エミリー
血の匂いがする。
妻の美しいブロンドの髪が、赤黒く染まっていた。
私の手に握られた燭台。
なぜこんなことに?
全ての始まりは、水色の瞳の茶毛猫を飼い始めた日からだったかもしれない。
***
私の妻は類稀なる美しい女性だった。見事なブロンドの髪、輝く湖面のような瞳。小ぶりな鼻に薔薇色の唇は、多くの男性を虜にしたであろうことは想像に難くない。妻とは政略結婚だったが、私は妻・エミリーを心から愛していた。彼女も私を愛してくれていた。
妻は公私に渡り献身的に私を支えてくれたが、唯一子には恵まれずにいた。その事を気に病んだ妻は、幾度か私にこう言ってきた。
「旦那様。子を成せない私とはどうぞ離縁くださいませ……」
無論、離縁など考えた事もない。
「馬鹿な事を言うな。二人で、神に誓っただろう? 生涯共に歩むと。子が成せなくとも、親族縁者から養子を貰うと言う手もある。二度とそんなことを言うな」
「旦那様……」
妻を抱き寄せた私は、彼女の髪を優しく梳く。
私の胸に身を委ねた妻も「愛しています」と繰り返してくれた。
「私もだ、エミリー。愛しているよ」
私たち夫婦は、愛を確かめ合った。
*
それから数年の月日が流れた。
変わらず美しく献身的な妻。
だが、子に恵まれないと言う事実は妻を苦しめた。様々な心無い誹謗・中傷をする者や、時には周りからの圧力を受けるということが多々あった。そのせいか、彼女は段々と弱って行った。
見かねた私は二人で領地へ戻る提案をしたのだが、妻はそれに猛反対をした。
「旦那様! 人との繋がりは大切なものです。どうか、私の為に領地へ戻ると言うのであれば、考え直してくださいませ! 貴方さえいてくだされば、それでいいの……」
あまりにも強い妻の決意に、領地へ戻る事は一旦保留とすることに。その代わり少しでも気が紛れればと、猫を飼う事にした。茶毛で水色の瞳が印象的な可愛らしい猫。名はリリー。
リリーは私にも好く懐いた。椅子に腰かけていると、私の膝の上に乗り喉を鳴らす。撫でてやると嬉しそうに目を細める。
妻もリリーを大層可愛がり、昼間は庭で共に茶を楽しんでいる姿をよく見かけた。
「私、リリィが我が家に来てくれてからとても楽しいんですのよ」
彼女はそう言って、横にいるリリーを見つめながら嬉しそうに紅茶を口にする。
子が居なかった私達は、家族が増えた様な感覚になった。
落ち込み気味だった妻も、次第に笑顔が増えて行った気がする。
だが、そんな平穏な日々に亀裂が入り始めた。
最初は、領地での天候不良による不作。そのような時の為の蓄えはあったが、それでも大きな打撃を受けた。
次は、大雨による川の氾濫だった。
橋が壊れ、山が崩れ土砂災害が起き……と、災難が続く。
さすがにこのままじゃ駄目だと思い、私達夫婦は領地へ赴くことにした。だが同時期に妻が、体調を崩すようになった。
「もしかしたら、ご懐妊かもしれません」
医者に診てもらうと、そう告げられる。
一瞬、耳を疑った。
「まだはっきりとは申せませんが。あと数週間もすれば、きちんとした診断が出来るかと思います」
医者のその言葉に私は、思わず妻を抱きしめた。
あぁ! 神よ! 感謝します!
あれだけ望んだ我が子が、妻の身体に命を宿しているかもしれない。そう思うと、胸が張り裂けそうなほどの喜びに包まれた。
「エミリー! ありがとう! エミリー!」
涙が溢れ、頬を伝っていく。
「旦那様。お喜びになるのは、まだ早いですわ。確実に子が宿ってるとわかってから、喜びましょう」
私の背を撫でながら妻は、小さく笑いそう言った。
***
妊娠初期の大事な時期と言うこともあり、妻を王都に残して私は独りで領地へ赴いた。到着してすぐ、私の目に入ってきたのは、想像以上に悲惨な光景と現状であった。川の氾濫で流された家屋、壊された田畑。土砂崩れで通行が難しくなり、物資もなかなか運び込まれない。領民たちの生活が苦しくなるのが手に取るように分かる。
私も出来ることは、手当たり次第に試した。金策のために奔走し、あちらこちらへ頭を下げる。だが、いくら必死に頼み込んでも、返ってくるのは渋面と断りの言葉ばかり。思うように事は運ばず、すべてが空回る。苛立ちと焦燥感が積もってゆき、気づいた時にはもう、私は父と同じように酒に溺れていた。
父は酒と女に溺れ、領地を荒廃させた男だ。
我が侯爵家が辛うじてまともに機能していたのは、今は亡き母のお陰と言っても過言ではない。身を粉にして父や領地・領民を支え続けた母は、薄幸な女性だったと思う。
領地が持ち直したのは、母を憐れんだ周りからの助力や、領民たちの努力の賜物だ。それを無駄にしないように『決して父のようにはならない』そう誓って生きてきたのに。今の私は、父の轍を踏んでいるではないか。
忌まわしき父の影が、目の端に映った気がした。
*
その夜は、雨が激しく降っていた。
忌まわしき雨。
恵みの雨となればありがたいが、度が過ぎると厄災でしかない。
雨に濡れながら、酒場から邸への帰路へ着く。途中、遠くでは雷鳴が轟き『あぁ……また土砂崩れが起きるのか……』などと、他人事のように思った。
自邸に戻ると、雨で濡れた身体を温めようと湯桶に浸かった。
溜め息と共に、ぼんやりと天井を見つめる。
今頃、妻はどうしているのだろう?
寂しがってはいないだろうか?
そんなことが頭を過ぎる。
ポチャン
ポチャン
水が滴る音がする。
「にゃぁ」
水滴の音と一緒に猫の鳴き声が聞こえて来た。
この邸に猫などいなかったはずだ。
外からか? だが外は、酷い雨である。猫がいるわけもない。
空耳だろうと思い、一度は気を逸らしたが――
「にゃぁ」
今度はハッキリと、猫の鳴き声が聞こえた。
声のした方へ視線をやると、そこには何故かリリーが居た。
「お前、リリー? どうしたんだい? なぜ……ここへ?」
タウンハウスからこの領地まで、馬車で二日はかかる。
そんな距離を、リリーが一匹で来たとは思えない。
「エミリーと来たのか?」
それなら私に一報があるはずだが、そんな話は聞いていない。
私を驚かせようと皆、黙っていたのか?
「にゃあ」
リリーはもう一度鳴くと、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。
「駄目だよリリー。水に溺れてしまう」
そう言ったのにリリーは、湯桶の縁に座り込んだ。
「危ないよ。リリー」
「にゃあ」
忠告を聞かずにリリーは、そのまま湯桶の中に入って来た。
「駄目だよ! 全く、仕方のない子だな。ほら、こっちへおいで」
溺れては大変と、リリーを抱える。
水に濡れているにも拘らずリリーは、喉を鳴らして私にその身を預けて来た。
くりくりとした瞳を私の方へ向けて来る。頭をひと撫ですると、リリーは突然『話』だした。
『ねぇ、ジョシュ。エミリー奥様のお腹の子。誰の子かご存じ?』
何を言っているんだ?
リリーはどうしてそんなことを言いだしたのだろう?
『ねぇ、ジョシュ。エミリー奥様が領地へ戻りたくない理由、ご存じ? 彼女、他の男と楽しんでいるのよ。貴方がこうして苦しんでる最中も』
愛する妻が?
「リリー? 君は一体……」
『だから。ねぇ? ジョシュ。私たちも――』
リリーは猫だ。猫が人間の言葉など話す筈がない!
しかも、妻のエミリーの不貞を疑うなど!
黙れ! 黙れ! 猫の分際で!
リリーの頭を両手で強く持ち、私は湯桶の中にリリーを沈めていた。
息があがる。呼吸が乱れる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
気づいた時にははもう、リリーは息をしていなかった。
見開いた水色の瞳。半開きになった口。
毛は水を含んで、べったりと私の手に絡みついている。
湯桶の底に沈んだリリーを、ゆっくりと抱き上げる。リリーの身体の重みが、いつもの何倍もに感じた。ぐったりとした体に、先ほどの声が重なる。
『ねぇ? ジョシュ……』
「……リリー」
震える声でその名を呼ぶが、返事は無い。
愛する妻エミリーが、一人でも寂しくないようにと迎えた大切な家族。その命を、私は自分の手で奪ってしまったのだ。
リリーのあの言葉は、もしかしたら私自身が生み出したエミリーへの疑念だったのだろうか。幻覚をみるほどに、頭がどうかなってしまったのだろうか――
私はリリーを抱えたまま、まっすぐ寝室へ向かった。
びしょ濡れのリリーをベッドに横たえると、その足で物置小屋へ向かい、復興用に溜め込んでいたモルタルの袋をいくつも抱えて戻る。
このまま、壁に埋めてしまおう。
寝室の壁の一角を選び、そこにリリーの身体を封じることに決めた。そうすれば、誰にも見つからない。
私の目が届く、この場所でなら、いつまでも見張っていられる。
シャッ シャッ
壁とモルタルが擦れる、乾いた音。コテを走らせるたび、リリーの姿が少しずつ塗り潰されていく。
「リリー。お前が……悪い子だからだよ」
シャッ シャッ
毛が灰色に覆われ、手足も、顔も、やがて形を失った。
完全に埋め終えた壁は、何事もなかったかのように、ただの平面を装っている。
これで妻は、リリーがどこかへ行ってしまったと思うだけだ。
余計な悲しみを抱くこともないだろう。
*
翌日。
邸の使用人たちに、暇を出した。給与が払えないという名目で。実際、金策に行き詰っていたし、彼らにこの先十分な給与を払える自信もなかった。申し訳ないと気持ちばかりの退職金を渡した。
その日の夜。
一人になった邸で。私は酒を煽りながら、風呂場でのあの声に蝕まれていた。
妻が、他の男と不埒なことをしているのではないか?
リリーが言ったことが真実なのであれば、誰の子なんだ?
いいや! あれは私の子だ!
他の男との子だなんて……!
そんなことがあるわけがない!
何度もそう言い聞かせたが、疑念は晴れない。結果、以前よりも深く酒に溺れた。
ポタリ――
壁に目を向けるとじわっと壁紙が滲み、リリーの形を成してゆく。
「やめっ……やめてくれ!」
そう叫ぶが、染みは濃くなってゆくばかり。思わず壁に酒瓶を投げるが、染みはさらに濃くなりリリーの輪郭がハッキリと浮かび上がった。
『ねぇ? ジョシュ? 私たちも、楽しみましょう?』
声が部屋中に木霊し、壁からは水に濡れたリリーの腕と、茶色の毛がスーッと出て来る。
『ジョシュ……アイシテ』
「あっちにいけ! やめろっ!!」
壁紙を必死で剥がそうとするが、爪が滑るだけで一向に染みが消える様子もない。
モルタルで埋めた壁は、なかなか崩れない。
――ガリガリ ガリガリ
私は胃液と共に、酒を口から吐き出しながら一晩中、壁に爪を立てていた。
**
夜が明けると私の指は爪が剝げ落ち、血だらけだった。
眠ることが恐しく、どこに居てもリリーと水音が聞こえてくる。だからと言って、ここから逃げるわけにも行かない。
それから一週間ほど経った頃。邸に妻がやって来た。仕え人の誰かから連絡が行ったのか?
私の姿を見るなり妻は、美しい顔を悲痛に歪ませ
「まぁ! 旦那様! なんてことなの……」
そう言った後、慌てて私に駆け寄って来た。
「触るな!」
思わず怒鳴ってしまった。
毎夜見る悪夢、そしてリリーのあの声。疑念。
「旦那様。いけませんわ。まずは手当てを――」
妻は怒鳴られたにも拘らず、慈愛の心を向けてくれ、ボロボロになった私の指の手当てをしてくれた。
「そういえばリリーの姿が、近頃見当たりませんのよ。旦那様は、リリーがどこへ行ったのかおわかりに?」
その言葉に、私の身体は大きく揺れた。
「いや……。お前も知ってるだろう? 私はずっとここに――」
「でも不思議ですの。旦那様がこちらへ来られて直ぐに居なくなりましたのよ?」
「そんなはず……無いだろう? きっと、どこかで……」
「でも心配で」
私の目に映った妻の顔は、艶めかしくもあり、そして私にとって悪魔の様に思えた。
いつの間にやら、雨が降っていた。激しく雨粒が窓を叩く。その音が、段々とリリーの鳴き声と重なってゆく。
一瞬、激しい稲光と共に照らされた妻は、不気味な笑顔を浮かべていた。であるのに、美しさは損なわれていない。
「そうそう、旦那様。私、やはり子を宿してましたの。喜んでくださいますわよね?」
そう問われた私は、直ぐ返事が出来なかった。
聞けない。聞いちゃいけないとどこかで分かって居た。
なのに私の口からは、蝕む疑念が滑り出ていた。
「……子の父親は誰だ」
私の言葉を聞いた妻は、急に大きく笑いだした。
「まぁまぁまぁ! おかしなことをおっしゃるのね? 旦那様。誰の子か? ですって? あなたに決まっているではありませんか」
そして悲しそうな顔を一瞬だけ見せる。が、稲光に照らされた顔は、酷く歪んでいた。
腰かけている椅子が、何故か水に濡れていく。
「私、子が出来ない間、とても苦しみましたわ。何度も離縁をしたいと申しあげました。でもあなたは受け入れてくれず……愛人と共に過ごすほうが良かったのでしょうに」
そんなはずはないだろう!
……そんな、はず。
「私が最も傷ついたことは何かご存じですか?」
妻はスッと立ち上がり、私の傍から一歩後ずさる。
「侍女と言う名目で『リリー』と言う女を私に付けたことですわ。彼女、あなたの愛人でしょう? リリーと過ごす時間が私にとって、どれだけ苦痛だったことか」
嘘だ!
「私が知らなかったとでも? 隠れて密会を重ねてたことも知ってましたわ。領地へも、リリーだけを呼び寄せたのでしょう?」
そんなことはしていない!
「でも……いいんですの。私、この子を守るため、あなたは『不必要』と覚悟を決めました」
「な……何を言ってるんだ?」
私の鼓動は早く脈打ち、気持ちは、思考は、乱れてゆく。
「だからね? ジョシュア。私、リリーに言いましたの。私と別れるように旦那様に言えばいい、そうすればあなたが後釜につけるんじゃないの? って。彼女、嬉しそうに『いい考えだわ!』 て、そう言いましたの」
――ジョシュア。クスクス笑いながら私の名前を言う妻。
婚姻を結ぶ前、妻は私の事をそう呼んでいた。
あの頃は、本当に……本当に、幸せだった。
「でも、ここにリリーはいませんわね。どこへ行ったのかしら?」
「……その子の父親は……誰だ」
「だから、旦那様、あなたですわ」
再び妻は、声高に笑った。
「そんなわけないだろう!!」
理性の糸が切れた。椅子を蹴り倒し、テーブルの燭台を掴んだ。そして——
一度、二度、三度。
鈍い音が響く。
気づけば妻もまた、リリーの時と同じく息をしていなかった。血だまりの中に妻は突っ伏し、再び動き出すことは、もう無かった。
妻の身体を抱きしめ、何度も謝った。それから、妻も壁へ埋めた。
耳元では、水が滴る音がずっとしている。止まることなく。
シャッ シャッ
ピチャ
ピチャ
水に浮いたリリー。
血だまりの中で動かない妻・エミリー。
赤と透明の雫がずっと、私の脳の中でピチャリと落ち続けていた。
私たち夫婦。妻のお腹の子供。あれは私の子だったんだ。そしてペットのリリー。親子三人と一匹。ここで家族と共に過ごすことが、妻の救いとなるならば――。
降りやまない雨。
パタパタと窓を叩く雨粒。
遠くで轟く雷鳴。閃光のような稲光。
「パパ見てー! お花が咲いてるよ」
小さな声が聞こえる。我が子が庭で遊んでいる。
そこに置かれたテーブルで、茶を楽しむ私と妻。
「そんなに走るとこけてしまうわよ」
と、笑いながら子供に話しかけるエミリーの声。
リリーも膝の上で喉を鳴らしている。
みんな、ずっとここにいる。
壁の向こうで、私と共に幸せに暮らしているのだ。
***
春の暖かな日差しの中で。
乳母車に乗せた我が子が、こちらを見て微笑んでくれた。
「あら、今この子笑ったわ」
小さな私の天使。大好きな人との子。私はちゃんと、子を授かった。
幼い頃から思いを寄せていた旦那様と、共に過ごす日々。
やっと手に入れた、温かな家庭。
でも――
こうして笑えるようになったが、一度目の婚姻は真っ黒な日々だった。
当時の私は、政略で侯爵家へと嫁いだ身だった。
貴族に生まれたからにはそれが当たり前であったし、嫁ぎ先の旦那様は侯爵家の嫡男。嫁として、お役目を立派に果たさなければ。そう思い、日々努力していたつもりだった。
それでも。気持ちはどうしてもついて行かない。どれほど自身を律しても、幼い頃からの想いを簡単には切り替えることができなかった。他の誰かを想っても、決して叶わないことも理解している。
だからそんな恋慕は、捨てようと覚悟を決めたのだ。
そう、あの日までは。
前の旦那である、ジョシュアが連れて来た女。名前はリリー。ジョシュアの知り合いである伯爵家の三女だと言う。嫁ぐ前に行儀見習いで、我が家へ奉公したいと言う話だった。伯爵家の出であり、マナーや礼儀もきちんと学んできたのだろう。所作を見ていても、過不足なく品の良さを感じさせた。とても良い令嬢だと思っていた。年齢も私と三歳ほどしか変わらず、気さくな面もあり話していても楽しかった。だが日が経つにつれて彼女の態度は、目に余るほど馴れ馴れしいものになって行った。
最初は戸惑ったが、旦那様がそれを許容している限り、私が目くじらを立てるほどでもないかと見て見ぬふりをした。
それがいけなかったのかも知れない。
そのうち、他のメイドに対して尊大な物言いをしてみたり。
時には旦那様と私が共に出掛ける際、一緒に行きたいと我儘を言ってみたり。
リリーはどう考えても、非常識極まりない行動を取るようになっていた。
社交の場には共にいけないからと宥めた時は、旦那様はリリーに宝石を買い与えていた。侍女の扱いにしては、行き過ぎているのではないか?
旦那様にそう苦言を呈しても
「彼女は知り合いから預かっている大事な令嬢だ。侍女とは言え、ある程度の我儘は許容してやらねばならぬ。それに、礼儀も弁えているだろう?」
そんな風に言われる。
納得がいかない私は、モヤモヤと不快感だけが積もって行った。
そしてとうとう、彼女の正体を知る。
旦那様の執務室で。リリーが彼の膝の上に乗り、二人で口づけを交わし楽しそうに撫で合っている。
そんな場面を、扉の隙間から見てしまった。
偶然だった。その日、旦那様宛に社交の招待状が届いたのだが、手違いで私の手元へと運ばれていた。それを届けにいっただけ。そのはずだった。
二人の不適切な関係を目の当たりにした瞬間。
ショックを受けたでもなく、動揺することもなく、驚くほどに冷めている自分が居た。
結婚して1年もしないうちに、ジョシュアは外に女を作り始めたことには気づいていた。
私も愛人の一人や二人許容しなくてはと頭ではわかっていても、心は疲弊してゆく。何のために嫁いだのだろう? どうして私はここに居るのだろう? そんなことを考える毎日。挙句に周りからは、子はまだかと圧力をかけられ、見目がよかったジョシュアは女性たちの羨望を受けていたのも重なって、私は謂れのない誹謗や中傷を受け続けた。
これ以上耐えきれないと思った私は、何度も離婚を申し出たが『世間体が悪い』という理由で、応じてもらえなかった。
愛人を囲うのは、世間体が悪いとはならないの?
しかも自邸で、愛人と共に過ごすなんて! 破廉恥すぎる!
そう言いかけてはやめる。旦那様――ジョシュアと不毛な言い合いをすることも馬鹿らしかったから。そこまで情熱的に、彼を愛していたわけでもなかったから。
そんな私の心を救ってくれたのが、幼馴染のブライアンだった。
ブライアンは公爵家の次男で、文官勤めをしていた。
眉目秀麗でスマートな物腰の彼は、子女達に大変人気があり隣国の第二王女殿下のお相手にという打診もあった。だが、彼は頑なに独身を貫いていた。
私がずっと、想いを寄せていた、たった一人のひと――
彼との出会いは、もう十五年以上前のこと。
当時、子供たちの遊び場で誤って私は、転んでしまったことがあった。膝を擦りむき、恥ずかしさと痛みで泣きそうになった時、誰かがそっと手を差し伸べてくれた。見上げると、そこには整った顔立ちの少年。彼は何も言わずにハンカチを取り出し、私の膝の泥を優しく拭ってくれた。
『大丈夫? 怪我はない?』
その手の温かさが幼い私に、胸が高鳴ると言う経験を与えてくれた。
その後、一年ほど経った頃だった。
春先に開かれたお茶会の最中でのこと。他の子供たちから私は意地悪な言葉をかけられ、居心地の悪さに俯いていた。
だがそんな空気を割くように、ブライアンが私の隣に座り
『このお菓子、とても美味しいね。エミリーも食べてみない?』
と、自然な口調で話しかけてくれたのだ。
彼の存在が、それまでの不穏な空気を一瞬で変えてくれた。ブライアンのさりげない優しさに、私はどれほど救われたことか。昔も今も。
ブライアンと過ごす時間は、私に生きる意味を与えてくれた。彼と共に過ごす僅かな時間は、私にとって宝石以上の価値があった。
『君は、本当はどう生きたいんだい?』
ブライアンのその問いに、私はハッとした。
誰も、私自身の望みを聞いたことがなかったから。
『私は……』
言葉に詰まる私を、彼は急かすことなく待っていてくれた。
熱が籠るブライアンの瞳。
ブライアンの優しい微笑みが、私の心を溶かしていく。
いつも私の話に、耳を傾けてくれる。
そのせいなのか、思わず私の口からは彼への問いが零れた。
『なぜ結婚なさらないの?』
それを聞いた彼は、少し困ったような笑みを浮かべる。
『しないんじゃない。今はしたくない。が正解かな』
ブライアンの表情に一瞬、苦しげな影が差した。
『君が自由でない限り、僕は誰とも結婚しない』
その言葉は小さく、彼自身言い聞かせているように響く。
『そう……』と、私は高鳴る胸を隠すように、曖昧に微笑むしかなかった。
嫁いだ当初は、彼の熱い視線にも見て見ぬふりをしていた。胸の奥の私の想いが、叶えられる訳もない。むしろ、こんなふしだらな気持ちを隠している私など、ブライアンには釣り合わない。そうも思っていた。
なのにその日ばかりは違った。
私も疲弊が、限界だったのだろう。
ブライアンと私は――
一線を越えた。
言い訳をするつもりはない。更に言うなら、後悔もしていない。
旦那がしているのだからなどと、言うつもりも無い。
ただ、自分の気持ちを押し殺すことがもう……出来なかった。
だから、あの女にこういったのだ。
「旦那様と別れたいから、協力して?」
と。
リリーは二つ返事で、了承してくれた。
「実は私、最初から侯爵夫人の座が欲しかったの」
リリーは屈託なく笑った。
「侍女なんて仮の姿よ。ジョシュ……ジョシュア様は案外単純だから、少し甘えれば簡単に落とせるって思ったの。でも…あの人、世間体とかばかり口にして。でもエミリー奥様がそう言うなら、きっと! 離縁してくれるはずよね? やったわ!」
そして彼女はジョシュアに呼ばれたのだろう、数日後、領地へ向かって行った。
それから数週間が立った頃、領地の家令から便りが届いた。
旦那様の様子がおかしいので一度領地へ来て欲しいということ、そして仕え人全員が解雇された旨も書き記してあった。
私は護衛と共に、領地へ向かった。
旦那様――ジョシュアにちゃんと話そう。
それにリリーも、話をしてくれてるはず。今回はすんなり離縁が整うかもしれない。そう思った。
だが邸について私が見たのは、湯桶に冷たい水を張り、焦点の合わない目で天井を見ながらブツブツと呟くジョシュアの姿だった。
酒瓶を持つ手の爪が剥がれ、血まみれになっていた。湯桶の周りには、数えきれないほどの酒の空き瓶が転がっている。
壁には新しく塗り直した痕と、その上に爪で引っ掻いたような赤い筋が無数に走っていた。ジョシュアは虚ろな目で天井を見つめ
「その腹の子の親は誰なんだ?」
と同じ言葉を延々と繰り返していた。
その時、私はジョシュアの子を宿してはいなかった。
もしかしたら、リリーがそうだったのかもしれないが――
***
「エミリーにそっくりだな」
「そう? 目元はブライアン、あなたそっくりよ?」
そう言いながら、彼の腕に自分の腕を絡める。
「それにしても、ジョシュア候も馬鹿なことをしたもんだなぁ。酒に溺れて身を滅ぼしてしまうなんて」
「そうね。でもそのお陰でこうしてあなたと、やっと結ばれることが出来たんですもの」
「彼は今、どうしてるんだい?」
「北の療養所で、治療と言う名の軟禁生活をしてるんじゃないかしら?」
「そうか……。一体なにがあったんだろうな」
「わからない。でも彼は、私との結婚生活は幸せに満ちていたって言ってるらしいわ。それにリリーは、猫と思っているみたい。現実と幻の境界線がなくなったのかもね」
「猫? おかしなことを言うもんだ。リリーは……彼の愛人だったのだろう? 人は追い詰められると、そこから逃げようと心の自己防衛するんだろうな」
「どちらにしても、私にはもう関係のないことよ。冷たいかもしれないけれど」
「いいや、その通りだ。君はもう、僕の妻なのだから」
そう言ったブライアンは、私のおでこにキスをひとつ落としてくれた。
「君が幸せなら、それでいい」
「ねぇ? 私と結婚したこと……後悔してる?」
「まさか」
彼は笑いながらではあったが、きっぱりと答えてくれる。
「君を守れなかった自分の不甲斐なさを責めることはあっても、君を愛したこと、そして結婚できたことに微塵の後悔など無いよ」
その言葉を聞いて、改めて彼を愛してよかったと心から思えた。
そう言えば――
リリーはその後、どうしたのかしら。
でも彼女の事ですもの。どこかで元気にしているはず。
――きっと ね。
お読みくださいまして ありがとうございました(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)