七. Jack You Up 〈前〉
七.
声を上げることはかなわなかった。呼吸すらも。
固い壁に叩きつけられた衝撃はそれほどに凄まじかった。空気の通った場所で溺れかけるなんてさすがに滑稽すぎるだろう。
自分に同期するネロの苦鳴が聞こえる。痛みや衝撃に関わる知覚のリンクは勿論していない。急に飛び込んできた視聴覚情報に驚いたというところか。咄嗟に接続を切り離すことさえできなかった。
やられた、と思った。完全に気を抜いていた。
背中からずるずる床に崩れ落ちると、不快な匂いが鼻をついた。倒れた身体は探索者達の血で汚れていた。
「つっ……くそ、新手がっ」
地面に手をついて身を起こそうとする。血だまりを踏んで散った飛沫が頬を汚した。舌打ちして、袖で拭う。
例のチビ竜の姿はもう無い。
また幻影を見たのか、俺は。ばかじゃねーの。こんなときまでぼんやりしやがって。
もうマジで医者の世話になった方がいいかもな。ところかまわず幻をみるなんて、そろそろ本格的にイカれ始めているのかもしれない。
おまけにその幻が原因で窮地に追い込まれたときている。最低最悪のポカだった。
「平気か? ネロ」
『ボクは大丈夫……それよりごめん、トワイ。直前まで何の反応も捕まえられなかった――見えなかったの、なにも――周囲には――』
「気にしなくていい」
ネロの声にはノイズが乗っている。おまけにラグが生じてもいる。黒蛇の化身の姿もときたま乱れ、複雑に揺らめいている。探索者たちのナビの報告が頭をよぎる。
これは機器の故障でも通信システムのトラブルでもない。
トワイライトは原因が何であるかを直感した。強力な魔力が場の全てを歪めている。
だとすればそれは――――
「ざっけんじゃねぇよ。タイミング最悪だ……クソったれ魔物の親玉が」
ぎりりと歯噛みして、攻撃が来た方向を睨みつける。
「探索者を襲わせたの、オマエだな」
血にぬくめられた闇の奥、美しい女の姿をした妖獣が顔を上げる。
暗がりに浮かび上がる白い肌がやけに目をひく。女は何も言わない。しかし射抜くような眼光がトワイライトを捉えている。言わずもがな、あれは敵意の眼差しだった。
突如野営地に現れた魔物は、極めてヒトに近い形をしていた。しかし、やはり奇妙であった。
上半身は透き通るような肌を持つ美女であり、腰から下は異形の怪物。
下肢の代わりに、頭足類の腕のような青黒い肉の器官が幾本も蠢いて上半身を支えている。触腕の付け根――太腿の辺りには犬の首が複数個くっついている。獣の息遣いが直に伝わってくる。奴らは獲物を前に涎を垂らし、牙を剥いている。
女はまるで神話の怪物のような姿をしていた。
『なに、あのトワイ好みの化け物は。あれは悪魔、なの?』
「ひとを勝手にゲテモノ趣味扱いすんじゃねえよ。ああ見えて、あれは高位のイミューンだ」
『どうして分かるのさ』
「……もっと深いとこで似たのをみたことあるんだよ」
いきなりボスキャラってか。今日もうオレ死ぬな。
自らの不運を嘆いても仕方ないが、ここまでアレだとさすがにぼやかずにはいられない。
エヴリデイ厄日的な日々を送っていても、これだけ立て続けの不幸イベントに見舞われたことなど他にない。否、あんまりなかった筈……である。
『そんなのがどうして低階層なんかに』
「俺だってわけわかんねーよ」
トワイライトを攻撃したイミューンは、ひどくきれいな目をしていた。
夢をみているかのように凪いだ青い瞳。相手が魔物でなければ焦がれてしまうような美貌だった。ただし腰から上だけの話だが。
女怪は囁くようにそっと口をきいた。
それが奇妙な歌のように聞こえたのは、ヒトの言葉を発するのが不慣れだったからだろう。
「咒術師、フゼイガ……」
血腥い光景を背後に、漸く立ち上がったトワイライトを冷たい瞳が捕縛する。
心臓を鷲掴みされたような威圧感。先ほどの蟲どもとは比べ物にならない魔力を感じる。
この場所において、トワイライトは単なる異物だ。汚らわしいウイルス同然だ。
彼らイミューンはその異常を排除しようとして人間を殺すのだ。
まるで竜の体内に働く免疫機能のように。
「……排除、スル。ここはお前たちのような不浄の輩のくるところではない」
再度紡がれた言葉はほぼ完ぺきに発音されていた。チャンネル合わせがちょうど上手くいったかのような感覚だ。
ネロが乾いた声で呟く。
『イミューンが人語を解するなんて――』
「人語を操る奴も中にはいるよ。そういうのは大抵強キャラだけどなァ」
トワイライトはイミューンが人の言葉で話す場面を以前にも見たことがあった。それでも今だって十分に驚いている。
どうしてこんなところまで上がってきた?
そもそもなんのために?
考えても仕方ない。この場で戦い、そして勝つことはとっくに選択肢から除外していた。
「ネロ。強行突破だ、そんで逃げる!」
『大賛成だよ』
魔物が動く前に走り出す。
四肢をバネに地を蹴って、疾駆しながら刀を抜き放つ。自信はないが、迷いも無い。
トワイライトはそのまま渾身の力を振り絞って女の腹を二重に引き裂いた――だが浅い。腹から下を覆う獣の首皮を削いだだけで刃が止まってしまう。意味不明な強靭さ。
斬りつけられた女怪は冷淡にこちらを見下ろすだけだ。
「なめるな、咒術師」
青色の瞳は凪いでいる。人の力など到底及ばぬとその瞳が語っていた。とても強い眼だ。
それでも押し返されるわけにはいかない。
トワイライトは〈邪淫蓮葉〉の刀身に埋め込んだ符呪回路に竜素を巡らせ、ぐいぐいと力まかせに押しこんでいく。
「なァんでオレなんかをねちっこく狙うのかなァッ! ただの男、ただの人間が残り一匹って感じじゃないですかァ? なんなら見逃してくれても――」
女怪は「痒い」とでも言いたげに腕を払う。圧力――多分魔力――が生じて再び飛ばされそうになる。トワイライトは後方に退いて攻撃を避けた。
呪文も予備動作も何もなしに衝撃波を放つ魔物など、性質が悪すぎる。まともにやりあったら絶対に殺される。
しかし、魔術の在り方としてはこちらがホンモノなのだろう。人間は竜の力、それもごく一部を操るすべを言語に頼っている。そうでもしないと「力」そのものを理解し得ないからだ。
「貴様らのような咒術師、別けても召喚師とやらは母体をひどく荒らしてまわる。竜素を奪い、好き勝手に構成を弄り回して組み替えてゆく害悪。まるで匪賊だ」
「それで雑魚引き連れて探索者狩りってわけェ? 御大層な免疫システムだこと」
「それにお前はとりわけひどく匂う。……時折表層の竜気が乱れるのは、そうか、貴様か」
「……あん?」
「人の匂いでは、ないな――おまえのその体は」
「ンだとコラ、蛸脚クソビッチ!」
『ちょっと、トワイライト?』
トワイライトは無理やり言葉を遮って、女怪を鋭く睨みつけた。
口元はいつもの歪んだ笑みを浮かべているが、その目は全く笑っていない。黄昏色の瞳はただひたすらに暗く渦を巻いている。
「それ言われンの大嫌い。××××しながらぶっ殺してえ」
トワイライトの目の色が変わったのを見て、ネロは戸惑い、女怪は解せないという顔つきになった。
「なぜ力を使わない? ヒトのふりをして何の得がある」
「うっせ! 俺はただの人間だよ。おまえらが異物とみなすただの塵さ」
言い終わらぬうちにトワイライトは、「――――急急如律令!」
出し抜けに目くらましの呪符を放つ。視界を塞いだ隙に雷撃を放つが、竜素の障壁に阻まれて傷一つつけられない。
「謎のバリアとか最早ズルのレベルじゃん!? 逃げる隙とか全然ないンですけどォ!」
「笑止」
詠唱すらない魔術が再び発動。トワイライトは衝撃に備えて身構える。術の隙を掻い潜り、抜け出すことができるかもしれない。そう考えていた。
だが、弾けたのは蝍蛆の腹だ。
魔術を受けた屍骸が内側から爆ぜて、ぎっちり詰まった中身が噴き出す。ネロが『ひっ』と小さな悲鳴を漏らすのが聞こえた。煮立った鍋のようにごぼごぼと泡めきながら、臓物が辺り一帯に吹き散らされる。
「ンなっ!?」
次の瞬間。屠った筈の蝍蛆が首から千切れ、その頭部がまだ生きているかのように暴れ出した。
召喚に似ている。使役、というのか。
奴は屍骸を操りトワイライトにけしかけてきたのだ。同種の術で襲撃をうけるなど、皮肉もいいところだ。
呪文も方円も予備動作の何もかもを必要としない。その在り様は明らかに人間とはかけ離れている。相手が迷宮の中の生命体だということを否が応でも感じさせる所業だ。
絶対わざとやっている。
「……こっちこそ舐められたモンだよなァ!」
血で滑りながらも顔を上げ、体を起こす。蹴散らした血だまり。その飛沫を越えて、あっという間に蝍蛆の頭部が押し寄せてくる。
咄嗟に体を倒して回避。けれど、床や壁を抉りとるように跳ねながら飛来したそれをかわしきることは出来なかった。
魔物の口器が右腕に深く喰らいつき、縦に連なる無数の牙が突き刺さる。
「ぎっ――――――」
想像を絶する痛みに呼吸が止まりそうになる。というか、止まった。
酸素を求めて喘ぎながら、咄嗟に張り巡らせた鋼糸で自分の腕ごと魔物の頭部を固く閉じ、動きを封じる。
蝍蛆の頭部はびくびくと痙攣を繰り返していたが、案外すんなり動きを止めた。ただし、トワイライトの腕にきつく歯を喰いこませたまま。
ぼとぼとと血の塊がこぼれ落ちて汚物まみれの床に更に血を注ぎ足していく。
目の前で動きを止めた頭部はもうただの屍だった。一時的に使役されたにすぎないようで、再びの死の静寂へと立ち帰ったみたいだ。拘束を受けたために「捨てられた」というべきか。
てゆうか二度と起きるな。だまって死んでろ。頼むから。
体を支えられなくなって、その場にがくりと膝をつく。とうとう堪え切れずに胃の中身をぶちまけた。赤黒い。殆ど液体。これって血かよ? でも冷静に観察している場合じゃない。
ついでに崩れ落ちたときに腕の付け根から変な音がした。じわじわと袖を伝ってくる感触はもしかしなくても出血だ。肘がまっすぐこっち側向いているのがまずおかしい。千切れちゃいました系の重傷だと見なくても分かったし、むしろ目視確認したくなかった。見たら最後、きっと心が折れてしまう。
「は、……いや血反吐とか吐いてる場合じゃないだろ、マジにィ……」
ぼろぼろと生理的な涙をこぼしながらも前を向く。
女怪はこちらに興味なさげだが、殺意は満々なご様子だ。「つかまえた」と、その唇が紡ぐのを目視する。もう徹底抗戦するしか道はないようだ。
とりあえず睨み返して応戦するが、最早眼光の威力はゼロだ。だって大の大人が泣いているんだから。
「ざっけんなよ、クソビッチ。ぐ……犬くせえんだか生臭いんだかわけわかんねぇ匂い、垂れ流しやがって」
『トワイライト、もう限界だよ!』
「限界ィ? オレのどこが限界だってんだボケ!」
『全部だよ! ってゆーか意味不明な逆ギレしないでよ! おねがいだから早く離脱して。死んじゃうよ!』
「黙れよ。俺は聞き分けのないガキを相棒にした覚えはないぞ」
『だって、トワイライト。キミが』
ネロはもう殆ど泣きそうだった。
しょげきった顔の化身がトワイライトを睨みつける。
『ねえ、なんで? なんでなのさ。もう関係ないじゃんか、こんな戦い。キミには』
「関係ねえって、俺にィ? まァそうかもしんないけどね。楽しいからやってンだよ、こちとらァ」
『ボロボロなのに!』
「……それも含めて。こういうのって超愉快なんだぜ? わかんないだろ。まだお子様のネロちゃんには」
『ドM! 変態!』
「たまんねぇからもっと言え」
『ばか! ばかぁ!』
自分でも薄々変態で馬鹿で阿呆だとは思っている。
逃げることは不可能。そういう状況を差し引いても、心のどこかでこの危機を愉しんでいる自分がいるのだから。
「とにかくお行儀よく見てろって。多分すぐ終わるしィ? そしたら帰りの道教えてよ。終わったらもう右も左も分かんなくなってるだろーし」
肯定とも否定ともとれる短い沈黙。
その後に『……ひゅん』というくぐもった声が聞こえたが、おそらく『うん』と言えなかっただけだろう。
『……ツオルギに言って、機構に救助の要請を出しておく。上で誰かに待機しておいてもらうから。だめな時はボクの判断で踏み込むよう指示する。いいね』
「さんきゅー。そういう潔い切り替え方好きだねぇ」
『トワイ、早くその右腕をなんとかして。魔術でどうにかならないの』
「アー……これねえ」
ネロは素早く自分を立て直して、再びナビとして機能し始める。やはり根は素直で頭のよい子どもなのだ。
けれど、だいぶ消耗させている。彼女の焦燥や疲労がトワイライトにも伝わってくる。
潮時かもしれない。
これ以上ひどい負担をかけそうになったら、トワイライトの方から容赦なく通信を切ればいい。
後でぷんすか怒るネロを眺めるのもいいし、万が一死んだら怒られても分からない。
迷宮で魔物に食い殺される。これだって此方側に脚を踏み入れた者のおきまりの末路にすぎない。
運の悪かった者が、未熟で弱い者が死ぬ。ただそれだけのことだ。
そしてそういう覚悟のあるものだけが迷宮へ赴く。
「んじゃ、ちょっと目ぇつぶってなよ、ネロ」
『何する気、トワイライト?』
食らいつかれた方の腕はもういらない。枷になるなら苦痛ごと切り捨ててしまえばいい。
齧りついて離れないというならむしろ好都合だ。
「させぬ」
トワイライトの意図に気付き、女怪が手を振りかざすが――遅い。
〈邪淫蓮葉〉は雌雄一対。トワイライトは残った一方で虫の頭を己の右腕ごと叩き割った。
ネロの悲鳴じみた声が耳の奥で響く。
「――――っ♥」
後方に飛び退き、破壊される大顎から逃れた瞬間。
自ら斬り飛ばした腕に噛みついてつかまえると、瞬時にそれを傷口に繋ぎ止める。
魔力を混ぜて練り上げた鋼糸。その用途は斬撃や緊縛だけに限らない。
腕とか脚程度なら、ずたぼろだって取っときゃ後でいくらでも何とかなる。
それに今は、腕そのものよりもそこに刻まれた「刺青」が必要だった。
縫い付けたというよりはただ糸で繋いだだけの右腕を見やる。
ハルの手によって彫りこまれた刺青。その魔方陣は極めて複雑で代わりがきかない。ここで一から外側に方円を描いている暇など奴は与えてくれないだろう。
刀は持っていかれたが、幸いというかギリギリ五指は無事だった。殆ど出鱈目な状態になった肉と骨が、辛うじてくっついているというだけだが。
「もう指の何本かくらいならくれてやってもいいかァ」
薬指、か。空洞の隅に転がった少女の亡骸。そういや彼女の薬指は指輪ごと魔物に引き千切られていた。
トワイライトは皮膚が破けて無残に垂れさがる自分の手指を一瞥。
「約束とか、重い足枷もいいトコだ。出来ない方がむしろ都合いいんじゃん? なら薬指なんざねえ方がマシかもなァ!」
『冗談はよしてよ! トワイライト……これ以上無理をするならボクが機構に――』
ネロの声は掠れ、喘鳴が混じりだしている。
「ネロ」
限界のようだ。たぶん、いや殆ど。
これ以上はだめだ。ネロの神経まで焼き切ってしまう。
既に相当の負荷がかかっている筈なのに、弱音の一つも吐かずに彼女はここまでついてきたのだ。
恨みごとを言われようが憎まれようが、もう手を離すべきだった。
まァ、ここでおっ死んでも最後。そうすりゃ泣かれても喚かれてもわかんねえしな。
そうだ。苦痛も死も俺だけのモンだ。なんというか、……それでいいじゃん?
「じゃあね。運が良けりゃ帰りの道案内もよろしくう♪」
『トワイ! ――待って、そんなの』
ぷつりと彼女の気配が途切れる。
やっぱりちょっと心細い。だけどこれは言ってやらない。勿論大人が言うとかなり恥ずかしい言葉だからだ。
意識を向けて通信を断つと、代わりにバチバチと爆ぜるような音が聞こえ始める。いや、ずっと聞こえていたのかもしれないが、それに気がつく余裕すらなかったのだ。
相手からの重圧がそのまま音として伝わってくるような、強烈な気配。
「へへ、感覚が鈍ってやがる。こりゃもう請願は無理だねぇ。けど――」
両脚で地を踏みしめて、左腕で倒れかけの体を支える。まるで動物のような姿勢だ。
トワイライトは糸で繋ぎ留めていた右腕に思い切り犬歯を立てる。
破れた肌から血が噴き出し、喉元を滴り落ちていくのが分かる。吸血鬼にでもなった気分だ。
「あむっ。ぐっ、あっ♥」
既にずたぼろになっていた指を数本強引に噛み切って、ぶっと吐き出す。骨まで砕かれていたから、簡単に噛み切ることができた。
触媒代わりの供物。
対価として支払うなら、けして安くはない代償だ。
「ふはっ……くれてやるよ、こんなもん。あとで新しいのくっつけりゃいいだけの話だ」
唇を真っ赤に汚し、それでもまだトワイライトは笑っていた。
ネロがいたら「いかれてる」とかなんとか言われたかもしれない。それともただ怖がらせただけか。
あれでも一応女の子扱いしてやんねえと怒るんのな、あいつ。
グロはいやだといいつつも、トワイライトの身に危険が及ぶのを彼女は嫌がっている。普段はなるべく態度に出さぬよう堪えているみたいだが、たまに度を超えて心配することがあった。
付き合いが長くなるほど、なんだかそういう雰囲気を滲ませる頻度が多くなっている気がする。
なぜだかは聞かない。出来るだけしらを切り通すつもりだ。
「気でも触れたか」
「俺はとっくにいかれてんだよ。頭のネジは大昔、鬼畜師父に引っこ抜かれてゴミの日に出されたっけね」
首をかしげる女怪。陶器のような顔には何の表情もない。
ただ瞳には最初と変わらぬ殺気が宿っている。
「もしくはァ、どっかの女の家に忘れてきたかもネ?」
「愚かな」
青く澄みきった眼、殺気のこもった声までもが美しい。
「哀れな半端者。見て呉れこそ美しく誂えてあるが、中身は粗悪な出来損ないの――」
「言ってくれるね」
「せめて穏やかに逝くがいい」
歌のように、祈りのように紡がれる言葉はどこまでも冷血だ。
イミューンはヒトという異物を消すための免疫システム。そこに感情などが介在する余地はない。
穏やかに逝かせる気なんてないくせに、女はいつだって嘘をつく。
……まあ男もつくんだけどな。
青黒い肉の群れが眼前に殺到する。
「勅令!」
刹那、数歩手前に不可視の障壁が出現。間一髪で呼び出した結界だった。
殺到した触手がぶつかり、透明な壁に張り付いて蠢めく。どアップの吸盤がすこしキュートだとか考えている暇はない。
壁は何度か腕で叩かれるうちに亀裂が入り、早くも破れかけている。
決断は既に下した。もう今しかない。
「喚起は苦手なんだよなァ……でもいちかばちかだ、クソったれ!」
最後の一滴を振りしぼり、トワイライトは瞬時に意識を集中させた。
普段用いる「憑依召喚」が自らの肉体その内側に精神エネルギーを呼び降ろすのに対し、「喚起」は自分の肉体の外側に霊的存在を呼びだして使役する術だ。
単に呼び慣れていないからか、好みのスタイルじゃないからか。
トワイライトにとって喚起魔法は苦手分野だ。
でも、今はそんなことを言っている場合ではない。自分の中にもう一度呼び降ろす余力なんてすでに残っていない。ならやれることはひとつだ。
傷口からぶら下がる右手を、自ら流した血と噛み千切った指の上にそえて、祈る。
なんでもいい。なんでもいいから、思い描け。いちばん強く、自分が信じているモノを。
形にする。輪郭を与えるんだ。こっち側の世界で姿を見て触れられるように。デタラメだっていい。神でもなんでも、呼び出して命令する。屈服させ、こきつかってやれ。ただそれだけ。事は多分、思っているよりカンタンな筈だ。
目を閉じて、深くイメージを探る。からっぽな魂の中に残る記憶を辿って。
追う幻影は、迷宮。巨竜。銀鱗舞う水底の静寂。
思い描くのは、蒼。
澄んだ蒼い髪と桃色の瞳の小さな竜――――。
「いつか思い出したら、次はわたしの名前を呼んでくれ」
青い竜は、かつてそう言った。
そうだった。あどけない少女の姿で。
……よりによって何で今この瞬間にこんなことを思い出したんだか。
でも、まあ、なんだっていい。この場をしのげるのなら。なんだって。
――――トワイライト。
記憶の水際で自分を呼ぶ少女と視線が交差する。
確かに瞳を交わした。
そういう気がした。
「来たれ!」
どくん、と。
大きく心臓が脈打った。血を吸い上げられるような、背骨がびりびりと疼くようないつもの感覚。
降りた、と確信した次の瞬間。とつぜん目の前が真っ暗になった。
唐突に闇の中へ放りこまれたかのように、全ての感覚が消え失せる。
もしかして召喚に失敗した? 終わりってことかよ。畜生め。
悪態をつきかけて、でもすぐに止める。
懐かしいさざなみの音と、呼び声が耳に飛び込んできた。
あの時と同じだった。あの波打ち際、潮の香り。
これが一瞬なのか永遠なのか分からない。
どこからも、いつまでたっても、自分を傷つけ殺そうとする攻撃はやってこない。血みどろの光景も魔物の姿も、一瞬にして全てが遥か遠くへ消え去ってしまったみたいだった。
もう目を閉じる他になかった。トワイライトは、訪れた懐かしい感覚にただ身を任せた。
…………なんてちっぽけな魂。
正直なところ、そう思った。だって事実としてそうだったから。
見て呉れこそ美しく誂えてあるが、中身は粗悪な出来損ない。とびきり不吉で、汚れきっている。血の匂いがする。
そして、それは赤というより真っ黒で。
――――でも、それが貴方だ。貴方だから。
そう。はっきりとわかる。
今この瞬間、わたしの中に貴方がいるのが分かる。
いつだって。
貴方が迷宮にいるときには、それを感じることができる。はっきりと。
そして今、わたしは呼ばれている。
それと知らずに、貴方はわたしを求めてる。
わたしは必要とされ、輪郭を伴って彼の前に現れるように請われている。貴方が祈るのはわたしを呼ぶため。わたしを呼び降ろして生き延びるためだ。
あの嘘の約束には期待の欠片もなかったけれど、呼び声はひどく心をかき乱した。
それにしても言葉も手順もむちゃくちゃで、ひどく乱暴な祈り方。
彼はこの領域の在り方など何一つ分かっていない。
どうしたって召喚師というやつは私の魂を削りとり、好き勝手に弄くり回して組換えてしまう。犯すような強引なやり方で抉じ開けて、奪っていくばかりで。
それなのに。ひどい行いばかりなのに、こんなにも愛おしいなんて。
言うまでもなく、わたしは待ち過ぎたし、彼はわたしを待たせ過ぎたのかもしれない。
だから素直に手を伸ばす。
呼ぶ声の方へ。
知らなかった気持ち。
幸福というのか。それがどうしようもなく胸に満ち溢れていく。
「――――トワイライト」
迷宮が揺らいだ気がした。
自分を呼ぶ声がすぐ近くで響く。
…………その瞬間に意識の全てが引き戻された。
血で描かれた境界を飛び越えて現れた少女の顔が、既に目の前にある。
額が触れそうなほど、近くに。
眠たげな目は桃色。薄花色に匂い立つ肌。
互いの姿を瞳に映しあっているから、お互いが目を見張り、息を呑んだのがわかる。
甘やかな匂いが鼻を擽る。
少女の方も、すん、と小さく鼻腔を動かした。でも多分血の匂いしかしないだろう。
桃色の瞳にうつる自分の瞳が同じように見開かれている。
柔らかな輪郭の頬は仄かに色づいて。つぼみのような唇が再び名前を読んだ。
誰が口にするより尊い二音節だった。
「トワイライト、やっと会えタ。ずっとおまえ様の顔がみたかっタ。もう一度触れてみたかった」
もう殆ど触れかけの唇が紡ぐ。
外界に再び意識を向ければ眼前には既に女怪が迫っていた。
うずまく嵐のような肉の塊が少女の背後に湧き上がる。黒犬の眼。青い触腕。犬の牙と蠢く触手が押し寄せてくる寸前だった。
命令を下さなければ。すぐに。
しかし、半分痺れかけた思考が状況を処理する前に全ては起こり、終わっていた。
「――――今度こそ介錯してさしアゲル」
少女が振りかざした腕が、トワイライトの身体を引き裂いた。
×印を描くように次々と胴を引き裂かれていく。
まさに八つ裂きって感じだった。面白いくらい簡単に、骨も肉も臓物も全てがすっぱりさっぱり断ち切られていた。
少女の腕は異常に大きく発達したひとつの器官であり、しなやかな凶器そのものだった。
内面の強欲さを主張しているかのような、大きな爪先。
召喚した精神体を従属させることも出来ず、逆に寝首を搔かれるなんて。
…………術の制御は完全に失敗だった。
力のすべてが抜け落ち崩れゆく中で垣間見えたのは、眩い光。
それを目にしてトワイライトはこれ以上ないくらい愉快げに、そして酷悪に笑んだ。
なんだ。まだ終わってなんかいない。
あの光は、竜素を炸裂させた魔術の煌めきだった。




