十一. Blue 〈中〉
十一.
出口へ向かって踏み出す足取り、その一歩ずつがひどく重い。
歩き出したばかりだというのに、身体に力が入らなかった。
それどころか目に入る景色の全てが色を失い褪せて見えた。どうやら一連の出来事が弱った身体によっぽどダメージを与えているらしい。
「……まあ、この階層から追い払っただけでも上出来、なんじゃん? あれだけやっとけば当面の安全は保障できるだろうしィ」
己の気分を鼓舞しようとしてごちたはいいものの、無理に言い聞かせるような文句に聞こえてしまい、自然と笑みが漏れる。もちろん苦味の勝る笑みだったが。
はは、と息をもらすと急速に熱が逃げていく感覚があった。
……どうやら、思っていたよりずっと調子が悪い。
「うわ。こんな悪化してるなんて、っと……あぶね……」
ブルーがとっさに肩を潜り込ませて、ふらつく身体を支えてくれる。
それでもなお身体は重い。ブルーの腕からすっぽ抜けて、そのまま倒れてしまいそうだ。
もはや気力だけではどうにもならないところまできていることは明白だった。
「思いの外、こりゃあ……かなりマズイ感じ、だね」
「トワイライト、重イ。しっかり立つ」
「分かってるって」
無理やりでもいい、立ちあがってやろうとブルーから手を離せば途端に視界が傾いた。
ブルーが慌てて引っ張るが、力の抜けた身体を支えきれる筈もなく二人一緒に膝をつく。
少女は自分の角が邪魔をしないよう正面を避け、肩でトワイライトの頭を支えて、身体全体で包み込むように抱きとめてくれた。
「うわ~、情けないことにちょっと本気で足腰たたないンですけどォ?」
「情けなくはナイ。トワイライトはがんばった、とても」
「こんな状態で女の子に慰められてもどうしようもナイ、ね」
「なぐさめるちがう。ほめてイル」
「そりゃ……ありがとよ」
体勢だけなら、ちょうど覆い被さるようにブルーを擁いたまま。でも実際はそのまま倒れてしまわぬよう華奢な身体に寄り縋り、庇われている。背中に回された異形の腕が二人の体格差を補って、しっかりとトワイライトの身体を抱えていた。
自分より小さな子どもに支えられては、さすがに自嘲気味になるしかない。
だらしなく項垂れたまま「くけけ」と笑うと、ブルーはぽんぽん背中を叩いて励ましてくる。
「へいき?」
「正直限界。チューしてくれたら治るかもォ?」
「頭がだいじょぶ、ちがうネ」
「は。言ってくれるよ……でもマジでこれやばァい。誰かさんに上手いこと乗せられた、おかげで……少し、無理しすぎちゃった、みたいだね」
「ブルーのせい? ブルーが戦えとたきつけたから」
「そう……いや、オマエを喚ぶ前からけっこうぐちゃぐちゃ、だったからね、多分そっちが原因、じゃん?」
ブルーの意志が、その瞳が揺らぐのを見たのは初めてだった。
トワイライトは自分の一言が少女をひどく動揺させたことを思い知った。
思いのほか切羽詰まった声で問われると、本音はおろか軽口を叩くことすら躊躇われた。
「それでもブルーは、安心で安全、約束シタ。トワイライトが生きて帰ること」
「まァ、あの怪物女を追っ払ったんだから、半分は達成、だろ? この際それで、いいンじゃない?」
「できること探ス。考えルから」
「……いいよ、もうこのままで」
不本意だが、仕方ないものは仕方ない。状況は変えられそうにないんだ。
ブルーの髪に鼻先を埋めていれば、ふわりと立ち上る甘い体臭に胸が満たされてゆく。あの嵐の前触れのような土や草木の匂いも混ざっていた。それがブルーの居た水底の香りなのか、少女自身に秘められたものなのかは分からない。
耳朶を吐息が掠めた。トワイライトの上半身を抱いたまま、ブルーがわずかに身じろいで、すん、と鼻をひくつかせる。小さな獣のような息遣いがくすぐったい。
そっと横顔を盗み見ると、可憐な頬が淡く色づき、後ろめたげに幸福の色を浮かべていた。ブルーもまた五感でトワイライトの存在を嗅ぎ取っているのかもしれない。そんなことをしている場合ではないと分かっていながら、無意識に相手の輪郭をなぞろうとしている。
ブルーはトワイライトが身体から滴らせる紅血に酔っているようでもあった。
流した血も、今まさに溢れ出てゆく血も、触れた肌から吸い上げられて少女の力量に変換されていく。
召喚された神魔や精霊は現世で振るう力を得るための対価、その存在の糧として、呼び手の血肉や精神力を欲するものだ。彼らはそういうものを触媒として現世での影響力を手に入れる。
……対価か。なるほどね。
今の今まで気がつかずにいた一つの考えが脳裏をよぎり、トワイライトはふっと頬を歪めた。
精気を得て、体内を巡らせる。
ブルーと自分、互いが持つ本質は案外よく似ているのかもしれない。
気付いたところで何が変わるわけでもないが、なかなか興味深い思いつきだ。でも、そういう気休めを得るには遅すぎる。
身体からはもうずっと熱が逃げ続けている。
ブルーの体温が腹の奥底から忍び寄るどうしようもない冷たさを自覚させるが、なす術もない。
それでも真っ白な肌が幸福そうに色づくのを目にすると、自分のことは何一つ気にならなくなった。
今はもう熱と匂いだけで十分で、あとはどうだっていい。快楽物質のおかげか、苦痛は殆ど感じない。
「やべ、これマジで死んじゃうパターン、だ」
ブルーの吐く息は熱い。胸に押し当てられた唇から洩れる温もりで肌が薄ら湿気るくらいに。
吐息だけではない。密にくっついた身体がまるごと熱い。
触れた箇所からゆっくりと溶けてしまいそうな気さえする。
「トワイライト」
「……なんかもう、よく聞こえなァい」
零れる熱を止めようとしているのか、それとも奪われているだけか。
震える背が少女の手でより強く抱きしめられる。今、腕の中にあるのはまさしく命の熱量だった。
……肌を通して直に感じるその熱が、ひとつの打開策を脳裏に閃かせた。
治癒術を使うような余力は確かにもう残っていない。
でも、ひとつだけ出来ることがあった。
ブルーは互いを似た者同士だと言ったが、それは能力の面でも同じだった。先ほど、トワイライトが自分でも思いついた通りに。
トワイライトは迷宮に満ちる竜素を奪い操り、ブルーは呼び手の血肉を、或いは触媒とされた存在を奪って存在の源とする。
この窮地を乗り切るために出来るたったひとつのこと――。
それは「奪うこと」だ。
欠損を補うには、他者からその分をまるごと奪ってしまえばいいのだ。
気を吸い取るとか、生命奪だとか、呼び方はなんでもいい。
……他者から奪い取ること。おそらくはそれが自分の本分なのに、どうして今この瞬間まで思い至らなかったのか。
ブルーが強くて従順なクソガキで、幾ら可愛いからって、ちょっと絆され過ぎやしないか。
トワイライトは少女の腕に抱かれながら、下種っぽい笑みを浮かべた。土壇場の閃きに愉悦し、歪んだ三日月の形に唇を軋らせ、自然と邪悪な本性を露わにしていた。
ちろりと覗かせた舌の上で、刻み込んだ秘密の文様が禍々しく燐光を放ち始める。
魔法使いは皆、秘密の咒文を身体のどこかに刻んでいる。
己の身一つの近接戦。仮に拘束され、印も結べぬ状態にまで持ち込まれれば詮術はなくなる。そういう事態に備えた奥の手を隠してあるのだ。
ある程度修練を積んだ者ならば十中八九当てはまる。いよいよ薄皮一枚首が繋がっていようかというとき、そこから相手の寝首を搔くための奥の手を用意している。トワイライトだって例外ではない。服の裏に書きつけておいた呪もある種のバックアップだが、当然それだけにとどまらない。
骨や脳髄、肌、眼球、臓腑。
身体のどこかに符呪回路を施し、ここぞというときに発動させる。
自身の骨身を削り捧げて、最後に残された血の一滴までをも振り絞るようなおぞましい手管。
それは高位の術者になるほど巧妙でシンプルな仕掛けになる。
瞬間的な加速や強化、はたまた自爆や自滅など形式は様々で、各々の戦術スタイルに依っている。
そして、トワイライトの場合はそれが蘇生のための呪に当たる。
「生命奪」の呪を己の舌に刻み込み、いざというとき相手に喰らいついて生命力を奪い取る。不可逆的な損傷を受けた時のための蘇生術にして、同時に相手を内側から破壊する魔術。それは自分自身が最も得意とする領域を活かした仕掛けだった。
命を吸い取る――、という言い回しが一番ふさわしいだろう。
例えば、そう、吸血鬼のように。
「あはッ……俺ってば、ほんと、最低……」
「くるしい?」
「うん、とっても、ね……だからもう少し、きつく抱きしめてよ。ブルー」
もう本当にこれくらいしか方法がない。
この術を利用して、ブルーからありったけ精気を奪ってしまえば上まで戻る気力くらいは取り戻せるはずだ。
我ながらゲスで、さもしく、あさましいやり口で嫌になる。けれど――それでも。
だって、そもそもブルーはトワイライトが与えたものでその姿形を保っている。
自力では形を為すことのできない幽世の存在。所詮、人一人の命より軽い血と肉で造られただけの泥人形。
遅かれ早かれ、術者が死んで魔力供給が絶たれれば自ずと消える運命にある。
なら、与えたものを今更どうしようが勝手だろう。
ブルーという名前でさえそうだ。呼べと言われて咄嗟に与えたものにすぎない。
「……すっごく寒いし、寂しい、から、もうちょっとだけ、近づいて?」
苦しがるふりをして――実際に苦しいのだが――少女の肩口に鼻先を埋める。
開いた口から垂れさがり蠢く舌先は猥らに踊る炎めいて紅い。
どこかの童話のケダモノみたいに厭らしくねだってみせると、ブルーは大きな腕に力をこめてぎゅっと抱きついてきた。
なんの躊躇いもなく。
「いいよ。トワイライト」
晒し出された肌の白さに目が回る。泡雪のような儚い肌は少し歯を立てただけで簡単に破れてしまいそうだ。
ブルーはあまりにも無防備で――牙をむく瞬間にようやく気がついた。
見透かされている。
こいつは、わざと、全てを分かった上でやっている。
出来ることを探す。考える。そう言ってブルーは同じ方法を導き出し、待ちかまえていたのだろう。トワイライトが気づくよりも早く結論に辿りつき、先回りをしていた。
「ブルーが、ぜんぶ治シテあげる」
邪な欲望は甘く低い声を聞いた瞬間にあっさりとくじかれた。
ブルーはもう一度大切そうに呟く。それが魔法の呪文であるかのように、舌の上で穏やかに微睡ませて。
トワイライト。
「は。……残酷、だなァ」
いつだって、寂しいほうが気楽で身軽なのだ。
「そんなふう、に……捧げられたら、ズルなんかもうできないじゃないの」
どんな形であれ他者が向けてくる愛情に耐えられないのなら、飢えた獣の如くに生きるほかはない。
そして、それが出来なくなったときに死ぬだけだ。
絆を持たず独りならば誰にも何にも気がねなしに奪って壊して生き延びられたし、どんな邪悪に身をやつしてもそれなりに楽しく気ままに暮らしてこられた。
だから奪うことを躊躇ったら最後、そこで終わってしまうことも知っていた。
「おまえもおまえ、だよ、なんで……されるがままなの。気づいてたンなら――」
「ブルーは逃げない」
少女ははっきりと断言した。そして笑う。
ぎこちなく、どこまでも優しく。慈悲深く。
「そういう我儘は、もう性ダ。ならば思うままに突き通せばヨイ。それがトワイライトの術だろう。ブルーはそういうところも好きなんダ」
「は。何、ナマいってんの……っていうか、おれの好きとオマエの好きって感情、けっこう違くね……?」
「見解の相違なんてどうだってイイ。ちがう? ひと目みて気に入ったのなら、そこからはどうしようもナイだろう」
「案外、軽い娘だね、オマエ」
「失礼ナ」
くっついた身体を別つように手をのべて、ブルーはトワイライトの傷口に触れてきた。
巨大な鉤爪に触れられた箇所がひどく疼く。それは心臓に一番近い位置の傷だった。
「ほん、と、笑える。このシチュってよく、考えなく、ても……二度目だよな?」
「二度も迷宮で死に掛けルなんて馬鹿げてイル。場所くらい選ぶ」
皮肉なことに、状況が過去の出来事を再現していた。それによって、初めての邂逅が想起されてゆく。
おぼろげだった記憶が少しずつ甦る。
「俺はここでゴミクズ、同然に生まれたんだ。たまたま、それに、似つかわ、しい……死に方になっちまった、だけさ」
「トワイライトは死んだってどこへも行けない出来損ない」
「……オマエ、やなことばっか、覚えてやがんのな」
「むかし自分で言った」
「うるさいよ、ぼっち竜」
「トワイライト。おまえ様が此処以外どこへも行けナイというなら、死なせはしない」
ブルーから発せられる竜素が陽炎のように立ち昇り、やがて炎のようにはっきりと表れてその痩躯を包み込む。
「どこにも行かせはしない」
蒼い髪は淡く光を放ちながら重力に逆らって波打ち、まるでブルーが持つオーラそのものを形にしたみたいに美しく映えていた。
「トワイライトはブルーから好きなだけ奪えばヨイ。おまえ様がそうしないなら、わたしがそうスル。ひとりで魂をすり減らす必要なんてナイ」
「くそがき。滅多なこと、言ってんじゃ、ないよ。俺はオマエからは何も奪いたくは」
「ねえ、トワイライト。奪うことが出来ルなら、与えることも出来ル。おまえ様ならば知ってイルはず」
「……ばか」
魂胆をぜんぶ読まれていた上に、また慈悲をかけられようとしている。
記憶は曖昧だけれど、おれは昔から何ひとつ変わっちゃいない。それだけは分かる。それどころか大人になった分余計にひどい。
トワイライトはブルーを相手に心底自分を恥じたが、彼女は意に介さなかった。
瞳の奥に宿る小宇宙。ブルーに眼を覗きこまれると、煌めく星星の光に、少女が水底で過ごした幾億の夜に、吸い込まれそうになる。
瞳はブルーが一人きりで越えてきた時のぶんだけ奥行きがあり、どこまでも澄んでいた。
少女はトワイライトのつまらない邪心ごと受け入れてしまえるような余地を、しっかりと持ちあわせていた。
「ブルーはトワイライトが気に入った。だから何度だって助けるヨ」
「助けるってこの状態、からァ? ……いい加減、笑え、ないよ」
「でも、助ける。絶対に」
ブルーはそう告げると、傷口に舌を這わせてきた。
はじめはそっと、徐々に躊躇いは消えて無遠慮に。
トワイライトの腰を下敷きにして圧し掛かかると、ブルーは欲望と色香の混じった熱っぽい視線を向けてくる。つ、と唇から伝う赤を薄い舌が舐め取る。瞳の奥の星々が今この瞬間も優艶に瞬いている。辛うじて呪符で隠された薄い胸が規則正しく間をあけて呼吸をしているのが分かる。
薄紅色の尖った爪先が裂け目をなぞり、ぐぷ、と音を立てて血まみれの肌に沈みこむのは、なかなか倒錯的な光景だった。
半裸というかほぼ全裸の少女に跨られ、傷を弄ばれるなんて、この上なく官能的で詩的ではある。
けれど、現実には激痛を伴う傷ましい行為に他ならなかった。
「いっ、ぎっ――――ちょい待ち、ちょっとタンマ! 想像の斜め上、をいく、仕打ちなんですがァッ!?」
「そうなのか」
「そうなのかって真顔ッ!? かなり吐き、そう、息の根とま、るっ、てぇ」
「ほんとうは痛みが好きなくせに」
「オマエ、なァ。だからって、容赦、なく傷に手ェ突っ込んでくんじゃ、ないよ。ンなハードなプレイ、さすがに性癖の範疇外だって、の……」
「へいき、いける。ちょっと堪えればだいじょぶだ」
「どこがだァァ!」
触れられた箇所が熱い。ブルーの纏う炎が乗り移ってしまったかのように。
彼女が何をしようとしているのかは分かっている。
ブルーは自らを構成する竜素を傷口から注ぎ込み、循環させることで生命力そのものを分け与えようとしている。
トワイライトを生きながらえさせるために。
そういう純粋で献身的な意図はすぐに汲み取れたが、ブルーのやり方は荒削りでいささか拙いものだった。この娘は自分が持つ力を目一杯行使することは得意でも、細やかな制御や調整が苦手なのかもしれない。良くも悪くも真っ直ぐで、たぶん力が全てのパワー系なのだ。戦闘に置き換えて捉えるのなら、術の制御や抑制に重きをおくトワイライトと好対照だが、この場においてはよく考えなくても最悪だった。
治すと言っておきながらバラバラに分解されかねない。リンレイにはさんざん実験と称した玩具扱いをされて「調教」されまくってきたが、痛みだけならそれと同等の苦痛かもしれなかった。
破れた皮膚の内側を鉤爪のような鋭利な指先で掻き回されて、視野は狭窄し、赤黒く不規則な明滅を繰り返す。
悪寒と吐き気を覚えながらも、得体のしれない快楽が背骨を震わせ脳髄まで一気に駆け上っていく。
……この感覚にはとても抗えそうにない。
注ぎ込まれる生命力、命の熱が頭の芯を蕩けさせ始めている。
もっと。
もっとして欲しい。これ以上が欲しい。
もっと容赦なく、激しく、徹底的に。痛みが欲しい。
たまらなく、狂おしいほどに。
内側をぐちゅぐちゅになるまで引っ掻きまわして、いっそたいらげられてしまいたいくらい。
「はひっ、あっ、すっごくイイ、ブルー。めちゃくちゃ、イイよ♥」
「………………あの、トワイライト。やっぱりとても悦んでイルように見えルが」
「あ、ぐっ♥ い、いきなりひとの性癖に言及してくるからァ……ひうっ♥」
「さすがに少し気持ちわる、いや、言い忘れてタ。喋るの、ヨクナイ」
「ん、悪いつい竜素に負けむぐぎゅ」
胸板にしなだれる形で身を乗り出したブルーの爪先が唇を塞ぎ、そのまま黙れば形をかえて人差し指だけを押し当ててくる。
完全に口を噤むまでの数秒間、辛抱強くブルーは待っていた。
集中を損なうのを厭ったのか、本気で黙るように桃色の瞳が促していた。
その眼が少し冷たさを帯びている。なんだか虫でも見るような目つきに近い気がするが、そこらへんは気のせいにしておきたい。本人に自覚があるのかどうか不明だが、大人の男の変態性癖を垣間見て、さすがのブルーもちょっと引いたのかもしれない。
召喚に慣れ過ぎた心身は過剰に竜素を帯びると精神感応だとか過集中の状態に陥り、眼先の感覚や相手の意識に取り込まれやすくなる。要するに上手く情報を処理できなくなってしまう。
トワイライトを黙らせると同時に、自らも口をつぐんだブルーは真剣な顔つきに戻っている。
唇から指先を離すと、その手からは鮮血が滴る。少女はそれを口元まで運んでいくと、僅かに舌を覗かせて舐め取った。薄花色の肌を染め、どこか恍惚としながら。
無自覚のうちに見せつけられる扇情的な振る舞いには、トワイライトも羞恥と欲望を懐かずにはいられなかった。
ブルーは目を閉じて、すっと息を吸い込んだ。
それきり、辺りはしんと静まり返る。
それを見て、トワイライトは眼前のブルーの様子にだけ集中しようと努めた。
自分のつまらない言動で少女の献身を汚すわけにはいかないのだった。
血の筋が、肌を這う指にしたがって描かれる。
――――言葉もなく、それはただ祈りのように。
ブルーが意識を集中させ始めた瞬間。
触れていた手が、少女の身体が、淡くやさしい光を発しながら崩れ始める。
澄んだ蒼い炎が落涙のごとく瞳から零れ、漂い、唇からは花弁のような炎が漏れて見え隠れする。
髪は大きな翼のように燃え広がり、蒼い燐光を放ってさんざめく。
少女から溢れ舞い上がるのは竜の銀鱗。それらが花弁のように剥がれ落ちては降り積もる。
胸の底が熱くなり、それが臓腑までじわじわと広がってゆく。
目が眩むようだった痛みがやわらぎ、一度は抜け落ちた筈の熱や気力が漲ってくる。
だが、逆にブルーの姿は幽鬼のごとく揺らぎ始める。
「……もう、少し」
少女は顔を歪め、吐息すら惜しむように苦しげに呻いた。
それでも向けられるのは真っ直ぐな眼差しで、桃色の瞳からは蒼い燐光が大粒の涙のようにぽろぽろと零れて止まらない。
「く、うう。まだッ!」
揺らいでいるのではない。ブルーは内側から燃え始めていた。
立て続けに竜素を使い続けたために、与えられた仮の姿を保てなくなっている。
トワイライトに分け与えた分だけ、ブルーは自分を形作るエネルギーを失い、それを御しきれずに自壊し始めているのだ。自己の存在を維持するだけのリソースが、彼女にはもう残されていない。
彼女を支える筈のトワイライトの制御力は、とうに殆どが失われている。
ブルーが纏う蒼いオーラは彼女自身を内部から削り崩すように、徐々に燃え広がっていく。
さながら炎の竜にその身を喰われているようでもある。
しかし、内側から蝕まれ食い破られながらも、ブルーは治療をやめようとしなかった。
「やめろ! もういい、離れろ」
「ヨクナイ! まだ、足りない。ちゃんとぜんぶ治っていない。これではトワイライトが上に帰れない」
指が砂糖菓子のように蕩けて、ろくな輪郭も持たない蒼白い光の切れ端と化しても、ブルーは諦めていない。
恐れてはいない。何一つ。
「まだ、まだ消えるナ。これはわたしが……ブルーがトワイライトから貰ったものなんだから!」
ブルーは自分自身に向かって、あるいは彼女の意志から切り離されていく魂の残り香に向かって、強く咆哮する。本物の竜のように。
その強靭な意志に呼応したのか、散りかけていた光が輝きを取り戻し、トワイライトの体内へと流れ込んでくる。
ブルーは誇らしげで満足そうな顔をしていた。
「オマエ、これ以上消耗したら無くしちまうだろうが……いろいろ」
「欠損したとしても、ブルーは後悔しない」
「記憶とか思考とかが欠けたら後悔だってできないだろ。自分自身が何者かも分からなくなる。もう二度と今のかたちに戻れないかもしれない。……本来の姿にだって」
「トワイライトが覚えていてくれたら、それでイイ。もともとブルーは不完全だ」
ブルーは不器用に口元をゆがめる。笑みのつもりか。
そんな不格好な表情を浮かべて「なんだってかまわない」と言った。
口調に、表情。誰の真似かはすぐに分かった。
「助けてくれなくても、助けるの」
「なんでそこまで、俺に」
「ただの遺物の……何にも成りきれないわたしが、自分でも自分のことがよくわからナイこのわたしが、運命だと言われた。ブルーはそれがうれしかった、とても」
熱に蕩ける砂糖菓子のごとく自壊し続ける身体などは全く顧みずに、少女は前を向いた。
ブルーはトワイライトの瞳をまっすぐに見つめていた。
自分を構成するすべてが壊れ始めているというのに、その瞳はなにひとつ失ってはいなかった。
「だから、ブルーが運命だというのなら、トワイライト。ここで死ぬのは間違っている」




