第七章-獅子の牙
決闘裁判の茶番が終わり、花の街が手にしたのは、勝利の栄光ではなかった。それは、より狡猾で、より巨大な敵意を向けられるという、新たな戦いの序章に過ぎなかった。王族が動く──その不穏な噂が、再建途上の街に冷たい影を落とし始める。そして、“その日”は、祝祭の喧騒を引き裂くように、唐突に訪れた。
広場に現れたのは、一体の戦士だった。だが、その姿は異様という他ない。全身を覆うのは、金属ではない。蜜猟の甲殻を継ぎ合わせた、鈍い光沢を放つ鎧。その継ぎ目からは、時折、青みがかった煙が周期的に漏れ出している。酸と毒。致死性の気体を内包した、歩く災害。その存在が、祝祭に浮かれていた観衆を恐怖の渦に突き落とした。
「下がれッ!」
フィルが叫ぶよりも早く、甲殻の戦士は動いた。狙いは観衆。腕を振り上げ、甲殻の一部を展開し、内部の毒袋から高圧の酸を噴射しようとする。
(まずい──!)
フィルは即座に判断した。あの甲殻を砕けば、衝撃で内部の毒袋が破裂する。酸と毒の破片が広範囲に飛散し、この場にいる者たちを無差別に殺戮するだろう。力でねじ伏せることは、最悪の結果しか生まない。彼は一瞬で攻撃を抑制し、動けずにいた。
その、誰もが死を覚悟した刹那。
鋼の音が響き渡り、観衆の前に、巨大な影が立ちはだかった。ラヴェルだった。彼女は、いつの間にか観衆を背に庇い、その身の丈ほどもある大盾を、大地に根を張るように構えていた。
「ここは、通さない」
その声に、甲殻の戦士はせせら笑うかのように、腕から酸を噴射する。だが、ラヴェルの反応はそれを上回っていた。
「展開」
短い命令と共に、盾から伸びたチェーンが地面を走り、盾本体が敵の眼前へと高速でスライドする。噴射された酸性液は、観衆に届くコンマ数秒前、その巨大な盾の表面に叩きつけられ、甲高い音を立てて蒸発した。ラヴェルの盾は、ただの防具ではない。守るべき対象との距離を、自在に支配する可動式の城壁だった。
「守りの象徴」は、ただそこに立つだけではなかった。ラヴェルは盾を構え直すと、自ら甲殻の戦士へと歩を進める。戦士が再び酸を噴射しようと体勢を低くした瞬間、ラヴェルは盾をモーニングスターのように横薙ぎに振り抜いた。狙いは甲殻の破壊ではない。打撃の衝撃で敵の体勢を崩し、その位置を強制的にずらす。噴射された毒霧は、狙いを外れ、誰もいない石畳を溶かしただけだった。
ラヴェルは、この戦士の危険性を、誰よりも正確に理解していた。虫型の毒袋は、強い衝撃や熱で活性化し、破裂する。殴り壊すのは、最悪の選択。だからこそ、彼女は「壊さず、封じる」戦いを選んでいた。それは、力ではなく、知識に裏打ちされた、ラヴェルだけの戦い方だった。
ラヴェルの戦術は徹底していた。甲殻の戦士が距離を詰め、その巨腕を振りかぶれば、彼女は盾を振り回してその体勢を的確に崩す。かと思えば、敵が毒や酸を広範囲に撒き散らそうと体勢を低くすれば、チェーンで射出した盾がその射線上に割り込み、完璧な壁となる。決して甲殻を破壊せず、しかし確実に敵の行動を支配する。その光景は、もはや戦闘というよりも、猛獣を調教する曲芸のようだった。
焦れた甲殻の戦士が、ついに防御を捨てた一撃を放つ。狙いはラヴェル本人ではなく、彼女の背後にいる観衆。回避すれば背後ががら空きになる、絶体絶命の状況。だが、ラヴェルは退かなかった。
「固定」
彼女は盾の先端を足元の石畳に突き立てる。次の瞬間、盾から伸びたチェーンが近くの街灯に巻き付き、ラヴェル自身の身体が宙へと引かれた。まるで振り子のように舞い上がった彼女は、酸の噴射を頭上ですり抜けると、そのまま街灯の上へと軽やかに着地する。盾をアンカーポイントとし、チェーンの張力を利用して立体的に移動する──それこそが彼女の真骨頂、「ターザン移動」だった。高所から戦場を見下ろす彼女の瞳は、冷静に敵の生態を分析していた。
ラヴェルの脳裏には、薬師として学んだ知識が冷静に浮かんでいた。 『虫型の毒袋や酸腺は、過度な衝撃や急激な温度変化によって、その活動を暴走させる』 下手に甲殻を破壊すれば、内部の毒袋が連鎖的に破裂し、この一帯は死の霧に包まれる。アロンソやフィルのような一点突破の破壊力は、この敵に対しては最悪の選択肢でしかない。だからこそ、彼女は「叩き割る」という選択肢を最初から捨てていた。彼女の戦いは、破壊ではなく「無力化」。毒や酸を発散させる前に、その機能そのものを封じ込める、極めて精密な外科手術にも似ていた。
高所を取られた甲殻の戦士が、苛立ち紛れにラヴェルの足場である街灯をなぎ倒そうと突進する。しかし、その直線的な動きこそ、ラヴェルが待ち望んでいたものだった。
街灯めがけて突進してきた甲殻の戦士に対し、ラヴェルは回避ではなく、迎撃を選んだ。街灯の上から身を躍らせ、落下する勢いをそのまま利用して、盾を構えたまま敵の正面に降り立つ。巨体が空気を裂き、ラヴェルという一点めがけて殺到する。
観衆が息をのんだ、その衝突の瞬間。甲高い金属音は響かなかった。代わりに、大地が軋むような鈍い音が鳴る。ラヴェルの盾は、敵の運動エネルギーを正面から受け止めながら、その表面を走る紋様に沿って衝撃を足元へと流しきっていた。石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走るが、ラヴェル自身は一歩も後退していない。毒袋を揺らさず、衝撃だけを殺す。それこそが、この盾に与えられた「衝撃分散」機能の真価だった。
だが、彼女の真の狙いは、突進を防ぐことではなかった。至近距離まで敵を引きつけ、その体勢が崩れた今この瞬間こそが、最大の好機。ラヴェルの脳裏には、この種の甲殻を持つ生物の、もう一つの、そして最大の弱点が浮かんでいた。
『複眼。光と熱を過剰に集積してしまう、その脆弱な感覚器官こそが、毒や酸を正確に散布するための生命線』 薬師である彼女は知っている。敵の脅威は毒そのものではなく、それを正確に狙い、散布する「機能」にある。ならば、その機能を司る目そのものを潰せばいい。
ラヴェルは盾を構え直す。その中央部が、機械仕掛けの虹彩のように静かに開いた。奥から現れたのは、磨き上げられた巨大な水晶レンズ。盾の内部機構がレンズの角度を調整し、周囲の光を一点へと収束させ始める。それは「ランタンシールド」と呼ばれる、彼女の盾が持つ、もう一つの顔だった。
次の瞬間、盾から放たれたのは、凝縮された太陽そのものだった。閃光が甲殻の戦士の複眼を焼き、甲高い悲鳴と、タンパク質が焼ける異臭が迸る。視界を奪われ、散布体勢を完全に崩した敵は、もはや脅威ではなかった。
怯んだ戦士の巨体を、ラヴェルは容赦なく大盾で叩き伏せる。地面に押し付け、甲殻の隙間に薬液を流し込み、毒袋と酸腺を内側から中和・凝固させていく。フィルの懸念であった「破片による二次被害」の可能性を、知識と技術で完璧に封じ込めた、鮮やかな勝利だった。
ランタンシールドの閃光を浴び、複眼を焼かれた甲殻の戦士は、もはや脅威ではなかった。完全に体勢を崩し、苦悶の声を上げるだけの的と化している。だが、ラヴェルは油断しない。彼女の目的は、この敵を殺すことではなく、その身に内包された「危険」を、一滴たりとも周囲に漏らさず、完全に無力化することだからだ。
ラヴェルは躊躇しない。彼女は、身の丈ほどもある大盾を頭上高く掲げると、自らの全体重を乗せ、閃光に怯む戦士の頭部へと、垂直に叩きつけた。
轟音。しかし、それは甲殻が砕ける音ではなかった。戦士が立っていた足元の石畳が、その一点に集中した質量に耐えきれず、粉々に砕け散る音だった。戦士の巨体は、まるで巨大な杭のように、自らが作ったクレーターの中へと沈み込んでいく。
だが、ラヴェルは攻撃を止めない。地面に半ば埋まり、身動きが取れなくなった敵の胴体、その中心…毒袋のある位置を正確に見定め、再び盾を振り下ろす。今度の一撃は、破壊のためではない。「圧殺」のためだ。
分厚い甲殻が、鈍い圧潰音を立てて内側へと陥没していく。毒や酸が外部に飛散することはなく、その全てが、砕かれた甲殻と大地という名の棺桶の中で、完全に封じ込められた。
フィルの懸念…甲殻の破片と毒による二次被害。 その最悪の未来を、ラヴェルは知識と技術、そして完璧な制御によって、完全に葬り去ったのだ。彼女は静かに盾を上げ、無力化された敵を見下ろした。その瞳に、感情の色はなかった。
ラヴェルが甲殻の戦士を完全に沈黙させたことで、広場には安堵のため息が漏れた。だが、それも束の間。主を失った戦士の残党たちが、蜘蛛の子を散らすように逃走を開始したのだ。このまま彼らを逃せば、街の戦力、そしてラヴェルの特異な戦闘スタイルという情報が、敵の手に渡ってしまう。
追撃を仕掛けようにも、敵は複数の方向に散開しており、全てを同時に相手にするのは不可能。観衆の間に、再び緊張が走った。
その時だった。
どこからともなく、低く、長く続く唸りのような音が響き渡った。それは耳で聞こえる音というより、足元の大地から直接、骨へと伝わってくるような、奇妙な振動だった。
観衆が目にしたのは、街のはるか向こう、残党たちが逃げ込んだ山の斜面が、まるで生き物のように蠢く光景だった。
爆発ではない。炎も煙も上がらない。 ただ、地面そのものが見えない力で叩かれ、その衝撃が波紋のように木々を揺らしていく。逃げ惑う兵士たちは、その足元から突き上げる衝撃に抗う術もなく、次々と大地に叩き伏せられていった。
街には、風ひとつ吹かなかった。轟音も、衝撃も、何一つ届かない。ただ、遠くの山だけが、静かに、そして完全に制圧されていく。
それは、アロンソが見せた「響き渡る一撃」の理を完全に理解し、己の規格外の力で再構築した、フィルの新たな戦い方。直接手を下さず、環境そのものを支配し、敵を無力化する。その光景は、恐ろしいというよりも、あまりにも神々しく、絶対的だった。街の誰一人を危険に晒すことなく、脅威の芽を摘み取る──それこそが、彼が導き出した「一番安全な」力の使い方だった。
戦いは、終わった。 広場には砕けた石畳と、大地に刻まれた衝撃の痕跡だけが残り、しかし、観衆に死者は一人も出ていない。毒も酸も、一滴たりとも街を汚すことはなかった。
人々が見たのは、二つの、あまりにも対照的な「守り」の形だった。 一人は、大盾を構え、その知識と技術で目前の脅威を完璧に封じ込めた「鉄壁の守護者」、ラヴェル。 もう一人は、その姿さえ見せず、遠く離れた山ごと敵を制圧した「規格外の力」、フィル。
それは、花の街が手にした、完璧すぎるほどの勝利だった。ラヴェルの『守る知恵』と、フィルの『制する力』。その二つが合わさった時、この街がいかに強固な存在であるかを、白日の下に証明してしまったのだ。
だが、その圧倒的な力が、何の代償もなしに得られるはずはなかった。 この完璧な勝利こそが、これまで街を静観していた王族に、本格的な介入を決意させる、新たな戦いの狼煙となることを、まだ誰も知らなかった。
ラヴェルの盾が沈黙し、フィルの巻き起こした衝撃の余波が大地に吸い込まれた時、広場を支配していた死の匂いは、ようやく風に攫われていった。安堵のため息が、一人、また一人と漏れ、やがてそれは、街の勝利を讃える、地鳴りのような歓声へと変わった。
花の街は、守られた。その、あまりにも鮮やかで、そして圧倒的な勝利の光景に、誰もが熱狂していた。
だが、その熱狂は長くは続かなかった。 歓声が途絶えた後に訪れた静寂の中で、人々は気づき始める。目の前の脅威は去った。しかし、だからこそ、誰もが同じ、より根源的な問いに行き着いていた。
「この街は、一体誰のものなのだ?」
力で街を支配しようとした者は、打ち砕かれた。だが、その規格外の「力」の存在が、この街を、大陸の勢力図における無視できない特異点として、否応なく浮かび上がらせてしまったのだ。観衆の視線は、もはや倒された敵の残骸には向けられていなかった。彼らは、互いの顔を、そして、この裁判を見届けに来た大陸の諸侯たちの、値踏みするような視線を見つめ返していた。
安堵は、瞬く間に新たな緊張へと姿を変える。物理的な戦いは終わった。だが、その勝利が、より複雑で、より厄介な、政治という名の新たな戦いの火蓋を切ってしまったことを、その場にいた誰もが、肌で感じ取っていた。
広場を支配していた緊張は、新たなる来訪者によって、その質を急激に変えた。観衆が、まるでモーゼの前の海のように左右に割れ、その中央を、一人の男が静かに歩を進めてくる。武装はしていない。その身を包むのは、王国最高位の文官のみが着用を許される、一分の隙もなく仕立てられた豪奢な礼服。その胸には、王家の紋章が金色に輝いていた。彼の両脇を固めるのは、決闘の場にいた傭兵たちとは明らかに違う、一糸乱れぬ動きを見せる王家の近衛兵だった。磨き上げられた純白の鎧は、この場の誰よりも、そして何よりも雄弁に、絶対的な権威の存在を示していた。
男は、フィナたちの前に立つと、芝居がかった仕草で周囲を見渡し、そして、心の底から感心したかのように、ゆっくりと頷いてみせた。
「見事な勝利であったな、花の街の者たちよ。無法な盗賊団を退けたその武勇、王家も大いに評価しておる」
その声は、蜜のように甘く、しかし、聞く者の肌を粟立たせるような、冷たい響きを帯びていた。フィナは、その偽りの賞賛に表情を変えることなく、ただ静かに相手の次の言葉を待つ。
「だが、その武勇も、度が過ぎれば『災い』となる。王家の許しなく、これほどの戦乱を引き起こし、大陸の諸侯の注目を集める。それは、王国の安寧を揺るがしかねん、極めて危険な行為だ」
男の口調が、徐々に本性を現し始める。彼は、フィナが口を挟む隙を与えず、一枚の羊皮紙を広げてみせた。
「よって、王家は決定した。この地の、これ以上の混乱を避けるため、花の街を、王家の直接的な庇護下に置く、と。貴殿らの『独立』という主張は、今この時をもって棄却される。速やかに武装を解除し、我らが王に服従せよ」
それは、あまりにも一方的で、そして横暴な宣告だった。街が勝ち取った勝利を、自分たちの功績であるかのように語り、その上で、全てを奪い去ろうというのだ。広場に、怒りと絶望のどよめきが広がる。
フィナは、それでも冷静さを失わない。
「お待ちください。我らが街は、先の条約に基づき、自治を認められたはず。そして、今回の決闘裁判においても、我らは正義を示しました。その上で、なぜ我らが服従せねばならぬのですか」
その、理路整然とした反論に、男は、初めて、その唇に、あからさまな嘲笑を浮かべた。
「法や正義が、我らの前で意味を成すとでも? よかろう、貴殿らが『力』で自らの正義を示したのであれば、こちらも『力』で、我らの正義を示してやろう」
男が、くい、と顎をしゃくった。その合図で、観衆の誰もが、その異変に気づいた。街を囲む丘陵、その稜線に沿って、陽光を反射する無数の光が現れていたのだ。それは、整然と隊列を組んだ、王国軍の槍の穂先。いつの間にか、街は、数千の軍勢によって、完全に包囲されていた。
「この街に通じる全ての街道は、今、我が軍の管理下にある。食料も、物資も、もはやこの街には届かん。貴殿らは、この地で、静かに干上がるのを待つしかないのだ」
軍事と経済。逃げ場のない完全な包囲網。その、あまりにも非情な宣告に、フィナの表情が、初めて、わずかにこわばる。
だが、王族の使者が用意した、最も残酷な一手は、まだ残されていた。
「そして…」と男は続ける。「王家への反逆を企てた、主犯格も、既に捕らえている」
彼の合図で、近衛兵が、一人の男を、広場の中心へと引きずり出してきた。その男の姿を認め、スレアが、息をのんだ。
「あなた…!」
男は、スレアの夫だった。彼は、抵抗した様子もなく、ただ、毅然とした態度で、妻を見つめ返している。 使者は、その男の肩を、侮蔑するように叩いた。
「この男、スレア殿の夫は、王家の資産を不当に隠匿し、反逆の資金源としていた疑いがある。彼の命、そして、この街の未来、その全ては、貴殿らの、賢明なる判断にかかっているのだぞ、フィナ殿」
スレアの夫を人質に取り、街の全てを、物理的にも、経済的にも、完全に封鎖する。花の街は、勝利の直後に、これまでで最も狡猾で、そして、抗う術のない、絶対的な「王手」を突きつけられたのだった。
王家の使者が突きつけた、あまりにも完璧な王手。軍事、経済、そして人質。花の街は、もはや抵抗する術もなく、ただ屈辱的な服従を受け入れるしかない。広場を支配したのは、武器の音すらしない、完全な沈黙という名の絶望だった。
だが、その絶望の中心に立つ人質、スレアの夫だけが、不思議なほど穏やかな表情を崩していなかった。彼は、自らの肩を押さえつける近衛兵の手をものともせず、嘲笑を浮かべる使者へと、静かに、しかしはっきりと問いかけた。
「反逆の資金源、でございますか。…して、その『隠匿された資産』とやらを、貴殿はもう見つけられたのですかな?」
その、あまりにも場違いな、挑発的ですらある問いに、使者は眉をひそめた。 「何を言っている。貴様の屋敷と財産は、既に我が騎士団が差し押さえている。今頃、隅々まで改められていることだろう」
「ほう、それはご苦労なことです」 夫は、まるで他人事のように、くつくつと喉の奥で笑った。 「ですが、おそらく、兵の皆様が見つけられたのは、もぬけの殻となった、ただの土地だけでございましょう。私の『屋敷』は、今、ここにはありませんので」
「…何だと?」
使者の、いぶかしむ声。夫は、その反応を楽しむかのように、ゆっくりと、その驚くべき仕掛けを暴露し始めた。
「ええ。先日から、家の『大規模な改修』を行っておりましてね。まずは基礎の強度を確かめるため、屋敷を支える巨大な丸太の骨組みを全て解体し、別の場所で検査しております。ああ、ご安心を。建材として、正式な許可を得て運搬しておりますので、何ら法には触れておりません」 彼は、言葉を続ける。その声には、絶対的な自信が満ちていた。 「壁や床板も同様です。害虫駆除と防火加工を施すため、専門の工房へと運び出しました。もちろん、これも正式な手続きを踏んでおります。つまり、今、騎士団の皆様が包囲しておられるのは、私の屋敷の『跡地』に過ぎないのです」
屋敷を、建材として合法的に解体し、運び出す。それは、軍隊という名の、巨大だが融通の利かない力では、決して追うことのできない、あまりにも奇抜で、そして完璧な資産隠しだった。使者の顔から、余裕の笑みが消え、怒りと焦りの色が浮かび上がる。
「ば、馬鹿な…! では、貴様の金や宝石はどうした! それも運び出したとでも言うのか!」
「いいえ、とんでもない」 夫は、心底愉快そうに首を振った。 「私のささやかな資産は、全て、長年仕えてくれたメイドや執事たちに、退職金の前払いとして、既に分配済みでございます。生涯にわたる雇用契約への、感謝の印ですな。まさか、王家ともあろう御方が、貧しい使用人たちの、雀の涙ほどの貯えまで奪い取ろうなどとは、なさらないでしょう?」
それは、法と、そして人の感情の隙間を突いた、完璧な一手だった。彼の知恵は、王族の強権的な略奪を、完全に無力化してみせたのだ。
自らの計画が、目の前の男の、たった一人の知恵によって、こうも鮮やかに打ち破られた。その事実に、王家の使者は、ついに理性の箍を失った。彼は、怒りに顔を歪ませ、その矛先を、この失態を招いたであろう、部下へと向けた。
「騎士団長ッ!!」
使者の怒号が、広場に響き渡る。彼は、軍勢を率いていた騎士団長を睨みつけ、その全ての責任を押し付けた。 「貴様、この地の監視を任せておきながら、屋敷が丸ごと消えるまで、何に気づかなかったのだ! この無能めが! …いや、まさか、貴様、反逆者と通じていたのではあるまいな!」
それは、あまりにも理不尽な責任転嫁。しかし、権力者の前では、理不尽こそが法となる。騎士団長は、血の気の引いた顔でその場に膝をついた。王家の近衛兵が、彼を取り押さえ、その剣を取り上げる。花の街を包囲していたはずの王国軍は、今や、自らの主君によって、その誇りと士気を、内側から破壊されようとしていた。
王家の使者の、理不尽極まりない責任転嫁。それは、花の街の者たちだけでなく、彼らが率いてきたはずの王国軍の兵士たちにも、深い動揺と絶望をもたらした。誇り高き騎士団長が、反逆者の汚名を着せられ、自らの部下によってその剣を奪われる。その光景は、彼らが信じてきた「忠誠」という概念そのものが、音を立てて崩れていく瞬間だった。
使者の声は、もはや何の感情も含まれていなかった。ただ、自らの権威を、そして、それに逆らうことの愚かさを、この場にいる全ての者に見せつけるための、冷たい響きだけがあった。
「騎士団長、貴様の失態は、王家への裏切りに等しい。よって、この場で、その首を以て、罪を償ってもらう」
即決の、そしてあまりにも無慈悲な処刑宣告。広場には、 間に合わせの処刑台として、砕かれた壁の瓦礫が積み上げられる。
空気は、凍りついていた。先ほどまでの怒号や嘲笑は消え失せ、ただ、死刑執行を前にした、不自然なほどの静寂だけが、広場を支配していた。処刑を命じられたのは、騎士団長の副官だった。彼の顔は青ざめ、その手にした戦斧は、彼の意思とは無関係に、カタカタと震えていた。
フィルも、ラヴェルも、ただそれを見ていることしかできない。この、政治という名の、あまりにも一方的な暴力の前では、彼らの持つ規格外の力ですら、あまりにも無力だった。
騎士団長は、最後まで、天を仰いだままだった。その瞳には、恐怖も、命乞いもなく、ただ、自らが忠誠を誓った王家への、深い、深い失望の色だけが浮かんでいた。
そして、振り下ろされる斧の刃が、夕日を浴びて、鈍く、赤黒い光を放った──。
夕日は、処刑台の斧にその最後の光を反射させ、不吉な赤色を広場に投げかけていた。王家の使者が命じた処刑執行の太鼓が、心臓を直接叩くかのように、重く、そしてゆっくりと鳴り響く。その音だけが、この場の唯一の法則だった。
観衆は息を殺し、花の街の仲間たちは唇を噛みしめる。騎士団長は、もはや何の抵抗も見せず、ただ静かに首を垂れていた。絶望が、空気そのものになって広場を支配していた。
副官が、震える手で戦斧を振り上げる。刃が、夕日を浴びて鈍く輝いた。 誰もが、次の瞬間に訪れるであろう、残酷な結末を覚悟した。
その、全ての音が消え失せたかのような静寂を、場違いなほど朗々とした声が、突如として破った。
「おお、やっているな!素晴らしい演説だ!」
声のした方へ、誰もが驚きに目を見開く。そこに立っていたのは、いつの間にか広場に姿を現していた、アロンソだった。彼は、これから始まる処刑を、どこかの騎士団が出陣前に行う「士気向上のための演説会」か何かだと、盛大に勘違いしていた。その顔は、感動と賞賛に満ちており、真剣そのものだった。
彼は、処刑台へ向かって、惜しみない拍手を送りながら、堂々と歩を進めていく。
「いやはや、実に見事な演出だ!あの首を垂れた騎士団長殿の演技、絶望と覚悟が入り混じった、実に真に迫るものがある!我が主君も、これほどの舞台は、そうそうお目にかかれまい!」
アロンソの、あまりにも場違いな賞賛の声に、広場の全ての人間が、時が止まったかのように硬直した。王家の使者は眉をひそめ、処刑を命じられた副官は、振り上げた斧をそのままに、呆然とアロンソを見つめている。
その異様な空気を、アロンソは「観衆が感動で声も出せないでいる」のだと、実にポジティブに解釈した。彼は満足げに頷くと、処刑を止めようとする近衛兵の制止を、まるで舞台の進行を妨げる野暮な観客をいさめるかのように、軽く手で制した。
「まあ待て、兵士殿。演者の集中を乱してはいけない。クライマックスなのだろう?」
「く、来るな!これは演説などではない!神聖なる処刑の儀であ…」
近衛兵が何かを言い終える前に、アロンソは、その兵士の肩を、親しげに、しかし、人間離れした力で掴んだ。 「分かっておる、分かっておる。役に入り込んでいるのだな!見事な忠誠心だ!」
次の瞬間、アロンソは、その兵士の身体を、まるで邪魔な小枝でも払うかのように、軽く横へと放り投げた。兵士の身体は、紙くずのように宙を舞い、他の近衛兵たちを巻き込んで、派手な音を立てて転がっていく。
広場が、今度こそ完全な沈黙に包まれる中、アロンソは、一人、腕を組んで感心したように首を捻った。
「うむ、迫力は満点だが、少々やりすぎではないか?あの兵士、受け身の訓練はしているのだろうな?演出にしては迫真すぎるな!」
その言葉が、引き金だった。王家の使者が、怒りに顔を真っ赤にして叫ぶ。
「な、何をしている貴様!者ども、かかれ!あの狂人を捕らえよ!」
近衛兵たちが、一斉にアロンソへと殺到する。しかし、彼らの剣がアロンソに届くことはなかった。アロンソは、向かってくる兵士たちを、次々と、あるいは掴んで投げ、あるいは軽く蹴り飛ばし、面白いように無力化していく。その全ての動きに、殺意や敵意はない。ただ、熱心な観客として、「舞台」に近づこうとするのを邪魔する者たちを、効率的に排除しているだけだった。
花の街の誰もが、そして王家の軍勢すらも、目の前で繰り広げられる、あまりにもシュールで、あまりにも圧倒的な光景に、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。アロンソという、たった一人の、規格外の「勘違い」が、絶望に満ちた処刑台を、混乱と笑いの渦巻く、前代未聞の舞台へと、完全に作り変えてしまったのだ。
兵士たちの海を、まるで頑丈な船のように突き進み、アロンソはついに処刑台へとたどり着いた。彼は、斧を振り上げたまま硬直している副官の肩を軽く叩き、感心したように言った。
「素晴らしい気迫だ、副官殿。だが、もう良い。見事な舞台であった。さあ、主役を解放してやろうではないか」
そう言うと、アロンソは騎士団長を縛り付けていた縄に、こともなげに指をかけた。鋼のように太いその縄は、彼の手にかかると、まるで乾いたパンを引き千切るかのように、いとも簡単に、ぷつりぷつりと断ち切られてしまった。
解放された騎士団長は、何が起こったのか理解できず、ただ呆然とアロンソを見上げている。その、あまりにも現実離れした光景に、王家の使者は、ついに金切り声を上げた。 「き、貴様、何をぉぉっ!総員かかれ!もはや殺してしまえ!」
正気を取り戻した近衛兵たちが、今度こそ本気の殺意を込めて、一斉にアロンソへと斬りかかる。アロンソは、その切っ先を、走ることもなく、その場で平然と捌き始めた。彼は、まだこれが芝居であるという前提を崩しておらず、剣を抜くのは「演者に失礼だ」と思っていた。
だが、拳で剣を受けた際、そのガントレットに伝わってくる衝撃は、あまりにも生々しく、重かった。
(む…?この小道具、妙に本格的だな…)
アロンソの眉が、わずかにひそめられる。兵士たちの表情、その瞳に宿る殺意、流れ落ちる汗。どれもが、演技とは思えぬほどの迫真性を持っていた。
(まさかとは思うが…これは、本物の処刑だったのか…?)
その思考が、彼の脳裏をよぎった瞬間。アロンソの中で、何かが、ぷつりと切れた。 しかし、それは、自らの勘違いを恥じる感情ではなかった。逆だった。
(──無礼な!)
彼の心に燃え上がったのは、純粋な怒りだった。
(この俺に、これが本物の処刑かもしれないと、一瞬でも妄想させるなど!観客に対する、なんという無礼!なんという侮辱だ!)
彼は、自らの勘違いを棚に上げ、この「迫真すぎる演出」が、自分という観客を愚弄しているのだと、本気で憤慨したのだ。
「よかろう…!」 アロンソの声には、それまでの感嘆の色は消え、地を這うような怒りが宿っていた。 「貴様らが、そこまで『本物』にこだわるというのなら!この俺もまた、『本物』の批評を以て、その無礼に応えてやろうではないか!」
一人の騎士が、渾身の力で突き込んできた剣を、アロンソは片手で鷲掴みにする。そして、その騎士の鎧を掴むと、まるで人形でも投げるかのように、軽々と持ち上げた。
「これが、俺の批評だッ!!」
声と共に、騎士の身体が、ありえない速度で宙を舞い、広場の脇にある石造りの建物へと、一直線に叩きつけられた。轟音と共に、壁が蜘蛛の巣状に砕け散り、騎士は、その分厚い鎧ごと、壁の中へと、完全に埋め込まれてしまった。
フィルも、ラヴェルも、そしてフィナも。誰もが、その光景を前に、ようやく、この男の本質を理解した。 彼は、敵でも、味方でもない。 ただ、自らの信じる「礼儀」と「勘違い」だけで動く、天災のような存在なのだと。そして、その天災が、今、結果として、自分たちを救おうとしているのだという、あまりにも数奇な現実を、ただ、受け入れるしかなかった。
アロンソが「批評」と称して近衛兵を壁に埋め込んでみせたことで、戦場はもはや誰にもコントロールできない混沌の渦へと叩き込まれた。その混乱の最中、解放された騎士団長が、おぼつかない足取りでアロンソの前へと進み出た。彼は、深々と、そして心の底からの敬意を込めて、頭を下げた。
「…名も知らぬ、騎士殿。貴殿が何者かは存じぬ。だが、この命、確かに貴殿に救われた。この御恩は、生涯忘れぬ」
その、あまりにも真に迫った感謝の言葉に、アロンソは、初めて、その怒りに満ちた表情を崩した。彼の脳裏で、ようやく、点と点が繋がり始める。処刑台の異様な静けさ、兵士たちの本気の殺意、そして、この騎士団長の、演技とは思えぬほどの真摯な瞳。
「…まて」 アロンソの声が、かすかに震えた。 「まさかとは思うが…これは、本当に…その…処刑だったのか…?」
「いかにも」 騎士団長は、力強く頷いた。「我々は、あの使者の理不尽な命令により、誇りを踏みにじられ、命を奪われようとしていた。貴殿は、我々騎士団の名誉と命、その両方を救ってくださったのだ」
アロンソの顔から、血の気が引いていくのが、誰の目にも明らかだった。 芝居だと思っていたら、本物の処刑だった。 悪役だと思っていたら、王家の正規の使者だった。 小道具だと思っていたら、本物の騎士団だった。 そして、自分は、その全てを、勘違いで、叩きのめしてしまった。
アロンソの思考は、かつてないほどの速度で回転していた。
彼の額に、滝のような汗が流れる。先ほどまでの威風堂々とした態度は消え失せ、彼は、そそくさと、しかし誰にも気づかれぬように、広場の出口へと視線を走らせ始めた。
だが、その脱出計画は、騎士団長の、次なる一声によって、無残にも打ち砕かれた。
死の淵から生還した騎士団長は、自らの部下たちへと向き直り、その剣を天に突き上げ、雷鳴のような声で叫んだ。 「聞け、我が騎士たちよ!我らが忠誠を誓うべきは、私利私欲のために、我らを使い捨てるような腐敗した権力ではない!真の騎士道を示し、我らを救ってくださった、この偉大なる騎士殿にこそある!」
その言葉に呼応するように、処刑をためらっていた副官を始め、騎士団の兵士たちが、次々と雄叫びを上げた。彼らの士気は、死の絶望から、生への感謝へと反転し、爆発的な熱狂となっていた。
「我らは、もはや王家の犬ではない!この騎士殿と共に、この花の街のために戦う!」
数十名の、熟練した騎士たちが、一斉にアロンソへと向き直り、その場で膝をつく。彼らは、花の街の新たな戦力として、王家への完全な反逆を誓ったのだ。
その、あまりにも劇的な展開の中心で、アロンソは、ただ一人、立ち尽くしていた。彼は、逃げ道が、完全に断たれたことを悟った。ただの観客のつもりだったのに、いつの間にか、反乱軍の、輝ける救世主に祭り上げられてしまっていたのだから。…だからこそ、主は彼を認めたのだろう。
王家の使者は、血を吐くような形相でアロンソと、反旗を翻した騎士団を睨みつけた。彼は、もはや自らの敗北を悟ったのだろう。残った僅かな近衛兵に守られながら、捨て台詞を吐き捨てていく。
「…覚えておれ、田舎者ども。王家に牙を剥いた罪、その身を以て償わせてくれるわ…!この程度で、勝ったと思うな!」
使者が去った後、広場には、勝利を喜ぶ騎士たちの雄叫びと、安堵のため息を漏らす市民の声が入り混じっていた。花の街の戦力は、この一連の騒動によって、皮肉にも、熟練した数十名の騎士団という、望外の拡充を遂げたのだ。
だが、その高揚感は、すぐに、冷たい現実の重みに取って代わられる。これで、我々は、完全に王家を敵に回した。次に訪れるのは、今日のような使者ではない。全てを蹂躙するための、本物の軍隊だ。広場には、再び、重い緊張感が漂い始めていた。
フィナは、去っていく使者の背中を見送りながら、一つの違和感に気づいていた。 (あまりにも、あっさりと引き下がりすぎた…。まるで、この『反乱』すらも、誰かの描いた筋書きの一部であるかのように…)
彼女の視線の先、雑踏に紛れて、一人の、見覚えのない商人が、使者と同じ方角へと、静かに姿を消していく。 花の街が手にした、あまりにも劇的な勝利。その裏で、まだ誰も気づかぬ、真の黒幕の駒が、静かに、次の盤面へと進められていた。
その夜、街は、まるで嵐の後のように、深く、静かな眠りに落ちていた。日中の歓声も、怒号も、剣の音も、今はもう遠い。そんな真夜中、リミナの部屋の扉が、ことり、と控えめにノックされた。彼女が眠い目をこすりながら扉を開けると、そこには、案の定、寝間着姿のフィルが、少し気まずそうに、しかし期待に満ちた瞳で立っていた。
「…リミナさん」 その手には、彼女のためであろう、一枚の、少し大きめの上着が握られていた。
「もう、フィル君。またこの時間なの?」
リミナは、大きなあくびを噛み殺しながらも、その声には呆れよりも、どうしようもない愛情が滲んでいた。これは、もう何度目かになる、二人だけの秘密の習慣だった。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街を、ただ二人で歩く。
「昼間は、少し、うるさすぎたから。静かな時間に、花の匂いを嗅ぎながら、リミナさんと話がしたくて」
フィルは、少しだけ頬を赤らめながら、言い訳のようにそう呟く。リミナはその小さな見栄が可愛らしくて、くすりと笑いながら、彼が差し出す上着に袖を通した。そして、差し出された小さな手を、ごく自然に握る。フィルが、その繋がれた手に、わずかに力を込めるのを感じた。
(本当に、いい子よねぇ…)
リミナにとって、この夜の散歩は、年の離れた弟との、愛おしい時間のようなものだった。しかし、フィルがこの時間に込める、プラトニックで、しかし真剣な想いには、気づかないふりをしていた。彼にとって、これは紛れもないデートなのだ。
二人は、言葉少なに、月明かりだけが照らす石畳を歩く。時折吹く夜風が、花畑から優しい香りを運んでくる。
「ねえ、フィル君」 リミナが、空を指差す。
「あの、ひときわ大きく光ってる星、なんていう名前?」
「…分かりません」フィルは正直に答え、そして、少しだけ得意げに続けた。「でも、あの星が一番強く光る夜は、月下香が、一年で一番、甘い匂いを出すんです。…リミナさんの髪の匂いと、少しだけ、似てる気がします」
精一杯の口説き文句。その健気さに、リミナの胸がきゅっと締め付けられる。彼女は、繋いだ手を少しだけ強く握り返し、彼の頭を優しく撫でた。
「そう。じゃあ、今夜は特別な夜なのね」
恋愛として見ているわけではない。けれど、この純粋な好意は、今の彼女にとって、何よりも心を温めてくれる、かけがえのないものだった。この街にとって、「花」が戦いの道具である前に、かけがえのない「日常」であるように。二人は、ただ、その安らぎと、甘酸っぱい勘違いの中に、束の間、身を委ねていた。
夜が明け、街は、まるで熱に浮かされた後のような、奇妙な活気に包まれていた。騎士団長の処刑を阻止し、王家の使者を追い返したという昨日の出来事は、瞬く間に街中に広まっていた。市場の路地裏では、商人たちが瓦礫を片付けながら、興奮冷めやらぬといった様子で声を潜め合っている。
「見たか、あのアロンソとかいう騎士様を!とんでもない豪傑だったな!」 「ああ、我々は救われたんだ…。だが…」
安堵の言葉のすぐ後には、必ず、不安の影が差し込む。
「王族の兵は退いたが、これで終わりなはずがない。次は、本物の軍隊が来るんじゃないか…」
その、希望と不安が入り混じる街の喧騒を、ラヴェルとフィルは、城壁の上から、ただ静かに見下ろしていた。ラヴェルは、激戦で傷ついた大盾を、手入れ用の布で黙々と磨いている。
「…守り切った。だが」 彼女は、街の平和な光景から目を離さぬまま、ぽつりと呟いた。 「次は、もっと大きな波が来る」
その言葉は、悲観ではない。ただ、守る者として、あまりにも当然の現実を口にしただけだった。彼女の視線は、常に次の脅威へと向けられている。
隣で、フィルは、昨日アロンソが退けた軍勢がいたであろう、遥か彼方の地平線を見つめていた。その手は、腰に差した木刀の柄に、触れてすらいない。
「うん。…でも、剣はまだ抜かない」
ラヴェルの言葉に対する、フィルの静かな返答。それは、二人のスタンスの違いを、何よりも明確に示していた。 脅威が来るのなら、受けて立つ準備を怠らない「盾」としてのラヴェル。 街が本当に滅びる、その最後の瞬間まで、切り札を抜くべきではないと自制する「剣」としてのフィル。
束の間の平和の中で、二人の守護者は、それぞれが背負うものの重さを、改めて噛み締めていた。
その、張り詰めた静寂は、昼前になって、再び甲高いファンファーレの音によって破られた。昨日、アロンソによって追い返されたはずの王家の使者が、今度は一切の兵を連れず、ただ一人、街の正門に再び姿を現したのだ。しかし、その顔に、昨日のような屈辱の色はない。あるのは、全てを諦めさせ、有無を言わせぬための、冷え切った最終宣告の響きだけだった。
彼は、集まってきた観衆と、フィナたち街の代表を前に、一枚の勅書を広げた。
「──聞け。王家は、もはや貴殿らの下らぬ独立ごっこにも、騎士団の愚かな反乱にも興味はない」
使者は、一度言葉を切り、その場にいる全ての人間を、蔑むような目で見渡した。
「我らが要求は、ただ一つ。この街に咲く『花』、その全てを、王家の管理下に差し出すこと。ただ、それだけだ」
その言葉に、広場が、どよめきに包まれる。花を?なぜ? 使者は、その疑問に答えるかのように、嘲笑を浮かべた。
「とぼけるな。その花が、ただの観賞用の植物でないことなど、我々はとうに突き止めている。お前たちの異常な戦闘力、あの忌々しい騎士の怪力、その全ての源は、この地に咲く特殊な花にあるのだろう?」
観衆が、驚愕に目を見開く。花の街の住人にとって、花は生活であり、文化であり、時に薬や食料となる、かけがえのない日常の一部だった。だが、それが「力の源」であり、「戦略資源」であるなどと、考えたこともなかった。
「花の栽培権と、その全ての収穫物を、即刻、王家へと譲渡せよ。さすれば、これまでの反逆の罪は、不問としてやろう」
それは、慈悲などではない。街の魂を、根こそぎ奪い去ろうという、あまりにも残酷な宣告。花の街の本当の価値が白日の下に晒されたその瞬間、彼らは、自分たちが、王家が決して手放すことのない、あまりにも危険な宝の上に暮らしていたのだという事実を、初めて、痛いほどに理解したのだった。
王家の使者が突きつけた、魂を奪い去るかのような要求。その、あまりにも残酷な宣告に、街が静まり返っていた、まさにその時だった。
ドドドドド…!
突如として、街の外の街道から、大地が揺れるほどの、凄まじい地響きと怒号が迫ってきた。それは、何百本もの丸太が地面を削り、巨大な何かが猛スピードで突進してくる音。誰もが、何事かとそちらに視線を向けた。
そこには、正気の沙汰とは思えない光景が広がっていた。巨大な屋敷が、その土台ごと、丸太の上に乗せられ、猛然とこちらへ向かって暴走してきていたのだ。屋敷のバルコニーでは、埃まみれのスレアの夫が、必死の形相で叫んでいる。
「どけえええええ!止まらーーーーん!!」
彼は、王家の差し押さえから逃れるため、文字通り、屋敷ごと逃亡してきたのだ。しかし、その必死の逃走劇は、勢い余って、王家の使者が立つ広場の入り口へと、一直線に突っ込んでこようとしていた。
使者は、目の前に巨大な屋敷が迫ってくるという、現実離れした光景に、一瞬、思考が停止する。そして、我に返った時には、全てが遅かった。
「ひぃっ!?」
使者は、威厳も何もなく、地面を転がるようにして、屋敷の突進を辛うじて回避した。彼のいた場所を、巨大な屋敷が、轟音と共に通り過ぎ、街の城壁に激突して、ようやく停止する。
その、あまりにもシュールな光景に、広場が静まり返る中、一人、快活な声が響き渡った。声の主は、ジアだった。彼女は、埃まみれになって腰を抜かしている使者を見下ろし、にっこりと、しかし目の奥は一切笑っていない笑顔を向けた。
「いやー、びっくりした! スレアの旦那様、あんな可愛い奥さんを守るためなら、お屋敷ごと突っ込んでくるなんて、情熱的ねぇ! 使者様も、人の旦那にちょっかい出すと、痛い目見るって勉強になったんじゃない?」 (※スレアは、小柄なフィルよりもさらに小さい、街で最も華奢な少女だった)
屋敷から、よろよろと降りてきたスレアの夫は、腰を抜かしている使者を見ると、わざとらしく目を丸くして駆け寄った。 「これは使者殿!ご無事でしたか!いやはや、申し訳ない!どうにもこの丸太、言うことを聞かなくて!」
その白々しい言い訳に、屈辱と怒りで顔を真っ赤にした使者は、震える声で、最後通牒を突きつけた。
「…き、貴様ら…!もうよい!その花を、今すぐ全て差し出せ!さもなくば、その忌々しいガラクタごと、この街を焼き尽くすまでだ!」
王家の使者が放った、街ごと焼き尽くすという最終宣告。その言葉を合図に、残っていた近衛兵たちが、一斉に剣を抜いた。もはや交渉の余地はない。だが、その切っ先が市民に向けられるよりも早く、一体の影が、音もなく使者の背後に立っていた。フィルだった。
「…あなたも、うるさい」
その、静かな呟きと同時に、フィルの腕が動いた。彼は、何の感慨もなく使者の身体を軽々と掴み上げると、まるで円盤でも投げるかのように、その場で数度、高速で回転した。
次の瞬間、使者の身体は、凄まじい遠心力と共に、空の彼方へと放り投げられていた。
悲鳴すら置き去りにする速度で、使者の姿はみるみる小さくなっていく。やがて、昼間の青空に、まるで一番星が生まれたかのように、キラリ、と小さく光り、そして、完全に視界から消え失せた。
その、あまりにも現実離れした「処理」の光景に、近衛兵も、観衆も、そして仲間たちですら、完全に言葉を失っていた。フィルは、その凍りついたような沈黙を気にする様子もなく、一人、思考の海へと深く沈んでいく。
(おかしい…)
あの使者の口ぶり。それは、ただの王族の傲慢さや、花への欲望だけでは説明がつかない、奇妙な「焦り」に満ちていた。まるで、誰かに、あるいは「何か」に、背後から突き動かされているかのような。
(王家は、騎士団という戦力を失った。にもかかわらず、あれほど強気だった。それは、代わりとなる戦力を、既に確保しているからだ…)
フィルの脳裏に、この街を狙う、様々な勢力の顔が浮かぶ。山賊、海賊、傭兵団。
(彼らを、金で雇うつもりか…?いや、それだけじゃない。この街に向けられているのは、王家の敵意だけじゃないんだ。もっと多くの、様々な場所からの、無数の敵意が、この街という一点に集まってきている…)
その思考に至った瞬間、街の空気が、ふと、重くなった気がした。風が止み、花の香りが、まるで息苦しい瘴気のように、ねっとりと肌に絡みつく。観衆も、理由の分からぬまま、胸のざわめきを覚えていた。
それは、単一の黒幕がいるというような、分かりやすい話ではない。この街が持つ「力」が、大陸中の、眠っていた欲望や嫉妬、そして敵意を呼び覚まし、それらが、一つの巨大な「圧力」となって、今、この街を、内側から押し潰そうとしている。フィルは、その、見えざる敵の正体に、静かに気づき始めていた。
フィルの脳裏には、大陸中の敵意がこの街に集まってくるという、漠然とした、しかし確かな重圧が渦巻いていた。彼は、その正体を見極めようと、街の経済と情報を握るジアの元を訪れた。
「…王家は、必ず報復に来る。騎士団を失った穴を埋めるために、他の勢力を雇うはずだ」
フィルの言葉に、ジアは、帳簿から顔を上げると、まるで意外なことを言われたかのように、軽く肩をすくめた。
「それはないわね。だって、今の王家に、新しく騎士を雇う余裕なんてないもの」 彼女は、こともなげに続ける。 「今回離反した騎士団って、ただの武力集団じゃないのよ。独自の資産運用で、銀行みたいなことまでやってた連中なの。彼らが王家についていたのは、忠誠心というより、ある種の『善意』。その、軍事と経済の両方を支えていた柱が、丸ごとなくなったのよ。今の王家は火の車。だから、余裕ぶっこいて傭兵を雇うんじゃなくて、喉から手が出るほど、この街の花が欲しいの。…つまり、経営がピンチってだけだと思うわ」
ジアの、あまりにも現実的な分析。それは、フィルの感じていた、巨大で不気味な「圧力」とは、少し質の違うものだった。だが、どちらも真実なのだろう。弱く、追い詰められた者が見せるなりふり構わぬ欲望が、大陸中の他の悪意を引き寄せ、増幅させている。敵は、強いだけではない。弱く、そして、飢えているのだ。
その夜、フィルは一人、自室で、壁に立てかけた木刀と向き合っていた。ジアの言葉によって、敵の姿はより明確になった。だが、だからこそ、迷いが生まれる。
不意に、背後から、二つの気配が現れた。メルリウスと、ラヴェルだった。彼らは、何も言わず、ただ、フィルの見つめる木刀へと、静かな視線を向ける。
やがて、メルリウスが、諭すように言った。 「…その剣は、まだ抜くべきではない。お前自身が、その力の本当の意味を知らぬうちはな」
ラヴェルもまた、静かに、しかし強い意志を込めて、言葉を継いだ。 「抜けば、どうなるか、誰にも分からない。あなたも、この街も」
二人の警告。それは、フィルの力を恐れてのものではない。その力が、一度振るわれれば、もはや誰にも止められない、世界の理すら書き換えかねない、あまりにも異質なものであることを、彼らは知っていたからだ。
フィルは、答えなかった。ただ、ゆっくりと、その木刀の柄へと、手を伸ばす。
指先が、柄に触れた、その瞬間。
街全体の植物が、まるで悲鳴を上げるかのように、一斉に、ざわめいた。夜風もないのに、花弁が舞い、葉が擦れ合い、蔦が、きりきりと軋む音を立てる。
それは、あまりにも明確な、来るべき嵐の「予兆」。フィルの内に眠る力が、街そのものと共鳴し、その覚醒の瞬間を、告げていた。
フィルが、木刀の柄に指先を触れさせた、その瞬間だった。
街が、悲鳴を上げた。
夜風もないのに、城壁を覆う蔦がきりきりと軋み、花畑の花々は、まるで恐怖に身を震わせるかのように、一斉にその花弁を散らせた。地中深くに張り巡らされた植物の根が、石畳の下で、都市の土台そのものを締め上げる。
それは、物理的な現象ではなかった。街に満ちていた花の香りが、まるで鉛のように重く、そして冷たいものへと変質していく。空気が、粘り気を帯びた。誰もが、まるで肺を直接掴まれたかのように、呼吸が浅くなるのを感じた。酸素が、この空間から奪われていく。
広場に残っていた王家の騎士たちも、その、あまりにも異様な現象に動揺を隠せない。その中の一人が、恐怖に引きつった声で叫んだ。
「な…なんだこれは…!人間の意志ではない!何かが、この街そのものに、干渉している…!」
メルリウスとラヴェルは、その全ての元凶が、木刀に触れたまま動かないフィルであることを、痛いほどに理解していた。彼の力が、街と共鳴し、眠っていた何かを、呼び覚ましてしまったのだ。
ゴッ…!という、鈍い音と共に、都市の中央広場の石畳が、巨大な根に内側から押し上げられるかのように、大きく裂けた。その亀裂から、おびただしい数の羽音が、まるで地獄の釜が開いたかのように響き始める。
「…まずいな」 メルリウスが、苦々しく呟いた。 「守る、守る、と…その意識が、この街の一点にあまりにも偏りすぎた。フィルの力が引き金となり、都市そのものが、自らの内に溜め込んだ負の感情に応える『異物』を、外から呼び寄せてしまったわ」
その言葉を証明するかのように、裂け目から、甘い花の香りに混じって、全てを腐らせるかのような、強烈な腐臭が漂い始めた。観衆が、その異臭に顔をしかめ、恐慌をきたす。ラヴェルは、即座に大盾を掲げ、市民を庇うようにして、亀裂との間に立ちはだかった。
次の瞬間、亀裂から、黒い噴水のように、無数の蠅が、一斉に噴出した。それは、もはや虫の群れというよりも、蠢く黒い濁流となって広場を覆い尽くしていく。
無数の蠅が、黒い濁流となって広場を覆い尽くす。しかし、それはただの群れではなかった。一匹一匹は弱く、アロンソの元に集った騎士たちが剣を振るえば、容易く両断できる。だが、その数は無限だった。斬っても、踏み潰しても、その死骸から新たな蛆虫が這い出し、瞬く間に成虫となって、再び群れへと加わっていく。
「キリがないぞ!」 騎士の一人が叫ぶ。その言葉通り、戦いは、終わりなき消耗戦の様相を呈し始めていた。
そして、本当の絶望は、その群れの中心で、ゆっくりと形を成し始めていた。 蠅たちが噴出していた地面の亀裂が、さらに大きく広がり、その縁が、まるで強酸に触れたかのように、ぶくぶくと泡を立てて溶け始める。強烈な腐臭と、全てを支配するような、重く、不快な羽音が、その穴の奥から響き渡っていた。
ズズ…と、地を擦る音と共に、亀裂から、巨大な何かが、その姿を現し始める。 最初に現れたのは、濡れた黒曜石のように、ぬらりとした光沢を放つ巨大な甲殻。その表面からは、常に、白い蛆虫が、まるで汗のように次々と生まれ落ち、自らが溶かした酸の沼の中で、蠢いている。
やがて、その全身が、大地から完全に姿を現した。 聖書に記された「腐敗と汚染の王」、蠅王ベルゼブブ。その顕現だった。
血を吸うための、鋭利な口吻。ボロ布のように裂け、腐敗した無数の翅。そして、その全身に、まるで呪いのように浮かび上がっている、無数の複眼。その一つ一つが、人間の顔を模しており、絶望する者、嘲笑する者、憎悪に歪む者…あらゆる負の感情を浮かべ、この街の全てを、見つめていた。
蠅王が、その腐敗した翅を、一度、大きく羽ばたかせた。 瞬間、腐臭を孕んだ暴風が広場を吹き抜け、触れた石畳は黒く変色し、近くの建物の木材は、まるで数百年が経過したかのように、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
「化け物が…!」
騎士団長が、その絶望的な光景に、怒りの雄叫びを上げて突進する。彼の渾身の一撃が、蠅王の胴体へと叩き込まれた。しかし、響いたのは、金属音ではなく、硬い泥を殴ったかのような、鈍い音だけだった。彼の剣は、甲殻に傷一つ付けることなく、逆に、その衝撃で弾き返されてしまう。
蠅王は、その人間の顔を模した無数の目で、無力な騎士団長を見下ろし、そして、一斉に、嘲笑した。 ただそこに存在するだけで、世界を腐敗させていく。あまりにも強大で、そして、あまりにも冒涜的な王が、今、花の街の眼前に、確かに、立ちはだかっていた。
騎士団長の一撃を容易く弾き返した蠅王は、まるで人間たちの抵抗が些末なことだと言わんばかりに、その顎をゆっくりと開いた。口吻から吐き出されたのは、黒く粘り気のある腐敗液。それは放物線を描いて花畑の一角へと着弾すると、美しい花々を、瞬時に、黒いヘドロのような餌へと変質させてしまった。汚染し、自らの糧とする。その光景は、この王が、生命そのものを冒涜する存在であることを示していた。
さらに、蠅王の羽音が、その周波数を変える。甲高く、脳髄に直接響くようなその振動に呼応し、それまで無秩序に飛び回っていた無数の蠅たちが、まるで訓練された軍隊のように、一糸乱れぬ陣形を組み始めたのだ。周囲の小虫を支配し、意のままに操る。蠅王は、ただの巨大な個体ではない。一個師団に等しい「軍勢」を率いる、指揮官でもあった。
その、統率された羽音には、さらに、悪質な力が込められていた。聞いているだけで、思考が乱れ、正常な判断力が奪われていく。仲間を思う心は疑心暗鬼に、恐怖は制御不能な憎悪へと、内側から強制的に増幅させられていくのだ。
「くそっ…頭が…!」 騎士の一人が、自らの頭を抱えて叫ぶ。その瞳には、味方であるはずの仲間たちへの、明らかな敵意が浮かんでいた。都市の空気は、今や、蠅王がばらまく「人間の憎悪そのもの」で、満たされようとしていた。
その時、壁の上から、アロンソの放った渾身の投擲が、蠅王の甲殻の一部を砕き飛ばす。だが、人々が喝采を上げるよりも早く、その砕けた甲殻の欠片は、地面に落ちると、自ら蠢き、その内側から、新たな蛆虫を無数に孵化させた。切り刻むだけでは、その繁殖力を、さらに活性化させるだけなのだ。
硬い甲殻と異常な繁殖力。 汚染を広げる腐敗液と、蟲の軍勢。 そして、人の心を内側から破壊する、呪われた羽音。
蠅王は、あらゆる理不尽をその身に宿した、完璧なまでの、災厄の化身だった。
蠅王の羽音は、もはや、ただの音ではなかった。それは、都市に満ちる憎悪と共鳴し、それを増幅させる呪詛の旋律。その影響は、アロンソによって結束したはずの騎士たちにまで及び始めていた。彼らの目から理性の光が失せ、互いに些細なことで胸ぐらを掴み、剣の柄に手をかけ始める。観衆は、逃げ惑うこともできず、その場で恐怖に竦むだけだった。
外壁の外では、包囲を続けていた王家の残党軍もまた、同じ呪詛に蝕まれていた。彼らは、憎悪に煽られるままに同士討ちを始め、あるいは、狂乱のままに外周の花畑を蹂躙していく。踏み潰された花々から、異常な濃度の花粉が舞い上がり、それは、兵士たちを、酩酊したかのような、さらなる狂乱状態へと陥らせた。
そして、その全ての混沌と死が、蠅王の糧となっていた。 同士討ちで生まれた肉片は、王が撒き散らす酸と蛆虫の餌となり、その繁殖を、爆発的に加速させていく。被害が悪化すればするほど、死が増えれば増えるほど、蠅王は、より強大になっていく。完璧なまでの、破滅の連鎖だった。
「…守り切れるか分からんが」 ラヴェルは、狂乱した騎士と市民の間に、その身一つで立ちはだかり、大盾を掲げながら、歯を食いしばった。「俺は、盾を掲げる」
メルリウスが、その地獄絵図を見つめ、静かに呟く。 「もはや、防ぐのではない。この、腐敗の連鎖そのものに、抗うしかない」
その、絶望的な言葉を聞きながら、フィルは、ただ一点、全ての元凶である蠅王を、見据えていた。 狂っていく仲間たち。汚されていく花畑。啜り泣く姉の声。全てを守るために、彼はここにいる。
もう、迷いはなかった。
「花を守る。姉さんを、みんなを守る。…そのためなら、この剣を振るう」
フィルは、これまで決して抜かぬと誓った、あの木刀を、ゆっくりと、しかし、確かな意志を込めて、構え直した。その瞳には、自らが災厄となることすら覚悟した、静かな決意の光が宿っていた。
フィルが決意を固めた、まさにその時。戦場は、新たなる段階へと移行した。メルリウスが、静かに、しかし力強く、杖を大地に突き立てる。
「──目覚めよ、我が庭の子供たち」
その言葉を合図に、街の外周で狂乱していた兵士たちの足元から、無数の蔦と根が、まるで巨大な緑の津波のように、一斉に噴出した。蔦は兵士たちの身体に絡みつき、その動きを封じ、花々は、神経を麻痺させる濃密な花粉を散布する。花の意思を代行するメルリウスの補助によって、花畑そのものが、敵軍を絡め取り、圧殺していく、巨大な捕食者へと変貌したのだ。
その、地上での混沌を尻目に、アロンソとラヴェルは、蠅王本体へと肉薄していた。 「ラヴェル殿!」 アロンソの叫び。ラヴェルは、蠅王が振り下ろした、酸を纏う一撃を、大盾で真正面から受け止めた。次の瞬間、アロンソは、そのラヴェルの盾そのものに向かって、渾身の「響き渡る一撃」を叩き込む。
ラヴェルは、その衝撃を、殺さない。いなさない。彼女は、盾の機能を反転させ、アロンソから受けた衝撃の全てを、盾を介して、蠅王の甲殻の、ただ一点へと、指向性の衝撃波として送り込んだのだ。
蠅王の巨体が、内側から破裂するかのように、大きく痙攣する。外殻は砕けない。だが、その内部で、何かが致命的に破壊されたことを、その苦悶の絶叫が物語っていた。
しかし、それでも王は死なない。その傷口から、さらに濃度の高い酸を撒き散らし、抵抗を続ける。騎士たちが、その酸を浴びて次々と倒れていく。 「水だ!酸を洗い流せ!」 誰かが叫ぶが、街に設置されていた、花を利用した貯水タンクは、既に底をついていた。
その、絶望的な戦況の全てを、街で最も高い鐘楼の頂から、オリヴァーは、ただ一人、冷静に見据えていた。彼は、蠅王ではない。騎士団でもない。その、遥か向こう、街を包囲する敵本陣に鎮座する、巨大な攻城用の大砲、ただ一点だけを、その目に捉えていた。
風を読み、距離を測り、彼は、ただ一矢、特別な矢を放つ。矢は、空気を切り裂き、常人には見えぬほどの長距離を飛び、寸分の狂いもなく、大砲の火薬庫へと突き刺さった。 大爆発。敵本陣が、火と煙に包まれる。
だが、オリヴァーの狙いは、それだけではなかった。彼は、すぐさま二の矢を番えると、今度は、街の脇を流れる川、その上流にある、脆い山の岩盤へと、その矢を放った。着弾と同時に、小規模な爆発が起き、岩盤が崩落。大量の土砂が川を堰き止め、行き場を失った川の水が、濁流となって、盆地である花の街へと、一斉に流れ込んできたのだ。
濁流は、広場を覆っていた酸を洗い流し、蠢く無数の蠅と蛆虫を押し流していく。それは、街を救うための、あまりにも荒々しい、最後の賭けだった。
水が、引いていく。 騎士たちは救われ、蟲の軍勢は一掃された。アロンソとラヴェルの連携は、王に確かな一撃を与えた。 だが、蠅王は、水浸しの広場の中心で、なおも、生きていた。 その全身から、これまでとは比較にならないほどの、憎悪と腐臭を立ち上らせながら。
蠅王が、その腐敗した全ての翅を、大きく、大きく、広げた。都市全体を覆い尽くすほどの、暗黒の風が巻き起こる。
「──災厄は、ここから始まる」
絶望的な光景の中、物語は、やがて終わりへ向かう。