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05 勝利の女神

 頭蓋が割られ、脳髄が弾けた。切り落とされた首が、腕が、足が、内臓が、肉片となって、飛び散る。

 血の海ができていた。

 大地を浸していく肉片を浮かべた赤黒い流れ。血と糞便の臭いがたちこめる戦場では、あまりにも容易であった——死ぬのは。


 カーラインは大きく見開いた目にさきほどまで生きていた人間がただの肉塊になってしまう様を映し、歯を鳴らして震えていた。

 見開いたままの目に突進してきた敵兵が、戦斧を振りあげる姿が映った。

 このまま、動かないでいれば、死ねる。楽になれるのだ。

 だが敵の戦斧が頭を砕くより速く、腕が勝手に動いた。何が起こったのか一瞬わからなかった。

 剣が脇から胸に向かって貫いているのを見た。肉の弾力を剣を通して感じた。

 甲高い悲鳴をあげて、抜く。血がほとばしり、錆びた鉄のすえた臭いがたちこめる。

 力ーラインは返り血を浴びて、ひきつった笑いを漏らした。喉に酸っぱいものがこみあげ、こらえきれず、嘔吐した。口のなかにひろがる吐瀉物の臭い。剣戟の音も断末魔の悲鳴も潮が引くように遠ざかっていく。

 ぐらりと上半身が揺らぎ、血の臭いに興奮している馬から、地面に投げだされた。

「カーライン様!」

 この声はマルティンとグスタフだとぼんやりと思いながら、目をあけた。意識が戻った途端、体を襲った激痛に息がとまる。

 歪んだ視界に映るのは、逆光を浴びて閃く、自分に向かって振り下ろされる剣のまぶしさ。マルティンたちが必死で駆けつけようとしている。彼女の名を叫びながら。ああ、だが間に合わない。

 その時。黒い暴風が吹きぬけた。

 ポンプを押す勢いで吹き出した血。首から上をなくした敵兵の体がゆっくりと倒れていく。

 黒い風とみえたのは、黒衣の騎士であった。黒馬ともに暴風と化して、駆け抜けた刹那、目が合った。それだけだ。助けてくれた礼を言いそびれたことに後になって気づいたが、このような乱戦の場で悠長に言葉を交わす暇などもとからあるはずがなかった。

「カーライン様、大丈夫ですか!」

 駆けつけたマルティンが彼女の体を起こすのを手伝う間、グスタフが襲いかかる敵兵をふせぐ。

「大丈夫よ」

 少年の泣きだしそうな顔に笑いかけた。笑顔になっているか自信はなかったが。どうやら骨は折れていないようだ。だから、大丈夫。

 従者の手をかりて、騎乗すると、剣を抜いた。自分に向かってくる敵を見据える。ここは戦場だ。死にたくなければ、戦うんだ。



 カーラインは、無我夢中で、湯気をたてる剣をふるい、戦場を駆けていた。

 人馬の渦の中で翻弄されている彼女には戦況がどうなっているのかわからなかった。

 わが軍は勝っているのか。そう問いかけて、しかし疲弊した意識はすぐにさまよう。何をそんなに必死になって戦っているのだろう。死ぬのが望みではなかったか。だが、槍を突きだし迫りくる敵兵を目前にすれば、心臓が轟き、反射的にまたひとり敵兵をほふっていた。白かった軍衣は、見る影もなく赤黒い。

 汗で視界がかすむ。全身が鉛に変わったように重い。武術の訓練は幼き頃より受けていた。筋力は男にかなわなくても、身軽なことで敵よりすばやく動ける利がある。とはいえ、疲労した体では思うように動けない。

 剣を持つ腕が痙攣をおこしていた。落馬したとき強く打った体は悲鳴をあげている。

 彼女は、天を仰いだ。

 空は、泣きたくなるほど青く澄んでいた。

 鷲が、空を誇り高く舞っていた。

 神聖ローマ帝国の軍旗である鷲が、鮮やかにひるがえっている。

 皇帝の旗手が、勇敢に王旗を振って彼女の側を通り過ぎようとしていた。

 その時。

 朦朧となった頭を殴りつけるように喚声が轟いた。

 神聖ローマ帝国の誇り高き鷲が、傷ついた羽が散るように落ちていく。

 皇帝の旗手の胸に矢が突き刺さり、旗とともに倒れた。

 勝利は高々と掲げられた旗とともにあり、敗北は旗が沈むとき。

 王旗は、精神的支柱なのだ。

 地に落ちた鷲を見た皇帝軍に動揺が走り、浮き足立つ。ここで激しく攻撃されれば脆く崩れてしまう。

「王旗を!」

 カーラインの叫びに応えて、徒歩で側を守っていた従者のマルティンは、素早く旗に駆け寄り、拾い上げた。

 主人の華奢な腕に渡そうとして、彼はためらう色をみせた。

 王旗を振る者は誰よりも狙われるからだ。

 無防備に自分の身を投げ出し、旗を高々と掲げる者、それが旗手なのだ。

 彼女は、迷う少年の瞳を強く見据えた。言葉は必要ではなかった。

 マルティンは旗を渡すことで応えた。まだ幼さの残っていた顔に命をかけようとする男の決意が刻まれていた。

 少女は、重さに震える腕に力をこめ、旗を持ち上げる。

 鷲は再び、大空に舞い上がった。

「王旗を守れ!」

 グスタフは嗄れた声を張りあげ、自ら率先して、姫の剣となり盾となるべく、駆けつけた。それにサイン伯軍の騎士が続いた。

 勇敢に戦えと、皇帝軍を奮い立たせるのは、兜をとった少女の凛々しい顔、黄金の髪が陽射しにきらめいて、勝利を約束しているようだった。

 男たちは少女が振るう旗に勇気づけられ、軍歌を大声で歌いながら、戦った。我らには勝利の女神がついている。



 地平線に沈んでいく太陽は血を流しているようだった。

 カーラインは呆然と立っていた。無数の肉の塊が沈んでいる血の海の中で。

 シチリアの軍隊は蹴散らされ、残った兵士たちがちりぢりに逃げていく。

 皇帝軍が勝利したのだ。なのに、この凄惨な血と肉で埋め尽くされた地獄の前では、虚しかった。

 汗で視界は霞み、体は立っていられないほど重い。膝からくずおれた。しぶきがかかったが、すでに白はどこにもない、血に染まった軍衣。赤黒く染まった手で、顔を覆った。

 朦朧とした意識の隅で自分を呼ぶ声を聞いた気がして、視線をのろのろと上げた。

 赤黒く青痣だらけの顔が心配そうに覗きこんでいる。

「——良かった。姫様がご無事で。本当に良かった」

 その空色の瞳から涙があふれて、肌にこびりついた血を流していく。ああ、マルティンだ。腕を伸ばして、少年の涙で濡れた頬を両手で包みこむ。

「あなたが無事で良かった。……生きているのね、わたし達」

 自分もきっとマルティンと一緒だ。返り血を浴びた青痣だらけの涙と鼻水で縞々模様の顔を互いに見ていて、同時に吹き出していた。震える互いの肩を抱きしめて、涙を流して笑い合った。

 あたりは血の臭いでむせかえり、死体で埋め尽くされていた。

 また、わたしは死ねなかった。アルベルトのところに行けなかった。わたしは——

 こうして生きていることを喜んでいる。体の全てが叫んでいた。

 わたしは生きている、と。


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