38.入植地は奈加野(なかの)と名付けられる
入植地の名は、奈加野となった。セレシオン成島の西にある河が成島河と名付けられ、それが旧中学校の名前だったことから、入植地の東の河は、中川中学校から名をもらい中河としたのだった。中河は、北の大きな湖から流れ下って奈加野の東を南東へと向かう。簡単に中野とすればという意見も出たのだが、セレシオンに中野さんという苗字の人がいるから、とわざわざ字を変えた。
成島河も中河も、泳いで渡るのは危険なほど幅広く、水量も多い。現時点ではこの東西二本の河に挟まれた部分がセレシオン・ピープルの移動できる範囲だ。
奈加野では、情報交換とそれに基づいたこれからについて、話し合いが続いている。
栗栖文人は、二人か三人が手を貸してくれるなら一戸建て住宅を建てて入植者を受け入れたい、と希望を述べた。合宿所じゃあ、プライバシーが保てないからね、と。
鳥を飼いたいし、畑も作りたい。それにはマンパワーが必要だ。
坂上俊彦は、妻の麗夏が息子雅の中等教育を終えた時点でこちらに移りたいと述べていることを伝え、この件は委員会に諮って移動希望者を募ることにしたいと述べた。文人はこれを聞いて、自分が直接委員会と話し合うべきだと考えた。
結局、俊彦と文人がマウンテンバイクでセレシオンに行くことになった。帰りはマウンテンバイクをワゴン車に載せ、六〇七号室に残してきた本や服、寝具も載せてくるつもりだ。
また、その後の計画として、セレシオンと移住地を結ぶ道を確定させるという案もでた。
セレシオンへ帰りながら、前の目印が見える場所に次の目印を打って行く。それをセレシオンからの帰途に逆に追いかけてさらに目印を追加してはどうかというのだ。誰でも目印を辿れるようになれば、往復してみようとする人もでてくるだろう、と。
この件は、坂上が委員会にクエストかプログラムとして提案しようということになった。
「くるみ、道標つくりやりましょうよ。こっちからもタイヤの跡を追いかけて目印を打ちましょう?それで、奈加野まであと何キロメートルって標識を付けちゃったりするの。栗栖パパの帰りの車に出会ったところで乗せてもらって奈加野に帰ればいいじゃないの。
マウンテンバイクを持っている人は少ないと思うけど、ママチャリならたくさんあるもん、来てみようと思う人はいるわよ、きっと。笹裕也なんて喜んで来てみるんじゃないかな」
「そうよね、まあ、笹さんはそのうちに。人が増えたら収穫祭とか建物完成記念式なんかにお呼びすればいいんじゃないの? まだ娘さんが赤ちゃんなんでしょ、少なくとも歩けるようになってからよね。
自転車が通れる道と、普通車にはちょっと難しくてもFFなら何とか通れる程度の幅の道、ああ、何カ所かある川が問題かー、やっぱりランクルとか家のワゴン車みたいな小川程度なら渡り切れる車高がないとダメかもね。
屋根のある宿営地をつくって、小さいお子さんもまあまあ楽しめる程度にしたいよね。
それでねえ、おかあさん」
「うん? なに、くるみちゃん、笹裕也さんのこと?」
「ううん、全然違うわ。
あのね、私、石黒先生に弟子にしてもらおうかなって」
「医者になるの?」
「できるかどうかわかんない。外科手術とか怖いって思う。だけど、やりたい」
「くるみちゃん、半端な覚悟ならやめた方がいいのよ。石黒先生だって覚悟のない弟子を教えるのは無駄ってものよ。始める前にやり抜く決意ができないと」
「うん。そうだよね。
あのね、一度、カーワンさんにお会いしてみたいかなって。智花がカーワンさんと話して考え方が少し変わったって言ってるんだ。石黒先生にお願いする前に、もっとうんと考えてみる」
「石黒先生は、最初は医学的な考え方、病因を推定する根拠、検査して確定するまでのプロセスにウエイトを置いて行くと思う。地球の医学の発達と今現在について嫌というほど本を読まされて、論述させられるわよ。医学の弟子は楽じゃないわ。診断にも投薬にも人の命がかかってるのよ。
一通り医学について学んだあとは、先生とご一緒に、ここでできる医療を組み立てていくことになる。MRIもX線TV装置もないところでの手術は、石黒先生が医学生として最初に学んだ技術かもしれないわ。
手術機械も器具もその頃から格段に進んで、取れる手段も多彩になっているわね。それをもう一度、三十年以上前に戻すことになるでしょう。石黒先生の葛藤は相当なものよ、そのあたりもよく考えなさい。たとえ始めるのが遅くなったとしても、確信と決意をもって当たる、それが大切だとおかあさんは思うよ。
最低でも十年、先生に従って研究を続けるという気概がないと無理だから。
恋愛も結婚も無理だと思いなさいよ」
「あ、うん、そっちはいいけど」
「いいの? ほんとうに?」
「なーに言ってんのおかあさん。私は十七歳よ。結婚は三十五からでしょ、今時」
「そうねぇ、そういう時代だったわねぇ」
智花はくるみと一緒に久美の話を聞きながら、まじめな顔を保っていたが、後で爆笑していた。
「何よ、いきなり。あの話題転換にはついていけなかったよ! 栗栖家ってああいうの平気よねえ、アタマの構造がちがうのかしら。
ね、それでくるみは医学をやるの?」
「うん、やりたいかなって」
「ふーん、じゃあ私はくるみの助手になれるように看護士やってみるかなぁ。私の数学能力じゃあ、医者は無理よ~」
「わ、マジ? ありがたい~」
「わりとマジ」
「うーん、智花、大好き」
「知ってるって」
出発が近くなって、伝言や打ち合わせも増えていく。
久美は、今のまま植物を掛け合わせてこの地にふさわしい作物を見出していくつもりでいる。
「そうですか、ホービックさんたちは、鳥を育てるつもりなんですね。こちらにもぜひ分けていただきたいです」
「はい、わかりました。伝えておきます」
「あと、この惑星の直径を知りたいので、セレシオンに到着したら棒を高さ一メートルになるように立てて、時計で午前九時と十二時と三時の三回、影の長さと角度を計ってくださいね。棒の影の上に紙を置いてなぞって写し取ってくださってもいいです。天気がわからないから、毎日お願いします」
「はい、エラトステネスでしたね、このやりかた? 世界史で教えてきましたけど、実用だとはねぇ。まさか自分が星の直径を計る手伝いをすることになるとは思ってみたこともありませんでした」
「そうですね」
久美がにっこり笑う。
「円の直径と円周が出せるようになったら、星の直系は簡単に計算できます。ただ数値が大きいだけで計算方法は同じです。知っていて損はないですよ。
こういう歴史を知っていれば、地球が丸いのは嘘だとか、アポロが月に着陸したのはスタジオ撮影だなんていう世迷い事に騙されないで済みますよね。
ちょっと考えれば自分自身の思考力で一蹴できますから」
「なるほどねぇ、今までそういう意識はなかったですけど、私が教えてきたことにも意味があったのですねぇ。学生には、こんなこと覚えても何の役にも立たない、と言われて落ち込んだこともあったんですけど」
「坂上さん、登別さんのことを話してくれたじゃないですか。登別さんの力は、高校教育とは別物ですよね。
登別さんは、中世の三圃農業について教わったはずですよね、でも覚えていないでしょう。それでもこれから登別さんがみんなとやるのは三圃農業です。知らなくても大丈夫っていうか、彼の仕事はそれじゃないんですよ」
「確かに。確かにそうですね。だからと言って無駄ということはないですよね。具体的な知識は残ってなくても、人類が戦争したり農業したり絵を描いたりしながら現代まで生きてきた歴史があったことはわかっているでしょう。
帰りながら、もう一度考えてみます。栗栖さん、ありがとう、少し迷いを吹っ切れたかもしれません」
坂上俊彦と栗栖文彦がマウンテンバイクでセレシオンに向けて出発した。
「すぐにまた来ますよ。他に来たい人がいたら一緒に来てもらいますから、こちらでも受け入れ準備をお願いしますね。智花がお世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」
「いえいえ、何も心配していません、小学生の時から知っていますから」
「そうでしたね、長くお世話になっていますが、この先もどうぞ見守ってやってください。この子たちは、東京にいた時より早く大人にならなくちゃいけません、モラトリアムとか言っている場合じゃないですからね、がんばって働いてもらいますよ」
「そうですね、もう一人前に扱いましょう」
岩崎が口をもごもごしているのを見取って、幸人が助けに入った。
「おとうさん、岩崎先輩が猫を連れてきてほしいんだって」
「猫?」
「うん、留守宅に取り残されていた猫がいるらしいんだよ。それを富田さんが預かっているんだけど、一匹がおなかが大きいんだって。岩崎先輩は、その猫を引き取りたいって。こっちで仔猫を育てれば、それは奈加野の猫になるだろうって」
なるほど、と、文人と俊彦は岩崎を見た。岩崎はちょっと困っている。
「いいとも、岩崎君。その雌猫と、仔猫の親になった可能性のない雄猫を連れてくるのでどうだろう。それで繁殖してくれるといいね」
岩崎は実に珍しいことだが、顔をほころばせてふたりに頭を下げ、小さな声ではあったがきちんとお礼を言った。
「よろしくお願いします、ありがとうございます」
「では、出ます。すぐにまたお会いしましょう。道標も充実するし、自転車を使えば今度はあっという間ですよ。今回は大変お世話になりました」
「久美ちゃん、留守をよろしくね」
「行ってらっしゃい」




