胡蝶の約束
夜に飛んだ蝶が、朝の命を救う。
勇太が眠りにつくと、胸の奥から淡い青色の蝶が、静かに形を成した。
それは彼の「ゆめのかけら」だった。
夜の空は、世界中の眠りから生まれた無数の光る蝶で埋め尽くされていた。青、銀、深紅、琥珀…色も大きさも異なる蝶たちが、音もなく乱舞している。
勇太の蝶も風に乗り、その群に溶けていった。しばらく漂っていると、向こうから黄金色にきらめく一匹が近づいてきた。
羽の縁は細かく切れ込み、まるで燃えるような輝きを放っている。二匹の蝶は、空中で静かに羽を重ねた。
その瞬間、勇太の意識に、見たこともない光景が流れ込んできた。
暗い部屋。床に広がる暗い染み。壁に寄りかかる小さな影。そして、扉の向こうで息を殺している、誰かの気配。
同時に、黄金の蝶を介して勇太が昼間に見たものが伝わっていく。冷たい霊安室、手配された男の顔、指紋の残ったナイフの写真。
二つの夢の境界が、ゆっくりと溶けた。
言葉はなかった。それでも、状況は分け合われた。
「…これを、なんとか現実で」
そんな約束のようなものが、二人のあいだに残った気がした。
東の空が白み始めると、蝶たちは光の粒子となって、次々と消えていった。
翌朝、勇太はベッドの中で目を覚ました。
頭の中に残っていた凄惨な情景は、すでに霧のように薄れ、ほとんど形を留めていなかった。
ただ、胸の奥に何かが引っかかっているような、曖昧な不快感だけが残っている。制服に袖を通し、巡回に出た。
秋の朝は冷え込んでいて、街路樹の葉が乾いた音を立てて揺れている。住宅街の角を曲がったとき、勇太は思わず足を止めた。
向こうから、見知らぬ少女が歩いてくる。
十六、七歳くらいだろうか。黒い制服の襟元で、髪に挿したヘアピンが朝の光を受けてきらりと光った。黄金色の、蝶の形をしたヘアピン。
夢の中で見た、あの蝶にそっくりだった。少女はこちらに気づかず、ゆっくりと歩いていく。その後ろ姿を見送るうちに、勇太の記憶の底で、何かが微かに動いた。
暗い部屋。小さな影。扉の向こうの気配。思い出せない。
それでも、足が勝手に、少女の後を追いはじめていた。
――少女の家には、男が潜んでいた。
三日前の夜、両親はすでに殺されている。妹はクローゼットの中に閉じ込められ、口を塞がれたまま、息を潜めている。
男は居間のソファに座り、テレビもつけず、ただ窓の外を見ていた。
彼は似たような犯行を、すでに何件も重ねている。毎回、姉か兄のような存在を外に出す。そして待つ。
戻ってくるのか。それとも、妹の命を売り渡して、自分だけ逃げるのか。
その曖昧な時間こそが、男を興奮させた。裏切る瞬間を、今か今かと待ち続けている。少女は学校に向かう途中、何度も立ち止まっていた。
家に戻れば、妹の命は男の気分次第。戻らなければ、妹が確実に死ぬ。どちらを選んでも、結果は同じように感じられた。
昨夜、布団の中で彼女は必死に願った。誰かに、この状況が伝わって欲しいと。
願いが蝶になって夜空を飛んだことなど、朝にはもう忘れてしまっている。勇太は、少女の後をつけながら、手帳に目を落とした。
この地区で、ここ数ヶ月、似たような事件が三件あった。いずれも「家族が突然いなくなった」という報告だけが残り、家の中は誰もいないように整えられていた。
指紋も、血痕も、巧妙に消されていた。黄金のヘアピンが、再び朝日を反射する。
勇太はポケットの中でスマホを握りしめた。夢の断片が、まだ胸の奥で小さく蠢いている。思い出せない約束。誰かと交わした、言葉にならない約束。
少女が角を曲がり、静かな住宅の一角に入っていく。
二階建ての、ごく普通の家。カーテンはすべて下ろされ、玄関のポストには新聞が三日分、積み重なっていた。
勇太は木陰に立ち止まり、息を潜めた。
家の中から、かすかに床を軋ませる音が聞こえた気がした。
誰かが、待っている。蝶のヘアピンが、玄関の影の中で、一瞬だけ光った。
勇太は、まるで生活の痕跡を意図的に消し去ろうとしているかのような、中途半端な家のありさまに強い不審を抱いた。
ポストに積み重なった新聞、下ろされたままのカーテン、そして玄関周りの妙に整いすぎた静けさ。
すべてが、誰かの手によって「誰もいない」と装われた痕跡に見えた。
家の死角となる生垣の陰に身をかがめ、彼は中の様子を見守り続けた。時折、窓越しにわずかな影が動く気配がする。
床を軋ませる音が、風の音に紛れて聞こえるような気もした。だが、じっと動かず監視を続けるには、体力が持たない。
勇太はそっとスマホを取り出し、後輩の小野寺に簡潔なメッセージを送った。位置情報と、「慎重に。単独行動は避けろ」という短い言葉だけ。
すぐに「了解」の返信が来る。小野寺が到着するまでの時間を稼ぐため、勇太はさらに身を低くした。やがて、家の中で微かな物音が止んだ。
少女が帰ってきた直後から張り詰めていた緊張が、急に弛んだように感じられた。勇太自身も、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
木陰の冷たい地面に背を預けたまま、意識が遠のいていく。同じ頃、家の中でも少女は、張り詰めた緊張からか、気を失うように眠りに落ちていた。
リビングのソファに男が座り、妹がクローゼットの奥で息を潜めているその空間で、彼女の意識だけがふわりと浮上した。
再び、淡い青色の蝶が胸の奥から形を成した。黄金色の蝶も、同じように空へと飛び立った。
二匹はすぐに見つけ合い、羽を重ねる。言葉はない。ただ、状況が、意図が、互いの意識に直接流れ込む。
「窓を開けろ。男が動いた瞬間に――必ずトイレに立つはずだ。その隙を――」
夜明けを待たずに、蝶たちは互いの意識に戻った。
勇太は、冷たい風に顔を撫でられて目を覚ました。東の空はまだ薄暗い。窓辺を見る。二階のカーテンが、わずかに揺れていた。
家の中で、床を軋ませる足音がする。男が立ち上がり、廊下を歩く気配。トイレのドアが開く音。その瞬間、一階の窓が音もなく開いた。
黄金色のヘアピンが、夜明け前の淡い光を一瞬だけ捉えた。合図だった。勇太は生垣から滑り出ると、静かに家へ向かった。
開いた窓から身を滑り込ませ、廊下を進む。トイレのドアの前で、息を殺して待つ。ドアが内側から開いた。
無防備な男の姿が現れた瞬間、勇太は素早く動き、腕をねじり上げ、床に押し倒した。抵抗する間もなく、手錠がかかる。
「警察だ。動かないで」
男の顔が、昼間に手配写真で見たものと重なる。リビングでは、少女が震えながら妹をクローゼットから救い出していた。
三日分の生活痕が玄関に積もっていた。
夜明けの光が、ようやくカーテンの隙間から差し込んできた。蝶の形をしたヘアピンが、その光の中で静かに輝いている。
夢の中で交わされた約束は、言葉にならぬまま、現実の朝に溶けていった。
読んで頂き有り難う御座います。




