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第八章-大地に咲く大輪、大地を割く大輪

夜の帳が街を深い沈黙で包んでいた。昨日の戦いで刻まれた傷跡は急な修復の痕跡をそこかしこに残し、空気にはまだ舞い上がった土埃と何かを焼き焦がしたような匂いがうっすらと混じり込んでいる。城壁の上に立つ騎士たちは疲労の色を隠せないまま、それでもなおその手に握る武器の冷たさだけを頼りに壁の外を見つめていた。何も見えない暗闇の向こうを息を殺して凝視する。それは安らぎとは程遠い張り詰めた弦のような静寂だった。

最初にその異変を音として捉えた者はいなかった。それは音というよりも皮膚を撫でるごく微かな空気の振動だった。聴覚の鋭いベルがわずかに眉をひそめ、風の吹いてくる方角へとその神経を集中させた。やがてその振動は常人にも知覚できる甲高い音へと変わっていく。キィンというガラスを爪で引っ掻くような耳の奥を不快にさせる高周波。それは一つではない。千が万が幾重にも重なり合い、不気味な協和音となって夜の静寂を内側から侵食し始めていた。

「来るぞ」誰かが乾いた唇でそう呟いた。

その言葉を合図にするかのように地平線の彼方が不意にきらきらと無数に瞬き始めた。それは街の灯りではない。夜空に輝く星々でもない。月光を浴びてまるでガラス片を撒き散らしたかのように鋭くそして冷たい光を放つ巨大な雲。

その雲が意志を持って動いている。

最初はあまりの美しさに誰もが言葉を失った。だがそれが凄まじい速度でこちらへ迫ってくる「群れ」であると認識した瞬間、美しさはおぞましい恐怖へと反転した。蜜蝋。一体一体がガラスのように硬質な羽を持つ恐るべき飛蝗の軍勢。その津波のような群れが月明かりを乱反射させ、死の光を撒き散らしながら花の街へと殺到してきていた。城壁の上に鋼の兜の下で兵士たちが息をのむ音がやけに大きく響いた。

ガラスの津波がその速度を緩めることなく街へと迫る。そのあまりにも冒涜的な美しさの前に城壁の上の騎士たちは一瞬呼吸を忘れた。だがその硬直を断ち切ったのは彼らの指揮官オリヴァーの鋼のように硬質な声だった。

「──弓を構えろ!」

その号令は呪縛を解く魔法のように兵士たちの身体に染み込んだ恐怖を闘志へと変えた。一斉に弓が引き絞られ城壁に沿って並んだ矢尻が月光を吸い込み冷たい光を放つ。この日のために用意された花の汁を塗り込んだ特殊な矢。その先端には街の存亡がかかっていた。

市民はとうに屋内へと避難している。この戦場に声援も悲鳴も存在しない。ただ無数の羽音と風の音、そしてこれから放たれるであろう弦の音だけがこの不気味に生々しい空間を満たしていた。

オリヴァーは矢をつがえたままその目を極限まで細める。群れの先頭、その僅かに密集が薄れた一点。そこが最も効率的に連鎖破壊を引き起こせる唯一の急所。

「──放て!」

号令と同時に数十の弦が一つに重なり硬い和音となって夜空に解き放たれる。矢の群れが黒い軌跡を描きながらガラスの津波へと突き刺さった。

甲高い破砕音が夜空に響き渡る。狙い違わず蜜蝋の硬質な羽が砕け散り、その鋭利な破片が下の編隊にいた仲間たちの身体を無慈悲に切り裂いていく。致命傷を受けた蜜蝋たちがバランスを失い地上へと墜落する。だがそれはただの落下ではなかった。硬い甲殻を持つ蜜蝋の身体はそれ自体が砲弾と化し、地上で蠢いていた別の蟲の群れを直撃する。轟音。蟲の体液が土を抉るように爆ぜ、戦場は一瞬にして死と破壊の匂いに満たされた。

オリヴァーたちの一斉射撃によってガラスの羽を持つ蜜蝋の群れに確かな亀裂が生まれた。騎士たちが次弾を番えようと息を整えたそのほんの束の間の静寂。それを切り裂いたのは矢の音ではなかった。

夜空の一角が前触れもなくまるで巨大な傷口が開いたかのように深くそして濃い赤色に染まったのだ。熱波。蜜蝋の群れが放っていた冷たい光とは真逆の全てを焼き尽くさんとする純粋な熱量だけが、凄まじい圧力となって城壁を襲う。

源氏焔。一匹一匹が人の頭ほどの大きさをした炎の塊。それはもはや蛍などというか細い存在ではない。自らの命を燃料として燃え盛る生きた弾丸。その群れが夜空を焦がしながら城壁の一点めがけて突撃してくる。

「まずい、矢では間に合わん!」

「防壁に直撃するぞ!」

騎士たちの間に焦りの声が走る。その熱量の前に矢を番えることすら躊躇われたその時、一体の影が彼らの前に音もなく立ちはだかった。ラヴェルだった。

彼女は迫り来る炎の群れから目を逸らさない。ただその巨大な盾を自らの身体の前に深くそして強く押し出すように構えた。仲間を守るためたった一人で灼熱の津波を受け止める壁となる。

轟音。最初の火柱がラヴェルの盾に直撃し夜空を焦がすほどの火花を散らす。凄まじい熱波が周囲の空気と石畳を歪ませた。だがラヴェルはその衝撃に一歩たりとも後退しない。彼女は盾を地面に押し付け、受け止めた熱と衝撃の全てを大地そのものへと無理やり逃がしていたのだ。彼女の足元の石畳が高熱に耐えきれずじゅうと音を立てて融解し始める。

逸らされた火柱は都市の壁を傷つけることなく夜の闇へと虚しく消えていった。ラヴェルは盾の向こう側でその紅蓮の瞳を静かに細めると、全ての脅威に向かって宣言した。

「ここは通させない!」

その声は決して大きくはなかったが仲間たちの士気を鼓舞するには十分すぎるほどの絶対的な覚悟に満ちていた。

物理的な猛攻が一段落したその安堵こそが次なる敵が仕掛けた最も巧妙な罠だった。

戦場の空気が不意に陽炎のように揺らめいた。熱によるものではない。空間そのものがまるで水面のようにその輪郭を曖昧にしていく。先ほどまで耳をつんざいていた蟲の羽音や騎士たちの荒い呼吸、その全てが分厚い絹の布で覆われたかのようにくぐもった現実感のない音へと変質していく。

「なんだ?」一人の騎士が訝しげに呟いた。その声はひどく遠く聞こえた。

そして幻聴が始まった。最初はささやき声だった。誰かの名前を呼ぶ懐かしい声。死んだはずの戦友の声。故郷に残してきた恋人の声。兵士たちはその声に引かれるようにあるいはその声から逃れるように、一斉にその場にそぐわぬ方向へと顔を向け始めた。統率されていたはずの防衛線に明らかな乱れが生じる。

「しっかりしろ!幻聴だ!」オリヴァーが叫ぶがその声すらも歪んだ残響となって兵士たちの耳には届いていない。やがてささやき声は甲高い子供の笑い声へと変わった。それは無邪気でありながら聞く者の神経を逆撫でするような不快な響きを伴っていた。

「笑い声?」後方で矢の補充を準備していたリミナがその幻聴に思わず耳を塞いだ。一瞬集中が乱れ指先から矢がこぼれ落ちる。そのほんの一瞬の隙。それこそが敵の本体がその姿を完全に隠すための最後の時間だった。

視界がぐにゃりと歪む。兵士たちの目の前に存在しないはずの仲間たちの幻影が、あるいはおぞましい蟲の姿が次々と浮かび上がっては消えていく。もはや何が本物で何が偽物か区別がつかない。騎士たちは虚空に向かって剣を振り、あるいはすぐ隣にいる仲間を幻の敵と見間違えてその切っ先を向けてしまう。

この感覚そのものを乗っ取るあまりにも悪質な攻撃。その混乱の元凶である胡蝶の本体は幻影の嵐の中に完全にその気配を消していた。

だがその全ての人間が翻弄される中でただ二人、冷静さを失わずにいた者たちがいた。リミナとクレアだった。

「落ち着いて」リミナは自らの耳を塞ぐのをやめると懐から小さな袋を取り出した。中に入っているのはかつて彼女が故郷から持ってきたエトナ火山の微細な灰。彼女はその灰を手のひらに乗せるとふぅと優しく息を吹きかけた。灰は黒い霧となって幻影が渦巻く空間へと静かにそして広範囲に広がっていく。

幻影に実体はない。だがその幻影を生み出している本体がこの場のどこかで翅を動かせば、そのほんの僅かな空気の揺らぎがこの微細な灰の流れを必ず乱すはず。

クレアは灰が描く常人には読み解けぬ複雑な気流の地図を瞬きもせずにその目に焼き付けていた。彼女の頭の中にはこの城壁の全ての設計図が寸分の狂いもなく叩き込まれている。風の通り道、熱の上昇気流、石壁が起こす乱気流。その全てを計算した上で彼女は灰の流れの中にたった一つだけ存在する「ありえない乱れ」を見つけ出した。

「リミナ!」クレアの鋭くそして確信に満たした声が響く。「幻聴に惑わされないで!今いる場所から右に二歩!そう、そこよ!」

クレアの指示はただの勘ではない。設計図から割り出した本来の空気の流れを唯一不自然に捻じ曲げている一点。そこに胡蝶の本体がいる。その声と同時に灰の流れが確かにその一点だけ渦を巻くように乱れた。

クレアの指示は混沌の戦場を切り裂くただ一本の確かな道標だった。リミナはその声だけを頼りに自らの恐怖をねじ伏せ、指定された座標へと躊躇なく最後の一握りの灰を撒き散らす。

黒い霧が幻影の渦巻く空間の一点を不自然にしかし明確に染め上げた。そこにいる。灰の流れが見えない何かの翅の動きに沿って確かに乱れていた。

その好機を誰よりも早く捉えたのはベルだった。彼はそれまで後方で仲間たちの補助に徹していた。だがクレアの声が響いたその瞬間、彼はまるで猟犬のようにその身を低くして駆け出していた。その手にはいつの間にか先端を鋭く尖らせた一本の長槍が握られている。

「──ハァッ!」

短い気合と共にベルの身体が地面を蹴る。小柄な身体からは想像もつかないほどの爆発的な踏み込み。彼の目的は幻影を振り払うことではない。その中心に潜むただ一点の真実を貫くこと。

槍の切っ先がリミナの撒いた灰が渦巻くその中心点へと吸い込まれていく。手応えはあった。絹を何枚も重ねて引き裂くような鈍くそして湿った感触。

次の瞬間、幻影がまるで陽光に溶ける霧のように一斉にその輪郭を失っていった。兵士たちを苛んでいた笑い声が甲高い断末魔の悲鳴へと変わる。灰の霧が晴れた時、そこに現れたのは槍に胴体を貫かれその美しい翅を痙攣させている一体の巨大な胡蝶の姿だった。

ベルは槍を握りしめたままその場で荒い呼吸を繰り返す。胡蝶は最後の力を振り絞るようにその翅を一度だけ大きく羽ばたかせると、そのまま力なく地面へと墜落した。

胡蝶が地に落ちたことで戦場を支配していた悪夢のような幻覚は完全に消え失せた。兵士たちはようやく正気を取り戻し、額の汗を拭いながら自らの武器を握り直し警戒を再開する。

ラヴェルは源氏焔の炎を弾き返した盾を静かに下ろした。オリヴァーのいる城壁の上でも騎士たちが次弾の装填を完了させていた。広場には一瞬だけ張り詰めた糸が緩んだかのような静寂が訪れる。仲間たちの荒い呼吸だけがその静寂の中でやけに大きく響いていた。

だが誰もが心の底では理解していた。遠く夜の闇の向こうから響き続ける無数の羽音はまだ少しもその勢いを弱めてはいない。

これは勝利ではない。ただ押し寄せる波の一つを凌いだに過ぎない。本当の戦いはまだ始まったばかりなのだ。

蠅王の羽音はもはやただの音ではなかった。それは都市に満ちる憎悪と共鳴しそれを増幅させる呪詛の旋律。その影響はアロンソによって結束したはずの騎士たちにまで及び始めていた。彼らの目から理性の光が失せ互いに些細なことで胸ぐらを掴み剣の柄に手をかけ始める。

(ダメだ…)フィルはその地獄絵図を前に唇を噛みしめていた。彼の脳裏にはかつて立てた固い誓いが何度も響き渡っていた。

(この剣だけは抜かない。この力だけは決して使わないと──)

それは彼が自らの内に眠るあまりにも巨大でそして異質な力の恐ろしさを知った時に自らに課したたった一つの枷。この木刀を本気で振るうということは彼にとって人間であることの最後の境界線を踏み越えてしまうことと同義だった。

だがその誓いは目の前の現実の前であまりにも無力だった。ラヴェルの大盾が無数の蛆虫の酸を浴び悲鳴のような軋みを上げる。メルリウスの張った防壁も汚染の力によってその再生が追いつかなくなっている。そして何よりも。

「フィル…!」

姉であるフィナの悲痛な声が彼の耳に届いた。

その瞬間、フィルの内で何かが音を立てて砕け散った。

(ああ、そうか)

誓いも覚悟もこの地獄の前では意味がない。守りたいものが目の前で壊されていく。汚されていく。ならば選ぶべき道はもう一つしかない。

「花を守る。姉さんをみんなを守る」

フィルはゆっくりとしかし確かな意志を込めて、これまでただ握りしめているだけだったあの木刀を静かに構え直した。

「そのためならこの剣を振るう」

その瞬間、彼の瞳から迷いや恐怖といった最後の人間的な感情がふっと消えた。ただこの庭をこの花園を守るためだけに存在する沈黙の番人として。彼の身体からこれまでとは比較にならないほどの静かでそして底知れぬ圧力が放たれ始めた。


フィルが自らの誓いを破り木刀を構え直したその瞬間、戦場に第三の咆哮が響き渡った。それは蟲の声ではない。街の中心に根を張るあの巨大な樹木がその身を軋ませ天に向かって叫ぶ音だった。

フィルの解放された力に呼応するかのように大樹がありえない速度で急激な成長を開始したのだ。太い根が石畳をまるで薄い氷のように突き破り、幹は天を衝く勢いでさらに高く太く膨張していく。枝は無数に分かれ蛇のようにうねりながら街の上空を覆い尽くさんばかりに広がっていった。

「フィル!」

そのあまりにも異様な光景と弟から放たれる人間離れした気配を前に、フィナはたまらず叫びながら駆け出した。行かせたくない。その剣を振るわせたくない。弟がもう弟でなくなってしまうその境界線を越えさせたくない。

だが彼女の声は届かない。フィルは成長し続ける大樹の枝を足場として空へと駆け上がっていく。その動きはもはや人間のそれではない。重力を無視し垂直の壁をまるで平地のように蹴り、蠅王が舞う遥か高みへと一直線に向かっていく。フィナはその速度に全く追いつけない。ただ地上から急速に小さくなっていく弟の背中を見守ることしかできなかった。

絶望が彼女の心を支配しかける。だがその時フィナは気づいた。上空で繰り広げられるフィルの戦いぶりに。

彼の振るう成長する木の枝は確かに凄まじい破壊の嵐を巻き起こしている。しかしその攻撃の余波は決して街の中心部や仲間たちのいる場所へと向かうことはなかった。衝撃波は巧みに都市の外側へと逸らされ、暴れ狂う木の枝は建物をまるで避けるかのようにその軌道を変えている。

(違う)

フィナは確信した。

(あの子はまだ心を失っていない。あの力の奔流の中でたった一人で戦いながら、それでも私たちをこの街を守ろうとしている…!)

ならば待っているだけではダメだ。彼が力の奔流に飲み込まれ本当に心を失ってしまう前に。受け止めるのを待つのではなくこちらから助けに行く。

フィナの中で覚悟が決まった。彼女は自らが身につけていたいつも花の世話をする時に使っていたエプロンの紐を静かにしかし力強い手つきで解いた。花の世話をするフィナはここで終わり。ここからは弟をあの孤独な戦場から必ず連れ戻すための姉として。

エプロンがはらりと地面に落ちる。彼女は天を覆い尽くすほどに成長した巨大な樹木をその根元から見上げた。あれが弟の元へと続くただ一つの道だった。

フィナはようやくたどり着いた大樹の中腹、比較的安定した枝の上から上空の戦況を睨んでいた。蠅王はその巨体から常に生きた幼生を雨のように地上へと降らせ続けている。あれを一体でも街の中心部に落とすわけにはいかない。

彼女は枝に片足で器用に体重を預けると両手から銀色の光を立て続けに放った。投げナイフ。それは落下してくる幼生の硬い頭部だけを正確に撃ち抜いていく。彼女の精密な迎撃が地上への被害をかろうじて食い止めていた。

その遥か上空。フィルは目まぐるしく動き回る蠅王の速度に舌打ちしていた。追いつけない。このままではジリ貧だ。

彼は意を決すると追撃を諦め一度眼下にある大樹の最も巨大な幹へとその身を落とした。そして自らの武器である木刀をまるで杭を打つかのように、その頑丈なはずの大樹の幹へと深々と突き立てる。

木刀が緑色の光を放った。次の瞬間フィルの突き立てた一点から大樹の幹が凄まじい音を立ててメキメキとたやすく割れていく。

フィルはその幹に突き刺さったままの木刀の柄を足場にした。

そして全身のバネを使ってそこから空を舞う蠅王めがけて砲弾のようにその身を射出する。彼は跳躍すると同時に足場としていた木刀を幹から引き抜き再びその手に握りしめていた。

突き立てる、割る、足場にする、跳ぶ、引き抜く。その常人には理解不能な一連の動作を彼はほんの一瞬で淀みなく行ってみせた。加速を得た彼の身体は一直線に蠅王の背後へと迫っていく。

上空でフィルと蠅王の常識を超えた死闘が繰り広げられているその間も、地上ではもう一つの決して退くことのできない戦いが続いていた。

「第三砲台、角度三度下げろ!前列、火線に入るな!」

ジアの海軍仕込みのよく通る声が戦場の喧騒を切り裂いて響き渡る。彼女はもはや陽気な商人の顔をかなぐり捨て、冷徹な指揮官として城壁に設置された簡易砲台の運用を一手に引き受けていた。彼女の的確な指示のもと騎士たちが巨大な石弾を装填し発射角を調整していく。

だが風が強い。このままでは弾道が逸れ狙いが定まらない。その一瞬の膠着をリミナが打ち破った。彼女は風上へと回り込むと両手いっぱいの微細な灰をふわりと空へと撒き上げた。

「風が変わる」

灰は彼女の意のままに目に見えない気流の壁を作り出し、砲台から放たれる石弾の軌道を安定させるための風の通り道を無理やりこじ開けていく。

その僅かな弾道の安定。それこそがクレアが待ち望んでいた唯一の好機だった。彼女は城壁の設計図と敵の進軍ルートをその頭の中で完璧に重ね合わせると、一点を指差し叫んだ。

「ジア、あそこよ!あの古い監視台の土台!あそこを撃てば足場ごと崩落する!」

三人の異なる才能が一つに収束する。「全門、目標、旧監視台!──撃て!」ジアが号令を下す。リミナが風を操り弾道を固定する。クレアが最も脆い一点を見つけ出す。

轟音と共に放たれた石弾は寸分の狂いもなく監視台の土台へと着弾した。凄まじい衝撃に古い石造りの土台が耐えきれず大規模な崩落を引き起こす。その進路上にいたおびただしい数の蟲の群れがなすすべもなく崩れ落ちる土砂の中へと飲み込まれていった。三人の連携が敵の大群の進路を見事に寸断してみせたのだ。

ジアたちが砲台で敵の進軍を食い止めているそのすぐ後方。城壁の内側の一角は臨時の野戦病院と化していた。そこは血と薬草の匂い、そして負傷した騎士たちの押し殺したような呻き声に満ちていた。

その中心でスレアはただひたすらに治療に集中していた。彼女の役割は敵を討つことではない。死の淵から一人でも多くの仲間を引き戻すこと。

「大丈夫。傷は浅い」

彼女は矢傷に苦しむ若い騎士に静かにしかし力強く語りかける。その指先は迷いなく傷口から矢じりを抜き取り、砕いた花の葉を押し当てて巧みに止血していく。

(前に出られないからこそ)

彼女は心の中で自らに言い聞かせていた。

(私にできるのはこれだけ。だからこそ今はただ命を繋ぐ)

だがそのあまりにも無防備な治療拠点を敵が見逃すはずはなかった。防衛線を突破した数匹の蟲が負傷兵の血の匂いに引かれスレアたちのいる後方へとその牙を剥いた。

しかしその蟲の刃がスレアに届くことはなかった。

「──させない!」

カンナが手に持っていた矢の詰まった巨大な木箱をまるで棍棒のように振り回し、蟲の一匹を真正面から殴り飛ばす。甲殻が砕ける鈍い音が響いた。彼女は矢の補給の合間にベルと共にスレアの完璧な護衛としてその背後を守っていたのだ。

もう一体の蟲がカンナを避け横からスレアへと襲いかかる。その動きをベルが読んでいた。彼は補給用の矢筒を背負ったままその身を滑り込ませると、手にした槍で蟲の甲殻の継ぎ目、その一点だけを的確に貫いた。

カンナの「剛」とベルの「柔」。二人の連携が後方支援というこの街の生命線を確かに守り抜いていた。彼らは仕留めた蟲を一瞥すると再び矢の詰まった木箱を担ぎ上げ、オリヴァーのいる城壁の上へと駆け出していった。休んでいる時間はない。

砲撃と仲間たちの連携によって蟲の群れの勢いは確かに削がれていた。蜜蝋や源氏焔の数は目に見えて減り、城壁に到達する前にその多くが地に落ちていく。

だがそれでも敵の波は途切れない。地平線の向こうから次なる群れがまるで尽きることのない泉のように湧き続けていた。

その終わりの見えない消耗戦に都市を守る騎士団もまた徐々にしかし確実に疲弊の色を濃くしていく。彼らの鎧は傷つき呼吸は荒く、剣を振るう腕は鉛のように重くなっていた。

その誰もが疲弊し精神をすり減らしていく地獄のような戦場で、ただ一人フィルだけがその戦闘能力を全く落としていなかった。いやむしろその動きは時間が経つにつれてより洗練され研ぎ澄まされていっているかのようだった。

フィナは大樹の中腹からその弟のあまりにも異様な戦いぶりを息をのんで見つめていた。

彼の動きには一切の感情がなかった。喜びも怒りも焦りも恐怖もその全てが削ぎ落とされている。ただ眼前の敵を最も効率的に最も無駄なく排除するためだけの完璧な動作。それはもはや人間の剣技ではない。風に揺れる枝がただそこにあるというだけで害虫を払うかのような。あるいは伸びる蔓が障害物をただそこにあるというだけで絡め取っていくかのような。あまりにも自然であまりにも無機質な「植物の動作」そのものだった。

フィナの背筋を冷たい汗が伝う。

(このままじゃ…)

彼女の唇からか細い悲鳴のような声が漏れた。

(このままじゃ……フィルが人じゃなくなる……)

戦線を維持できているのは弟が人であることを捨てつつあるから。そのあまりにも残酷な現実に彼女はただ立ち尽くすことしかできなかった。

スレアは負傷した騎士の腕を固定しながら戦況を見渡していた。戦線はもはや膠着というよりも無秩序な混乱へと陥りつつある。そこへ前線から一体の影が血と泥にまみれながらも確かな足取りで戻ってきた。アロンソの騎士団に加わった若い騎士の一人だった。彼はカンナたちに状況を報告するとすぐにスレアの護衛に加わった。

そのまさにその時だった。

月の光を断ち切りて一本の糸天より垂れ。それは街の中心にそびえるあの大樹の梢より放たれた白銀の光。糸は一本また一本とその数を増やし夜空を縦横に走り抜ける。それはまるで夜空そのものを巨大な蜘蛛の巣へと編み直すかのようであった。

「なんだあれは…新たな敵か!?」騎士の一人が驚愕に叫ぶ。誰もがそのあまりにも美しくそして不気味な光景に息をのんだ。

だが上空で戦うフィルはその糸を疑うことすらなかった。まるで旧知の友が差し伸べた手を取るように。彼は自らの眼前に現れた糸を足場として蹴った。

絹縛。かつて仏像に住み着いていたという古の蜘蛛。彼はこの街の危機を察知しその姿を現したのだ。絹縛は敵ではない。フィルと無言のままに和解しその意思を一つにすると、無数の糸を今度は空を舞う蟲の群れへと一斉に放った。糸は蟲の翅を絡め取りその動きを次々と封じていく。

新たなそしてあまりにも美しい戦場が都市の上空に生まれようとしていた。


夜空を不気味に編み直し始めたあの白銀の糸。その主がついに月光の下へその全身を現した。それは大樹のあまりにも巨大な幹をまるで自らの庭であるかのように縦横無尽に駆け巡る一体の巨大な蜘蛛だった。

その姿はこれまで対峙してきたどの蟲とも明らかに異なっていた。甲殻は青銅を磨き上げたかのような鈍い輝きを放ち、そのあまりにも多すぎる節足は一切の無駄な動きなく垂直の壁を滑るように移動していく。

「なんだ、あれは…!」「新たな敵か!?」

城壁の上の騎士たちがそのあまりにも美しくそして異様な存在に一斉に警戒の声を上げ弓を構え直す。だがその蜘蛛は地上で戦う人間たちには一切の関心を示さなかった。その無数にある単眼はただ一点、上空で暴れ狂う蠅王の軍勢だけを捉えていた。

蜘蛛は敵を無視してただ黙々とその糸を紡ぎ続ける。それは殺意ではなく明確な「仕事」としての動き。その姿に騎士たちはこれが敵ではないことを本能で理解し始めていた。

そして上空で戦うフィルはその存在に一瞥をくれただけだった。彼は驚きも警戒も見せない。ただ眼前に現れたその巨大な蜘蛛の存在をあまりにも当然の戦場の「変数」として即座に受け入れた。彼は蜘蛛が紡ぎ始めた糸の軌道を自らの次なる進路としてその思考に組み込むと、再び蠅王へと向かうべく大樹の枝を蹴った。利用できるものは全て利用する。ただそれだけだった。

絹縛はその八本の足をまるで熟練の舞踏家のように優雅にそして正確に動かし、大樹の幹から天に向かって伸びる巨大な枝の先端へとその身を躍らせた。それは蟲というよりもこの混沌と化した戦場に舞い降りた静かなる調停者のようだった。

彼は枝から枝へと飛び移りながらその身体から無数の白銀の糸を放射状に空へと広げていく。それはもはやただの網ではない。夜空という名の黒いカンバスに銀色の絵の具で巨大な模様を描いていくかのような神聖な儀式にも見えた。糸は月光を吸い込みそれ自体が淡い光を放っているかのようだ。

完成したそれは月光を浴びてダイヤモンドダストのようにきらめく巨大なそしてあまりにも美しい銀の天蓋だった。都市の上空に新たなそしてあまりにも危険な芸術作品が生み出されたのだ。

その美しさに見惚れていた蜜蝋の群れが次々とその銀の網に絡め取られていく。糸はただ粘着するだけではない。それに触れた蟲の硬い甲殻をまるで生き物のように締め上げ砕き、その命を音もなく奪い去っていく。ガラスの翅が甲高い音を立てて砕け散り銀の網のおぞましい装飾品と化していった。

上空では蠅王がその邪魔な網を羽ばたきによる衝撃波で引き裂こうと咆哮を上げる。凄まじい風圧が銀の網を大きくたわませた。だが糸はその衝撃をしなやかに受け流し決して切れることはない。それどころかその粘り気のある糸は蠅王の腐敗した翅に絡みつき、その飛行を確実にそして僅かずつ鈍らせていった。

都市の上空に巨大な銀の天蓋が完成した。そのあまりにも美しいしかしあまりにも危険な戦場でついに第二の役者がその舞台へと躍り出た。フィルだった。

彼は大樹の枝を蹴ると躊躇なく絹縛が張り巡らせた垂直に近い糸の壁へとその身を投じる。誰もが彼が落下すると思ったその瞬間、フィルの足はまるで当然のようにその指先ほどの太さしかない糸の上に着地しそして駆け上がった。

それはもはや人間の動きではなかった。重力を無視し空中に描かれた銀の道を彼は凄まじい速度で駆け上がっていく。

だが真に驚くべきはフィルの動きだけではない。彼を支える絹縛の糸。その網はただの静的な罠ではなかったのだ。フィルが次の足場として強く踏み込もうとする糸。その糸だけが瞬時に何重にも束ねられ彼の体重を完璧に支える頑丈な足場へとその姿を変える。フィルが方向転換のために手で掴もうとする糸。その糸だけが彼が掴みそして離れた瞬間にわざとぷつりと切れる。その反動を利用して彼は予測不可能な三次元的な動きを可能としていた。

絹縛はフィルの次の一手を完全に読み切っていた。そしてその動きに合わせてこの広大な銀の網をリアルタイムで作り変え続けているのだ。瞬時に「壊せる足場」と「踏みしめる足場」を分けフィルのための最高の舞台を演出していく。

そのあまりにも異様でそしてあまりにも息の合った連携を地上から見上げていた騎士の一人が呆然と呟いた。「……まさかあの蜘蛛は我々の味方として戦っているというのか…?」

その言葉に誰もが同じ想いを抱いていた。得体の知れない巨大な蜘蛛への恐怖と警戒。だがそれ以上に絶望的な戦況を覆しかねない新たな希望の出現に対する意外性と、そして確かな安心感が彼らの間に静かに広がっていった。

絹縛が作り上げたあまりにも美しくそしてあまりにも危険な銀の天蓋。その出現に蠅王は初めてその無数の複眼に焦りの色を浮かべた。

王はその腐敗した翅をこれまでにないほど激しく羽ばたかせた。轟音と共に凄まじい衝撃波が銀の網全体をまるで嵐の海のように激しく揺らす。だが絹縛の糸はその暴力的なまでの振動をしなやかに受け流し決して切れることはない。

ならばと蠅王はその口吻から全てを溶かす腐敗液を網の支点となっている大樹の枝へと正確に吐きつけた。糸がじゅうと音を立てて焼かれ切れ落ちる。しかしそれが完全に断たれるよりも早く絹縛は新たな糸を倍の太さでその上から補強していた。まるで王の悪あがきを嘲笑うかのように。

その一瞬の隙。蠅王が網そのものの破壊にその意識を向けたほんの僅かな時間。それをフィルが見逃すはずはなかった。

彼はもはや言葉を発しない。ただその瞳に冷たいしかし絶対的な殺意だけを宿して絹縛の糸の上を無言で駆け抜けた。その足が銀の糸を蹴るたび彼の身体は予測不可能な軌道を描き蠅王へと猛然と肉薄していく。

蠅王がその接近に気づき慌てて迎撃しようとする。だが遅い。

フィルの握る木刀がその混沌とした成長し続ける木の奔流がついに王の黒光りする甲殻を捉えた。狙いは核ではない。その巨大な翅の付け根。

ガリガリガリッと木刀から伸びる無数の鋭い木の棘がまるで高速で回転する巨大な鋸のように、王の甲殻をその根本から抉り取っていく。黒い体液が腐敗した翅の破片と共に夜空へと撒き散らされた。

蠅王が初めて明確な苦悶の絶叫を上げる。フィルは一度攻撃を当てるとすぐに糸の弾性を利用して後方へと跳躍し距離を取る。そして王が体勢を立て直すよりも早く別の角度から再びその身を躍らせた。

攻守が完全に入れ替わった。この銀の網の上ではもはやフィルこそが絶対的な狩人。そして蠅王はただその網にかかった哀れな獲物でしかなかったのだ。

上空で繰り広げられるあまりにも異次元の戦い。地上で押し寄せる蟲の残党と戦っていた仲間たちは皆その動きを止めただ空を見上げていた。

月光を浴びて白銀に輝く巨大な蜘蛛の網。その美しいしかしあまりにも危険な舞台の上で一体の黒い絶望の化身と、一人の人間であることを捨てつつある少年が激しくその命を削り合っている。

「……あれがフィルなのか…?」騎士の一人が信じられないものを見る目でそう呟いた。彼らの目に映るのはもはやただの少年ではない。蜘蛛が作り上げた銀の道を縦横無尽に駆け巡り、その身からまるで嵐のように木の枝を蔓を棘を放ち続ける植物の精霊。あるいは破壊の化身。

そのあまりにも神々しくそしてあまりにも痛ましい光景をフィナは大樹の中腹で唇を噛みしめながら見つめていた。

弟が勝っている。だがその代償として弟の心が人間から遠く離れていっている。

「フィル…!」

彼女は叫んだ。その声は悲痛な祈りにも似ていた。「もうやめて!戻ってきて!」

だがその声は上空を吹き荒れる風と蠅王の不快な羽音にかき消され、決して弟の元へと届くことはなかった。

ラヴェルの鉄壁の守りを前に源氏焔の群れは真正面からの突撃が無意味であることを悟った。数匹がその目標をラヴェルから外し態勢を立て直すべく、オリヴァーたちが迎撃を続ける蜜蝋の群れが渦巻く空域へと一度退避しようと試みる。

だがラヴェルはそれを許さない。彼女はその巨大な盾に繋がれた鎖をまるで鞭のようにしならせた。盾を自らの身体の周りで一度二度と力強く振り回し凄まじい遠心力を生み出す。

「──逃がさない!」

その声と共に彼女は退避しようとする源氏焔の一匹めがけて鎖の長さを解放し、その勢いを乗せたまま巨大な盾を砲弾のように射出した。盾は空中でその鋭利な縁を槍の切っ先のようにして源氏焔の燃え盛る胴体へと深々と突き刺さった。

断末魔の叫びと共に源氏焔はその飛翔能力を奪われ城壁のすぐ下の地面へと墜落する。

ラヴェルはその好機を見逃さない。彼女は墜落した源氏焔を鎖を引いて盾で押さえつけながら、城壁の上にいるオリヴァーに向かって鋭く合図を送った。

オリヴァーはその合図を待っていた。彼は通常の矢ではない。先端にスレアが調合した特殊な麻痺毒を塗り込めた重い槍のような矢をその弓につがえる。

「──もらった」

オリヴァーの放った毒槍は寸分の狂いもなく地面でもがき苦しむ源氏焔の甲殻の最も柔らかい一点を的確に撃ち抜いた。

源氏焔の体内から放たれていた灼熱の光が急速にその勢いを失っていく。だがそれでもその生命の灯はまだ完全には消えていない。致命傷を負いながらもなおその身をもぞもぞと蠢かせ続けていた。


夜空を埋め尽くしていた蜜蝋の群れはオリヴァーたちが放つ絶え間ない矢の雨によって既にズタズタに引き裂かれていた。統率を失い数を減らした彼らはこのままでは全滅すると悟ったのだろう。甲高い鳴き声を合図に一斉に戦うのをやめ、街の中心にそびえるあの大樹の複雑に入り組んだ枝葉の中へとその身を隠そうと試みた。

だがオリヴァーはその逃走を許さない。彼の瞳にはもはや街を守るという使命感だけではなく獲物を追い詰める狩人のような冷酷な光が宿っていた。

「一匹たりとも逃がすな」

彼の矢にはスレアが調合した特殊な解毒剤が塗り込まれていた。それは蜜蝋の生命活動の源である体内の毒素そのものを化学的に中和し消滅させるためのもの。オリヴァーはその矢を逃げ惑う蜜蝋の未来の飛行ルートを予測したかのような完璧な軌道で次々と放っていく。

矢が蜜蝋の身体に突き刺さる。しかし蟲の甲高い悲鳴は上がらない。その代わり突き刺さった一点から蜜蝋の身体を構成していたエネルギーそのものがふっと霧散していく。彼らは痛みを感じる間もなくただの生命活動を停止した重い抜け殻と化す。光を失ったガラスの翅は揚力を失いその勢いを増しながらただまっすぐに地上へと墜落していった。

そのあまりにも静かな死の雨が街の中央広場に次々と降り注いでいく。

群れの最後の一匹が必死に大樹の枝へとその爪をかけようとしたその時、オリヴァーは自らの弓に同時に三本の矢をつがえた。弓がありえないほどの張力に軋み悲鳴を上げる。彼がこの一射を放てば先にこの弓が壊れるかもしれない。だが彼は躊躇わない。

三本の矢は螺旋を描きながら一つの巨大な槍となって空を切り裂いた。そして蜜蝋の両方の翅の付け根と胴体の中心を寸分の狂いもなく同時に撃ち抜いた。

その最後の亡骸が中央広場に重い音を立てて落下したことで蜜蝋の群れは完全に沈黙した。オリヴァーは酷使によって今にも砕け散りそうな弓を静かに下ろした。その横顔は冷たくそして一切の感情を映してなどいなかった。

絹縛が作り上げた銀の網の上で攻守は完全に入れ替わった。フィルはもはや蠅王から逃げない。彼は糸の弾性を利用して自らの身体を砲弾のように射出させると、ついに王の黒光りする背中へと直接着地した。

ぬらりとした甲殻の上、不安定な足場でフィルはしかし一切の揺らぎを見せない。「──オオオオオッ!」

彼が上げた咆哮はもはや人間の声ではなかった。木刀から流れ込む植物の純粋な生存本能の叫び。その声に応えるかのように彼が握る木刀から無数の鋭い木の枝が棘を持つ蔓が、まるで力の奔流となって一斉に蠅王の背中へと突き刺さった。

ガリガリガリッと硬い甲殻が凄まじい音を立てて削られていく。フィルは剣を振るうのではない。ただその柄を握りしめ力の全てを解放するだけ。木刀そのものが意志を持った嵐と化し蠅王の肉体を内側から食い破っていく。黒い体液が腐敗した甲殻の破片と共に夜空へと撒き散らされた。

だがフィルはただ無差別に破壊しているのではなかった。その人間性を失いかけた瞳の奥でただ一点、巨大な翅の付け根だけを彼は見据えていた。力の奔流がその一点へと収束していく。

甲高い悲鳴と共に蠅王の片翼がその根本から無残に引き千切られた。

バランスを失った蠅王は錐揉みしながら空から墜落していく。その全ての力を使い果たしたフィルもまたその背から振り落とされ意識を失い、ただ重力に引かれるまま落下していった。

「フィル!」

大樹の中腹でフィナが悲痛な叫びを上げる。だが彼女が助けに行くよりも早く絹縛が動いた。落下していくフィルの下に瞬時に何重にもそしてゆりかごのように柔らかい糸の網を張り巡らせる。フィルとその手から離れた木刀はその白銀の安全網に優しく受け止められた。弟の無事を絹縛に任せフィナは自らの眼下へと視線を移す。

墜落した蠅王は片翼を失いながらもなお生きておりその巨体を大樹の幹にしがみつかせていた。フィナは迷わない。彼女は再び両手に投げナイフを握りしめると自ら大樹の幹から下へと飛び降りた。そして落下する勢いを殺すようにそのナイフを次々と垂直の壁である幹へと深々と突き刺していく。

火花を散らしながら彼女は驚異的な速度で地上へと降りていく。次の戦場は地上。あの木にへばりつく半死半生の王を完全に沈黙させるために。

地上に墜とされオリヴァーの毒槍によってその命の灯が消えかけていた源氏焔。だがその身体はまだ動いていた。その瞳にはもはや理性などなく、ただ自らをここまで追い詰めたこの街そのものへの純粋な憎悪だけが燃え盛っていた。

その憎悪の視線が一体の影を捉える。ラヴェル。彼女の存在こそが自らの敗北の始まりだったと本能で理解したのだろう。

その前にラヴェルは静かにしかし確かな怒りを込めて立ちはだかった。彼女の脳裏にベルの苦しみに満ちた顔が焼き付いている。目の前の蟲が彼を傷つけた個体そのものではないことなど分かっている。だがそんなことはどうでもよかった。これは八つ当たりだ。彼女の大切な仲間を傷つけた全ての理不尽に対する個人的な復讐だった。

ラヴェルはその巨大な盾を鎖で力任せに振り回し始めた。凄まじい遠心力が盾に宿る。彼女はその勢いを乗せた一撃を地面で蠢く源氏焔へと何度も叩きつけた。

轟音。盾が叩きつけられるたび源氏焔の甲殻が砕け残り火が悲鳴のように周囲へと撒き散らされる。

だが源氏焔はそのあまりにも暴力的なラヴェルの攻撃を逆に利用した。ラヴェルが盾を大きく振り上げたその瞬間、源氏焔は最後の力を振り絞りその鋭い爪を盾の表面へと深々と食い込ませたのだ。

「っ!」

ラヴェルがその異変に気づいた時には遅かった。盾にへばりついた源氏焔は彼女が振り回すその遠心力をそのまま利用し、自らの身体を空へと投げ出させた。狙いは都市の中心部。自爆覚悟の最後の一撃。

しかしラヴェルはそれすらも読んでいた。源氏焔が盾からその身を離し街の中心部へと落下しようとしたその直後。

「──遅い」

ラヴェルは鎖を巧みに操り蟲を失って軽くなった盾の軌道を空中で無理やり反転させる。そして再び勢いをつけた盾を今度は水平に円を描くように振り抜いた。

盾は落下していく源氏焔の胴体を真横から完璧に捉えた。衝撃音はなかった。源氏焔の身体はその一撃で完全に粉砕され、ただの燃え盛る塵となって夜空へと拡散していく。その最後の残り火が地面を赤熱させながら消えていった時、源氏焔という脅威は無力化した。

ラヴェルの一撃によって源氏焔はその甲殻を砕かれもはや虫の形を留めないほどの燃え盛る肉塊と化していた。だがそれでもなおその命は尽きていない。最後の憎悪を燃しながら地面を這いどうにかその戦線に留まっていた。

その前線の膠着を打ち破ろうとしたのは一体の意外な敵だった。ベルの槍によって既に討たれたはずの胡蝶。その亡骸から最後の力を振り絞るかのように再び希薄な幻覚が立ち上ったのだ。それは致命傷を避けるために死んだふりをしていた奴の最後の悪あがきだった。

狙いはただ一点。後方で負傷者の治療に集中しているスレア。

幻覚に身を隠しながら胡蝶は音もなくスレアの背後へと忍び寄る。誰もがそのあまりにも卑劣な一撃に気づけない。

──ただ一人クレアを除いては。

「そこか」

クレアはそれまで手にしていた記録用の羊皮紙を無造作に放り投げると、その背に隠し持っていた一体の巨大な戦斧を抜き放った。

胡蝶の刃がスレアの首筋を捉えようとしたその刹那、クレアは凄まじい雄叫びと共に何もないはずの空間へとその大斧を渾身の力で叩きつける。

空間がガラスのように砕け散りそこに潜んでいた胡蝶の本体が甲高い悲鳴を上げてその姿を現した。その胴体にはクレアの放った大斧が深々と食い込んでいる。

だがクレアの攻撃はまだ終わらない。彼女は斧を突き立てたまま今度はもう片方の手に巨大な大槌を握りしめていた。そしてその大槌をまるで楔を打ち込むかのように自らが突き立てた斧のその背の部分へと力任せに叩きつけたのだ。

斧がさらに深く胡蝶の身体を抉っていく。

断末魔の叫びと共に胡蝶は最後の幻覚を放つ。だがその揺らめきをベルの瞳が見抜いていた。「クレアさん、そいつは幻だ!本当の本体は背後にいる!」

クレアはベルの言葉を疑わない。彼女は目の前の幻を無視し振り返りざまその大槌を背後の何もない空間へと全力で振り抜いた。

轟音。大槌は確かにそこにいた胡蝶の本体を完璧に捉えた。胡蝶の身体はまるで玩具のように広場の遥か彼方、蜜蝋の死骸が転がる中央広場まで一直線に吹っ飛ばされていった。

絹縛が編んだ白銀のゆりかごの中。フィルの意識を優しくしかし執拗に揺り動かすものがあった。それは絹縛がその糸の一本をフィルの頬にそっと触れさせていたからだった。

「ん…」

フィルはゆっくりとその目を開いた。視界に映るのは網目状に広がる美しい銀の糸とその向こうに広がる混沌とした戦場の空。自らの失態を瞬時に理解する。彼は手元に置かれていた木刀を再び強く握りしめた。

その彼の眼下。地上では仲間たちが既に最後の一撃を放つための完璧な布陣を敷き終えようとしていた。

鐘楼の頂上ではオリヴァーが身じろぎもせずその弓を番えている。彼の矢には蠅王に二度目のそして今度こそ完全な死をもたらすであろう特別な毒槍がつがえられていた。

広場の入り口ではラヴェルがその大盾を鎖で凄まじい速度で振り回し始めていた。風切り音が唸りを上げ次の一撃がこれまでとは比較にならぬほどの破壊力を秘めていることを物語っていた。

そしてその対角線上。建物の屋根の上にはフィナがいた。だが彼女が構えているのはいつもの投げナイフではない。その手には長くそして重厚な黒色火薬を詰めたマスケット銃が握られていた。彼女は冷たいしかし一切の迷いのない瞳でその狙いを中央に追い詰められた王のただ一点へと定め続けていた。

(追いつかないと)

フィルは絹縛に目線だけで感謝を伝える。そして白銀の網から地上へとその身を躍らせた。彼は大樹の幹を垂直に駆け下りながらその手に握る木刀を構え直す。

オリヴァーの天からの槍。ラヴェルの地を穿つ盾。フィナの炎を吹く鉄槌。そしてフィルの全てを終わらせる空からの一太刀。

四人の必殺の一撃が今まさに放たれようとしていた。

号令はなかった。ただ四人の守護者の呼吸が寸分の狂いもなく一つに重なった。

天からオリヴァーの毒槍が流星となって降り注ぐ。地からラヴェルの盾が全てを砕く回転する鉄槌と化して鎖の上を駆ける。屋根からフィナのマスケット銃が黒色火薬の怒りを込めて轟音と共に火を吹いた。そして空からフィルがその手に握る成長し続ける異形の木刀を大上段に振り下ろした。

四つの異なるしかし等しく致命的な一撃が中央広場に追い詰められた蠅王のただ一点へと収束していく。

それと同時だった。街の中心にそびえる大樹が最後の咆哮を上げた。大地を突き破り無数の巨大な根がまるで意志を持つかのように蠅王の巨体と残された蟲の残党全てに一斉に絡みついた。

それはもはやただの攻撃ではない。この街の全ての住民がそしてこの土地の自然環境そのものが、このあまりにも冒涜的な侵入者を拒絶し排斥しその存在ごと叩き潰さんとする純粋な拒絶の意思表示だった。

四人の攻撃と大樹の根による圧殺が完全に同時に着弾する。蠅王の巨体は叫び声を上げる間もなく内側と外側から同時に完全に粉砕された。その亡骸は塵と化し風に攫われ後には何も残らなかった。

戦いが終わった。誰もがそう思った。だがフィルだけが安堵のため息をつく仲間たちに背を向けたまま天を、いや天へと向かって今なお異常な速度で成長を続ける大樹の梢を見上げていた。

(違う)

彼は気づいていた。この木の急成長は蠅王を倒すためのものではない。これはこれから来るさらに巨大な何者かに対する「防衛」なのだと。

「まだ終わってない!」

フィルは戦勝を祝うよりも先に頭上を走る絹縛の糸を強くその手で引っ張った。合図。絹縛は即座に彼の身体を猛烈な速度で大樹の最も高い場所へと引き上げていく。

天を衝くほどに成長した大樹の頂。そこに立ったフィルがそして彼を追って空を見上げた仲間たちが目にしたものは。

地平線の彼方から空間そのものを歪ませながら迫り来る巨大な衝撃波。そしてその中心にいるあまりにも巨大な木の影。

ついに枯れ枝の竜がその姿を現した。


蠅王の最後の塵芥が風に攫われ戦場に一瞬の完全な静寂が落ちた。あまりにも長くそして激しい戦いの終わり。仲間たちは荒い呼吸を繰り返しながら、張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのようにその場に立ち尽くしていた。勝利。その甘美なはずの言葉の響きはしかし誰の心にもまだ届いてはいなかった。鼻をつくのは勝利の芳香などではない。燃え尽きた蟲の甲殻が放つ不快な異臭と撒き散らされた体液の酸っぱい腐臭だけが、広場を重く支配していた。

誰もが次に何をすべきか分からずにいた。そのあまりにも濃密な死の気配に満ちた静寂の中で、次の一歩を踏み出せずにいたその時だった。

地平線の彼方がぐにゃりと歪んだ。

音ではない。光でもない。空間そのものがまるで巨大なレンズで覗き込んだかのようにその輪郭を揺らめかせている。大地のその遥か奥深くからゴゴゴゴゴ…という身体の芯を直接揺さぶるような低く重い振動が伝わり始める。次の瞬間、その歪みの中心から凄まじい速度で全てを薙ぎ払う巨大な衝撃波が都市へと向かって殺到してきた。それはもはや自然現象などではない。明確なそして計り知れないほどの巨大な敵意そのものだった。

「──壁を!」

誰よりも早くその異変を察知したメルリウスが叫ぶ。彼はその手に持った杖を力強く大地へと突き立てた。彼の呼びかけに応え、地面から無数のそして巨大な木の根がまるで生き物のようにせり上がり絡み合い、瞬く間に都市の前面を覆う分厚い防衛壁を築き上げていく。

だがそれだけでは足りない。メルリウスが築いた壁の前にフィルとアロンソが同時に並び立った。二人は言葉を交わすことなくただ互いの呼吸だけでタイミングを合わせる。そして迫り来る衝撃波がメルリリウスの壁に到達するまさにその刹那。

二人は同時に大地を撃った。

アロンソの拳が空気を震わせ彼特有の「響き」を前方へと放つ。フィルの木刀が大樹の根と共鳴し生命そのものの巨大な「脈動」を撃ち出す。

二つの異なるしかし等しく強大な力がメルリリウスの壁の前で一つの巨大な「逆波動」となって、竜が放った衝撃波と正面から激突した。

耳をつんざくという表現すら生ぬるい絶対的な轟音。世界から全ての音が一度消え失せた。花の街はその三重の守りによってかろうじてその原型を留めていた。

だがその三人の守りの範囲外にいた王家の補充要員や海賊の残党たちは、その剥き出しの衝撃波の逃れようのない餌食となった。彼らは自らの鼓膜が破壊される音を聞くこともなくその身体を内側から完全に粉砕され、ただの動かぬ肉塊と化して大地に沈んでいった。戦場に残っていた全ての小さな命の気配がその一撃だけで完全に消え去った。

凄まじい衝撃波が過ぎ去り世界に再び音が戻ってきた。だがそれは静寂ではなかった。メルリウスが築いた半壊状態の壁の向こう側、地平線の彼方から何かがゆっくりとその姿を現し始めていた。

枯れ枝の竜。それは肉体を持つ生き物ではなかった。古の森がその全ての生命活動を終えミイラ化したその残骸。憎悪と悠久の時だけを糧として再び動き出した巨大な死の化身。そのあまりにも巨大な影が大地を覆い尽くしていく。その眼窩は虚ろな闇そのものであり覗き込むことすら魂を吸い取られるかのようだった。

そして竜はその顎を開いたのではない。その死の存在そのものに呼応し、花の街がその力の象-徴としていたあの大樹が甲高い悲鳴を上げたのだ。フィルの力に応え天を衝くほどにまで成長したその青々としていたはずの葉が、瞬く間にその水分を失っていく。緑は茶色へそして黒へ。命を失った葉はぱりぱりと音を立てて乾いた灰へと変じていった。

次の瞬間、枯れ枝の竜がその骨だけの翼を一度大きく羽ばたかせた。それは風を巻き起こすためのものではない。大樹から生まれたおびただしい量の「灰」を都市へと向かって送り込むための合図だった。

灰の風。それは黒い吹雪のようだった。だがその灰の一粒一粒はまるで残り火のように仄暗い赤い光を宿している。炎を含んだ死の風。その風が城壁の外に残っていた衝撃波によって絶命した敵軍の亡骸の上を通り過ぎていく。灰が亡骸に触れた瞬間、それはまるで油を注がれたかのように一斉に燃え上がった。

都市は今や自らを焼く巨大な炎の壁に三方から囲まれていた。メルリウスの築いた壁が直接的な灰の風を防いでいる。だがその壁を越えて凄まじい熱波が街全体を震わせていた。石畳が熱で軋む音がする。息を吸い込むたび肺が焼けるように痛かった。

都市全体を苛む絶望的な熱波。その元凶である枯れ枝の竜が次なる一手を繰り出す前に一人の少年が動いた。フィルだった。彼は枯れ果てていく大樹の頂からその身を迷いなく竜の巨体めがけて投じたのだ。

その手にはもはや原型を留めぬほどに植物のエネルギーで膨張し脈動する木刀が握られている。彼は落下する勢いの全てをその一点へと注ぎ込み、竜の巨大なしかしどこか脆い枯れ木の脚へと叩きつけた。

ゴォンという山が崩れるかのような鈍く重い破壊音。枯れ枝の竜はそのあまりにも強大な一撃に体勢を崩し巨体を大きく横倒しにさせた。大地が揺れ衝撃で都市の壁が軋む音がする。フィルは確かにこの神話的な化け物を一瞬地に伏せさせてみせたのだ。

だが竜はすぐにその枯れ木の四肢を大地に突き立て何事もなかったかのように立ち上がった。そしてその虚ろな眼窩を初めて明確な敵意をもってフィルへと向ける。

反撃は先ほどの熱波とは比較にならない。竜の全身からこれまで以上に濃密な炎を宿した灰の風が、ただ一人フィルだけを完全に消し去るため一点に集中された。

そのあまりにも致死的な灰の奔流からフィルを救ったのは絹縛だった。竜が反撃に移るコンマ数秒の隙間を縫って、絹縛はフィルの眼前に何重もの白銀の糸のネットを張り巡らせていたのだ。灰の風はその網に阻まれ勢いを殺される。その隙に絹縛は糸を巧みに操りフィルを安全な場所へと引き戻した。

だが竜の怒りの矛先はすぐさま次なる標的へと移っていた。地上でただ一人その圧倒的な存在感を示していたラヴェル。

「っ!」

ラヴェルは即座に盾を構える。だが竜が放った灰の風は彼女の盾が持つ衝撃を逃がすという特性すら許さない。それは絶え間なく続く絶対的な「圧力」。ラヴェルの身体は盾ごと いとも簡単に宙へと浮き上がり、そのまま灰の風に乗り遥か後方へと凄まじい速度で吹き飛ばされていく。彼女の姿は瞬く間に灰と煙の中に消え誰の視界からも完全に見えなくなってしまった。

しかしその絶望的な飛翔の中ラヴェルの意識はまだ途切れてはいなかった。彼女は吹き飛ばされながらもその手に握る盾の鎖を操作する。そして自らが吹き飛ばされている先、遥か彼方にある海の方向へとそのあまりにも重い大盾をアンカーとして投下したのだ。盾は鎖に引かれ海へと落ちる。自身はまだ風に流されたまま。だがいずれ盾が海底に突き刺さり鎖がその身を繋ぎ止める。彼女はその復帰の瞬間だけを静かに待ち続けていた。

ラヴェルが戦線から離脱し花の街は最大の盾を失った。フィルは絹縛の糸に救われながら自らの未熟な一撃が仲間を窮地に追い込んだことを痛いほどに理解していた。彼の脳裏に一つのあまりにも危険な作戦が浮かび上がる。

(このまま大樹をさらに成長させる…!)

彼は自らの力の全てを今や戦場そのものと化したこの巨大な樹木へと注ぎ込んだ。狙いは竜をその無限に成長する枝と蔓で完全に絡め取り圧殺すること。大樹が咆哮を上げる。フィルの意志に応え何百何千という巨大な木の蔓が枯れ枝の竜めがけて一斉に襲いかかった。

だが竜はそのあまりにも暴力的な生命の奔流を前に笑っているかのようだった。蔓が竜の枯れ木の身体に触れた瞬間、蔓は逆にその生命力を急速に吸い上げられていく。青々としていたはずの蔓は瞬時に竜と同じ黒く乾いた死の枝へと変貌してしまったのだ。

「馬鹿者!」地上からメルリウスの叱咤の声が響いた。「そいつはお前と同じ植物の理で動くものだ!力で押すな!植物ならば光合成を断て!空から地上へ引きずり下ろせ!」

その言葉にフィルは我に返った。そして地上ではアロンソが既に動いていた。二人の天才と怪物の意識が一つに重なる。

フィルは上空から竜の翼の付け根を撃つ。アロンソは地上から竜の足元を砕く。

天と地からの完璧な同時攻撃。その挟み撃ちにさすがの竜もその巨大な身体のバランスを崩し、凄まじい地響きと共に都市の建物と建物の間にその身を墜落させた。

そのあまりにも巨大な激突の余波で大樹が激しく揺れる。その危険な揺れから仲間たちを守ったのは絹縛だった。彼は瞬時に何本もの粘り気のあるしかし強靭な糸を城壁と大樹の間に張り巡らせ、リミナやフィナたち後方支援の仲間たちの身体をその糸で城壁へと優しくしかし確実に固定していく。

「離して…!フィルが!」フィナは糸の拘束から逃れ弟の元へ戻ろうともがく。だがその声に地上からフィルのこれまで聞いたこともないほどの鋭い拒絶の声が返ってきた。

「来るな!」

その一言がフィナの動きを完全に縫い付けた。その姉弟の痛ましいやり取りを見ていたリミナが動いた。彼女は自らの懐から一つの小さな灰の袋を取り出すとそれを絹縛へと託した。糸がその袋を受け取り矢のような速度で地上で竜と対峙するフィルの元へと届けられた。それは彼女が今できる唯一のそして最後の支援だった。

都市の狭間に叩き落とされた枯れ枝の竜。そのあまりにも巨大な脅威を前にメルリウスが一歩前に出た。

「──これ以上街を傷つけさせるわけにはいかんな」

彼はその杖を再び大地へと突き立てる。今度は破壊のためではない。「創造」のためだ。彼の呼びかけに応えこれまでただ無秩序に成長を続けていた大樹がその形を急速に変え始めた。幹はアフリカの平原にそびえるバオバブの木のようにありえないほどの太さへと膨張していく。根は大地を割りマングローブのように複雑にそして強固に絡み合い、この即席の戦場を外界から完全に隔離した。

枝は天を覆い絡み合い巨大なドームを形成する。その内部は光の届かない完全な闇に包まれた。

その闇の中心でフィルがリミナから託されたあの灰の袋を開いた。彼がその灰を空へと放った瞬間、灰はまるで満天の星々のように淡いしかし確かな光を放ち、この巨大な木のドームの内部を幻想的に照らし出した。

光の中に浮かび上がる四つの影。木刀を構えその力の全てを解放する準備を整えたフィル。杖を構えこの巨大な木の牢獄を維持し続けるメルリウス。その拳を固め竜のあらゆる物理的な攻撃を受け止める覚悟を決めたアロンソ。そして壁や天井から無数の単眼で虎視眈々とその好機をうかがう絹縛。

ついに選ばれし四人だけがこの大樹の内部で枯れ枝の竜と真正面から対峙する。都市の喧騒はもう聞こえない。ここから先は神話の領域。

花の街の総力戦は終わりを告げた。

そして選ばれし者たちによる絶望的な籠城戦が今まさに始まろうとしていた。


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