さあ。この際、はやく楽になりたいだろう? おれなら、おまえにすぐにでも安息をくれてやれるんだよ。このおれだけが。……そうだね?」
入口には黒い法衣に身を包んだ一対二体の幼齢キョンシーが控えている。
魂のない屍は、自分の主が仕事を片付け、新しい命令を下すまで動かない。
餌となる新鮮な肉を、よく躾けられた狗のように待ちわびながら、今のところはじっと耐えている。
「おまえの仲間もみぃんな分かってくれるさ。誰だってツライのは嫌だもんなァ……。思い遣ってこそのトモダチだろう?」
「うう……」
トワイライトは袖からマッチを取り出すと、そのまま煙草に火をつける。自然な動きだった。
しばらくふかした後、すうっと深く吸い込んで、紫煙を吐き出す。
形のよい唇から、得体のしれない生き物が這い出てきたように見えた。
不気味な紅灰色の煙が、まるで意志をもつかのようにうねり、男の顔を包み込む。やがて頭全体にまとわりついた煙は、口や鼻、耳孔から体内へ、ゆっくりと入り込んでゆく。
「どうです? 水子の頭蓋を砕き、数種類の薬草を合わせて調合された特別製だよ。集中力を高める効能があるけど、一番は催眠効果……おや、聞こえてます? 効きがよすぎるのも困りものですねぇ。ま、いいけどなァ」
……床に投射された格子模様がぼんやりと燐光を放ちだす。
やはり、この部屋には最初から呪術的仕掛けが施されていたのだ。
拷問の末、相手を弱らせ、情報を引き出す。その際にトワイライトが用いる手法は何も暴力だけとは限らない。
彼には道術の心得があった。
「さあ、ここにおまえのお仲間の名前を全部書くンだよ。洗いざらいね。そうすりゃ痛くもしないし、怖くない」
耳に唇を寄せて妖しく囁きかけるが、反応はない。青年の目はもう虚ろだ。
愛撫するようにねちっこく、男の首筋から肩、胸へとトワイライトの手が通り過ぎていく。こんな触れられ方をすれば、男女の区別なく堪らないであろうが、男にはもうそれすら伝わらない。
トワイライトは濃い紫色の咒符を男の前に差し出した。
隅々までよく書きこまれているが、真ん中を空のままにしてある。未完成の札だった。そうして男の手に筆を握らせ、最後にぽんと背中を押した。意識があれば、コレすら心地よいと思うであろう。
他人に苦痛を与える術を知り尽くしたものは、逆も真なり。
快楽を与え、享受する方法も十分に知り尽くしている。
「ほら、どうぞ。ご自身の手で始末をつけましょう……」
一拍置くと、不思議なことに男はすらすらと咒符に文字を記し始めた。拘泥することなく、紙面を筆が走ってゆく。
男の手元を覗きこめば、紫の咒符に人名が次々と書き記されていくところだった。
何かの暗示にかかったように――実際、術中に身も心も堕とされているのであるが――その筆致は自動化されていて、淀みがない。
トワイライトはにんまりと微笑んだ。思い通りだ。呪詛は巧く発動している。
最後には、合わせて八名分の氏名が連なっていた。
「はい、ごくろうさん。間違いだったら首がふっとんじゃいますよォ?」
男は答えず、力なく頭を垂れるのみ。唇から涎が垂れ流され、目からは完全に生気が消えていた。
間違いでも正解でも、あとはもう関係がない。
男は吐いた。これが結果だ。真実ではなく事実があればそれでよい。
すくなくとも、依頼人は納得する筈だ。
「じゃ、ばいばい」
ひらりと手を振って、トワイライトはドアの方を振り返った。その瞬間にはもう男は絶命していた。無数の針に射抜かれ、その額には黒地に朱墨で符箓の記された咒符が貼りついている。紙片の表面に文字が浮かび上がり、淡い燐光がちらちらと輝く。目にもとまらぬ早業だった。
そして、椅子にしなだれた男を犯すように十字型の影が被さっていた。手を広げたトワイライトの影法師であった。
「ふ、クク……脆弱だよなァ。クハッ……ああ、つまらんねぇ」
何が面白いのか小刻みに笑いながら、手で合図をする。
控えていた二体の幼齢キョンシーが進み出て、ものも言わずに後片付けを始めた。
白髪を肩のあたりで切りそろえたキョンシー娘がモップを掛け、好対照な黒髪娘が死体を詰めた灰銀のビニル袋を運び出していく。どちらも艶めかしく美しい少女の屍である。生きながらえていれば、たいそう美しい女に成長していただろう。花は咲かずに蕾のまま切り取られたのだ。だれの手が命運を摘み取ったのか。
主とすれ違った際、黒髪キョンシーは抜け目のない人喰い妖怪の本性からか、胡乱げに尋ねた。
「……これ、たべる、よい?」
「アー。処理したあとでゆっくりねェ」
トワイライトは娘の黒髪をさらりと撫でてやった。当然、髪も頭も冷たいだけだ。魂においてけぼりをくらった肉体の残骸。
これといってとくに反応を示すこともなく、キョンシー娘はズルズルと袋をひきずり、階段室の前でそれを担ぎ直して出ていった。掃除用具や散乱した無数の荷物、それに大の男をこともなげに持ち上げてみせる怪力は、彼女らがやはり死体妖怪にほかならぬことを物語っている。
白髪娘が次のカルテを差し出し、トワイライトはそれを受け取った。
「十三番の患者様ァ、どうぞ。上着を脱いでお入りください」




