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03 行軍

 カーラインが率いる軍は、アルプス山脈のブレンネル峠を越えようとしていた。

 アルプス山脈は神聖ローマ帝国とイタリアの国境にあり、アルプス越えの峠のなかでもっとも低いのがこのブレンネル峠である。またこの峠を通るのがイタリアへと至る最短経路だった。そのため峠は古代から南北交通の要路として重視され、かつてローマ人が建設した峠道は、今では神聖ローマ帝国の支配者によって利用されていた。


 アルプスの最も高い峰は夏でも白いが、この峠道に迫るように茂っているモミの林は深い緑一色だ。

 初夏の風が汗をかいた肌を冷ましていく。

 険しい峠道に馬は苦しそうに喘えぎ、吹きだした汗から湯気がたつ。カーラインはいたわるように馬の首を撫で、優しく声をかけた。

 男と同じ過酷な条件に身を置くことは覚悟していた。でも、そんな覚悟など吹き飛ぶぐらい一ヶ月にわたる強行軍は過酷だった。

 乗馬は得意だった。とはいえ一日中、馬に乗りつづけたことはなかった。行軍の初日は股のこすれたところがむけて赤く腫れあがったが、決して弱音は吐かなかった。痛みに耐え、背筋を伸ばして馬に乗りつづけるうちに皮が厚くなり、股をこする痛みにも鈍感になっていった。

 埃と汗で汚れた体を洗うことができないのもこたえた。男ばかりの中で誰にも見られないように茂みで用を足すのも。

 そしてどんなに空腹でも、みなと同じひからびたチーズと固い黒パンだけ。

 それでも耐えることができたのは、周りの領臣たちに「やはりこれだから女は」と侮られる方が我慢できなかったからだ。

 だが歯を食いしばって耐えるほどに、可愛げのない女だと思われ、侮られていたのは、出発当初から変わっていなかった。

 女のくせに男の格好をするとは、神への冒涜だとか。女は城で家政をきりもりしながら、男の帰りを待つものなのに戦場にしゃしゃり出るとはじゃじゃ馬にも程があるだとか。生意気で可愛げがなくて気の強い女だとか。影であるいは聞こえよがしに彼女の悪口を言って、馬鹿にした笑いを浮かべる男たちを切り捨てられたらどんなに気分爽快だろうか。

 ——今は想像するだけでとどめているが。

 沈みゆく陽が渓谷を赤く染めている。

 峠を越えた一行は、野営の準備にとりかかっていた。男たちは手分けして、天幕をたてたり、薪になる枝を拾いに行ったり、夕食の準備をしたり、馬の世話をしたりと忙しい。

 その中で、カーラインは居場所のない居心地の悪さを感じながら立ちつくしていた。

 初めて野営をするとき、彼女は何か手伝おうとしたが、迷惑がられただけだった。主人が従者のような真似をすべきではない。主人とは堂々とふるまい、臣下の者を手足のように扱わなければならないのだと馬鹿にしたように言われた。

 そんなことは言われなくてもわかってる。

 だけど彼女は言い返せない。主人らしいことをしていないからだ。

 実際に軍を率いているのは誰か。

 副官のグスタフが彼女を立てながら軍をまとめてくれている。

 ——わたしは何もしていない。これでは人形と同じだ!

 唇を噛みしめ、地面を睨みつけていた彼女だったが、ふと耳にはいった話し声にいつのまにか意識を向けていた。

「……四十年以上前の十字軍のことだが。イングランド王妃――当時はフランス王妃だった女だ――が、軍を率いたせいで兵士たちは無駄死にしたんだ」

「あの獅子心王の母親か。息子にかわって国を治めている豪傑だと評判の……」

「そうだ。その女が王の命令を無視して、前衛部隊をトルコ人が待ち伏せしていた隘路に向かわせたんだ。王の率いる後衛部隊が駆けつけた時は、全滅寸前だった」

「軍隊を女の気まぐれにまかせたらどうなるかっていう見本だな。どんなに勇猛なる獅子の群れでも愚かな羊が指揮したら全滅するってわけだ」

「他人事じゃないぞ。我々も同じ運命をたどりかねない」

「まったくだ」 

 そして、笑い声。

 カーラインは、手を握りしめた。こんなのはいつものことだ。傷ついた顔など絶対にみせるものか。平然とした態度で無視するんだ。

 そう言い聞かせたが、我慢できなかった。笑っている男たちに向かって歩きだした彼女の肩に手がおかれた。睨むように振り向く。グスタフだった。

 彼は何も言わない。思慮深い灰色の目で彼女を見つめ、首を横にかすかに振った。

 激情が涙となってあふれそうになるのを必死でこらえ、握りしめた拳を震わせて、カーラインは踵をかえした。


 立ち去る少女の姿を痛ましげに見ていたのはグスタフだけではなかった。

 マルティンは主人の後を追いかける。

「来ないで!」

 鋭い声の後、腕で顔をぬぐうようにして振りかえる。涙のあとが残っている顔で無理に笑って。

「大丈夫だから」

 マルティンは泣きたい気持ちになった。彼女は人の上に立つ者として、部下に弱音を吐いてはいけないと思っているのだ。

 傷ついたまま去っていく少女を見送ることしかできない自分が情けなかった。同時に怒りがこみあげてくる。

 けなげに頑張っている女の子を馬鹿にして笑っていた男たちの方を見やり、少年は物騒な笑みを浮かべた。

「姫様を泣かすヤツはこのオレが容赦しねぇぜ」

 そして朝がやってきた。

 出発の号令とともに隊列が動きだしたのだが……。

 カーラインの眉がひそめられた。

 尻をおさえて、茂みに向かって突進していく騎士たちの姿が目立つ。

 ——あれはたしか、昨日の……

 彼女はちらりと従者を見た。目が合った。無邪気に見返してきたので、確信する。

「マルティン、……何の薬をつかったの?」

 単刀直入にずばりと核心を突く。

「あの方たち便秘に困ってたらしくて、お通じをよくする薬草入りワインをお出ししただけですよ。でも、効きすぎたみたいですね」 いつもと違う丁寧な口調で言うと悪びれない笑みを浮かべた。

 カーラインは深く息をはきだした。

「お願いだから、わたしのために仕返しなんてしないで。彼らの態度は腹立たしいけれど、子どもっぽい仕返しで黙らせることなんてできないわ。黙らせるには――」

 誇り高く前を向いて、彼女はつづける。

「わたしが戦場で証明するしかないのよ」

 まぶしそうに彼女を見ているマルティンに気づいて、結んでいた唇をほどく。

「なんて立派なこと言ってるけど、本当は――」

 また一人、呻きながら尻をおさえて走りだした騎士の姿を見た二人は、同時に吹きだした。


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