16.三日目 六〇七号室・栗栖 (二)
少し社会学的な話が出ますけど、まあ、“群れ”が大きくなったら、群れは分かれて、(普通は)小集団が別の場所に移動して、結果的に“種”として、居住域を拡げる、って話です
幸人が言うように、危険分散にもなり、人類が種として地球上で繫栄を遂げたのも、初期的には狩猟採集を中心に生きていたために、定住よりも移動が生存継続に有利だったこと、衣服や火のような”ツール“を使って、肉体をさほど変化させずに、寒冷な気候に対応していったことがひとつの理由ではないかと思います
幸人がまじめな顔で切り出した。
「これがあるなら、やりたいことがある」
「ユキ、キャンプしたいとか言わないわよね。家に閉じこもりっきりに飽きたから、とか」
「ねえさん、飽きたんじゃないよ、行く方がいいんだ」
「行くって、どこに」
幸人が説明と説得を始める。
「問題は、420が日数で正解なら、ここに“移民”させた何かは、少なくとも四百二十日はこの美輝星とやらから地球に再移動させる気はないってことで、移民は本気なんだってことだろう?」
描き写したワールドマップを示しながら、セレシオンから北東に大きな湖を書く。その湖から南西に流れ出す大河の右岸に緑のポイント・マークがあり、拡大すると“入植支援地”とあると言う。セレシオンから直線でおよそ二百五十キロの位置だ。
「だから、ここへ移動しよう」
「移動する?」
そこまで未知の領域を行くのは簡単ではない
だが、考えてみれば、地球に帰らせてもらえないなら、いずれ誰かが行かなくてはならない。それならば、帰れないことを受け入れられる人が先行する方がいい。栗栖家のメンバーならキャンプ慣れしているし、地下の駐車場の車内に二台、駐輪場に二台、マウンテンバイクがある。
食糧問題が解決できるなら移動するのは早い方がいい。組合の方針が決まる前、集団行動で食料生産が始まる前に、離脱した方がいい、と。
「ユキ、あんたねえ」
くるみが弟の顔を見る。
「テキトーなこと言ってんじゃないわよ。行くならすくなくとも管理組合に話を通さないと。わかってんの、たった千人しかいないんだよ。まず食料生産を成功させないと飢え死になんだよ?」
「わかってるって。わかるけど、これは危険分散なんだよアネキ」
「何ですって?」
「危険分散ってのは、全員が一か所に集まってはいけないってことだよ。千人しかいないからこそ、少しでも早く集団を分けた方がいいんだ」
「意味がわかんないわよ、それにアネキって呼ぶな!」
まあまあ、と文人が引き取った。
「くるみちゃん、ゆきが言っている危険分散ってのは生物学とか文化人類学とかの考え方じゃないかな、ねえ、久美ちゃん」
「あ、うん。くるみ、この前コロナの時に集団防疫を教えたじゃない、予防接種は全員でなくてもいい、一定数以上の人が免疫を獲得することで拡散を抑制することができる。
イギリスが当初取っていたのが集団免疫の獲得だったよね、でもウイルスの殺傷力が強すぎて失敗した。もう少し弱かったら成功していたかもしれない。
ああいう考え方には基礎があるの。
簡単に言うと、動物の集団はある一定の数になると必ず分かれるのよ。一か所に住める動物の数は限られているでしょ、食料とか住処とか。端の方からだんだん居住域が外に膨れていっても、限界がある。すると、ある時集団は分化するの」
「うん、それはわかる」
「でね、ユキが言う危険防止というのは、集団は分かれていなければ全滅する可能性がより高くなるってこと。
コロナの時、人の移動が制限されたでしょ? あれよ。もし、コロナの時まだ飛行機がなくて、人は自動車とか船でないと移動できないとすれば、拡散の速度はもっと遅くて、その間にウイルスが世代交代を重ねて弱毒化が拡散力を上回ったかもしれないのよ。
あの時話したように、致死性ウイルスは必ず弱毒化するから。ほら、宿主が死亡したらウイルスは拡散できなくなるから、自然選択の結果ウイルスは必ず弱毒化するからね。
自然選択、理解してるよね?」
「うん、大丈夫。あの後うーんと本読んだわ。生物の先生にちょっと質問したりしたし」
「じゃあ、次。
極端な話、地球上にふたつのグループの人類しかいなくて、距離がすごく、そうね、地球の裏と表くらい離れていて接触がない状態なら、たとえコロナで片方の人類が全滅したとしても、もうひとつは防疫の必要すらないってことね」
「つまり?」
「つまり、ここに千人しかいないなら、少しでも早く分化する方がいいってこと。たった一種類のウイルスが全滅に繋がるかもしれないし、洪水や渇水のような天候異変が原因で、集団の全力を注いだ農業が壊滅するかもしれない。地震でマンションが倒壊したら?
千人が同じところにいて、予備の集団がいないと全滅につながりやすい、ってことね」
幸人が真剣な顔で姉を説得しようとする。
「ねえさん、俺たちはサルやウサギじゃないんだ。人口が増えて分散が当然になるのを何世代も待っている必要なんかないんだ。千人を説得する時間が惜しい、すぐに始めた方がいいんだ」
「……すぐに……すぐに始める?」
「そう、人為的に集団分化をスタートするんだ。もしかしたらこれが引き金になって、千人が細かく分かれてしまって集団が崩壊するかもしれない、それはあるかもしれない」
久美がゆっくりとした口調で話す。
「確かにね。農作業のような集団行動は、向いている人と向いていない人がいるのは確かよ。私たちが離脱すれば、食料があれば生きて行けるのに、農業なんてやってられないと言って離脱する人もでるでしょうね」
「そうだねえ、そういう人はどんな集団にもいるだろ? ここにもきっといる。
だけど、どうだろう。外科医の石黒先生と看護士の境さんが四階にいるって聞いたよね。多分歯科医院の先生も来ている。そんな確実な医療から遠く離れてやっていく自信があるかな?
そうだねぇ、手紙を残したらどうだろう。そして、一度帰ってこよう。
幸人はマウンテンバイクを使おうと思ってるだろ? 持って行けるものは限られているね。だから、マップの入植支援地に無事たどり着いたら、自動車に家財を載せて運ぶために一度帰宅する、というメッセージを残したらどうかな」
「あ、それいいかも。あと、描き写したマップに行き先を書いて、進む道に目印を残すってのはどう? 目印を辿れば移住先に行けます、って」
「ふーむ」
くるみが渋い顔で暴走を止めにかかった。
「ちょっと待って、もう行くことになってるけど?」
「あ、うん。そうだね、ごめんごめん」




