34.鳥の楽園は「鷺沼(さぎぬま)」と名付けられる
岩崎翔太と坂上父娘はそれぞれ一人用のテントを建て、二週間ほど沼のほとりに滞在した。話が複雑になると、行き違いを避けるためにアンとジョイックは極力簡単な英語を書き、どうも通じていないと感じると単語を辞書で引きながら英単語の上にルビを振るようにローマ字で日本語を追加した。岩崎と坂上親子はこちらも辞書と首っ引きで英作文をしてどちらも真剣に対応することになった。
ここでは蚊取り線香と虫よけスプレーなしに生活できない。坂上は、寺島委員長がなぜ蚊帳などという古風な道具を持たせてくれたのか、しみじみと理解していた。委員長はできる人なのだな、とアンとジョイックも感心している。
実のところ、元は美希のアドバイスだ。浅い湖でしばらくモニターとして過ごした経験から、美希が石黒を通して寺島に「沼の畔に行くなら、虫がいっぱいいるのじゃないでしょうか。蚊取り線香とか虫よけネットをたくさん持って行った方がいいかもしれませんね」と控えめに伝え、寺島はそれを医療者の意見として尊重し、準備したのだった。
美希はもちろん、寺島の持つリーダー権限に支援リクエスト・コマンドが含まれていることを知っている。
寺島が、支援リクエストで“蚊帳”を要求した時には、アイザックが戸惑ってキュリに質問し、天音とサクヤに確認を求めた。これを知らされた美希が返事を打つ指は、可笑しさのあまり震えていた。
美希が虫に対処した時には家屋があったから、外出のために養蜂家が使用する被り物のネットを要求したのだったが、アイザックにとってはそれすらも不思議だったことを思い出していた。
そもそも篠村を通じて蚊取り線香を供給するのも美希の提案だったのだが、アイザックには虫がどのように肉体に影響を及ぼすのか、そもそも痒いということがどういうことなのかすらわからないのだから、これを笑うというのも失礼なことではある。
二張り持たされた蚊帳のうちの一張りをキャンピング・カーの入り口から外へと、もう一張りを三人のテントを覆うように張り、内側に蚊取り線香を炊くことで虫を防ぐことができるのだった。子どもたちを虫刺されから護るのは重大なことだ。
アンとジョイックは「助けてくれる人がいるうちに」と言って、子どもたちを預けて長袖長ズボン、ゴム長に網戸用のネットを縫い合わせた被り物を頭から肩を覆うように被り、上から虫よけスプレーをかけて沼の周囲を調査して回った。
もっと良い場所があるなら、キャンピング・カーを移動させることも視野に入れているらしい。
測量道具を持ち、沼の周囲を行けるところまで行って、ふたりは地図を作っていた。帰ってくると車のソケットから充電したパソコンに、調べてきた数値を入力し、議論を続けた。翔太と智花は、もう行くことができなくなった大学の研究室で将来見ることもあっただろう学者同士の議論を垣間見ることができたのだった。
アンとジョイックの行動は非常に安定しており、食事の時間になるときちんと仕事の手を休めて子どもたちと食事をとった。夜も子どもたちに合わせて眠り、その分早朝から活動を始めていた。
俊彦は、感心してふたりを見ている。
「岩崎君。智花も。ここには会社がないよね。だから家庭を離れて仕事場に行くこともない。とすると、私たちは新しいスタイルの家族を造らなくちゃならない。このふたりは、そのひとつの答えだろうね。チャンスがあったら、ふたりの話を聞いてみるといいよ」
「あ、うん。次に来たとき」
「ああ、そうだね。でも多分ふたりは気にしないよ。特にホービックさんは大学教授だ。研究の手を休めても、学生の質問に答えるのが彼の習性さ」
「そうなんだ」
智花は質問票を作りそこからふたつを選んで、アリシアを抱いてお茶を飲んでいるアンに教えを乞うた。
岩崎は人間よりも二次元世界に親しかったので、質問を紙に書いてジョイックに回答をお願いした。
アンもジョイックも、ごく気軽に応対してくれた。俊彦は感謝の意を込めて、得意の日曜大工で鳥小屋を作りに来る約束をした。
九人で最後にお茶を飲みながら、椿が質問する。
「ホービックさん、カーワンさん、I have a question. You are staying here, out of house, for almost two weeks. And, yes, have you seen some animal dangers?
マンションから離れて戸外で過ごされるようになって、2週間ほどですが、どうでしょう、何か危険な動物を見ましたか?」
椿が、先に英語で、続いて訳しながら話す。
「ああ、それですね? いえ、一度も」
「そうですね、皆さん、連れてきたペットの他に、何か哺乳類を見ましたか? ウサギとか、アナグマみたいな、ネズミでもいいし、ポニーみたいな草食獣でも」
「あ! そう言われてみれば」
「一度も見たことありません」
ジョイックが慎重に話す。
「ここから、まだ三百キロほど歩いて行くのですよね、東に。
栗栖の四人はバイクに乗って比較的早いスピードで通り抜けていきました。 用心して進んでくださいね、絶対に肉食獣や毒蛇、毒虫のようなものがいないと確信できるわけじゃありません」
これには、じっちゃんが傍にいないというのに、岩崎翔太が積極的に答えた。彼はそろそろ個性変更するのだろうか?
「えっと。いいか? 話しても」
「いいとも、どうぞ」
アンとジョイックの間に座った椿が同時通訳をする。
「ここに俺らを送り込んだ何かは、肉食の野獣なんて用意していないと思う」
「Not prepared?」
「用意していないって、どういう意味なのか、と」
「うん、奴らは、俺たちを生き残らせようとしている。その意志ははっきりしている」
「Their will?」
「うん、なんか、必死なんだよ、これでも。なんとか俺らに生き延びてもらいたい。でもあまり盛大に助けると、何っての? 生きる力が失われるかもしれない的な?
“支援”を生き延びることに特化して、最低限に保ちたい、そんなカンジ?」
「Oh, I see what you mean」
「ま、戦わなきゃ生き残れないような肉食獣なんていない場所なんじゃないか?
日本人は銃も剣も個人で持ってる人は少ないし、ま、兵役も無くて、戦ったことがない人が大多数でさ。
日本人を連れてきて、いきなり熊やライオンと戦わせたりしないと思うよ。支援アイテムに武器の項目もないしね」
「Mr. Iwasaki, we never thought of that idea. We will consider, and guess, about “their will”」
「岩崎君のように考えてみたことがなかった、これからは、ここに我々を連れてきた、誰かの考え方のようなものを、もう少し考慮に入れてみるよ」
「あ、うん、ありがとう、教授」
稲作が始まる前に、三人は沼から東に向かって旅立った。見るからに安定しているアンとジョイックに安心して去ることができるということもあったが、セレシオンから椿が息子を連れて様子を見に来たことで、この家族を残していくわけではないことが分かって心残りが無くなったということもあった。
三人は、椿に日本語英語半々の文章と会話の意図が十分に通じていたかどうかを尋ねてもらい、変な誤解に大笑いした。大筋では大きな間違いがなかったのは、やはり誰もが真摯に対応していたからだろう。
アンとジョイックは委員会の提案を受けてこの湖に名をつけることになり、坂上や岩崎の意見を聞きながら「鷺沼・さぎぬま」と命名した。アオサギに似た、首の長い大きな鳥がテントとキャンピング・カーの周りを平気で歩き回っているのが印象的な場所だからということだ。
最後に別れの挨拶と再会の約束として、三人は順にジョイックに抱きしめられて目を白黒させたが、アンが笑いながら手を差し出してきたので、その手はしっかりと握り返した。
ホービック/カーワン・ファミリーに手を振り、椿親子に頭を下げ、緩い坂を上り、東へと進んでいった。
入植支援地で栗栖久美が作った温度・湿度・気圧の測定をする一種の百葉箱での気象観測記録が三カ月目に入ろうとするころ、セレシオンから岩崎翔太および坂上智花とその父・俊彦が入植地にたどり着いた。
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