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迷宮のウルトラブルー  作者: 津島修嗣
読みきり短篇 「薄暮冥冥」
2/36

薄暮冥冥 〈下〉

 



「さぁて、ネロ。これで邪魔なくヤレるよなァ!」

『うん。まず結界内のやつらを片付けて。音に反応してこれ以上新手が引き寄せられる前にね』

「分かってるよ。あ、オマエ危なくなったらリンク切れよな」

『いや、トワイならそれはないでしょ』

「あのなァ……普段からおれを過信すんなって言ってンだろうに」

『失礼だな。これは過信じゃなくて、信頼っていうんだよ? トワイライト』


 遠く距離を隔てているというのに、この小娘が今どんな顔をしているのか、トワイライトには容易に想像がついた。

 たぶん、とびきり眩しい顔をして笑ってやがる。そうに決まっている。

 トワイライトは舌打ち一つ。ネロが微かに笑声を漏らす気配がした。


『反応に困るとイラつく癖、直したら?』

「……余計なお世話だ」


 ネロもまたトワイライトの感情や仕草を的確に読み取っている。

 知覚に認知、意識経験。そういうある種の〈魂〉を同期しているが故のことなのかもしれない。ネロは今、このおれの一部となっているのだから。

 そんなことを思いながら瞼を閉じる。

 いや、今は考えるな。何もかも消し去ってしまえ。愛しい面影、幻影すらも全部。


『案外はにかみ屋さんだよね、トワイって……』


 ネロの追い打ちを含め、すべてを頭から締め出していく。

 トワイライトは固く眼を閉じて、トランスにむかって集中を高めはじめた。

 召喚術。自らの内側に力を呼び入れるそのために。

 地下迷宮は現世と異界の境界が曖昧で不安定であるらしい。そして、〈竜素〉とよばれる竜の魂の残り滓……魔的なエネルギーで満ちている。もともと異界からやってきたとされる巨大な竜、その屍が骨組みになっているというのだから、それも頷ける。本当か嘘かは知らないけれど。


 ともあれ、迷宮内の魔的エネルギー〈竜素〉を練って術を編み上げ、己の血肉や精気を贄に、異界の精神生命体を自らの内に喚び降ろす。これがトワイライトの行う憑依召喚だ。

 さっきの魔術はその前段階で止めたもの。自分の周囲に集めた〈竜素〉を操り、魔獣にぶつけただけのものだった。

 喚ばわる対象は、神でも精霊でも邪霊でも、なんだって構わない。たとえ、ぐうぜん頭をよぎったイメージの一片であろうとも。波長が合い、これと直感するものを降ろすだけ。そうして自身が神魔の乗り物と化して戦うのがトワイライトのスタイルなのだ。

 符呪を用いた鬼や精霊の使役とも召喚術は異なっている。そして、この術は地下迷宮でしか使えない。


 結界内の〈竜素〉が急激に力を増していく。得体の知れぬ力がトワイライトの周囲に集まり、渦を巻く。

 ただならぬ気配を感じ取ったのか、魔獣どもが低く唸り声をあげて臨戦態勢を取る。四肢で強く大地を踏みしめ、今にも襲いかからんと、無数の赤い眼光が鋭くこちらを睨めつける。

 それでもトワイライトはまだ待っている。

 イメージを練り上げ、自分の中に降り来るそれを。待つ。ひたすらに。

 けして辛抱強いとはいえない自分が待っていられることといったら、真面目にこれくらいしかないだろう。

 それは、暴力。破壊行為。圧倒的な開放。


 ……そうだ。じれったくて堪らない。アタマの中のスイッチがあるならぶっ壊したい。

 おれを縛る何もかもが邪魔なんだ。だから見えない箱を抉じ開ける。脳の中の秘密の部位を。目の奥に手を伸ばして引きちぎる。リミッターをはずす。後戻りなんかこれっぽっちもできないように。壊れて壊し、すべて殺し尽くしたい。

 とびきり癖になる甘い毒。それが早く欲しいんだ。

 陶酔と恍惚が欲しくて、ひたすら加速する。血が沸騰する。

 高く飛べと誰かが内側から盛んに囁き、焚きつけてくる。そいつはおれを食い破って飛び立とうと、必死にもがいている。

 無慈悲なはばたきが脳裏をよぎる。舞う銀鱗と、鋭い爪痕。


 そして降り来るイメージに形を与える。


「……来たァッ♥ きたきたきたきたァッ♥」


 はち切れそうなまでに膨れ上がった殺意と衝動。

 もう抑える必要はない。それらを起爆剤に、とびきり高くトランスしてしまえばいい。

 振り切って、ぶっ飛べ。

 生も死も、生者も死者も怪物も、すべて侮蔑し、壊してしまえ。

 鼓動が深く速く脈打ち、瞳孔は大きく拡がる。幸福物質に興奮物質。頭から指の先まで、体中にそれらが溢れてゆくのを感じ取る。赤くて、冷たい。なのに熱くて堪らない。


 限界を超えて、自分と、自分の中に降りた力を解き放つ。


 駆けだしたトワイライトは手近な魔獣に容赦なく斬りかかり、出鱈目にねじ切って打ち捨てた。そのまま一足飛びで次から次へと魔物に襲い掛かり、薙ぎ払っていく。

 四肢をフルに使って跳び回るその立ち振舞いは、ひどく人間離れしたものだった。

 自分の得物だけでなく、あらゆる身体の部位を武器にして破壊を繰り出していく。


『おわっ、トワイ! 鼻血出てるよ』

「アアン? 今それどころじゃねーよォ!」

『負荷がかかりすぎなんじゃないの?』

「負荷ァ? そんなん知るかァッ! 爆ぜて吹っ飛べ!」


 怯まず跳びかかってきた犬型イミューンを蹴飛ばし、燃やしながら哄笑する。とびっきりにハイで最高だった。

 それでも、舌で舐め取った己の血の味は、クソみたいに塩辛くて不味かった。

 ……でも、イイ。愉しいから、イイ。


「キヒッ、しょっぱ」

『まったくもう、汚いなぁ』

「ほっとけぇ!」


 おれは自分の血の奴隷だ。神の戦車で神の乗り物。でも多分、善い神じゃない。なんだって構わない。

 やれ! やっちまえ! 飛び上がれ、こっち側へこい! 

 そうやってしきりに誘う呼び声にわざわざ抗う必要なんざない。乗ってしまえばそれでいいんだ。ルールもモラルも捨てちまえ。それがおれの正論だ。少なくともこのクソッタレ迷宮の中では――。


「なんだって構わないよ! なあ、ネロ! とびきりダーティにやろうぜ!?」

『はいはい。もうお好きにどうぞだよ』


 言葉通り、暴れまわる。暴発する。世界が色づく。本当の姿に反転する。

 めまぐるしく変わる。何もかもが早くて、やけに世界がゆっくりだ。

 ならばもうおれの独壇場。張り巡らせた罠の数々とともに世界を切り取って、狩りに興じる。

 それだけだ。


「逃ィげんじゃないよォッ、おれの領域からァッ♥」


 獲物を外に逃がさぬよう、結界によって堅く閉じた秘密の狩場で、トワイライトは嬉々として刃を振るう。

 自分自身と心の内に生じた力が、思い願うままに九鈎刀をぶん回す。刃を引きまわし、押し返す動きで次々に襲い来る魔獣を屠る。あるいは鋼糸や咒符を用いて、屍の山を築いていく。

 結界で造られた見えない壁に肉塊がぶつかり、滑り落ちる。

 血の筋だけが残り、紅い紗幕を描き出す。

 それらは燐光を放つ不可視の壁面を、夕暮れ時の複雑な色彩に染め上げていった。


 ……宴はあっという間に終わってしまった。




 ♦




「うう……」

「ハァイ、おはようございまァす!」


 絡みつく蜜のような声が耳の底に響き、男は急速に覚醒した。今この瞬間まで暗示にでもかけられていたかのように、その形容し難い声ははっきりと頭の中まで届き、男の意識を現実に掬い上げた。

 点穴を解かれたのだろう。自由の利かなかった身体も元通り動けるようになっている。

 我に返ると、その場で動くものは男自身と先ほどの道士、そして彼に付き従う妖精の化身(アヴァター)だけになっていた。

 結界内のいたるところに肉片や血の塊、また魔物の死骸がぶちまけられており、繰り広げられたであろう戦闘の惨状を物語っている。

 あのイミューンの群れを一気に屠った道士は一体何者なのか。

 男は慄いて呻き声を発するばかりである。脅威が去った実感はまるでない。ガタガタと震えながら、ただ当惑するしかなかった。


「さっきは乱暴なことをして悪かったね。貴方に下手に動かれたら危ないと思って、その……咄嗟にあんな真似をしてしまって」

「ひぃっ!」

「怯えないで。全然ダイジョーブだから、怖くない。ほら、ね?」

「あ、あ……」


 身構える男に対し、「すまなかった」と言って道士は手を差し伸べてきた。先ほどの狂態が嘘のような、控えめで大人びた態度だ。

 青年の振舞いには悪意が無さそうに見えるが、まだ安心はできない。地上では散々追っ手に追い掛け回され、地下では魔獣の餌になりかけて、男の心身はすっかり擦り切れていた。前ほど簡単に人間を信じることが出来なくなっていた。


「あ、あぐ、あんたなんなんだ! 何者なんだよ!」

「おれは迷宮召喚師のトワイライトだよ。こう見えてもフリーランスの救助員で、迷宮探索統括機構(LQPO)の要請を受けて貴方を救出しに来た。お名前、イジェクさんであっているよな?」


 道士は柔和な眼差しを男に向けると、優しげに微笑んだ。さっきまでの殺意や狂気は最早なりを潜めている。その振る舞い方も言葉の通りで、遭難者を安心させるような温かみを感じさせるものに切り替わっていた。


「ほ、ほんとうに、俺を救助に……? でも、俺は地上では……」

「貴方の状況は知っている。これはあくまで内緒の保護依頼なんだ。いくら説明しても安心できないかもしれないけれど、おれのことは信じてほしい」

「つまり……それは、助かるってこと、なのか?」


 男の問いかけに青年がこくりと頷く。

 ……ああ、とても信じられない。助けが来たのだ。

 ようやくその実感が男の胸に押し寄せてきた。救いの手を差し伸べられた男は、顎をわななかせながら、安堵と興奮で眼に涙を浮かべた。


「どう、立てるかい? 怪我はナイ?」

「だ、大丈夫だ。あんたが来てくれたおかげで……その……ありがとう」

「そりゃ良かった。うんうん、健康そのものって感じだな。これでこちらも一安心だ」


 青年は男の手を取ると、力強く握りしめた。握手のつもりだろうか。強引ではあったがその手は熱く、頼もしいと思えるほどの力がこもっていた。

 男は安堵感から頬をぎこちなく弛緩させた。笑みのつもりだが、まだ上手く笑えそうにない。

 道士はそんな男の様子ですら優しげに見つめ、安心させるように微笑を浮かべている。最高級の外面に加え、内面の優しさや爽やかさまでもが滲み出ているように見受けられ、男は自分の窮地を救った青年に好感を抱いた。

 ……俺にも少しは運が残っていたみたいだ。これで迷宮から生きて帰ることが出来る。俺のような男にも手を差し伸べる探索者がいるのか。そう思うと、鼻の奥を熱く込み上げてくるものがあった。まだまだ捨てたもんじゃないのだ、魔都も迷宮も。地上に戻ったら、上手くはいかないかもしれないが、どうにかやり直せるかもしれない。

 危機を脱した興奮で、男の胸中にはそんな希望さえ湧いていた。

 ……そうだ。死ぬ気でやればきっと現状から抜けだすことだって出来るだろう。そうしたら、今度こそまっとうなやり方で生きていくのだ。


「はい、ということでネロ。至急、標的確保の連絡入れてね~」

『もうやってる。兄さん達がお待ちかねだ。これ以上予定が押すと人生的な意味でトワイの時間がなくなっちゃうよ?』

「なぁんでおまえさんの兄さん連中は揃いも揃ってせっかちなのかね。ちょっとケツの穴ちっちゃ過ぎんじゃねえのォ?」

『む。他はともかくとしてボクの兄さんの悪口いわないでよね!』

「標的? なに、を、言って……」


 黄昏色の道士はニタリと婬猥な笑みを浮かべると、男の目を見下ろした。


「はん。さっきの、信じたの? 内密な依頼で、おれが救助にきたってぇ、本気で信じちゃってたのォ?」


 何かのスイッチでも押したかのように、その態度は再びがらりと変わっていた。

 先ほどのような優しさや情熱の欠片の一切ない、冷たく渦を巻く瞳。唇は禍々しく弧を描いている。


「イジェクさァん、それって超ダメダメじゃないですかァ。っていうかァ、いい大人が他人のお金を持ち出した挙句、勝手に組織を抜けて逃げ出すなんて大馬鹿やっちゃあねぇ」

「あ、お、お前……どういうことだ!? 救助じゃないのかよ!」

「アー、ね。確かに救助も頼まれたのだけど、救助した後にもう一仕事頼まれてんだよねぇ。ついでに機構の要請というのは嘘でしたァ♥」


 道士はもはや悪意を隠そうともせずに、舌を出して男を嘲って見せた。


「なに、アナタ借金あんだって? よくないねえ。しかもその上、妻も娘も売っちゃってもう返す金もない? それでこんなクソ陰気きわまりない迷宮まで逃げ込んだってわけ? でも、大丈夫ですよ、安心してください。貴方のような一文無しの外道にだってまだカタはあるんですから……」


 性質の悪い手品だった。両手を広げて仰け反る道士の手には、今しがた握られたとしか思えぬナイフが三対。


「そう! 貴方自身の中にね!」

「なぁッ!?」


 ……いや、ナイフではない。それは外科手術用のメスであった。ただし特殊加工によるのか、一切光沢のないドス黒い色をしている。

 眼前の狂気じみた光景を認識するやいないや、男は再び恐怖に震えはじめた。先ほどの何倍も絶望感の増した恐怖に。

 なんてことだ。この道士は救済者などではない。自分が属していた犯罪結社からの刺客だったのだ。しかも地上の追っ手より数倍アタマのおかしいやつを寄越してきやがった。

 もう何が起こるのか分かっていた。頭の片隅ではおそらく逃げ切れないことも理解していたが、耐え難い恐怖が男の体を動かした。愚かにも背を向け、よろめきながら、この場から逃げようと一目散に走り出す。しかし、すぐに音もなく飛来した何かに足を絡め取られて、派手に倒れ込んだ。

 結界の中に張り巡らされた罠のことを今更思い出した。

 あれは魔獣だけを狙ったものではなかったのだ。この道士のテリトリーに踏み込んだモノの全てを絡め取る、狡猾で残忍な仕掛けだったのだ。


「へへ、捕まえたァ!」

「あ、あんた、救護人……迷宮召喚師じゃないのか!?」

「残念でしたァ! 術を使うといってもおれは外法道士、左道をゆく邪術の操り手なンだよね。まー、迷宮召喚師ってのも嘘じゃあないんだけどさァ」

「けど! 地上の結社のやつが迷宮で犯罪行為をするのは、ご法度だと……!」

「おれはおれの事情で好き勝手やってるフリーランスだから関係ないんだよね。お前のオトモダチとはあくまでビジネスの付き合いがあるだけだからなァ? ついでに、こっちはこっちで別の心強いオトモダチがいるから、お咎めもなしなんですよォ」


 背を踏みつけられ身を捩れば、こちらを見下ろす夕暮れ色の視線とかち合った。

 それはまるで家畜の商品価値を値踏みするような、怜悧な瞳だった。


「臓器だなんて、そんな! で、できない……っ!」

「腎臓とか肺とか二個あるしたぶん平気だろ。まあ、もらえるものは貰う約束なんだけど」

「そ、それだけはっ! やめてっ、やめて下ざい゛!」

「だって、どうにか返済しないとオマエさ、怖い人達に怒られちゃうだろーがよ。あいつら本気出したら怖いぞ、マジちびっちゃうぞ。やだろ、そんなん。トラウマになっちゃうもんね? ついでに迷宮に逃げ込んでも、さっきみたく魔物の餌になるのがオチだしねぇ。その点おれはプロだ。痛くしないし、怖くないよ?」

『まあ、このひと闇医者だから何の免許もないんだけどね』

「ひぎいいぃいぃぃ! 無免許やだぁ!」

『おじさんのような人間でも、ちゃんと役に立てるんだよ。健康で元気なのって、すっごく大切なことなんだもの。ボクも見習えたらなぁ』


 妖精が無垢で無慈悲な最後通告を下す。

 たった今、男は魔物に食われるほうがはるかにマシだったことを思い知った。

 苦痛に満ちた惨たらしい最期を迎えることに変わりは無いが、獣のほうがまだ純粋な本能を持ち合わせている。あっさり食われて終わりだっただろうに。

 理性をもった汚濁まみれの人間の方がよっぽど恐ろしい。


「たっ、頼む。見逃してくれ! 何でも……何でもするからぁっ!」


 必死になって懇願すれば、道士は急に冷めた目つきになった。彼はさもつまらなそうに短く「無理だね」とだけ答えた。


「そんなぁ!」

「イジェクよ、オマエは年といい見た目といい、素体としての価値が無い。というか皆無。おれも汚い男の標本や屍人形に興味はないのでね」

「な、な、なにを、言って……」

「それでも幸いオマエの中身は健康そのものだ。中身、分かるね? そういうわけで唯一価値があるモノを貰うしかないわけよ。でもね、いいかい。おれが一方的に奪うってわけじゃあないんだよ? 彼ら(・・)の損失分をきれいに清算していただくだけだからね?」


 粘着的な口調で語る道士の目は、戦闘のさなかに見せた熱情の欠片もないただの黒い渦だ。禍々しく、しかしそれがデフォルトであるかのように凪いでいる。

 隣を浮遊していた黒妖精が思い出したように告げた。


『トワイ。あと一時間切った。はやく帰らないとペナルティだよ。ボクだってキミとまだお別れしたくないし~』

「おれだって、こんな男の代わりになるわけにゃあいかねえし~」


 道士が一歩、また一歩と距離を詰めれば、男は座ったまま後じさる。

 もう為す術が無かった。悲鳴の上げ方すらも、脳裏からはすっかりと消え去っていた。

 青年は溜息一つで自らの周囲の糸を手繰り寄せた。たわんでいた黒縄が張り詰め、男の体を緊縛する。息が漏れた。糸を操り、振り回す動きで地面へと叩きつけられる。鈍く激しい衝撃で呼吸が止まる。ぐっ、という苦しげな呻きが漏れ、そこに道士が歩み寄る。

 血の滲む黄昏色。歪んだ美貌。黒渦。まるで悪魔。

 ……ああ。もう逃げられない。終わりなのだ、なにもかもが。

 先刻と同様、首と肩の間に衝撃を覚えた瞬間、男はとうとう固まったかのように動けなくなった。それきり、永久に。




 ♦




「よいしょ、と…………あー、ダメだこりゃ。重い」


 ぐったりと脱力して動かなくなった男を一度は担ぎ上げたものの、トワイライトはすぐに音を上げた。

 舌がヒリヒリ痛くて、えらく喉が渇いている。目は相変わらず冴えたままだが、体はどんより重かった。

 疲れたな、と素直に思う。それでも、えもいわれぬ充足感があった。まるで一発ヤり終えたみたいな、そんな感じだ。

 ただし、もう一仕事残っている。早く地上に戻って片付けねば、こちらの首が跳びかねない。

 そして、やっぱり、


「ちょっとこれ重すぎ! 体重いくら? おれが死んじゃう!」

『だから常日頃言ってるでしょ。トワイライトは体力不足なんだって』

「ネロ、毎度言ってる気がするけど、おれはパワー系じゃあないの。頭使って罠張り巡らせて、後は身軽に狡く愉しく立ち回るのがスタイルなの」

『そんなこと言っちゃって、しっかり鍛えておかないといつか痛い目みるよ? この先もソロでやっていくならなおのことさ』

「わかってる、わかってるよ。ああでも、ほんとダメだわ。ちょっと重さ減らそう。いいよな?」


 返事も待たずにトワイライトがつい、と指を引く。一瞬の間をおいて男の四肢が弾け飛んだ。男の体に纏わり付いた糸がその体を切断したのだ。女人の髪で編み上げられた糸は極めて鋭利であり、骨ごと人体を切断することも出来る。断面がひどく整った細切れが辺りに散らばり、迷宮の硬い床を赤黒い血が汚した。

 一拍、実際にはもう少し長い間を置いて、おぞましい悲鳴が迷宮の暗がりへと響き渡る。

 しかし、手品めいた動作で取り出した針でその頸と背を突けば、男が叫び声を上げることは無くなった。

 トワイライトは、気を抜き取られたように大人しくなった男をすばやく布で縛って担ぎ上げた。これなら、先ほどより楽に運べそうだった。


「……殭屍(キョンシー)にして運ぶか、おれの殭屍を使役できればよかったんだけどね」

『要求は生きた臓器だから。それに時間がなかったのは、キミが女の子の家から遅刻してきたからでしょ』

「ネロの意地悪」

『ドスケベ間男に悪口言われたくない』

「なんで決めつけるの! おれのはぜんぶ純愛だよ!?」

『思い込みが激しい男って、面倒くさそう。というか、はやく片して戻らなきゃだよ?』

「はん。必要ないさ」


 使える部位を除いて現場に残された四肢は、下級悪魔かイミューンの餌になるだけだ。

 迷宮で命を落とすか落としかけの人間は、それがどんな形であれ、殆ど違わず悲惨な末路を辿ることになる。

 それでも探索者たちが冒険をやめることはない。彼らを突き動かすのは底なしの夢と欲望だ。地下に逃げ込むものとて、その胸に抱くのは根拠のない甘い希望なのだ。


「さて、戻ろ。摘出の時間足りるかどうか超微妙」

『最低最悪~。キミにもっと体力と分別があればボクがわざわざグロいとこ見せられずに済んだのにさ』

「よく言うよ。今日だって、お前がおれのナビを買って出たんじゃん? それに、迷宮をもっとよく見たいんだろ?」

『まあそうだけどさ。でもね、ボクだって一応女の子なんだよ、トワイライト? スプラッタやグロは苦手なんだって。エロなら大歓迎だけどね』

「なまいき言うな、クソガキめ」


 二人組は他愛のない会話を交わしつつ、その場を後にする。

 だが夕暮れ色の三つ編みを揺らし、ふいに立ち止まると、トワイライトは後方をそっと振り返った。


 そこに自分の名を呼ぶ蒼い面影を見たような気がして――。


「今、誰かおれの名前を呼ばなかった?」

『ううん。ボクは違うし、何も反応なかったよ。空耳じゃないの? もしくはまだ何か降りたままなんじゃない、大丈夫……?』

「平気だよ。聞こえないならいい。多分こっちの気のせいだ」

『なんだか最近そういうの、多くなぁい? ボクが言うのもなんだけど、調子悪いんなら医者に診て貰ったら? 紹介するよ、そっち系専門の』

「オマエそれ医者に言う言葉かよ」

『だってさ、トワイライトって邪術とか闇医術とか非合法で妖しくてビミョーなのが専門じゃん? ていうかキミ、生きた人間診れんの?』

「おれだって自己診断くらいできるわい!」


 身体の異常でもインプラント(おつむ)の問題でもないのなら、本当になにかに呼ばれているのかも知れない。「まさかね」と呟いてトワイライトは再び歩きだす。なにしろ、今は時間がないのだ。

 そうだ。おれは幻影に取り憑かれている。

 ……蒼い竜の夢と記憶に、ずっと囚われている。

 迷宮低階層を出口に向かって歩きながら、そんな想いが胸を捉えた。

 今でもしょっちゅうそれを見る。ならば、そいつはおれの運命で、いつか牙をむいて襲いくる宿命なのかもしれない。

 愛しく狂おしげな呼び声。夢の名残。もう輪郭すらもわからない過去の亡霊が、トワイライトの名前を呼び続けている。そういう夢や幻をもう何度も繰り返し見ている。

 ぼんやり歩きつづけるうちに、ネロが『ちょっと! 内臓こぼれてるって。拾って拾って!』と促した。トワイライトは気だるい足取りで戻り、モツを詰めなおして再び来た道を戻る。

 一瞬、暗がりに蒼い炎のようなものが煌めいた気がしたが、闇の奥にはやはり何の気配も感じられない。

 おれは竜の幻影に魅入られている。でも、だからといってどうということでもない。今、この瞬間、唐突におれ自身の何かが変わるわけじゃない。それなら、いつもどおりをつらぬくまでだ。

 そうこうしている間に地下一階・迷宮入り口へとさしかかる。

 ぽっかりとあいた穴から差し込む外の光を浴びて、トワイライトは女のそれのように紅い唇を歪めた。

 それは笑みというには歪で禍々しい、姦悪な相貌だった。


「さぁて、仕事だ。ここからが道士としてのおれの本分なのさ」


 これが左道をゆく外法道士トワイライトとしての、血腥く退屈な、されどいつも通りの日常だった。






 薄暮冥冥 〈了〉

 2015/10/11 加筆・修正

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