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老人と海老

作者: 仁瀬晴子

 おや?と、わしは窓の外へ目をやった。何か映っとる。

 今日は珍しく東京でも雪が白く積もっとる。電車が止まって、帰れないと、息子の熊雄が日本橋から電話をかけてきた。

 窓の外のそれは、灯りではないようだ。結露したガラス越しに赤い影が揺れとる。

 台所ではばあさんが夕食の支度をしとる。いつもの、ばあさんの、味噌汁のにおいがした。わしはこのにおいを嗅ぐと安心してしまう。

 わしはカーテンを開けて、窓を少し開いてみた。

「なんじゃ?」

 赤い物体が目の前に現れた。

「海老か⁉」

 わしは狼狽した。この場で狼狽しない奴がいるだろうか。その物体はなんと海老だった。海老だったのだ!

 海老が雪の中、寒そうに凍えながらわしを見上げとった。

「海老か⁉」

 海老はこくりと頷いた。

 そうか、海老か…。海老。わしは暫し間を置いたあとに、そうだ、海老だ、と納得して海老を部屋の中へ招き入れた。

「徒歩で来たのか?」

 わしは海老に訊いた。

 雪で濡れた身体をハンカチで拭きながら海老は頷いた。

 はて、海老は何処から歩いて来たんじゃろうか、少し気になったが、そんなことは取るに足らないことじゃった。

「海老よ、まぁ、すわれ。囲碁は打てるか?」

 わしは上等な籐の椅子を海老に差し出しながら訊いた。

 海老は言った。

「打てますよ、昔むらおさんが教えて下さったんじゃないですか。ちゃんと覚えていますよ」

 そうじゃったかの、わしは笑う海老を見て、もしかしたらそうじゃったかもしれん、と思った。

「やけに大きいと思ったら、お前、伊勢のほうからか」

「伊勢からではないけど、ジャンルとしては伊勢のほうですね」

 そうか、伊勢のほうか。そうじゃったかもしれん。

 海老は少し誇り高い笑みを浮かべた。

「寒いじゃろうが、もうすぐうちのばあさんが味噌汁持ってくるから飲めばいい」

 わしは顎で台所のほうを示した。伊勢のほうの海老は、少し困惑したような笑顔を見せた。


 黒い碁石がパチリと冷たい音をたてた。

「熊雄さんはお元気ですか?」

 海老が訊いた。

「ああ、元気だ。今日は雪のせいで帰れないそうじゃ、さっき電話があったようだ」

 海老は一瞬、首を傾げて、静かに頷いた。

「会社から帰れないのは獅子夫さんでしょう」

 獅子夫だったか、獅子夫は誰だったか…。わしの心中を見透かしたように海老は言う。

「むらおさんの御孫さんですよ。日本橋の会社に御務めじゃありませんでした?」

 そうか、獅子夫は孫だったか。そうじゃったかもしれん。そうか、獅子夫はそんなに大きくなったのか。

「熊雄さんは伊豆ですよ」

 そうか、伊豆か。ジャンルとしては伊豆の方か。そうじゃったかもしれん。熊雄は伊豆じゃった。

「熊雄は何をしとるんかのう?」

 わしはひとりごとのように呟いた。

「年賀状がきましたよ、娘さん去年御結婚されたんですね。あとペットの犬の写真もありましたよ」

 そうか、熊雄には娘がいたか。犬もいたか。そうじゃったかもしれん。そういえば結婚式では白無垢を見た気がする。あれは熊雄じゃったかの、熊雄の娘じゃったかの。わしは思い出そうとしてやめた。わしが覚えておる白無垢姿はうちのばあさんだ。

「犬はなんという犬だね?」

「アメリカンコッカースパニエルです」

「それは犬の名前か?」

「名前は忘れちゃいました、犬の種類ですよ、むらおさん」

「アメリカンのほうから来た犬なのか」

「アメリカから来たかどうか…でもジャンルとしてはアメリカンのほうですね」

 海老はいろんなことを良く知っていた。そうか、アメリカンのほうの犬か。アメリカンでもいい、犬は可愛い。

「戦時中にアメリカンな犬を飼ったら大変なことになっていたぞ」

「そうですね」

 海老は囲碁が強かった。わしはあっさりと負けてしまった。わしは囲碁が強いと思っていたのだが、海老はもっと強かった。そうだ、海老はわしに囲碁を習ったと言っておった。そりゃ強いわけもあろう。

「なぁ、海老よ、戦争を覚えておるか?アメリカ軍が飛行機で低飛行しながら爆弾を落としていった。火の海じゃった」

「ええ、体験はしてませんが、わかりますよ。大変でしたね。東京大空襲ですか?」

 東京大空襲というのか、あれは。あの火の海は。

「わしのいちばん下の妹がまだ赤ん坊で、わしは抱えて中学校まで逃げた」

「ええ」

「アメリカンが嫌いでのう、熊雄はアメリカンか」

「いえ、熊雄さんはアメリカンじゃないですよ、ジャパニーズのほうですよ、むらおさん。」

 その時電話の呼び出し音が鳴った。わしはばあさんを呼んだ。台所のドアが開いて、美味しそうな匂いがこちらまで漂ってきた。

 電話にでたのは、ばあさんではなくて晴子さんだった。

「なんだ、わしはばあさんかと思うとったわ」

 晴子さんは獅子夫の嫁さんじゃったかの。

 海老は碁石を掌でじゃらじゃらともてあそびながら言った。

「アメリカの人も、いい人はたくさんいますよ。憎むのは戦争です。今はもう平和ですから」

 わしは開きっぱなしの台所のドアへ向かって声をかけた。

「ばあさん、ばあさんや、海老に何か温かいものを出してやれ」

 海老は、いや、僕は大丈夫ですよ、と首を振った。

 電話を終えた晴子さんがわしのほうへやってきて微笑んだ。

「むらおさん、獅子夫さんは今日は会社に泊まることにしたそうですよ」

 そうか。獅子夫は会社か。

「ばあさんはどこかの?」

 晴子さんは一瞬同情的な顔をして

「ごはん、もう少しで出来ますからね」

 と微笑んだ。


 わしはふと思い出した。

 あれは去年風邪をこじらせて死んだのだ。


「ばあさんの味噌汁のにおいかと思ったわい」


 正面を見ると赤い物体がこちらを見ていたのでわしは驚いた。

「海老ですよ」

 ばあさんが言った。

 ああ、そうか、海老じゃった。伊勢のほうの海老じゃった。ぼーっとしておると忘れてしまうところじゃった。

「おかあさんの美味しかったですよね」

 海老は少し微笑んで言った。

「お邪魔した時に、いただいたことあります」

「そうか。それは良かったのう。あれは料理が上手くてな、なんでも簡単に作ったもんだ。ハイカラな西洋の料理も作ったりしておった」

 わしは海老に碁石を見せて、もう一度やるか?と訊いた。

 海老は時計を見てから、もう、帰らないと、と言った。

「徒歩で帰るのか?」

「ええ、まだ足腰強いから大丈夫ですよ」

 そうかもしれん。足は多いな。

「ばあさんの味噌汁は食べていかんのか?」

「ええ、大丈夫です」

 海老は律儀にぺこりとお辞儀をして、ありがとうございますと言い、入ってきた窓から雪の降る外へと出て行った。

 ええと、海老はどこへ帰るんじゃったかの。雪の暗闇の中へ消えていく海老を見ながらわしはぼーっと考えた。

「おじいさん、窓しめてもらわないと、寒いじゃないですか」

 ばあさんが言った。

 ああ、すまんかった。わしはあわてて窓とカーテンを閉めた。

「ばあさんや」

 わしは海老のかわりに藤の椅子に座ったばあさんに声をかけた。

「なんですか、おじいさん」

「さっき思い出したんじゃが、ばあさんの白無垢は綺麗じゃったのう」

 ばあさんは白い手を小さな唇にあてて、うふふと笑った。

「やめてくださいよ、いつの話ですか」

 ばあさんは白無垢に負けないくらい色が白かった。その頬が赤らむのはとても愛おしかった。

「おじいさんだって、袴姿はそりゃもう、素敵でしたよ」

 わしは黒い紋付袴を着ていた。

「思い出すのう」

 ばあさんは女学生のようだった。それは今も変わらず、美しい。

「ばあさんや」

「はい、おじいさん」

「歌を歌ってくれるか?」

 わしはばあさんの声が好きだ。歌が好きだ。料理をしながら、掃除をしながら、いつも歌を歌っていた。りんごの唄がいい、と言う前にばあさんは歌い出した。


 赤いりんごに くちびるよせて


 

 わしはばあさんに見蕩れていた。



 黙って見ている あおいそら



 「むらおさん」

 ふと気がつくと晴子さんがわしの手を握っていた。

 「夕食の用意ができましたよ」

 あぁ、そうか。もう夕食のじかんか、どうりでなにやらいいにおいがすると思ったわい。

 「今日の夕食は何かの?」

 「むらおさんの好きな卵焼きと、お魚と、お味噌汁ですよ」

 晴子さんは柔らかい声でそう言った。

 卵焼きが好きじゃった。そうじゃった。味噌汁も好きじゃった。

 「晴子さんが作ったんかの?」

 「ええ」

 晴子さんは笑って頷いた。

 「冷めてしまいますよ、お味噌汁には伊勢海老が入ってますから、美味しいですよ」

 そうか。伊勢海老か。伊勢海老とはなんじゃろうか。伊勢のほうの海老じゃろうか。

 わしは食卓の椅子に座った。

 「ジャンルとしては伊勢ですね」

 誰かがそう言った。

 そうか。伊勢か。

 なにかすごく近い懐かしい匂いがした。海老はとても美味しかった。


 「晴子さんや」

 「はい、なんですか?」

 「明日も味噌汁を作ってくれるかの?」

 「ええ、いいですよ」


 食べていると獅子夫が帰って来た。紺色のコートに雪が積もっている。外はとても寒いようだ。獅子夫は熊雄の息子じゃったかの。わしの孫じゃったかの。そうかもしれん。

 

 こんな寒い夜に海老は、徒歩でどこへ帰ったんじゃろうか。


 こんな寒い夜には、様々なことの区別がつかんようになる。

 あたたかい味噌汁は、まるで生きることのようだ。

 味噌汁と生きることの区別がつかんようになる。



 なぁ、ばあさんよ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「ジャンルとしては、ファンタジーのほうですね」♪ ゆったりとした文章のリズムを、きれいだなと感じました。 伊勢海老のお味噌汁、一度食べてみたいです。 あたたかいうちに。
[良い点] 海老という存在を不思議に書けていたと思います。赤い物体ですが、きっちりと囲碁を指すことができたりするところを見るに、人間なのでしょうか。  興味深い作品でした。 [一言] お爺さん視点の物…
2013/01/17 13:16 退会済み
管理
[一言] 斬新で笑えた。おもしろかったです
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