或る夢の序章
或る三人の家族が、湖畔のほとりにあるホテルの前で空を眺めていた。
母:「エレナ! ほら見てあれ!」
母は表情を輝かせながら娘に呼びかけた。
それは、大きなカーテンのようにひらひらと形や色を変えながら、まるでダンスを踊るように光り輝いていた。
父:「ほう、これは見事だなあ」
父も空を見上げ、その光景に感動していた。
エレナの目はキラキラと輝いていた。まるで空に壮大なショーが映し出されているようだった。
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この世界には「ローラーカン」と呼ばれる種族がいた。人間と同じ容姿、同じ言葉を使い、同じ食べ物を食べて人間と共存していた。すらりと手足の長い長身で、均整の取れた体格、整った顔立ち、尖った耳が特徴だった。人間と決定的に違ったのは、平均230歳という寿命の長さだった。
アルラキ山脈の鉱山から採掘できる「グラヴィナイト」という鉱石を使って高度な文明を築いていた。その鉱石は、分かりやすく言えば「あらゆる力を無効化する」という特性があり、その特性をうまくコントロールする技術を持っていた。重力を無効化して街を空に浮かべたり、あらゆる衝撃を無効化して、ダイヤモンドの硬度を超える壁を作ったりすることができた。
天空の都市を築き、あらゆる科学技術や産業に深く関わることで、人間の世界に絶大な影響力を持っていた。2000人未満という少数の種族でありながら、世界の経済を動かせるような強大な実権を握っていたのだ。
クローディア=バーナガンというローラーカンの女性がいた。10を超える企業の経営者であり、若き実業家や投資家と浮名を流す、恋多き女性でもあった。
クローディア:「エレナ、この書類を届けてもらえないかしら」
クローディアは秘書を呼びつけた。
エレナ=リーンスタイン。人間の女性で、クローディアの有能な秘書だ。
エレナ:「分かりました。これは……リオン=バーナエル様宛てですね。届けておきます」
クローディア:「それと会議の資料を端末に送っておいて」
エレナ:「承知しました。クローディア様」
そうして二人はホテルの一室から出ていった。
エレナ:「バーナエル様。書類をお届けに上がりました」
リオン=バーナエルは投資家であり実業家だ。クローディアもリオンも年齢は60歳を超えているが、人間でいえば20代後半くらいの容姿に見える。
リオンは書類を受け取ろうとしたとき、思わずエレナの顔に見惚れてしまった。
リオン:「あ……えーっと、君はクローディアの……」
エレナ:「クローディア様の秘書のエレナ=リーンスタインです」
リオン:「ああ、エレナ=リーンスタイン。好きな名前だ」
エレナは困った表情で「用事がないならこれで……」とすぐに立ち去ろうとした。
リオン:「あ、ごめんなさい。気を悪くしたかな……美しいから見惚れただけで、決して悪気はないんだ」
エレナは可笑しな人だと思い、くすりと笑って言った。
エレナ:「気にしていませんから」
ローラーカンというと、みんな高慢な態度でプライドが高いものだと思っていたが、こんな人もいるんだなと、エレナは少しだけ親しみを覚えた。
リオン:「あのお詫びと言ったら何だけど、美味しいお茶とお菓子があるんだ。ご馳走させてくれないかな?」
エレナ:「でも、時間がありませんので……」
リオン:「大丈夫、大丈夫、10分しか経たないから」
エレナ:「え?」
極上のスイートルームだけに用意された、幻のVIP設備。虚距石の壁で作られていて、その中の空間に300平方メートルの巨大な室内庭園があり、ラウンジや休憩室、プールのような大浴場など豪華な設備が整っていた。虚距石の空間は、100平方メートルを超えると、その中の空間でいくら時間が経過しても、外界では10分しか経たないのだ。
リオン:「クローディアもよく使ってるだろ?」
エレナ:「ええ……でも、私は入ったことないから……」
リオン:「ははは、クローディアは秘密の情事にしか使わないからな」
そう言ってリオンは笑った。
リオン:「ごめんごめん、君を誘ったのはそういう意味じゃないから、安心してね」
エレナ:「そんな……別に……あの、いつもそうなんですか?」
リオン:「え? 何が?」
エレナ:「こういう風に女性を誘ってるのかなって」
リオン:「俺はクローディアと違うよ。あ、クローディアを悪く言う気はないんだけどさ」
エレナ:「さっきから、クローディア様のこと散々言ってますけど?」
そう言ってエレナはいたずらっぽく微笑んだ。
リオン:「ははは、かなわないな。でも、できれば君を傷つけることはしたくないんだ」
エレナ:「何でそんなこと言うの?」
リオン:「いきなりじゃ、君も嫌だろ? だからこうお茶菓子でも……」
エレナ:「私は嫌いじゃないわ。あなたのこと」
こうして、二人の心は静かに重なり合い、やがて愛し合うようになった。時が流れ、すべての迷いが消えたとき、二人は自然に愛し合っていた。
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クローディアとエレナは、天空の都市の外縁部の廊下を歩いていた。
クローディア:「ソークス会議まで、時間ぴったりね」
ソークス会議とは、ローラーカンの最高会議だ。クローディアとエレナはその会議場に向かっていた。
クローディア:「資料は確認したわ。何か気になることはある?」
エレナ:「今回はエネルギー資源と環境問題について、注目されそうですね」
クローディア:「あら、そう。ところで、髪飾り乱れてるわよ?」
クローディアはエレナの髪飾りの位置をそっと直した。
エレナ:「え? あ、すみません!」
クローディアはにやにや笑いながら言った。
クローディア:「リオンはどうだったの?」
エレナ:「え? いや……何にもないです」
クローディア:「いいのよ別に。私も自由だし。でも、お似合いね、ふふふ」
エレナは顔を真っ赤にしてうつむきながら、クローディアの隣を付いていった。
会場の大扉が静かに開かれると、重厚な絨毯の上をゆっくりと歩む足音が鳴り響いた。威厳を湛えた面持ちのローラーカンが、一人また一人と堂々たる歩みで会場へと入ってくる。
天井高くそびえる大広間には、煌びやかなシャンデリアが揺れ、壁には一族の紋章が誇らしげに掲げられている。侍従たちは緊張を押し隠しながら、定められた席へと彼らを静かに案内する。
やがて、最高議長を中心とした円卓が厳かな空気に包まれ、ローラーカンたちはそれぞれの椅子に着座した。一人ひとりの動きには無言の権威が宿り、その場にいる全ての者が、これから始まる最高会議の重みを肌で感じ取っていた。
そして、ソークス会議は開かれた。
緻密に整えられた議事進行のもと、各出席者が自らの分野における近年の成果や、将来に向けた提案を次々と披露していく。
経済成長のためのイノベーション、デジタル技術の進展、社会インフラの最適化。発言が重ねられるごとに、議論の温度は高まり、次第にその矛先は、より広範なローラーカン共通の課題へと向かっていった。
科学顧問:「……しかし、いかに技術が進歩しようとも、この世界の基盤が揺らいでは本末転倒ではないか?」
ある科学顧問の一言が、静かな波紋を広げる。会場の空気がふと引き締まり、持続可能な未来についての議論が本格的に始まった。
環境破壊と気候変動、エネルギー供給の逼迫、燃料資源の枯渇。課題は複雑に絡み合い、容易な解決策は見当たらない。
その中で、ある工学系の代表が口を開く。
工学系の代表:「近年注目されている、人工燃料の技術について、皆さんの見解を伺いたい。水とCO₂から燃料を合成するアプローチが、ようやく実用化の兆しを見せています。これは単なる代替燃料ではなく、炭素循環の再構築という意味でも、革新的な転換点となりうるのです」
静かだった会場に、また新たな熱気が生まれた。二酸化炭素を資源として再利用する発想に、環境派と産業派の視線が交差する。
こうして、未来のエネルギーについての議論は、核心に向かって深まっていった。
未来のエネルギー問題を巡る議論は、再生可能資源から量子炉の応用にまで及び、科学の可能性に胸を膨らませたローラーカンたちは、それぞれの利権と理想を語っていた。
しかし、若き実力者――ギャリック=バーナロンが、静かに口を開いた瞬間、空気が一変した。
ギャリック:「確かに、科学は我々に希望をもたらした。だが同時に、人間はその手で滅びの扉を作ってきた。核分裂が灯りを与えると信じたが、最初に光ったのは戦場だった……それを、我々はもう忘れたのか?」
会議室に漂う熱気が、瞬く間に冷たく凝固した。
老練のローラーカンが眉をひそめる。
老練のローラーカン:「ギャリック、ここはソークス会議だ。過去の戦争犯罪を裁く法廷ではない」
しかしギャリックは怯まなかった。彼の声は若さに似合わぬ重さを持っていた。
ギャリック:「エネルギーと兵器は、同じ科学の名のもとに生まれた双子です。新たな技術が生まれるたび、それを軍がどう応用するかを考えない国家があるでしょうか? 我々は、再び“人間の脅威”を考えなければいけないのではないか?」
会議室には、今や誰も言葉を発する者がいなかった。
それは議論の沈黙ではなかった。
恐れ――人間がまたしても、進歩という名の奈落へ足を踏み入れようとしているという予感が、全員の胸を貫いたのだ。
ギャリック:「尊敬なるローラーカン諸君。私はここに、三百年の沈黙を破り、天空の都市の再起動と、その移動計画を提案する」
どよめきが広がる。
……天空の都市は、遥か昔、ローラーカンの祖たちがグラヴィナイトの技術で築き上げた空中の都市。大地の戦火から民を守り、知識を蓄え、技術を封印してきた。しかし――
彼はゆっくりと歩き出し、壇上の聖石へ手をかざす。淡く光る古代の機構が反応する。
ギャリック:「この力は、もはや“封印”のためだけに在るべきではない。我々の世界は、今まさに気候の変動、資源の枯渇、人間の脅威に直面している」
ギャリック:「動かさねばならないのだ、天空の都市を。新たな空へ。新たな使命へと」
議場に再び沈黙が落ちる。ある者は驚き、ある者は恐れ、ある者は……微かに希望の光をその目に宿した。
最高議長のシュナイダー=バーナトーマスが立ち上がる。深く刻まれた顔に、長き記憶の重みが滲む。
シュナイダー:「天空の都市は、動けば世界が変わる。それを知って、なお動かすというのか?」
ギャリックは頷く。
ギャリック:「はい。動かさねば――世界は滅びます」
そこでリオンが立ち上がった。
リオン:「……ですが、賢きローラーカンの皆様方。人間という種は、ただの脅威ではありません」
室内の空気が微かに揺れた。数人のローラーカンが眉をひそめる。
リオン:「彼らは、時に愚かしく、短慮で、争いを好む者もいます。ですが、その短い命の中で、驚くほどの愛と勇気を示すこともあります。私は見ました。感染症のパンデミックで限られた病床数の中、ローラーカンの罹患者を助けた医療従事者たちを。それもまた人間なのです」
彼の声は決して大きくなかったが、その一言一言が、森の霧のように会議の場を包み込んでいった。
リオン:「もし我らが先に武を振るえば、彼らもまた恐れ、刃を抜くでしょう。だが、我らが心を開けば、彼らの中にもそれに応える者がいる。私はそれを信じます。信じたいのです」
ローラーカンの一人が、深くため息をついた。誰かが小さく鼻で笑った。
しかし、誰も即座に反論することはなかった。
シュナイダーが静かに会議場を一望する。語気は穏やかだが、その声には山脈のような重みと、時を超えた説得力があった。
シュナイダー:「確かに、人間は愛を知っている。我々が忘れかけている情熱、執着、そして犠牲。その全てを彼らは短き生の中で燃やし尽くす。しかし――」
シュナイダーは一瞬、間を置いた。
シュナイダー:「それは導く者がいればこその火だ。火は明かりを与えるが、同時に森を焼く。ならば、我らローラーカンはその火を囲う石であり、風でなければならぬ。人間をただ同等に見ることは、彼らを放置することと同義だ。歴史がそれを証明してきた」
シュナイダー:「我々は人間を支配するのではない。導くのだ。彼らが争いではなく、調和の道を選べるように。剣を振るう手に、賢さを授けるために。我らが歩んできた長き道を、彼らが踏み外さぬように」
シュナイダー:「対話も必要だ。だが、対話には秩序がいる。導く者と導かれる者。対等の対話は、未熟な者に責任を押し付けるだけの幻想だ。天空の都市を動かし、ローラーカンの威厳を見せるべきだというギャリックの意見に一理ある」
その場に満ちる空気は、風すら踏み込めぬほど張りつめていた。
老練のローラーカン:「確かに、天空の都市を動かすことが我らにとって唯一の切り札であることに異論はない」
老賢者の言葉が、重く響いた。白銀の髭がわずかに揺れ、シャンデリアの灯がその瞳に鈍く映る。
「だが——」と、老練のローラーカンが続ける。
老練のローラーカン:「時はまだ熟しておらぬ。人間の動きは読みきれてはおらぬし、天空の都市を動かしたとて、制御を誤れば自滅にもなりかねぬ」
シュナイダー:「よろしい。結論はこうだ——天空の都市を動かすことには一定の理がある。しかし今はその時ではない。慎重に情勢を見極める。静観こそ、いま我らに許された最善の選択である」
誰も異を唱えなかった。そして議場の扉が静かに開け放たれた。
ソークス会議は、幕を閉じた。
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しばらくして、リオンにクローディアから連絡があった。
クローディア:「久しぶりに“ロクサティーヌ”に行かない?」
クローディア:「例の件で話したいこともあるし」
リオン:「分かった。じゃあ10時でいいかな」
クローディア:「先に行って待ってるわ」
ロクサティーヌは天空の都市の中でも有名なレストランだ。天空の都市は人気のある観光地でもあり、いつも混んではいるが、ローラーカンには特別な個室が用意されている。商談など込み入った話をするにはうってつけだった。
リオンは少し早めにロクサティーヌに着いた。
クローディア:「ちょうどよかった。いま空遊魚のカルパッチョがきたところよ」
クローディア:「ここは仔牛のテリーヌも美味しいのよね」
リオン:「レンズ豆がいい味出してるよな」
クローディア:「ところで、あの子とはどうなったの?」
リオン:「あの子って?」
クローディア:「エレナよ」
リオン:「ああ、あれ以来会ってないけど。元気にしてる? また会いたいな」
クローディア:「解雇したわ」
リオン:「ええ!? なんで?」
クローディア:「あと、この“エレバンス”の買収は白紙に戻すわ」
クローディア:「水で走る自動車……常温常圧で水を分解する触媒技術はいい線いってたけど……非常に大きく重く、エンジンに組み込むには不適ね。結局、高エネルギー密度・即時応答・小型化の壁は越えられないわ」
リオン:「ソークス会議か……」
クローディア:「そうね。ギャリックの言い分に一理あるわ。天空の都市を動かすのは、やりすぎだと思うけどね。しばらくは、あなたと関わらないことに決めたから」
リオン:「それで、エレナはどこに行ったの?」
クローディア:「分からないわ。まあ、天空の都市で仕事を探せるって言ってたから近くにいるんじゃない?」
そのとき、クローディアの端末に連絡が入った。
クローディア:「ごめんね。空遊魚のカルパッチョは食べていいから。それじゃあね」
クローディアはロクサティーヌを出ていった。
それから、すぐにリオンは求人案内所を中心にエレナを探しまくった。そしてついにエレナを探し当て、近くの喫茶店に入った。
エレナ:「お久しぶりでーす」
何だかちょっと雰囲気変わったなと思ったが、構わずリオンは話しかけた。
リオン:「やっと会えたね。何してたの?」
エレナ:「ブティックとかアパレルに興味あったから、仕事そっちで探してたの」
リオン:「俺のところで働かない?」
エレナ:「え? いいの?」
リオン:「もちろん! 秘書をやってもらえたら嬉しいな」
エレナ:「本当に? ラッキーなんだけど」
リオン:「住むところは?」
エレナ:「今月いっぱいで終わりなの」
リオン:「じゃ、一緒に住めるね」
リオン:「あ、もちろん、君が嫌じゃなければだけどね」
エレナ:「嫌なわけないじゃない! 憧れのローラーカンの生活……」
リオン:「じゃ、決まりだ」
エレナ:「探してくれて、ありがとう」
リオン:「むしろ、見つかってくれて、ありがとうって感じだけど」
二人は無邪気に笑っていた。
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エレナがその洗練されたスーツに身を包み、オフィスのドアを初めてくぐった瞬間、空気が変わった。一面のガラス越しに摩天楼が広がる、高層階のラグジュアリーなオフィス。静謐な白と黒のインテリアに、アートと最新のテクノロジーが溶け込んでいる。完璧に設計されたその空間に、エレナの気配が新たな命を吹き込む。
リオン:「ここから始まる。すべてが」
彼は静かにそう告げ、革張りのチェアに身を沈めた。
契約書の上に並ぶふたつのサイン。
それは雇用の印ではなく、運命が動き出した証だった。
そして──
都市の喧騒を背に、新たなビジネスの鼓動が静かに、しかし確かに響き始めた。
エレナ:「早速、そのエレバンスの件なんだけど」
リオン:「ああ。クローディアの会社が、自動運転におけるAI技術で革新的な自動車を開発して、急成長を見せているんだ。うまく開発途上の技術も使ってくれると踏んでたんだけどね」
エレナ:「クローディアのところで働いてたから分かるけど、彼女はとても優秀な経営者よ。彼女の見立てが正しいわ」
エレナ:「でも、エレバンスの水素エンジンの効率化とコストダウンによる量産化技術は本物よ」
リオン:「しかし、水素燃料補給のインフラ自体がほとんど使えない状況だからな。水から水素を生み出す装置を付けないと売れないよ」
エレナ:「クローディアも言ってたけど、常温常圧で水を分解する触媒技術は完成してるのよね」
リオン:「いかに小型化できるかが課題だな」
エレナ:「その必要はないわ」
リオン:「え? どうして?」
エレナ:「私たちは燃料補給のインフラとして“メリッサ”という企業を既に持っているわ」
エレナ:「メリッサのインフラは世界中で使えるから、そこで水素燃料を補給できるようになれば、インフラは十分と言える」
リオン:「それで?」
エレナ:「エレバンスから常温常圧で水を分解する触媒技術を切り離し、メリッサに譲渡する」
エレナ:「エレバンスは水素自動車の開発と普及に専念させるのよ」
リオン:「すごいな……君は天才だ」
エレナは、技術とインフラ、企業の役割分担までを一手に見通す、まさに構想力に秀でた実務派の戦略家だった。
彼女には秘密があった。どんな未来をも見通すことができる不思議な能力。しかし、その能力は強大すぎて、彼女自身でも手に余るものだった。人々から恐れられたり疎んじられたりすることを恐れ、いつしかその能力を封印して生きるようになっていたのだ。
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〈メリッサ〉のロゴが刻まれた補給ステーションは、世界の都市という都市に淡い青の光を灯した。システムは驚くほどシンプルだった。ただの水――それを補給口に注ぎ込むだけで、わずか数分後、自動車に燃料を補給するための水素燃料タンクが満たされる。
この奇跡のようなインフラは、〈メリッサ〉が独自に開発した「常温常圧水素抽出ユニット」、通称〈アクアセル〉によって支えられている。従来のエネルギー産業が一世紀かけて築いた供給網を、たった5年で凌駕したのだ。
〈エレバンス〉の水素燃料エンジン技術は、自動車という枠を超え、船舶や航空機、火力発電などあらゆる分野に進出し続けた。
各国政府はこぞって〈メリッサ〉および〈エレバンス〉と契約を結び、国家予算のエネルギー部門は軒並み再編を迫られた。化石燃料の国家は経済破綻の可能性まで考えなければいけなかった。
人々は意識せずにその恩恵を受け、次の時代を生きていた。
今や〈メリッサ〉と〈エレバンス〉の名は、もはや一企業のブランドではない。
それは、新たな文明の神経系そのものだった。
エレナがリオンのオフィスに来てから、わずか5年。
リオンはエレナが来る以前と比較して、数百倍を超える資産を形成していた。
重厚なマホガニーの机の上に広げられた決算資料や株主報告書は、すべて秘書室を経て整えられたものだった。……否、実際には──ひとりの秘書の手によるものだった。
まだ三十にも満たぬ若さにして、先見と計算、そして胆力を兼ね備えたその女性こそ、実質的に実権を握る者だった。
リオンは、今や日常業務の大半から手を引き、エレナにそのほとんどを任せていた。
その夜、リオンは旧市街の地下へと降りていた。ローラーカン社会から追放された者たち、名前を捨て、記録からも抹消された亡霊のような人々――"ヴォイド・クラブ"の一室に、彼はいた。
闇の一角で、薄笑いを浮かべた男が言った。
男:「まさか、あのような小娘にすべてを任せて、貴様がこちら側に来るとはな」
リオンはグラスを揺らしながら答えた。
リオン:「勘違いするな。俺は……ローラーカンの呪縛を断ち切りに来ただけだ」
その目は鋭く、それでいてどこか安堵していた。リオンにとってエレナの存在が、唯一の秩序であり、道しるべだった。
エレナはリオンが投資している研究開発事業の中から「真実の穴」という洞窟研究のプロジェクトを見つけた。虚距石の発掘と商用目的での開発事業を残し、研究開発の支援が打ち切られる予定だったが、エレナは事業継続を決定し、さらに追加投資も決めた。
リオンは天空科学技術アカデミーにも出資しており、その中に未来の科学者に向けた、15歳以下の少年少女を対象にした奨学金制度があった。エレナは何故か、パイロット志望の“エリック”という少年を奨学金受給資格者の対象にした。
社会的に立場の弱い研究者を支えるバーナエル基金では、「カラコナ」という風変わりな対象を研究している老人が本来助成打ち切りの対象だったが、エレナはその継続支援を認めていた。
そんな中、リオンは選ばれし者として、シュナイダーより聖遺継審への召喚を受けた。聖遺継審とは、ローラーカンの子孫を遺す者として、ふさわしいかどうかを審査するものだった。
知能や知識のテスト、実績評価は合格したが、最後にシュナイダーの審問があった。
シュナイダー:「リオン、ローラーカンにおいて、男とは導く者。女をどう動かし、何を引き出すか……クローディアに何を望む?」
リオン:「私は彼女を導くつもりなどありません。クローディアは、自らの意志で進む者です。彼女が望む道を選び、誰と心を交わすか――それを決めるのは、彼女自身です」
シュナイダー:「……その在り方は、我が種にふさわしくない。クローディアの伴侶として、リオン、お前は不適格だ。我らの未来は、ギャリックに託される」
シュナイダー:「ところで、噂を聞いた。お前、人間の娘と交際しているそうだな」
リオン:「はい。事実です」
シュナイダー:「知っているはずだ、リオン。五十を越えた人間と関係を持てば、ローラーカンの掟により、永久追放となる」
リオン:「ですが、ローラーカンとして百二十に達すれば、年齢の隔たりは関係ないはずです」
シュナイダー:「そのような年齢まで生き延びた人間など、記録には存在せぬ。夢想に溺れるな」
シュナイダー:「……百二十を過ぎても、新たに人間を求めるローラーカンがいれば別だが……」
シュナイダー:「リオン……お前はまだ若い。未来を棒に振るには、早すぎる。考え直すがいい」
こうして聖遺継審は終わった。
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リオンの天空の都市にある邸宅は、グラヴィナイトの輝きで浮かぶガラス張りの塔の最上階にあった。寝室は広々としており、壁一面の窓からは、夜空に浮かぶ無数の星と、遠くで揺れる天空の都市の光が映り込んでいた。大きなベッドには、シルクのシーツが柔らかく広がり、エレナとリオンは肩を寄せ合って横になっていた。部屋には、暖色系の洒落たランプがほのかな光を放ち、静かな温もりを添えていた。
リオンは、枕に頭を沈めながら、エレナの髪をそっと指で梳いた。
リオン:「エレナ、一番好きなものは何?」
エレナは少し驚いたようにリオンを見上げ、くすっと笑った。
エレナ:「いきなり何? そんな質問、急にされても困るよ」
リオン:「じゃあ、教えてくれない?」
リオンは少し意地悪そうに微笑み、彼女の肩に手を置いた。
エレナはベッドの上で体を起こし、窓の外の星空を眺めた。
エレナ:「二番目なら……虹やオーロラかな。特にオーロラ。滅多に見られないし、家族との大事な思い出だから」
彼女の声は柔らかく、どこか懐かしそうだった。
エレナ:「あの光、まるで宇宙が踊ってるみたいだった。父さんと母さんと一緒に、湖畔で毛布にくるまって見たの。……あの時、全部が完璧だった気がする」
リオンはエレナの横顔を見つめ、静かに頷いた。
リオン:「オーロラか。いいね。じゃあ、やっぱりオーロラが一番?」
エレナは首を振って、いたずらっぽく笑った。
エレナ:「一番はダメ。秘密」
彼女はリオンに視線を戻し、逆に尋ねた。
エレナ:「じゃあ、リオンは? 一番好きなものは何?」
リオンの目は一瞬、真剣な光を帯びた。彼はエレナの手を取り、指を絡ませた。
リオン:「一番は……エレナ。エレナ=リーンスタイン。君だよ」
彼の声は低く、確信に満ちていた。
リオン:「君の好きなものも、全部守りたい。オーロラも、君の思い出も、全部」
エレナの頬がほんのり赤らんだ。彼女は照れ隠しにリオンの胸を軽く叩いた。
エレナ:「何それ、単純すぎる! バカみたい」
でも、彼女の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
エレナ:「でも……そういうとこ、嫌いじゃないよ」
リオンは笑いながら彼女をそっと抱き寄せた。
リオン:「じゃあ今度、オーロラを見に行こう。君の思い出の光、俺も一緒に見たい」
エレナはリオンの胸に顔を埋め、静かに頷いた。
エレナの秘密の力。先を見通す能力。使うまいと封印してきたが、ひとつだけその戒めを破っていた。リオンの未来……200歳を超えるその先まで自分だけを想ってくれる相手だ。ただ、それだけで十分。余計な未来は見ない……必要ない。少しずるいことをしたと思ったが、そんなこと構いはしない。今はただ、リオンの温もりに身を委ね、眠りにつく前の静かな時間を味わっていた。
エレナは最高の幸せに包まれていた。
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エレナはデスクに向かい、パソコンの画面を見つめながら、今日の業務を淡々とこなしていた。メモ帳に視線を移し、次々に整理していく。忙しい一日が続く中、ふとリオンの姿が見当たらないことに気づく。いつもなら彼は自分の仕事が終わると、何気なくエレナのオフィスに顔を出してくるはずだったが、その日、リオンの姿はなかった。
エレナ:「リオン……?」
彼がオフィスにいないことに、エレナは少し不安を感じた。何か用事があったのか、それともただの偶然か。だがその疑念を振り払うかのように、エレナの端末が震えた。
リオン:「エレナ、少しだけ話がしたい。スイートルームのプライベートエリアに来てほしい」
その短いメッセージに、エレナの胸の中に不安が広がった。普段、仕事の合間にリオンと話すことはあっても、こんな風に急に呼び出されることは珍しい。それに、スイートルームの虚距石エリアは二人の思い出の場所。初めて会った場所でもあり、今でも二人だけの特別な空間だ。
不安と好奇心が入り混じり、エレナはふと時計を見た。業務の合間を縫って、しばらくしてからその部屋に向かうことにした。彼の呼び出しに応じることが、どこか運命的な気がしてならなかった。
リオンの部屋の扉を開けると、普段とは少し異なる静けさが漂っていた。空気がひんやりとしていて、いつもよりも少し暗い部屋の中に、リオンが立っているのが見えた。電灯の薄明かりに照らされ、彼の表情はいつもより少し硬く、真剣だった。
エレナ:「リオン……どうしたの?」
エレナが足を踏み入れると、彼がゆっくりと振り向く。いつもの優しさを浮かべた笑顔は見えない。その代わりに、深い眼差しがエレナを捕らえた。
リオン:「エレナ……君に伝えたいことがある」
リオンの声はどこか震えていた。それでも、彼の目は確固たる決意を映しているように感じられた。エレナはその重さに、胸が締め付けられる思いを抱えながら、少し後ずさりした。
エレナ:「何か、怖いことを言うつもり?」
冗談のつもりでそう言ったが、リオンは微笑むことなく、静かに首を横に振った。
リオン:「違う。ただ、これだけは言わなきゃいけないと思ったんだ」
彼は少し間を置いてから、言葉を続けた。
リオン:「俺は君を……エレナ、君を愛している。君と生きていきたいんだ」
その言葉がエレナの耳に届いた瞬間、時間が止まったかのように感じられた。彼の告白は、ずっと感じていたものの、言葉として聞いたのは初めてだった。心の中で何度も思っていたその言葉が、現実となって立ち現れた。
エレナ:「リオン……それって、どういう意味?」
エレナは言葉を選ぶようにして問いかけた。胸の鼓動が高鳴り、頭の中が混乱する。リオンが言うには、ただの愛の告白ではない気がした。
リオン:「君と一緒に生きたい。そして、俺は……ローラーカンの社会から抜けるつもりだ」
その言葉に、エレナの視線は一瞬で凍りついた。リオンの目の中には、決して揺らがない覚悟が見えた。その覚悟が、エレナを驚かせ、そして戸惑わせた。ローラーカンの社会から抜ける――それは、すべてを失うことを意味する。今の財産も栄誉も権限も……そのすべてを。
エレナ:「リオン、それは……」
エレナの声が震える。彼の気持ちは、これまでのどんな言葉よりも強く、深く響いてきた。けれど、彼女はその覚悟がどれほど重大なものかを理解していた。
リオン:「君のために、すべてを捨てる覚悟がある」
リオンの声は確信に満ちていた。
しかし、エレナの表情は怒りに満ち溢れ、態度が豹変した。
エレナ:「ばぁーっかじゃないのぉ!! なに一人でカッコつけてんだ、テメーはよ!」
リオンはエレナの迫力に少したじろいだ。
エレナ:「誰が貧乏人になったオメーなんかについていくんだよ! 絶対ヤダよ私は!!!」
リオン:「落ち着けエレナ! 仕事とか住むところは大丈夫だから。ヴォイド・クラブで、色々と聞いてきたんだ。ローラーカンを抜けても生活できるように。さすがに今と同じとはいかないが、不自由はさせないよ。約束する」
エレナ:「だーかーら、イヤだっつってんだろテメーは!? バカなのか?」
エレナ:「イヤだ! イヤだ! イヤだ! イヤだ! イーヤーだぁ!!」
エレナはなりふり構わず力の限り喚き散らした。涙と鼻水で顔もぐしょぐしょになっていた。
リオン:「エレナ……」
エレナ:「えっぐ、ひぐっ、私の……私の一番好きなものはリオン! リオン=バーナエル! あなたなの!!!」
エレナ:「あなたがローラーカンを追放されるなんて……私は絶対に嫌! 私の好きなもの全部守りたいって言ったのに! リオンの嘘つき! リオンなんか嫌い! 嫌い! 嫌い! 大っ嫌いなんだから!」
リオンはたまらず、泣きじゃくるエレナを抱きしめた。
リオン:「エレナ……ごめん。君をこんなに傷つけると知らなくて……本当に、ごめん」
エレナは大声で泣き続けた。リオンはエレナを必死に抱きしめていた。
エレナと生きていくために、一度はローラーカン社会を抜けようとした。しかし、それはエレナを深く傷つけてしまうことだった。リオンはローラーカン社会を抜けるよりも、もっと重い覚悟をしなければならなかった。
いずれ訪れるエレナとの別れ……しかし、リオンは覚悟できていた。エレナの好きなものを全部守る。その約束を果たすために生きていくことにした。
今日も自分の仕事が終わり、いつものようにリオンはエレナのオフィスに顔を出した。
エレナ:「ねえリオン……言っておきたいことがあるの」
リオン:「なんだい?」
エレナ:「いつかね……離れ離れになる日が来ると思うの。ごめんね、私のせいで……」
リオン:「いいんだ、覚悟はできてる。でも、君のことは心配だよ」
エレナ:「そのことなんだけど……何十年先になるかは、分からないけど……いつか名前と姿を変えて、あなたのもとに戻ってくるわ。そのときはまた……私だと思って抱きしめてくれる?」
リオン:「ははは、変なこと言うなあ」
リオン:「でも、絶対に約束は守るよ。必ず戻ってくれると信じて生きていく。君の好きなものを全部守るって、心に誓ったから」
そして、またいつもの日常に戻っていった。
200歳を超える寿命を持つローラーカンと、人間の生き方。
本来なら、交わることもなかったであろう。
しかし、その儚くも美しい日々を、二人は共に生きていった。
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それから二十余年の時が経ち……。
エレナは最後にひとつだけ、リオンにお願いをした。研究熱心な老人が亡くなったあと、譲り受けた“カラコナ”という品物。それが欲しいと……エレナは、リオンからカラコナを受け取った。
そして、別れの時が過ぎた。
深い森の奥、木々のざわめきが響く静かな一角に、小さな一軒家がひっそりと佇んでいた。苔むした石の外壁と、蔦が絡まる木製の窓枠が、まるでこの家が森の一部であるかのような趣を醸し出していた。かつてエレナ=リーンスタインだった女性は、今、この家を新たな居場所として選んだ。彼女は「エレナ」という名前を捨て、かつて湖畔で家族と見たあの光の名を自らに冠した。
引っ越し業者のトラックが、森の細い道を軋ませながら近づいてきた。夕暮れの薄紫の光が木々の隙間から差し込み、荷物を運び入れる男たちの影を長く伸ばしていた。木箱や布に包まれた家具が次々と家の中に運び込まれ、埃っぽい床に置かれるたびに、かすかな音が響いた。
若い業者:「次はこの……何だこれ、カラコナ? でしたっけ?」
若い業者が、奇妙な形の木箱を手に持ち、首をかしげながら尋ねた。
彼女は、ゆっくりと微笑んだ。彼女の目は、かつてのエレナのものとはどこか異なり、深い森の静けさと、遠い未来を見通すような光を宿していた。
エレナと名乗っていた者:「ふふふ……違うよ。そんな名前じゃない」
若い業者は怪訝な顔で箱を置こうとした。
若い業者:「え? じゃ、何ですか?」
彼女は一歩近づき、木箱の中の立方体にそっと触れた。その瞬間、立方体が放つ微かな光が彼女の指先に映り、まるで星屑が舞うようにきらめいた。
エレナと名乗っていた者:「このくるくる回る立方体はね……」
彼女の声は低く、まるで森全体に語りかけるようだった。
オーロラ:「“量子の鍵”って言うんだよ」
「ここから始めるよ、リオン」彼女は誰にも聞こえない声でつぶやいた。「いつか、別の名前で、別の姿で、きっとまた会える。私の力で見つけるから」
引っ越し業者が最後の荷物を運び終え、トラックのエンジン音が遠ざかると、森は再び静寂に包まれた。オーロラは家の扉を開け、夕暮れの風を胸いっぱいに吸い込んだ。彼女の新しい名前と、占い師としての人生が、今、始まる。量子の鍵が棚の上でかすかに光を放ち、まるで彼女の未来をそっと照らしているようだった。