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迷宮のウルトラブルー  作者: 津島修嗣
読みきり短篇 「薄暮冥冥」
1/36

薄暮冥冥 〈上〉

 



 ……しくじった。

 でも、俺は一体どこでなにを間違えたというのだ?


 男がそう思ったときには、すでに何もかもが手遅れだった。

 もはや自分が死地に足を踏み入れたことは明白だった。歴青の沼のように黒く重たく、その運命は男の全てをどっぷり呑み込もうとしていた。

 ちくしょう、ちくしょう。

 己を含めたこの世の何もかもを呪いながら、男はひたすらに暗がりを駆けて行く。

 俺がなにをしたというんだ、なんで俺だけがこんな目に。

 そういう言葉が何度も口をついて出たが、考えずとも答えは分かっていた。残酷なほどに分かりきっていた。ただ、現状を認めて受け入れることなど到底できそうになかった。

 男は心身ともに限界まで追い込まれ、逃げ道を完全に失っていた。いくら己の悲運や迂闊さを嘆こうと、死の足音は確実に速度を速めながら男を追い詰めていた。

 そうだ、奴らはもうすぐそこまで迫っている。

 魔物どもの気配をすぐ後ろに感じながら、男はなおも自問自答を繰り返していた。地下迷宮の暗く塞いだ景色の連なりは、人間の思考をも簡単に閉ざしてしまうのだ。


 ああ、俺はどこから間違っていた? 

 ……賭博と酒が原因の些細な借金が発端だった、かもしれない。少なくとも、最初の頃は。

 そこから妖しい貸金業者に頼るようになり、借金に借金を重ね、つい出来心で組織の商品にまで手を出して、そしてそれがあっさりとばれてしまった。

 最初の追っ手は何とか振り切ることが出来た。けれど黒幇の連中は、あの乱脈極まる地上の街で一片の容赦もなく男を探しあげ、とことんまで追い詰めた。彼らはどれだけ時間を経ようとも、蛇のような執念深さで、どこまでだって裏切り者を追い詰める連中だった。そんなことは充分に知っていたはずなのに。

 そういうわけで、男は追い立てるものから追われるものへと真っ逆さまに転落していった。

 地上の街よりはるかに入り組む迷宮街に命からがら逃げ込むと、男は高飛びの資金を確保するため、地下迷宮に潜ることを決めた。迷宮内に限り地上のヤクザは手を出せない。そういう協定を結んでいるからだ。勿論、一歩外にでれば話は違う。

 ここまでで既に最低最悪のいきさつだ。でも、もっと酷い偶然が男を待ち受けていた。あるいは必然だったのかもしれない。

 それは、落盤事故と魔物の巣窟だった。

 地下迷宮には〈イミューン〉と称される魔物が棲みつき、独自の生態系を築いている。

 イミューンはその呼称が示すとおり、迷宮に分け入る探索者たちを自らの領域を荒らす異物とみなし、排除殺滅にかかる迷宮生物だ。

 男は手ごろな素材を求めて迷宮を彷徨うなかで落盤に巻き込まれ、迂回路を探し歩き回るうちに、運悪く凶暴な魔獣の縄張りに足を踏み入れてしまったのだ。

 運の悪さと経験の浅さが招いた惨事だった。領域を汚された魔獣どもは怒り、男を追いかけ、そして追い詰めた。

 結局、俺は狼どもに追われて惨めな死を迎えるんだ。地上で辿る筈だった運命は、地下に潜っても寸分違わなかったということか。

 最後に残った男の良心を責め苛むのは、妻と娘への仕打ちだった。

 せめて、もっと優しく扱っていれば。自分を繋ぎとめてくれる者の存在があれば、こうはならなかったかもしれない。しかし、今になって後悔してもすべては後の祭りだった。


 くそ。もう走れそうにない。それでも男は走って、走り続けて、半ば諦めながら曲がりくねった道を抜けていった。

 第二階層というごく浅い領域にいるはずだが、一心不乱に逃げ回ったため、かなり奥へと迷い込んでしまった。電脳接続によるナビゲート・システムは最早役に立っていなかった。そもそも男が受けられるサービスの程度など、たかが知れていた。男は息を切らし、ひどい絶望感を抱きながら、ひらけた玄室に辿り着いた。

 ……行き止まりだ。

 終わりか。そう思った。俺はここで生きながら魔獣に喰われて死ぬのだ。

 しかし、そこには思いもよらぬ光景が待ち受けていた。


 この世のものとは思えぬ美貌の女人がたった一人、そこに立っていた。


 全身くまなく魂を蕩かすような幽艶な美しさだ。目にしただけで、胸の奥がほんのりと温まるような。

 そして、彼女は一人ではなかった。その傍らには薄い翅を持つ異形の黒妖精がふわりと浮かんで漂っていた。

 彼らの周りには奇怪な模様の魔法円が幾重にも浮かび上がり、それらの放つ青い燐光が玄室の輪郭をうっすらと照らし出している。迷宮魔術師の使う結界と似ているが、あちこちに符が浮かび、それが起点となって術が展開しているところをみると、どうやら符咒のようである。


「な……なっ、あ、あんた! そんなところで何を!」

「なにって、決まってンだろ」


 驚愕から間抜けな叫び声を上げる男に視線をむけると、女はニタリと微笑んだ。得体の知れぬ笑みではあるが、これもひどく美しい。


「待っていたのさ、ここで。あんたをね」

「俺を、待って……?」


 迷宮内の淀んだ空気を打ち消すように、甘やかな芳香が漂っている。桃の花のやさしい香りだ。

 婀娜な笑み。闇の中にあっても浮かび上がるような、新雪の如くに白い淡肌。つやつやと輝く黄昏色の長い髪。鋭く整った輪郭に、妖しく括れた細い腰。本当にひどく美しい女だ。

 だが、とりわけ印象的なのはその双眸だった。

 禍々しく渦を巻く淫蕩とした瞳。そこに宿る不可思議な引力は、老若男女問わず心を惹きつけ、奪い尽してしまうような罪深いものに思えた。しかし、たとえそうであったとしても、何物にも代えがたい満月のような美貌であることに違いはなかった。


 これは幻か何かだろうか。だってこんなところで……迷宮の奥の地図もろくにない場所で、斯様な女がどうして自分を待つというのか。

 それになんだ。風もないのに女の髪は舞い上がり、微風を帯びたように靡いているではないか。

 この女は妖仙の類だろうか。そうでなければ迷宮に棲まうという悪魔族か。この上、自分は更に悪い目をみるというのか。

 今にも取って食われるのではと慄き立ち竦む男のもとへ、奇妙ななりの黒妖精が飛んできた。ふわふわ宙を舞うたびに赤く輝く燐粉がこぼれ落ちている。


『安心しなよ! ボクら、オジサンを助けるためにここで待ち伏せしてたんだから』

「さあ、早くこっちに来な。すぐに追いつかれちまうよ……ほら、ねぇ?」


 女がそれを言い終える前に、魔獣の群れが押し寄せてきた。

 すべてが縄張りを荒らされたことに怒り、男を追いかけてきたものだった。数が多い。最後に見たときよりも明らかに増えている。逃げる際の物音や魔獣間の呼ばわりに応えて集ってきたものだろう。

 闇に浮かび上がる無数の眼光は怒りと敵意、そして、捕食可能な肉を得た喜びに滾っている。男の姿だけではない。眼前には極上の肉が晒し出されているのだから。


「よくもまあ、ここまで呼び集めちまったもんだなァ。よっぽど深い業をお持ちのようだね、アンタ」

「ひい、う、うう……」

「ま、いいや。これくらいのほうが退屈しなくてすみそうだ」


 ちら、と呆れ気味の視線を男に向けたが、女はすぐに眼前に群れ集う魔獣どもを睨めつけた。そこに恐れの色はない。むしろその目は嬉々として輝き、好戦的でざらついた光を帯びている。女は舌舐めずりさえして見せた。

 それを眼にした男は、自らの肌が粟立つ気配を感じ取った。


『うわぁ、やる気満々って感じだね』

「どっちが? おれ? それとも奴らが?」

『両方じゃないの』


 狼犬型魔獣(イミューン)の咆哮によって呼び寄せられた触手獣が壁面を覆うように伸びて広がり、あっという間に二人と一匹を包囲する。闇が赤黒く染まってゆく。

 低級にして下劣な迷宮生物であるこの魔物は、いたるところに生息し、人を喰らう。男女の区別なく――と言いたいところだが、実際は柔らかく捕食しやすい肉を好むために、女や子どもを選り好みする行動が多数報告されている。一度人間を捕えると、獲物の味が損なわれぬよう絞め殺すことなく拘束し、じっくり味わいながら、血の一滴までをも残さず絞り取る。この触手獣こそ、もっとも多くの探索者を喰った魔物であろう。

 狭い玄室は一瞬で彼らの狩場と化した。


「こ、こいつらをあんたがどうにかできるってのかよぉ!」


 赤黒く照り映える触手の群れに包囲され、男はたまらず悲鳴をあげた。

 女は彼に目もくれず、背後で暢気に漂うだけの妖精が代わりに答える。


『もちろんだよ。ねえ、トワイライト』


 獰猛な目をした女が頷いた、その刹那。

 食事を邪魔する闖入者、あるいは男よりも喰い甲斐のある餌とみなしたか。男の脇をすり抜け、彼を庇うように立っていた女に向かって四方から赤黒い触手が殺到する。粘液に濡れて蠢く肉の化け物。邪悪な異形の捕食器官。

 しかし、女は初撃を避けようともせず、そのままあっけなく四肢を絡め取られた。

 反応できなかったのか。でも、とてもそのようには見えなかった。


「お、おいっ!」


 男は驚き叫んだが、八方から肢体を絡め取られた女は頭を垂れたまま微動だにしない。それどころか声すら上げなかった。その身体からは完全に力が抜けている。

 さらに襲いくる触手が女の四肢を締め上げ、伸縮しながら深く絡みついていく。首や顎にまで纏わりついた襞付きの突起が品定めをするように、にゅるにゅると蠢いて口内にまで侵入を開始する。「ん、く」と湿った吐息が漏れ聞こえた。それでも獲物が明らかな反応を示さないのが不満であるのか、魔獣は何かしらの変化を引き出そうと猥らに蠢動している。

 どうせ喰らうのなら、活きのいい餌でなければ。低劣なはずの生物に備わる知性の存在を感じ取り、男は薄ら寒くなる。……今度こそこれまでだ。そう覚悟した時だった。

 不意に、くぐもった笑声が聞こえた。

 目を開けて見やれば女が笑っていた。口内を侵されているというのに、くつくつと肩を揺らし、愉快そうに笑声を漏らしている。いったい、なぜ。

 しかし、そいつが漸く顔を上げたとき、男ははたと気がついた。

 眼前の存在が女ではなく、女と見紛うばかりの美貌をもった青年であることに。

 ……その眼でわかったのだ。絶美な容貌に似合わぬ、おどろおどろしい黒渦の双眸。

 彼の眼に宿るのは野蛮で底なしの〈男〉の欲望そのものだった。

 瞬間、青年は口内で蠢く触手を勢いよく噛みちぎり、ぶっと吐き出す。

きれいに歯型のついた赤黒い肉塊が、ばちばちと火花を上げながら床に転がった。


「ぐえ……うっげぇ、クッソ不味いったらない三流駄肉っ!」


 内側から雷撃を浴びたように、肉片は焼け焦げていた。

 ぺっ、ぺっ、と子どものような動作で青年は残りを吐き出している。はっきり言って、とても悠長な振る舞い方だ。

 女の金切り声のような甲高い鳴き声を上げて触手獣がうねり、青年への拘束を緩めた。隙を窺っていたのか、彼はそこへ力を込めて腕を割りいれ、半身の自由を取り戻す。


「テクは最低。しかもしゃぶれたモンじゃねえ。こりゃ女探索者には全く喜ばれそうにないね。それにおれのほうが一億万倍イイもん持ってるじゃナイ!」

『あー、いつも通りお下品だなぁ。本当に品性の欠片もないよねえ、トワイライトって。あ、むしろ品性って言葉の意味知ってる? 説明したげようか? 幽燐堂国語大辞典によると、品性とは、』

「うっせ、バァカ! お前だって毎回悪趣味な化身(アヴァター)こさえてきやがって。ビチグソ根暗迷宮くんだりまで、わざわざ遊びにきたんじゃねえんだよ?」

『いいの! 今日はこれがお気に入りなの!』

「いやあの、どうせならオマエもっと可愛いのを、少女趣味なの作ればいいだろうがよ。ほわほわ~っとしてて、こう砂糖菓子みたいな女の子っぽいやつをよ」

『そんなありふれたオモチャ作って何が楽しいの。あんまり俗っぽい価値基準でボクという人間を判断しないでくれる?』

「俗っぽいってなんだよ? どんなだよ?」

『勿論トワイみたいなひとのことだよ。キミ、迷宮で捕まえてきた触手獣をこっそり飼って普段から遊んでるっていってたけど、ほんとみたいだね。友達いないの? 触手は人間と感情を共有してはくれないんだよ』

「けっ、研究だよ! 研究! 趣味と実益を兼ねてンだ! 実際恋人とかもめっちゃ悦ぶもんね!」

『ほら、俗だ。俗物のカタマリだ』


 面白半分の悪罵の応酬。

 黒妖精に喋りかける青年の口からは、仄かな燐光が覗いて見えた。こいつは自分の体内、おそらく舌か、そうじゃなきゃもっと奥にまで符呪の文言を直接彫り込んでやがるんだ。

 驚きながらも視線を向けたままでいると、美貌の青年は妖しげな笑みを返してきた。心ごと吸い取るような幽艶な微笑みだった。

 男は先ほどまでの恐怖とは違う種類の恐怖、もっと根源的な畏れを抱き、体の芯から震え上がった。あの青年の眼。その双眸といったら。

 男は渦のような眼を見た瞬間に悟ったのだ。

 ……こいつの方こそよっぽど〈異形〉である、と。

 纏わりついていた触手魔獣が再び蠕動を始め、周囲の獣どもが唸りだす。


『Мっ気発揮してないで、いい加減動けば? 時間が足りなくなっちゃうよ』

「んじゃ、まァ……いっちょいきますかァ!」


 青年は肉の軛を信じられない力でもって引き千切り、反撃を開始した。

 反撃? 違う。それはどうみても周到に用意された罠だった。いつの間に施したのか、そこらじゅうに張り巡らされた鋼糸を五指で操り、魔獣どもをいとも簡単に引き裂いていく。一体、二体。数えるのが追いつかないほどに速い。というよりも絡まる糸が瞬時に魔獣を細切れにしてしまうがために、何頭片付けたのか判別がつかないのだ。

 青年は血しぶきを器用に避けながら舞い続け、代わりに汚れていくのは壁と床、それに周囲の魔物の肉ばかりだ。


「低能エロエロ触手魔獣にはお仕置きが必要だもんなァッ! 女の子をとろとろにして悦ばせるためにもおれが再調教してやんよ!」

『細切れにしてから言っても意味ないじゃん。やっぱりばかなの?』

「あとでサンプルを持って帰るからいいの!」

『おもいっきり違法行為を宣言しないで!?』


 青年はまるで意志を持った生き物であるかのように黒縄を操っている。

 男の眼にも辛うじてそれが見えたのは、糸自体が淡く発光していたからだ。最初にみた結界と同じように、強化の術が施されているのかもしれない。

 同時に数多の呪符が舞い、押し寄せる触手の波に激しい雷撃を浴びせる。紫電が消えたときにはもう淫肉の群れは一掃されていた。

 唐突な反撃に怯んだイミューンどもがわずかに後じさる。

 しかし魔獣どもはまだ諦めていない。呼び集めた群れが十数匹と残っている。どうやら数で押す気らしい。彼らには闖入者を許す気はないようだ。極上の得物を前に、相当腹を空かせているのかもしれない。

 なおも怯まぬ魔獣を前に、青年は挑発的に舌を出してみせる。果たしてどちらが餌なのか。

 符呪に暗器に、妖しい法術。この青年はおそらく道士だ。

 それも多彩な術を操る力を持った、黄昏色の道士。

 目の前で繰り広げられる戦闘は、即興で演じられる舞踏そのものだった。ただし、独り舞台だ。

 その様子を男はただ呆然と見ているしかなかった。震えがどうしてもおさまらない。本当は今すぐにでも踵を返して逃げ出したいというのに。


『そんなに怖がらないでよ。おじさん? ああいうふうだけど、トワイライトはべつに悪いひとじゃないんだからさ』


 ふいに幽鬼めいた姿の化身が現れ、ふわりと男の鼻先に触れてきた。本物と見紛うばかりの質感に男はびくりと身を震わせた。さっきから道士の傍を漂っていた奴だ。拡張現実上の立体映像。黒い妖精の化身(アヴァター)である。

 迷宮探索においては、リアルタイムで情報を提供する案内役(ナビゲータ)が重宝されるが、目の前の相手もそれの一種だ。

 ただし、こいつは市街地で見かける様なありふれた化身とは明らかに異なっていた。極めて精緻に造られたプロ仕様の造形物。芸術作品といってよいほどに、隅々までしっかりと造り込まれている。黒い蛇の下半身と人間の上半身、それに蜉蝣のような薄い翅を持った美少年を模しているのだが、動きはとても滑らかだ。要するに不自然なくらいに「生物らしく」振る舞うよう設計されている。

 あやうく迷宮生物と見間違えたくらいに。


「な、なんだ、おまえ……」

『お。今反応したってことは、キミもやっぱり埋め込み済なんだね。話が早くて助かるよ』


 〈埋め込み済〉というのは、文字通り、電脳通信用の超微細符呪インプラントを外科手術によって体内に埋め込んである……という意味だ。

 端的に言えば、このサイバネ手術を受けた者は、迷宮内外で現実プラス薄皮一枚を加えた拡張現実の恩恵を受けることが出来るのだ。これはすでに、探索者が外部の案内役(ナビ)と繋がり、情報を得るための手段として一般化していた。いわばトレンドのようなものだ。

 施術を受けて水先人と契約すれば、優先経路の案内から座標の確認、注意ポイントやイミューンの出現予想区域までを音声および視覚情報として逐次的に取得可能になる。おまけにコミュニケーションツールとしても充実している。実際、この妖精のように向こうからこちらに働きかけることも、こちらが向こうに働きかけることも可能だ。

 電網上に可視化される化身は、探索者側にとっても一個の存在として認識されやすい。それこそが売りでもあった。簡易な上にごく短時間で意思の疎通を図る手段が探索にはかかせない。


『うへへ。まあ、落ち着いて。トワイライトとボクがいれば、もうだいじょうぶなんだから』


 ともかく、眼前の黒妖精は、現実の人間と殆どたがわぬ動作でやわらかに告げてみせた。


『ボクたち、治安維持ギルドから遭難者がいるって通達をうけて救助に来たんだよ』

『治安維持、ギルド……? それじゃあ、み、味方、なのか。俺の』

『まあ、味方というより中立的立場を取るって方針なんだけど。探索支援機構っておっきな団体、さすがにキミでも知っているでしょ? 悪いようにはしないから、もっと力を抜いて頂戴よ』


 黒妖精はふわりと舞って、男の肩に腰を下ろした。音もなく燐粉が散って、それらは徐々に光を失っていく。重さはない。

 無駄で過剰といえるほどにチューンアップされた化身は、ガキどものお遊び用に拵えられた既製品とは明らかに異なっている。限りなく人間らしく、それでいて迷宮生物のような異形性を兼ね備えている。

 でも、どうして、いったいなんのためにここまでのモノをこさえるのだろう。

 遠く隔てた場所でコイツを操作する人物は一体どのような精神構造をしているのか。


『フフ、ボクのこと気になる?』

「い、いや……そんな、ことは……」


 どういうわけだか男の内心を見抜いたようで、黒妖精はニヤニヤ笑って詰め寄ってきた。

 どうして。まさか生体情報までハッキングされている? 再び動揺する男を宥める様に黒妖精は話題を主たる方向へと戻し、のんびりとした口調で、


『ボクについてのいろんな疑問はおいといてさ、とりあえず安心してよ? 彼、トワイライトがすぐに全部やっつけちゃうんだからさ』


 直後。殺到する低級イミューンを半分ほど退けた青年が一端飛び退き、男の横まで後退してきた。

 あれだけの立ち回りを見せたというのに、息も上がっていない。

 どこか高揚したような異様なテンションで、青年はごく気さくに語りかけてくる。


「よう、オッサン! おれのパーティは楽しいかい?」

「な、冗談じゃない!」

「そんな邪険にしなくたっていいじゃない。せっかく助けてやろうってのによ」

「……た、助ける、だと」

「ああ。そうさ、とっ!」


 背後に迫る魔獣の気配を読んでいたらしい。青年はぐるりと体を回転させ、咒符を飛ばす。袂から飛び出していく無数の札は、まるで一連なりの羽ばたきだ。


「☐☐☐☐、急々如律令!」


 呼ばわれた名前を、男は正確に解することが出来なかった。聞いた事のない音韻だった。それは術の操り手である道士にしか分からないのかも知れない。

 無性に怖くなって、とうとう男はその場から逃れようと踏み出し掛ける。

 よく通る道士の声が動きを制した。


「言っとくが、オッサンよォ。この先には行けないし、戻れもしないよ? おれが結界を張って閉じちまったからねぇ」

「ど、どうしてそんなことを!」

「どうして? 魔獣どもをここでまとめて始末して、あんたを救助するためさ。ここまで必死に逃げてきたんだろ。さ、遠慮せず、おれの後ろに隠れなよ」

「あ、な、なんで俺なんかを……俺は地上から」

「いいから黙って見てろって」


 混乱と困惑で頭がいっぱいになった男は、目の前に立つ青年道士に疑問をぶつけようとした。

 しかし、言葉を発することは出来なかった。こちらを振り返った道士の視線が男の言葉を封じていた。有無を言わさぬ強く鋭い視線。夕暮れ色の不吉な双眸がそれ以上を許していなかった。

 すっかり威圧された男の口からはもうマトモな言葉が滑り出ることはなかった。それどころか、呼吸がままならぬほどの胸騒ぎを覚え、男はその場におろおろと立ち竦むことになった。


 ……どくん。と、鼓動が深く脈打つのを感じた。


 否。空気が震え、青年が作り出した結界、それに包まれた空間自体が揺れていた。


 …………どくん。どくん。


 同時に数多の魔法円が燐光を帯びて、青年のまわりに浮かび上がる。

 その様は多くの術を同時展開していることを表しており、この若き道士が相当な手練れであることを示していた。


「魔獣駆逐、急ぎて律令の如く行え! 勅令・☐☐☐☐!」


 黄昏色の道士は再び奇怪な呪文を紡ぐ。どうしても、男の耳ではその名が聞き取れない。ということは、やはり彼のみがその名を知りえる術式なのだ。

 道士のまわりに次々と〈竜素〉を固めたような高密度のエネルギー体が集まり始めた。

 そうか、どうりで。

 ……この青年は迷宮召喚術を使うのだ。迷宮内に満ち溢れるという竜の魂の残り滓――いわゆる魔的エネルギーである〈竜素〉を集め術を練り上げ、何かを対価とすることで異界の精神生命体を呼ばわる術の使い手。それが召喚士だ。そういう術者がいることは男も知っていた。どうりで、音声を聞いただけでは術の正体が分からぬわけだ。

 道士を囲むように方円状に収束していた竜素が魔力の奔流となり、低級のイミューンどもを焼き焦がす。なにを喚び降ろして使役しているのか知れないが、すごい威力だ。


「さて、ネロ! 準備いいかァ。派手に行くぞ」


 いつのまに抜いたのか、九鈎刀(きゅうこうとう)を掲げて相棒に語りかける。その口調は場違いなほど愉快そうだ。

 道士の気の違ったようなアッパーな振る舞い方に、男は先程にも増して強い恐怖を覚えた。


『オッケー、トワイ。バックアップは任せてよ』


 黒妖精が陽気に頷く。どうやら、彼らもまた電脳接続によって互いの感覚を結びつけているらしい。

 道士の女じみた美貌は化け物どもの血に塗れ、大きな口は歪んだ笑みに彩られている。

 そして、あの黒渦のような禍々しい双眸。男は闇界隈に身を置いてはいたが、あんな目をした奴など一度も見たためしが無かった。

 ……あいつはこれまでに遭った何者よりも凄惨な眼をしている。

 ここはもう魔獣どもの領域ではない、ほかでもない彼の狩り場だ。

 道士が這いつくばって糸を曳けば頭上の数体が細切れと化し、そのまま指の間に握った毒針が襲いくる獣の体力を奪う。紅く弾ける血潮が彼の舞台に彩りを加える。その間にも弱らせた敵を刀で叩き、自らの手指で引き裂いていく。

 舞踏のような連続的な動き。張り巡らされた術が敵を縛り、堕とし籠めていく。

 まるで罠。察するに、奇手搦め手が彼の本分なのだ。それは、相手の強襲を受けてからの反撃に特化しているということ。だまし討ち、暗殺。青年はいっそ卑怯ともいえる手管を使いこなしている。きっと得意分野は奇襲や闇討ちだ。それを意識すると背筋がぞっとした。救助というよりは、どうしたって刺客向きだろう。

 道士のすぐわきを魔獣の爪が引き裂いて、牙が通り過ぎていく。この青年は守りに殆ど気を払っていない。というか、関心がないようだ。そう見えた。

 実際彼の周りには防御と強化、治癒の術式が張り巡らされ、青白く発光している。そのすべてが受動で働くように仕組まれたものだ。そもそも口の中にまで呪いの紋様を施すような奴だ。普段から強化と自然治癒の術を展開していてもおかしくはない。もしかしたら、こういう隙すら何かの罠なのかも知れない。

 とんでもない野郎だと思った。この青年は結局殺戮を愉しみにきた、ただそれだけなのかも。

 男の眼前で繰り広げられている光景はそれくらいに鬼気の迫るものだった。

 ――と、すぐそばの壁にくぐもって濡れた音を立て、肉と臓物が叩き付けられる。ひどい匂いだ。おまけに飛び散った血が男の顔に振りかかる。いや、血だけではすまなかった。

 男の瓦解寸前の精神はこれ以上の恐怖と混乱を全力で拒み、本能にまかせて暴れ始めた。


「ひぎぃっ、助けて! 助けてくれぇっ!」

「オイコラ、無駄に動くんじゃねえ! ぶっちゃけさっきからオマエが邪魔だよ!?」

「助けぶッ!?」


 縋りつけば即座に肘で突き飛ばされる。この道士は思ったよりもずっと短気で、しかも血の気が多いようだ。

 言うが早いか不可視の糸で絡めとられ、自由を奪われた男は彼の手元に引き寄せられていた。


「シーッ、シーッ! ほらほらァ、おれに身を任せなさいって! 安心っつったら安心なんだからよォッ」

『しーっじゃないでしょ。キレて威嚇しないで放してあげなよ』

「うわぁっ! こ、殺されるっ!? や、やめ」

『待って、トワイ! タ……いや救助者に乱暴はダメだって。後で困ったことになるのはキミだよ』

「ちょっとチクッとするだけだから平気だよ!」


 黒妖精が制止をかけるのを無視して、道士は至近距離から男の瞳を覗き込んだ。深い業の渦巻く凄惨な眼だった。大きく散瞳した瞳が彼の昂ぶり様を表している。

 点穴針を構えた右手が迫り、痛みを感じる間も与えらずに、男の意識はそこで途切れた。





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