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6.三二〇一号室 登別 (2)

 

 来たキタ来たー、俺の時代か!

 八時ごろ目覚めた宥佑は心の声を張り上げた。明るくなった外を見た瞬間から異世界転移を疑いもしなかった。彼の寝室は西に向いており、イースト(ツイン・タワー・マンションの東棟)が見える。下を見ると何人かの住人が呆然と佇み、あるいは集まって話し合っているようだった。

 一瞬有頂天になりかけたが、危ういところで赤ん坊の泣き声が聞こえた。


 宥佑は、由佳の寝室に入ると、遮光カーテンを開いた。レースのカーテンは閉めたままにする。

「由佳ちゃん、おはよう、ごめんね、暗いところで待っていたらいつのまにか寝ちゃって、今起きたところ」

「うん、大丈夫だよ、私と美緒も今起きたの」

 由佳は起き上がろうとしたが、それを制して、

「そこにいていいよ、おむつ替える? ガスが止まってるみたいだから水だけど、とりあえず持ってくるね。あとタオル濡らしてくる?」

「ごめんね、おねがい」

 由佳に外を見せない方がいい、と宥佑は思った。何でもない、ただの地震なんだ、少なくとも今は。


 大きな冷蔵庫から乳酸菌飲料とオレンジジュースのペットボトルを取り出し、由佳に届ける。タオルを濡らそうとした時、水が出ないことに気が付いた。ペットボトルの“おいしい湧き水”でタオルを濡らし、庫内灯の灯らない冷蔵庫の前で食品を見ながらしばらく考えた。

 ビール、缶コーヒー、水のペットボトル、ジンジャーエール、グレープフルーツ・ジュース。ハム、チーズ、スモークサーモン。自分ひとりが二日ほど外で過ごすには十分以上の食料がある。


「由佳ちゃん、はい、タオル」

「うん、美緒ちゃんご機嫌よ、はーい、美緒ちゃんパパですよー」

 差し出された娘を抱きとり、妻が紙おむつを片付けるのを待つ。表情には出さないものの、若干緊張している。由佳がレースのカーテンを開かないでいてほしい。


 美緒を由佳の手に戻すと、微笑みながらこう言った。

「外を見てくるね。エレベーター止まってると思うから、ちょっと時間がかかるかもしれないけど。停電でテレビ付かないし、なんだかスマホも通じないんだよ。

 もしかしたら駅の方まで行ってみるかもしんないけど、がんばれる? できるだけ早く帰るよ。様子がわかんないから、コンビニかなんかで人に話を聞いてみるし」

「うん、わかった、気を付けてね」

「食事大丈夫? 買えるようだったらコンビニで何か買ってくるけど、地震だったからね、レジが繋がってなくてカードも使えないだろうし」

「あ、うん、お財布持って行って、はい」



 宥佑は、由佳が外の景色に気付くまでの間しか自分がこの部屋から逃げだすチャンスはないことを知っていた。左手に由佳が差し出したファングッズの財布を握り、ドアを閉めながら赤ん坊に“行ってくるよ”と投げキスを送った。由佳が微笑みながら軽く手を振るのを見届けると、自分の寝室で素早く着替えた。


 ジーンズ、Tシャツ、その上から防水のフード付きパーカーを羽織る。日帰りの低山地歩きに使う有名メーカーの洒落たリュックに財布とポケットティッシュを入れて、冷蔵庫に向かう。冷蔵庫から水のペットボトルと缶コーヒー、チーズをひと包み、ハムを一本取って詰め込む。少し探して、一山の食パンを追加する。

 洗面所でタオルを一本、櫛も入れておく。ひょいと思いついて寝室に帰り、ファンからもらったアーミー・ナイフをベッドサイド・テーブルの引き出しから取り出し、ポケットに入れた。その時テーブルの上に見覚えのない黒い板を見つけ、何を思うこともなくついでにリュックに入れた、後で調べてみよう。 最後に戸外で夜を過ごすことを考え、ファングッズの“祭壇”から、ヒマワリが描かれたレジャーシートを2,3枚取って突っ込む。


 スニーカーを履き、玄関ドアに鍵をかけ、足取りも軽く歩き始める。


 宥佑は別に由佳と美緒をないがしろにしているつもりはなかった。彼はただ部屋を片付けるなどという面倒事は御免なのだった。外を見る限り、義父母は来ないだろう。部屋に残っていれば、由佳の機嫌を損なわないように、水を階段で三十二階分運び上げたり、電子レンジが稼働しないのに冷凍食品を温めたり、ガスが来ていないのにお湯を沸かしたりする羽目に陥るのだ。

 そんなこと、ごめんだ。彼は単純にそう思ったのだった。


 彼の頭の中には、もし自分がそれをやらなかったら、生後六か月の娘・美緒を抱えた、華奢な体の妻がすべてをやることになるのだ、ということについてはどんな考えも浮かばない。彼はそういう男なのだ。

 せっかくの異世界なのだから、一日、二日冒険してくるのも悪くない。帰ってきたらきっと部屋は片付いていて、由佳は自分の身を案じて泣いているだろう。自分の無事な姿を見て抱き着いてくるに違いない、何しろ俺に惚れ切っているからな、と。


 三十二階分の階段を軽やかに下りる。心は冒険への期待に満ち満ちている。序盤からいきなり難しい敵に出会ったりしないだろうし、などとどんな裏付けもない幻想に浸るうちに、ゲームの中の無双感と自分に寄せられる賞賛が押し寄せてくる。

 もちろん、本当の獣と戦うと本気で思っているわけではない。だから、非常識なほどに無謀でいられるのだが、それこそがこの男を芸能の世界で生き延びさせてきた何かなのだ。どうしようもないことだ。


 この世界でも華麗なプレイで人々を魅了するに違いない、俺ってそういう男だから。


 端的に言って、登別宥佑は、突き抜けたジコチューなのだろう。

 彼を責めることは難しい。今日までそうやって上手に生きてきたのだから。



 玄関の自動ドアは開かれたままだった。受付前に集まって何やら話している人々を横目に外に出ると、警備会社の制服を着た男性を含む十人ほどの住人が話し合っていた。

 宥佑に話しかけたのは、寺島だ。クリップボードを手に近づいていく。

「住人の方ですね。部屋番号をお聞きしても?」

「えっと?」

「あ、私は管理組合の寺島といいます」

「いつもお世話になっています。三二〇一の登別です」

 寺島はクリップボードの三二〇一にチェックをいれた。

「すみませんが、家族構成をお聞きしても? 管理室のパソコンが繋がりませんで、こうして現状確認をしているありさまでして」

「妻の由佳と娘の美緒、三人です。美緒はまだ六か月の赤ちゃんなので、俺が様子を見に来ました」

「それは大変ですね。ガスも水道も通信もダウンなんですよ。赤ちゃんとおかあさんには優先的に水を配布しますので、ご安心くださいね」

「はい。ですが、断水ですよね」

「ええ。このマンションは非常用の物資を備えてありますので、全体を把握したら話合いとなります。今日中には態勢を整えますので、ご協力をお願いします」

「はい、もちろんです」


 宥佑はちょっと考えた。そして、なんとかこの場を離れる理由を捻りだした。

「水は困りますよね。俺、足には自信があるので、水場がないかちょっと付近を見て来ましょう」

「あ、いや、危険ですよ」

 警備会社の斎藤が、ひとりで出歩かないように、せめてもうひとりとバディを組んで出るようにと勧める。スマホも通じない状態なのだから、と。

「大丈夫じゃないかな。だって、見渡す限りこのマンションよりデカい物はないじゃないですか。帰る場所がわかんなくなったりしないですよ。妻と娘が待っているんです、無茶はしませんし、慎重に行動しますから」

 心配そうにする人々を振り切るようにして、彼はタブレットを試すより前に、この世界に踏み出した。


ウエストの管理組合長、寺島の初出です

キャプテンシーってこういうもの? という、1000人のチームを、”リード”するのではなく、全員が力を発揮できるよう”まとめる”力のある人です。

こればかりは生まれつきのものですね、後から獲得できるような資質ではないと思います

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