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迷宮のウルトラブルー  作者: 津島修嗣
第一章 リトルドラゴン
18/36

☴ -巽- 

幕間 〈前〉



 


 ☴ -巽-




 赤く淀んだ弦月が早くも西の空に沈みかけている。不気味なほど風のない夜だった。

 時刻は午前零時を過ぎた頃。昼間の熱気が押し込められた生ぬるい闇を裂き、夜を急ぐ者の姿があった。

 フードで覆われた顔は見えないが、細く小柄な体躯であることは瞭然としている。影はじゃらじゃらという奇妙な音を立てながら、纏った襤褸をはためかせ、多少ふらつく足取りで都の方角へ向かって歩を進めていた。それもたった一人きりで。その有り様は、斯様な区域を抜けるに当たっては些か緩慢であり、無用心でもあった。

 現に半ば倒壊しかかったあばら家の隙間から、無数のざらついた眼光がその様子をじっとりと窺っていた。罠に掛かった獲物を待ち受けるケダモノどもの息遣いが、廃れた迷い路に漏れ響いている。



 黒数(くろす)西部・蓋頚(がいけい)地区、迷宮街中央付近。


 此処はスラムですらない、既に失われた街である。

 地下迷宮の発見により、街としての機能を剥奪された都市の中のエアポケット。以前は桜環や芙蓉と並ぶ堂々たる市街として栄えていた場所だった。

 ぼんやりとした月明かりが照らし出すのは、半世紀以上前に打ち捨てられた建造物の群れだ。互いを支えあうようにして、出鱈目に寄り添っている。コンクリートや硬い煉瓦で設えられたかつての高層住宅棟。開け放たれたままの窓に、無数の看板が壁からぶら下がった状態で放置されている。その足元を崩れかけた家々が囲んでいる。さらに下層には無数のバラック小屋。浮浪者や探索者くずれが棲み処としている場合もあるが、大抵は長いこと使われずに朽ち果てている。向かいあった建物の間にはワイヤが張り巡らされ、所々に褪せた布切れが垂れている。破られ捨て置かれた扉の奥では、時折何かが蠢く気配があった。


 襤褸を纏った人物が来た方向は、迷宮街の果てであり、ある意味では中心だった。

 迷宮街の果て。全ての迷い路が辿りつく場所。この街で〈迷った〉末に行きつく場所はただひとつと決まっている。

 不自然に開けた広い空間。この場所だけは瓦礫が積み上げられ、大勢の人間が集まれるよう、人の手によって整然と片付けられていた。それでいて、其処には常にただならぬ空気が満ちている。低い唸りのようなある種の気配が、内側に向かって吹き荒れる風が、夢に魅せられた者たちを手招いている。

 そんな広場の真ん中にぽっかりと空いた巨大な空洞こそが地下迷宮への入り口だ。

 青昏い闇を湛えた巨竜の(はらわた)。そこにあるのは混沌であり、汚濁源――夢が現実を食い荒らす場所だ。あるいは地下埋葬所。迷宮はそれ自体が巨大な(むくろ)であり、棺である。地上から落ち延びた者、自ら志願した無謀な探索者たちの多くは迷宮の中で絶え果てる。実力と、そして運が命の重さを決める。

 かつて彼の地に墜落したと云われる雌竜の(しとね)は、夢に溺れ、呼吸を諦めた男どもの血で常に満たされている。

 血と骨の赤い揺籠の中で、無垢なる竜の魂は今も眠っているのだろう。





 じゃら、と金属の擦れる音を鳴らして、襤褸を着た人物――メイズはついに立ち止まった。初夏だと言うのに、吐く息は白く凍てついている。目深に被ったフードから零れた白髪が、湿気でくるりと巻いていた。

 周囲は煉瓦造りの古い住居群、どれも廃墟だ。当然だった。まだ迷宮街の中にいるのだから。

 ……いつのまにか、囲まれている。

 見られているのは気づいていたが、回り込まれて待ち伏せされるだなんて想像もしていなかった。それより、相手に追いかけてくる度胸があること自体、想定外だった。どうやら今のメイズは相当弱ってみえるらしい。おまけに一人だ。ここらの治安は劣悪で、廃れた夜の街を徘徊するハイエナどもにとっては格好の獲物に映るのだろう。

 そうだ。メイズはばかだ。頭も脚も、何もかもが自分の想像以上に鈍っている。

 全部あいつのせいだ。そう思った。それだけは、何故だか即座に〈考える〉ことが出来た。


 憎い男の相貌が、ほんのすこしだけ残された思考と記憶の狭間に浮かび上がる。

 忘れない。忘れられない。だってそれ自体が上書き不可能な命令で、呪いなのだ。

 美しく淫猥な、毒の滴る笑顔。官能的な声。囁かれる甘い言葉の全ては邪悪な棘となって突き刺さり、心を鈍く痛ませる。内側に直接触れてくる手指の温もり。鉗子に剃刀、非合法手術器具(ブレード)の冷たい感触がそれらの記憶と混ざりあい、怖気と恍惚を背筋に走らせていく。

 ぎり、と歯噛みして、感情に似たそれ(・・)を押し殺す。でも、一度膨れ上がったそれ(・・)は消せない。

 殺しても死なない化け物のように。

 ……自分自身と同じように。


 歩みを止めた途端、今の今までおぼろげに感じていた気配が急に濃くなった。同時に生々しい悪臭がその場に立ち込める。それらの据えた匂いは、こちらの発する強烈な気配をも打ち消してくれる。たぶんこれは好都合、なのだろう。

 瞬間、建物の死角から飛び出してくる影が一つ。続いて、二つ、三つ、四つ。それぞれ別の方向から、全部で四人。闇の中から姿を現した男どもはいずれも剣や鐗、あるいは棒などの獲物を携え、これみよがしに見せつけながら距離をつめてくる。

 彼らは探索者崩れの薄汚い盗人だ。あるいは魔都から落ち延びたならず者。スカベンジャーですらない負け犬どもだ。迷宮街下層の溜まり場には一定数が棲みついている。彼らは弱ったものから盗み、殺す。襲った者が子どもや女であれば蹂躙し、喰うこともあると聞く。迷宮から帰還したばかりの疲弊しきった探索者に狙いをつけて襲い、戦利品や装備品、登録者証を奪う。それらは闇市で売買される。

 当然ながら探索者からは憎まれ蔑まれているために、本当に弱くて、数で勝る者しか襲わない。ゆえに人の出入りの多い昼間は機構の見回りや迷宮に赴く人々から身を隠し、バラック群で溝鼠のように暮らしている。

 メイズは自分を取り囲む夜盗どもを無感情に見回した。

 負け犬。溝鼠。本来なら、好んで手を出すような輩ではない。

 実際、下種の笑みを浮かべる顔はどれも痩せこけたイヌのようで、とても……



 ……とても、不味そうなにく(・ ・)だった。



「ヒヒヒ……なんだあ、こいつ。自分から立ち止まりやがったぜ!」「突っ立ったまま動きもしねぇでやんの。ビビってやがんのかぁ?」「ソロの探索者がよぉ。一匹オオカミ気取りってやつか」「こいつ小柄だな、子どもか? 女ならまずヤってからでも遅くないよな? へへへへ」メイズを取り囲んだ与太者たちはそれぞれに下卑た笑声を上げながら、すぐ傍まで寄ってきた。「なめてんのか。なんとか言えよ、コラ」


 胸倉を掴まれ小突かれても、感情もなく立ち尽くす。

 頭が上手く回らない。まだ何かが足りない。溜まりきらない(・・・・・・・)。でも、何かって何だ?

 どうやって。どうしたら手足が思うように動くのか、どうすれば目の前のにくを、にく、なまの……生きている、肉……生肉を△△して×××して■■■■できるのかがよく思い出せない。


「に……く……?」


 メイズはその場で、ぼそぼそと意味不明な独り言を漏らすのみ。男どもが眉をひそめる。


「不気味なやつだな。いいから、顔みせろよ、顔」


 夜盗の一人が襤褸に手をかけ、乱暴に引き剥がす。襤衣が肌蹴て露わになった相貌は、痩せた少女のものだった。……その筈だ。

 ながらく鏡を見ていない、もとい見ることも出来ないメイズにとっては、自分の姿形など最早どうでもよいことだった。どの道、今までもこの先も、メイズに変化が起きるなんてことはあり得ない。少なくとも、外見的な要素においてはそう言い切れた。


「ぎゃは! やっぱ女だぜ。めっけもんじゃねえか!」


 下卑た笑い声とともに、男の手が顎を引っ張って上を向くよう無理やりに促してくる。

 きつく閉じた口内で、メイズの牙がぎちりと鳴った。にく!


「おら、なんとか言えっての。ひょっとしておつむがイカレっちまってんのかぁ?」

「…………にく……けだもの……なまにく…………」


 メイズはそれ以外の言葉を発しなかった。べつに恐怖に竦んで声が出ないとか、そういうわけではない。

 どれくらいお腹が減っているか、空腹の度合いとか、あとは食べ方なんかについて足りない頭で一生懸命考えを巡らせていただけだ。考えるだけで精いっぱい、余計な言葉を紡ぐための思考を生み出す余地は無かった。

 怯え、恐怖し、悲鳴をあげることすらしない。抵抗も懇願も何もない。何の反応も得られないことに男どもは興が削がれたようだった。確かに張り合いも面白みもないだろう。

 明らかにシラけた様子で、彼らは互いの顔を見合わせた。


「……なんかこいつ、気味がわりぃな」「体も異様に冷たくねえか?」「冷たいっつーか、妙にあれだ、硬い」「それに、なんかちょっと匂わねえ? こう、土臭い……死体みたいな」「気色わりぃこと抜かすんじゃねえよ、阿呆!」


 不安げに振舞う仲間の言動さえも気に喰わないのか、最初にメイズにくってかかった夜盗が痰を吐き、ナイフの刀身で頬をぺちぺちと叩いてくる。それでもメイズは虚無のまま。

 その顔に表情らしきものは無く、青白い肌と無明を切り取ったような黒い瞳がどこまでも遠くを向いているだけだ。闇の深くを。


「アー、もうさっさと殺っちまおうぜ。こいつ、つまんね」


 顔色一つ変えぬメイズに向かって、男は刃を向けた。喜悦と怒りにざらつく眼が、メイズの瞳を覗きこむ。


「リアクションも何もないんじゃつまんねえ、殺っちまってからでもいいだろ」「どうせ死体とおんなじだしな」「切り刻みながらじゃねえと勃たねえもんだから、テメエは上を追い出されんだよ」「ほっとけ!」


 ……痛めつけることすら、平坦な日常では貴重な刺激として還元されるのだろう。まさにこの街は墓場そのものだった。

 短剣を構えた男はメイズの首根っこを抑えつけると、下卑た笑みを浮かべて舌舐めずりする。瞳の奥には偏執的な狂気が垣間見えた。

 でも、だからなんだ?

 それを覆う漆黒はメイズ自身の瞳の色だ。全てを喰い尽し塗り潰す、真っ黒な色なのだ。


「へへへ……死ねやぁ!」


 少なくとも本当に()る気だったのだろう。心臓を狙って容赦なく繰り出された刺突に、しかしメイズは動じない。

 ぎぃんっ、と音を立てて銀色の放物線が描かれた。一拍をおいて悲鳴があがる。

 その場に膝をついて悶えているのはメイズを刺した男の方だった。


「あ、あ、ああ、嘘だろぉ……なんだよコレぇ」


 手首を砕かれたかのような衝撃に驚愕する男の手からは、鮮血が溢れていた。血でぬめった手元から短刀が滑り落ち、がらんと大きな音を響かせた。刃は完全に折れている。男は片方の手で傷を押さえてその場に蹲る。ぽたり、ぽたりと地面に赤黒い点が穿たれた。

 確かに心臓を狙ったのに、一突きにしたはずなのに。なのに、なぜこいつは目の前につったったまま、微動だにしないのだ? ……それに、なぜこんなにも硬い?

 男の眼には恐怖と動揺がありありと浮かんでいた。


「こいつ……! こいつは殭屍(キョンシー)だ、畜生!」


 別の夜盗が、メイズを見て驚愕する。男はわなないて、それでも低く呟いた。

 メイズの破けた衣服の下には、縦横無尽に書きつけ張り巡らされた無数の呪符がのぞいていた。


 ――殭屍。生き血に餓え、人間を襲い、それを喰らう死体妖怪。魔都の夜を彷徨う生ける屍。彼らは怨念を抱き、魂に置き去りにされた体に囚われ、死んでなお死に続ける存在である。その性質は極めて凶暴で、怪力をもつ。特に、転化してから年月を経たものは硬直も解け、神通力を宿すとされ恐れられている。魔都においては、彼らを人為的に造り出し使役する道士の存在が噂されていた。

 妖怪も魔法使いも、この街においてはまごうことなき〈現実〉の存在だ。


「おい、これを見ろよ。誰かが意図的に造ったってのか……?」


 鐗を持った男が示し、全員が注目する。メイズの両腕は手枷で硬く拘束されていた。

 枷は皮と鉄で設えられており、遊びを持たせるために鎖で両手の錠が結び付けられていた。闇のなかでじゃらじゃらと音を立てていたものの正体はこれだったのだ。

 何か仕掛けがあるのか、ぼんやりと蒼く発光する紋様が所々に浮かんでいる。何者かの手によって符呪が施された道具であることは明白だった。化け物の怪力を持ってしても破ることができぬよう、予め命令が書きつけられているというわけだ。


「なんだ、これ……なんなんだよこれ。なんでこんな奴が迷宮から這い出てきやがったんだよ!」「もうずらかろうぜ」「でも死体だろ? 死んでんだろ、そいつ」「それもどこのどいつの仕業かしらんが、御丁寧に拘束してある。見ての通り木偶の坊だ。持ちもんだけ引っぺがしてからでも遅くは――」


 きっと、スイッチを押されたんだ。そう思った。


 男どもが焦って喧しく騒ぎ立てる声も、何もかもが遠い。今この瞬間が、現実からかけ離れて感じられる。

 胸を貫かれた刹那、どういうわけだか灼けつくような電流が背骨を走り抜けていった。バチバチと音をたてて視界がスパークする。激しい刺激を受けることで入力された僅かな神経信号が、脳髄にこびりついた記憶を揺り起し、在りし日の出来事が甦る。

 外からは一瞬、でもメイズにとっては違う。

 いくつかの偶然が重なったことで、失われた時間が急速に巻き戻されていく。




 彼女は――――、メイズはもともと死んでいた。生者であった頃の記憶はどうしても思い出せない。覚えていないということは、きっとろくでもない死に方だったからに違いない。

 それより、いま重要なのはその後のこと。死者としての記憶と記録だ。

 覚えている限り、ひどい仕事をたくさんさせられていた。それでも主のことは多分好きだったんだろう。頭を撫でられたとき、髪をくしゃくしゃして貰ったときのふんわりした幸福な気持ちは、今でもはっきりとおなかの奥に残っている。

 メイズの主は、夜明け色の髪と瞳をもつ〈れいめいのまじょ〉だった。


 名前は……なんだっけ? たぶん、そう……リンレイ。


 リンレイの許には沢山の弟子がいたけれど、その中に一人だけ妙なやつが混じっていた。何度か一緒に「おつかい」に行くよう命じられたことがある。弟子の中ではとりわけ優秀だったけれど、他の誰より歪んで見えた。あいつはいつだって何かを壊して笑っていた。後になって考えれば人間かどうかでさえ怪しかった。妖怪であるメイズよりもよっぽど妖しく如何わしい存在だった。

 リンレイに心酔している風だったあれは、魔女に好意を向けながら、彼女を愛し彼女に愛される者すべてを羨み妬んでいた。一番弟子の男の子をめちゃくちゃに痛めつけている場面を見たこともある。……あの子はそれからすぐにどこかへ消えちゃった。

 そして、そういう正体不明の憎悪は、死者であり人形であるメイズにさえも例外なく向けられていたのだと思う。


 その直感は後に最悪の形で現実になった。





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