-かはたれ-
×××.
「……走査」
声に呼応し、ルミナスグリーンの光が迸る。
汚れのない新雪を踏みしめるように、白い裸身に〈道〉が描かれていく。
〈道〉の正体は体内を流れる代謝物質――気血榮衛の通り道である〈経絡〉をスキャンし、肌の上に直接マッピングしたものだ。
これは科学と道術を組み合わせて造られた、気血水の流れを視覚化する非侵襲的画像法。とくに、体内の魔力動態を調べるために開発された仕掛けの一種として重宝される。
やがて、燐光を束ねた羽衣で、少女の裸体が爪の先まで彩られた。
体内に秘めた魔力を可視化した仮想布を纏う少女は、暗い部屋の真ん中に設えられたアクリル水槽をたゆたっている。
眼を閉じたまま身じろぎもしない。ただ薄い胸が呼吸に合わせて上下するのみ。溶液のなかで広がる長い髪は蒼銀の翼のようだ。
少女は――ブルーは眠っている。
深く、そして長く眠り過ぎている。
夜のもっとも深い時間。彼は誰時はまだ遠い。
トワイライトは、師匠であるリンレイから譲り受けた〈烨丰医院〉の地下研究室に籠っていた。
今夜はとても静かだ。いまこの場に在る音は、装置類の僅かな唸りと、ブルーの呼吸に合わせて泡が逃げるこぽこぽという心地よいリズムだけだった。
怪異発生と霊験道士の女の件が、騒々しさをすべて掻っ攫ってしまったらしい。
もしくはネロとの通信を終えて、一時的な空虚さに襲われているだけなのかも。
なんにせよ、こうして一人でじっとしていると、沈黙が降り積もっていくようだった。
「今夜も異常なし、か。……なァんで目覚めないかなァ、おまえさんは」
大袈裟に伸びをすると、一通りの検査を終えたトワイライトは椅子に深く凭れかかった。
こちらを向いてはいても、少女の桃色の瞳は堅く閉じられている。
魂を鷲掴みにするようなあのまなざし。大きくてやさしい凶悪なあの腕が、トワイライトの頬に伸べられ、触れることもいまはない。
……どうせならおれの名前を呼んで、つまらない沈黙なんて消してくれればいいのに。
ついそんなことを考えた自分に舌打ちして、カルテに書き込みを入れる。そこでようやく装置の電源を落とす。
ここまでを含めた一連の手続きが、最近の日課になっていた。
一日の仕事を終えると、地下研究室へ潜り、ブルーの様子に変化がないかを確かめる。
そういう日々がかれこれ二週間ほど続いている。当初は二、三日で目覚めると思っていたのに、完全に当てが外れた。正直こうなると想定外もいいところだ。
ブルーは十四日間ぶっ通しで眠り続けている。今夜も含めれば十五日。
彼女の様子は昏睡状態とも違っていた。身体も、そして魔力の面でも健康体。どこにも異常は見当たらない。
それなのに、一向に起きだす気配がないのだ。
こうして眠ったままなのは、おそらく負荷が掛かり過ぎたせいだ。
トワイライトはそう見積もっていた。
喚びたての不完全体を酷使したうえ、術者のコンディションもボロボロだった。無理を重ねた召喚術は術者だけでなく使役獣にも悪影響をもたらしかねない。
おまけに、その後の命をかけたやりとりで、ブルーの魂魄に損傷を与えた恐れもあった。事実、彼女の記憶の一部は失われてしまった。
そして、もうひとつ。こちらはもっとも考えたくない可能性の話だ。
この仮説の通りならば、ブルーはこの先二度と目覚めないかもしれないのだから。
ブルーの肉体は急ごしらえの人造物。彼女は、召喚術によって仮初めの形を与えられた化生にすぎない。こちらの世界におけるブルーの存在はしょせん〈傀儡〉なのだ。
だから、自ら目覚めるだけのちからを持ち合わせていない。
要するに、紛い物であるが故の動作不良が原因だと――そういう話だ。
……でもそんなこと、残酷すぎる。
理不尽をいつも他人に突き付けて生きているくせに、いざ自分にお鉢がまわってくるとこれか。
われながら勝手な理屈であると思うが、ブルーのこととなると話は別だ。
理屈も無理も不条理も、なにを蹴飛ばしたって、もう一度会いたい。
ぜったいに。
『だいじょうぶ、トワイライトがなんとかしてくれる』
実際、あいつはこっちの命をしっかりなんとかした後で、笑ってそうのたまった。
守る保証のない約束しか持たぬ男に向かって、持っているものすべてを捧げて。
地上へ連れて行ってほしい。これ以上、迷宮の奥底に独りきりはいやだ。一緒に行きたいのだと、あいつは願った。
――――ならば少なくとも、ブルーの意志は本物だ。
「……にせものなんかじゃない」
なにがエラーだ。まがいものだ。蒼い炎を瞳に灯し、はっきりとそう口にする。
蛮勇であったとしても、勇気がないよりよっぽどいい。
ひとりごとだって、なんだっていい。誓いを吐き出さなければやってられない。
この願いは胸に秘めておくような、そんなささやかでお綺麗なものじゃない。
これはわがままだ。
ふたり分のわがままなのだ。
おれはあいつに約束をした。信頼されて、あとを託された。
あらためて、トワイライトはそういうことを思い出す。
だから待てと言うなら、いつまでだって待ってやる。今度はこちらが踏ん張る番だ。
でも、方法は必ずある筈だ。おれがおとなしく待っているようなタマじゃないことは、あいつだって知っているだろう。そうとも、必ず目覚めさせてやる。
たとえ自分に言い聞かせるような情けない調子であっても、今は諦めるわけにはいかなかった。
火の付きかけた思考がふいに記憶を呼び起こす。どうして今まで思いつかなかったのだろう。
〈特殊霊魂〉といわれる存在があった。
あの世とこの世の境目で、生死の属性を持たずに動くことのできるもの。それ故に不安定で不確定な存在。
無理やり形を与えられ、迷宮から地上に連れてこられたブルーは、ある意味ではその状態に極めて近い。
……それなら、やりようはまだある。
縁をつくってしまえばいいのだ。彼女を深くこの地にとどめておけるような柵を。
問題はその方法だった。こればかりはもう少し考える必要がある。
「おまえが望んだ領域は、三角形の中でも魔法瓶の中でも、地下迷宮の奥底でもなく、この世界そのものなんだろ。なら――」
――その時は、おれがオマエを完全にしてやるよ。欲しいと言うなら、今持っていないものも、欠けてるものも全部おれがくれてやる。
あの時、絶体絶命の瞬間に、トワイライトはそう誓ってしまった。
ならば、あいつが飽きるまでくれてやればいい。
『あと数百年くらいならトワイライトにくれてやる』
もとはブルーが言いだしっぺなのだから、手加減はなしだ。
いまはもう、この誓いを本気で守りたいと思っていた。大した理由もないけれど、魅せられたのなら仕方がない。それが運命だっていうのなら尚更だ。最初から、後悔なんてしていない。
奪うことができるのなら、その逆だってできる筈だ。
……ブルーはそういったが、どう考えても魂を奪われたのはこっちのほうだ。
水槽の上に向かって舞い上がっていた泡が、雪のように反転してゆく。
魔的なエネルギーが舞い上がり、降り積もる。しんしんと、音もなく。
トワイライトはそれに気がつかなかった。わずかな変化だ。誰だって気がつくことは不可能だったろう。
照明を落とし、それでも背後を一瞥してから踵を返す。
そのあとを追うように、ブルーの蕾のような唇が、たった一言を紡いだ。
『――――トワイライト』
それはまだ誰にも聞こえない幽かな呼ばわり。
けれど、目覚めはたしかに近付いている。




