第六章-花の誘い
あの、あまりにも唐突で、そしてあまりにもシュールな「元締め」との遭遇から数日。街は、王国が差し向けた傭兵たちの襲撃に備え、張り詰めた緊張感に包まれていた。裁判という名の茶番は、彼らにとって何の解決にもならなかった。むしろ、自分たちが完全に孤立無援であり、生き残るためには、自らの手で血を流すしかないという冷徹な現実を、改めて突きつけただけだった。
作戦司令室と化した広場のテーブルには、重い沈黙が垂れ込めていた。その中央に置かれているのは、先日フィルが「処理」した、あの元締めが身につけていた武装一式。黒曜石のように鈍い光沢を放つ蜜猟の甲殻を加工した鎧と、無数の翅を編み込んで作られた、禍々しい外套。そして、巨大な虫の頭部を模した兜。それらは、ただの防具ではない。明確な設計思想と、未知の技術によって生み出された、一つの「兵器」だった。
「…まずいな」
最初に口を開いたのは、兜の内部構造を調べていたカンナだった。彼女は、職人としての鋭い目で、その異様さを見抜いていた。 「この兜、ただの飾りじゃない。内部に、何かの発光器官を埋め込むための基部がある。しかも、複数。まるで、シャンデリアみたいに…」
その言葉に、フィルが、外套の翅を一枚、慎重に剥がしながら応じた。 「こっちの翅もだ。一枚一枚が、特殊な樹脂のようなものでコーティングされてる。粘り気があって、燃えにくい。…これは、虫が本来持っているものじゃない。明らかに、人工的な加工がされてる」
彼の脳裏に、かつて自分たちが命がけで戦った、あの「源氏焔」の光景が蘇る。山を焼き、仲間を喰らい、最後には数匹しか残らない、あの共食いの性質。あの虫の最大の弱点は、仲間であるはずの光にすら反応し、攻撃してしまう、その制御不能な闘争本能だった。しかし、もし、その本能を抑制できるとしたら?
「…まさか」
フィナが、二人の分析を聞きながら、一つの恐ろしい可能性にたどり着いた。彼女は、テーブルに広げられた地図上の、源氏焔の生息域を指し示す。 「源氏焔は、仲間が出す光に反応して、共食いを始める。でも、もし、その光を『仲間ではない』と認識させることができたら? この樹脂が、光の波長を僅かに変えるか、あるいは共食いを誘発するフェロモンを遮断する効果を持っているとしたら…?」
それは、源氏焔の最大の弱点を、完全に無効化する技術の存在を示唆していた。
「そして、この兜の基部。ここに、捕らえた源氏焔の、弱い個体の発光器官を埋め込む。樹脂でコーティングした翅の外套を纏えば、自分自身は共食いの対象にならずに、周囲の野生の源氏焔だけを、一方的に支配し、操ることができる…」
フィルが、フィナの言葉を引き継ぐ。その声は、これまで対峙してきたどの敵とも違う、未知の脅威に対する、緊張で微かに震えていた。 「今までの敵とは違う。ただの虫のように、本能だけで動く相手じゃない。僕たちの知識を、その上で対策してきている。…虫のようにはいかないぞ」
その場にいた誰もが、事の重大さを理解した。彼らが相手にしようとしているのは、ただの盗賊の元締めなどではない。虫の生態を知り尽くし、その弱点すら克服する技術を持つ、知能の高い、新たな敵。
「弱点を対策されている。正面からぶつかるだけでは駄目だわ」
フィナの冷静な声が、沈黙を破る。作戦会議が始まった。しかし、議論は行き詰まる。 オリヴァーが提案した、発光器官を遠距離から狙撃するという案は、樹脂コーティングによって、矢が届く前に熱で燃やし尽くされる可能性が高い。カンナが、対抗装備の開発を口にするが、その樹脂の成分が分からなければ、設計すらできない。アロンソは、自らの剛腕で一点突破を試みることを主張したが、敵が源氏焔を自在に操れるのであれば、彼が近づく前に、数の暴力で焼き尽くされる危険性があった。
全ての対策が、敵の持つ未知の技術の前に、無力化されていく。仲間たちの間に、じりじりとした焦りが広がっていく。このままでは、打つ手がない。
その、誰もが打開策を見出せずにいた、その時だった。
「待って」
これまで、黙って議論を聞いていたジアが、静かに口を開いた。彼女は、部屋の隅に積まれていた、大量の資料の山の中から、一枚の、黄ばんだ羊皮紙を取り出した。それは、かつて彼女が、蜜蝋が養殖されていた、あの秘密の研究所から命がけで持ち帰った、機密情報の一部だった。
「蜜蝋が養殖されていた場所から得た情報の中に、奴らの武装の弱点を見つけるかもしれない」
彼女の瞳には、旅商人としての、勝負師の光が宿っていた。 「あの研究所では、蜜蝋だけじゃなく、様々な虫の生態と、その『制御』に関する研究が行われていた。そのほとんどは、暗号と隠語で書かれていて、まだ解読できていない。でも、この中に、必ずあるはずよ。源氏焔の共食いを抑制する、あの樹脂の正体と、その『弱点』がね」
ジアの言葉は、暗闇の中に差し込んだ、一筋の光だった。しかし、それは同時に、新たな問題をも提起していた。
「…解読する時間があるのか?」とアロンソが問う。
「それに」とフィルが続ける。「武装した敵を倒せたとしても、問題はそれだけじゃない。源氏焔は、この大陸の広範囲に生息している。あの元締めが、その気になれば、いつでも、どこでも、第二、第三の軍団を作り出すことができる。僕たちは、一人の敵と戦っているんじゃない。源氏焔という、『環境』そのものと戦わなくちゃいけないんだ」
フィルの言葉が、この戦いの本質を、改めて全員に突きつけた。目の前の強敵をどう倒すか。そして、その背後にある、より巨大な脅威に、どう立ち向かうのか。
ジアが持ち帰った、古びた羊皮紙。そこに記された、解読不能の暗号。 花の街の仲間たちは、その、あまりにも不確かで、しかし唯一残された希望に、自分たちの未来の全てを賭けるしかなかった。
王国が仕掛けた茶番じみた「裁判」は、花の街に何の救いももたらさなかった。むしろ、彼らが完全に孤立無援であり、生き残るためには、自らの手で血を流し、道を切り拓くしかないという、冷徹で揺るぎない現実を改めて突きつけただけだった。街は、いつ終わるとも知れぬ傭兵たちの散発的な襲撃に備え、常に張り詰めた緊張の糸に支配されていた。その空気は、まるで終わりのない葬送の儀式のように、人々の肩に重くのしかかっていた。
作戦司令室と化した広場の中心、巨大な樫の木で作られたテーブルの上には、重々しい沈黙が垂れ込めていた。その沈黙の中心に置かれているのは、先日フィルが「処理」し、アロンソが回収した、あの盗賊の元締めが身に纏っていた武装一式だった。黒曜石のように鈍い光沢を放つ蜜猟の甲殻を加工した鎧。無数の翅を編み込み、月明かりを不気味に乱反射させる禍々しい外套。そして、巨大な虫の頭部を模し、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる兜。それらは、ただの寄せ集めの防具ではない。明確な設計思想と、この街の誰も知らない未知の技術によって生み出された、一つの完成された「兵器システム」としての威圧感を放っていた。
その異様な武具を前に、仲間たちは、それぞれが自らの専門分野から、言葉にならない分析を続けていた。アロンソは、その分厚い甲殻の継ぎ目を指でなぞり、騎士としての経験から、それがどれほどの衝撃に耐えうるかを推し量っている。オリヴァーは、弓兵の視点から、どこを狙えば矢が貫通する可能性があるのか、あるいは、そもそも矢という武器が通用するのかどうかを、険しい表情で見定めていた。リミナとジアは、商人としての目で、この武装の素材がどれほどの価値を持つのか、そして、これほどの加工技術を持つ組織が、どれほどの経済力を持っているのかを計算し、その背後にいるであろう敵の規模に、静かに戦慄していた。
その重苦しい沈黙を、最初に破ったのは、誰よりも長く、そして深く、その武装と向き合っていたカンナだった。彼女は、虫に対する生理的な嫌悪感を押し殺し、職人としての鋭い目で、兜の内部構造を、小さな金属製の工具で慎重に調べていた。やがて、彼女は顔を上げ、その声には、驚きと、そして隠しきれない焦燥が滲んでいた。
「…まずいな。この兜、ただの飾りじゃない。内部に、何かの発光器官を埋め込むための基部がある。それも、一つや二つじゃない。まるで、教会のシャンデリアみたいに、無数のソケットが、精密な角度で配置されてる…」
彼女は、工具の先端で、兜の内側に刻まれた、蜘蛛の巣のように複雑な溝を指し示した。 「そして、この溝。これは、ただの補強用のリブじゃない。おそらく、埋め込まれた発光器官に、栄養か、あるいは何らかの制御信号を送るための、導管の役割を果たしている。まるで、人間の血管や神経みたいに、兜全体に張り巡らされてるわ」
その、あまりにも有機的な構造の説明に、仲間たちの間に、動揺が走る。その言葉を引き継いだのは、外套の翅を一枚、慎重に剥がし、その断面を調べていたフィルだった。彼の声は、これまで対峙してきたどの敵とも違う、未知の脅威に対する緊張で、微かに震えていた。
「こっちの翅もだ。一枚一枚が、特殊な樹脂のようなもので、分厚くコーティングされてる。指で触ると、蜜のような粘り気があるのに、火を近づけても、全く燃える気配がない。…これは、虫が本来持っているキチン質じゃない。明らかに、人工的な、僕たちの知らない技術で作られた素材だ」
彼の脳裏に、かつて自分たちが命がけで戦った、あの「源氏焔」の、悪夢のような光景が鮮明に蘇る。山を焼き、仲間であるはずの光を喰らい、最後には数匹しか残らない、あの恐るべき共食いの性質。あの虫の最大の弱点は、仲間が放つ光にすら反応し、見境なく攻撃してしまう、その制御不能なまでの闘争本能だった。しかし、もし、その本能を、この未知の技術で抑制できるとしたら…?
「…まさか」
二人の分析を聞きながら、テーブルに広げられた地図を睨んでいたフィナが、一つの、あまりにも恐ろしい可能性にたどり着いた。彼女は、地図上の、源氏焔の広大な生息域を、震える指先でなぞる。
「源氏焔は、仲間が放つ光の、特定の波長に反応して、共食いを始める。でも、もし、その光を『仲間ではない』と、あるいは『攻撃対象ではない』と認識させることができたら…? フィル、あなたが言ったその樹脂が、光の波長を僅かに変えるか、あるいは、共食いを誘発する特殊なフェロモンを、完全に遮断する効果を持っているとしたら…?」
それは、源氏焔の最大の弱点を、完全に無効化し、それどころか、その力を意のままに操る技術の存在を示唆していた。
「そして、カンナが見つけた、この兜の基部。ここに、捕らえた源氏焔の、比較的御しやすい、弱い個体の発光器官を、無数に埋め込む。そして、樹脂でコーティングした翅の外套を纏えば、自分自身は共食いの対象になることなく、周囲にいる、より強力な野生の源氏焔だけを、一方的に支配し、意のままに操ることができる…」
フィルが、フィナの言葉を引き継ぐ。その声は、もはや隠しようのない、戦慄に染まっていた。 「今までの敵とは違う。ただの虫のように、本能だけで動く相手じゃない。僕たちの知識を、その上で、完全に対策してきている。…虫のようには、いかないぞ」
その場にいた誰もが、事の重大さを、そして、自分たちが今、どれほど絶望的な状況に立たされているのかを、痛いほどに理解した。彼らが相手にしようとしているのは、ただの盗賊の元締めなどではない。虫の生態を知り尽くし、その弱点すら克服する、高度な知識と技術を持つ、知能の高い、新たな敵。それは、まるで、自分たちの思考を、一手先、二手先まで読み切っているかのような、不気味な存在だった。
「弱点を対策されている。正面からぶつかるだけでは駄目だわ」
フィナの冷静な声が、凍りついたような沈黙を破る。作戦会議が始まった。しかし、それは、希望を見出すための議論ではなく、いかにして全滅を避けるかという、絶望的な模索の始まりだった。
オリヴァーが提案した、兜に埋め込まれた発光器官を、遠距離から精密狙撃するという案は、樹脂コーティングによって、矢が届く前に熱で燃やし尽くされる可能性が高いと、カンナによって即座に否定された。カンナが、対抗装備の開発を口にするが、その未知の樹脂の成分が分からなければ、設計図を描くことすらできない。それには、数ヶ月、いや、数年単位の時間が必要かもしれなかった。
アロンソは、自らの剛腕による一点突破を主張した。彼ならば、たとえ樹脂の鎧であろうと、その中心を叩き割ることは可能かもしれない。しかし、敵が源氏焔を自在に操れるのであれば、彼が敵本体に近づく前に、四方八方から、数の暴力で焼き尽くされる危険性があまりにも高すぎた。彼の「響き渡る一撃」も、無数の光と熱の前では、その威力を発揮する前に、かき消されてしまうだろう。
全ての対策が、敵の持つ未知の技術の前に、まるで子供の遊びのように、無力化されていく。仲間たちの間に、じりじりと、しかし確実に、焦りと無力感が広がっていく。このままでは、打つ手がない。街は、今度こそ、本当に終わる。
その、誰もが打開策を見出せずに、重い沈黙に支配されていた、その時だった。
「待って」
これまで、黙って議論を聞き、そして、部屋の隅に積まれていた大量の資料の山を、一人、静かに調べていたジアが、顔を上げた。彼女は、その山の中から、一枚の、黄ばんだ、そして所々が焼け焦げた羊皮紙を取り出した。それは、かつて彼女が、蜜蝋が養殖されていた、あの秘密の研究所から、命がけで持ち帰った、機密情報の一部だった。
「蜜蝋が養殖されていた場所から得た情報の中に、奴らの武装の弱点を見つけるかもしれない」
彼女の瞳には、いつもの陽気さの欠片もない、旅商人として、数々の死線を潜り抜けてきた、勝負師の鋭い光が宿っていた。
「あの研究所では、蜜蝋だけじゃなく、様々な虫の生態と、その『制御』に関する、非人道的な研究が行われていたわ。そのほとんどは、私にも解読できない、複雑な暗号と隠語で書かれている。でも、この中に、必ずあるはずよ。源氏焔の共食いを抑制する、あの忌々しい樹脂の正体と、そして、その『弱点』がね」
ジアの言葉は、暗闇の中に差し込んだ、一筋の、あまりにもか細い光だった。しかし、それは同時に、新たな、そしてより根本的な問題を、仲間たちに突きつけていた。
「…その暗号を、解読する時間があるのか?」 アロンソが、低い声で問う。敵が、いつ、本格的な攻撃を仕掛けてくるか、誰にも分からない。
「それに」 と、フィルが、より深刻な表情で続ける。 「たとえ、この武装をした敵を倒せたとしても、問題はそれだけじゃない。源氏焔は、この大陸の、広範囲に生息している。あの元締めが、その気になれば、いつでも、どこでも、第二、第三の軍団を作り出すことができる。僕たちは、たった一人の敵と戦っているんじゃない。源-氏焔という、『環境』そのものと、戦わなくちゃいけないんだ」
フィルの言葉が、この戦いの、本当の絶望的な本質を、改めて全員に突きつけた。目の前の、一人の強敵をどう倒すか。そして、その背後にある、より巨大で、終わりが見えない脅威に、疲弊しきったこの街が、どう立ち向かっていけばいいのか。
ジアが持ち帰った、古びた羊皮紙。そこに記された、解読不能の暗号。 花の街の仲間たちは、その、あまりにも不確かで、しかし、唯一残された希望に、自分たちの未来の全てを、賭けるしかなかった。
ジアが古文書に希望の糸口を見出してから、数日が経過した。しかし、解読は困難を極め、作戦司令室には焦燥の色が濃くなっていた。敵が動くのが先か、こちらが謎を解くのが先か。その、張り詰めた時間との競争の最中に、その『答え』は、最悪の形で、敵の方から街の門を叩いたのだ。
現れたのは、一人の、使者を名乗る男だった。
男は、武装していなかった。その身なりは、どこかの貴族に仕える文官のように、非の打ち所なく整っていた。彼は、街の門の前に立つと、威圧するでもなく、脅すでもなく、ただ、一枚の、豪奢な紋章が刻印された羊皮紙を、フィナへと丁重に差し出した。
「花の街の代表、フィナ殿に、我が主君より、正式なる『決闘裁判』の申し入れである」
決闘裁判。その、あまりにも古風で、そして場違いな言葉に、フィナは眉をひそめた。それは、国家間の領有権問題や、騎士の名誉に関わる重大な紛争を解決するために、古来より伝わる、極めて神聖な儀式。しかし、なぜ、それが今、この街に?
使者の男は、フィナの疑問を見透かしたかのように、言葉を続けた。 「貴殿らの街が、先の王国との一件以来、いずれの国家にも所属していない『独立地域』であるという主張。その真偽を、神々の御前で、そして大陸の諸侯が見守る中で、はっきりと証明していただきたい。…もし、貴殿らの主張が真実であり、かつ、この裁判に勝利したのであれば、我が主君は、貴殿らの完全な独立を承認し、その証人となることを、ここに約束しよう」
その提案は、一見すると、この上なく寛大で、そして公正なものに聞こえた。王国からの理不尽な干渉に苦しむ街にとって、「完全な独立」の承認は、喉から手が出るほど欲しいものだ。しかし、フィナと、彼女の背後で話を聞いていたジアは、その甘い言葉の裏に、巧妙に隠された毒の存在を、即座に見抜いていた。
これは、罠だ。
武力で街を制圧するのではなく、「裁判」という、誰もが否定できない神聖な儀式を隠れ蓑にして、この街を合法的に乗っ取るための、あまりにも狡猾な策略。そして、その背後にいるのは、間違いなく、あの虫の武装を作り上げた、知能の高い敵。
フィナは、冷静さを失わずに、使者へと問い返した。 「…その決闘、受けて立つと申し上げたら、どのような形式で行われるのか、お聞かせ願えますか?」
使者は、待っていましたとばかりに、口の端に、微かな笑みを浮かべた。 「形式は、一対一の決闘。貴殿らの街から、最強の代表者を一人。そして、我が主君の軍勢からも、最強の戦士を一人。互いに、命を賭して戦い、生き残った者の主張を、神々の意志として受け入れる。…古来より伝わる、最もシンプルで、最も神聖なやり方だ」
その言葉を聞いた瞬間、フィナの背後にいた仲間たちの間に、緊張と、そして、わずかな安堵の空気が流れた。一対一の決闘。それならば、勝機はある。この街には、フィルがいる。あのアロンソすら凌駕するかもしれない、規格外の力を持つ少年が。彼さえいれば、どんな強敵が相手であろうと、負けるはずがない。
しかし、フィナとジアだけは、その安易な希望に、戦慄を覚えていた。敵が、これほど単純な条件を提示してくるはずがない。その裏には、必ず、こちらの最強の駒であるフィルを無力化するための、何らかの仕掛けが隠されているはずだ。
数日後、決闘裁判の舞台となる、街の外れの平原には、物々しい雰囲気が漂っていた。大陸の諸侯や貴族たちが、この奇妙な裁判を見届けようと、それぞれの紋章を掲げた観覧席を設けている。その中央、最も豪華な天幕の中に、今回の裁判の主催者である「強敵」が、その姿を現した。
その出で立ちは、先日フィルたちが「処理」した元締めと、酷似していた。黒曜石のような蜜猟の甲殻を加工した鎧。無数の翅を編み込んで作られた外套。そして、巨大な虫の頭部を模した、禍々しい兜。しかし、その男から放たれる威圧感は、あの元締めとは比較にならないほど、重く、そして冷徹だった。彼こそが、この組織の真の指導者。
男は、兜の中から、ねっとりとした、しかし妙に明瞭な声で、フィナたちへと語りかけた。 「花の街の者たちよ、よくぞ来た。この神聖なる場において、貴殿らの勇気と独立の意志を、存分に示してもらおう」
その言葉とは裏腹に、彼の複眼を模した兜の奥の瞳は、まるで値踏みをするかのように、街の仲間たち一人ひとりを見定めている。そして、彼の視線が、フィルの前で、ぴたり、と止まった。
「ほう…」
男は、わざとらしく、感心したような声を上げた。 「彼が、かの有名なフィル殿か。パリの一件では、王国の騎士団を相手に、獅子奮迅の働きを見せたと聞く。その勇名は、我が耳にまで届いておるぞ」
その言葉には、賞賛の色など微塵もなかった。あるのは、獲物を見つけた捕食者のような、冷たい好奇心だけ。男は、フィルの小さな身体を、頭の先からつま先まで、じっくりと眺め回すと、満足げに頷き、そして、決定的な一言を放った。
「して、その勇名を轟かせた少年は、どこにいる? まさか、この神聖な決闘裁判を前にして、自分が『子供』だからと、恐れをなして逃げ出したわけではあるまいな?」
その、あまりにもあからさまで、そして悪意に満ちた挑発。それは、フィル個人に向けられたものではない。この街の最強の戦士が、ただの子供であり、このような公的な場に出ることすら許されない未熟者であると、集まった諸侯たちの前で、印象付けるための、計算され尽くした揺さぶりだった。
フィルは、その言葉に、カッと頭に血が上り、一歩前に出ようとした。しかし、その肩を、フィナが、強い力で、しかし静かに押さえた。彼女は、決して表情を崩さず、毅然とした態度で、男へと向き直る。
「我らが代表は、ここに。彼の勇気と力を、疑う者など、この街にはおりません」
しかし、男は、待っていましたとばかりに、その兜を、ゆっくりと横に振った。 「いや、疑っているわけではない。むしろ、その力を、大いに評価している。…だからこそ、だ」
彼は、懐から、古びた、分厚い法典を取り出した。 「この決闘裁判は、古来より伝わる神聖な儀式。その最も古い法典によれば、代表として剣を取る者は、成人と認められた者でなければならない、とある。これは、未熟な子供を、無用な流血から守るための、神々の慈悲だ。…まさか、貴殿らが、この神聖な法を、破るとは言うまいな?」
その言葉に、フィナは、息をのんだ。やられた。敵は、フィルの力を恐れ、そして、彼がまだ子供であるという、唯一にして最大の弱点を、完璧に突いてきたのだ。武力ではなく、「法」という、絶対に覆すことのでない力で、フィルを、この戦いの舞台から、完全に排除したのだ。
アロンソが、その卑劣なやり口に、怒りのあまり、クレイモアの柄に手をかけようとする。しかし、男は、それをあざ笑うかのように、言葉を続けた。 「もちろん、彼以外の者が出るというのであれば、我々はそれを止めはしない。…もっとも、あの『少年英雄』を欠いたこの街に、我が最強の戦士と渡り合える者が、果たしているのかどうか。見物だな」
その場にいた、誰もが理解した。これは、決闘ではない。フィルという最強の駒を封じられた街が、なすすべもなく、一方的に蹂躙されるのを見せつけるための、公開処刑なのだと。
フィルの不在。その、あまりにも重い現実が、仲間たちの心に、暗く、そして冷たい絶望の影を、落としていった。
フィルの不在。その、あまりにも重い現実が、街の仲間たちの心に、暗く、そして冷たい絶望の影を落としていた。決闘裁判の舞台となる平原には、大陸の諸侯や貴族たちが、まるでこれから始まる公開処刑を心待ちにするかのように、好奇と侮蔑の入り混じった視線を向けている。天幕の中に鎮座する、虫の鎧を纏った強敵は、兜の奥で、満足げに笑っていることだろう。最強の駒を封じられた花の街が、なすすべもなく屈辱にまみれる様を、彼は確信していた。
しかし、彼は、致命的な見誤りを犯していた。 この街の真の強さが、ただ一人の少年の、規格外の戦闘能力だけに支えられているわけではないということを。
絶望的な沈黙を破り、凛として一歩前に進み出たのは、フィナだった。彼女が、この決闘裁判における街の代表者だった。彼女の表情には、悲壮感も、怒りも浮かんでいない。ただ、どこまでも澄み切った、湖面のような静けさだけが広がっていた。その姿は、むしろ、これから始まる戦いを楽しんでいるかのようにも見え、強敵の、そして観衆たちの、意表を突いた。
「決闘の代表者は、私、フィナが務めさせていただきます」
その、鈴の鳴るような、しかし決して折れることのない声が、平原に響き渡る。強敵は、兜の奥で、わずかに眉をひそめた。少年が出てこない以上、誰が出てこようと結果は同じ。そう高を括ってはいたが、目の前に立つ女の、あまりにも堂々とした態度に、彼は、ほんの僅かな、計算外の違和感を覚えていた。
「ほう、女が出張るとはな。よほど、この街には男がいないと見える」
強敵の、嘲笑を含んだ言葉。しかし、フィナは動じない。 「ええ。ですが、ご心配なく。あなた様を、退屈させることはないと、お約束いたしますわ」
フィナが、優雅な仕草で、胸元に挿していた一輪の花に、そっと指先で触れた。その瞬間、彼女の身体から、甘く、そしてどこか心を落ち着かせるような、不思議な花の香りが、ふわりと周囲に漂い始めた。その香りは、フィナが特別に調合した、人の心を穏やかにし、正常な判断力を、ほんの僅かだけ、麻痺させる効果を持つ花の匂い。それは、この裁判を見守る諸侯たちの、過剰な敵意や好奇心を和らげ、場の空気を、わずかに自分たちの有利な方へと傾けるための、彼女の、見えざる第一手だった。
そして、フィナが、その卓越した弁舌と、花の香りを武器に、裁判の場で強敵を惹きつけている、その裏側。街の他の女たちもまた、それぞれが、この絶望的な状況を覆すための、命がけの「駆け引き」を開始していた。
ジアは、裁判の舞台から少し離れた、予備の天幕の中にいた。彼女の前には、強敵が「証人」として雇ったのであろう、一人の、見るからに気の弱そうな商人の男が、震えながら座っている。彼は、この後の裁判で、花の街が、いかに無法で、危険な独立組織であるかを、嘘偽りを並べ立てて証言する役目を負わされていた。
ジアは、その男に、にっこりと、しかし目の奥は一切笑っていない、彼女ならではの笑みを向けた。 「…大変ね、あなたも。あんな、虫の化け物みたいな奴に雇われて、命じられるがままに、嘘をつかなくちゃいけないなんて」
その、全てを見透かしたような言葉に、男の肩が、びくりと跳ねる。ジアは、その反応を見逃さず、さらに言葉を続けた。 「あの男は、あなたが用済みになったら、どうするかしらね? 秘密を知る証人を、生かしておくと思う? …思わないわよね」
ジアは、ゆっくりと立ち上がると、男の耳元で、悪魔のように、しかし、あまりにも魅力的な提案を、囁いた。 「だから、取引しましょう。あなたは、この後の裁判で、雇われた通りに嘘をつくのではなく、全てを、ありのままに話すの。自分が、あの男に、金で雇われ、偽証を強要されたという、その真実をね」
男が、血の気の引いた顔で、首を横に振る。そんなことをすれば、殺される、と。 しかし、ジアは、その反応すら、読んでいた。
「大丈夫よ。その代わり、私が、あなたに『未来』をあげる。私の父は、この大陸でも有数の、海軍の将校。その保護のもと、あなたを、誰も知らない、遠い国の、安全な港町へと、移住させてあげる。新しい名前と、新しい人生。あの男の、手が届かない場所へ。…さあ、選んで? あの男に使い捨てにされて、ここで野垂れ死ぬか。それとも、私の手を取って、新しい人生を始めるか」
それは、脅しではなかった。ただ、二つの未来を天秤にかける、冷徹で、そして究極の選択。男の瞳に、絶望と、そして、ほんの僅かな希望の光が、揺らめいていた。
ジアが、証人を懐柔している、その同時刻。リミナは、誰も気づかないうちに、強敵の、私的な荷物が置かれている天幕の中へと、猫のように、しなやかに、忍び込んでいた。彼女の目的は、一つ。強敵が、その力の象徴として身につけている、あの禍々しい「武装」の一部を、奪い取ること。
彼女の目は、厳重に警備された武具棚ではなく、その隅に、無造作に置かれた、一つの小さな木箱に向けられていた。彼女の商人としての勘が、あの箱の中にこそ、敵の「油断」があると告げていたのだ。彼女は、見張りの兵士たちの意識が、フィナのいる裁判の舞台へと集中している、その僅かな隙を突き、音もなく、その木箱を手元へと引き寄せた。
箱の中に入っていたのは、予備のものと思われる、蜜猟の甲殻を加工して作られた、一対の「篭手」だった。それは、強敵の権威と力を示す、重要な装飾品の一部。リミナは、懐から、全く同じ形をした、別の篭手を取り出した。それは、この数日間、彼女とカンナが、徹夜で作り上げた、完璧な「偽物」。本物と見分けがつかないほど精巧に作られているが、その内部には、カンナが仕掛けた、ある「仕掛け」が施されていた。
リミナは、息を殺しながら、素早く、その二つの篭手をすり替える。そして、本物の篭手を懐にしまうと、何事もなかったかのように、その場を静かに立ち去った。彼女の、あまりにも大胆不敵な「仕事」に、気づいた者は、誰もいなかった。
そして、その全てを、ラヴェルが、影の中から見届けていた。彼女は、ベルを連れて、街を離れていたはずだった。しかし、彼女は、戻ってきていたのだ。ベルを、メルリウスが見つけた、安全な隠れ家へと預け、ただ、この街の危機を、仲間たちの戦いを、黙って見過ごすことなど、できなかったから。彼女の役割は、この、女子組が仕掛ける、複雑な計略の裏で、万が一、彼女たちの動きに気づき、それを妨害しようとする者が現れた場合に、その者を、誰にも知られることなく、完全に「無力化」することだった。
彼女は、物陰に潜み、ただ、静かに、その時を待つ。もし、誰かが、ジアの天幕に、あるいはリミナの忍び込んだ天幕に近づこうものなら、彼女は、音もなくその背後に回り込み、その巨大な盾で、相手の意識を、静かに、そして確実に、刈り取るだろう。彼女は、この駆け引きの、最後の、そして最強の「保険」だったのだ。
フィナが時間を稼ぎ、ジアが敵の土台を崩し、リミナが未来の屈辱を仕込み、そして、ラヴェルがその全てを守る。 強敵が、フィルの不在を確信し、勝利の笑みを浮かべていた、その時。 水面下では、花の街の女たちによる、恐ろしく、そして、あまりにも鮮やかな、反撃の計略が、着実に、そして完璧に、進行していたのだった。
裁判は決闘を我慢できなそうに敵は挑発するが、フィナの言いくるめや知識が強いせいで結局上手くいかなかった。敵視点では。…しかし、こちら側もフィル抜きの状態でも先ず決闘を仕掛ける準備をしている。
その、一触即発の睨み合いが続く中で、アロンソは、ただ一人、どちらの陣営からも距離を置き、戦いの「見届人」として、静かにその光景を見つめていた。彼は、この街の仲間ではない。あくまで、主君の命を受け、この地の動向を監視するために派遣された、中立の観察者。しかし、彼の心の内には、中立とは程遠い、冷徹で、そして非情な思惑が渦巻いていた。
(…面白い。法と知恵で、あの虫の化け物を一時的に出し抜いてみせたか。だが、所詮は小細工。この決闘で、この街の真の価値が問われる)
彼の主君は、この花の街を、そしてその背後にいるであろう勢力を、自らの覇権を脅かす可能性のある「敵」として認識している。アロンソに与えられた任は、その脅威度を正確に査定し、そして、必要とあらば、芽のうちに摘み取ること。
(我が主の敵となりうるか、あるいは、ただ利用されるだけの、脆い駒か。この決闘の結果が、その答えとなるだろう)
彼は、街の仲間たちを一瞥する。彼らの絆、個々の能力の高さは、認めよう。だが、あまりにも危うい。最強の戦力が、たった一人の子供であるという、歪な一点に依存している。その一点を封じられただけで、こうして窮地に陥る。そのような脆い組織が、この先の乱世を生き抜けるとは思えなかった。
彼の脳裏に、主君の言葉が蘇る。『あの土地の混乱は、いずれ、我らの計画の障害となるやもしれん。火種は、小さいうちに消すに限る』。
アロンソは、静かに、決意を固めた。
(もし、この決闘に、あやつらが敗れるようなことがあれば)
彼の視線が、街の防壁、そしてその向こうに広がる、花畑へと向けられる。
(その時は、俺が、この街ごと、完全に破壊する)
それは、慈悲などではない。ただ、合理的な判断。ここで無様に敗れ去るような弱い存在が、このまま生き長らえ、中途半端に力をつけ、大陸の勢力図をかき乱す。それは、彼の主君の計画にとって、最も厄介な「被害」の拡大に他ならない。そうなる前に、彼自身の手で、この街という不安定要素を、完全に、そして跡形もなく、消し去る。
(これ以上、この地の混乱が、我が主の計画に害を為す『被害』を広げるわけにはいかないのだ)
アロンソは、静かに、しかし確かな殺意をその胸に秘め、今まさに始まろうとしている、一方的な処刑にも見える、決闘の始まりを、ただ、静かに見つめていた。
決闘裁判の舞台に、重く、そして絶望的な沈黙が満ちていた。フィルの不在。それは、花の街にとって、心臓を抜き取られたにも等しい宣告だった。観覧席に集う諸侯たちは、憐憫と、そして侮蔑が入り混じった視線を、フィナたちへと向けている。天幕の中に鎮座する、虫の鎧を纏った強敵は、兜の奥で、己の描いた完璧な筋書きに、さぞ満足していることだろう。
彼の代理として、決闘の場へと進み出たのは、岩のような筋肉を持つ、身の丈2メートルはあろうかという巨漢の戦士だった。その手には、およそ人間が振るうとは思えぬほどの、巨大な戦斧が握られている。誰が見ても、アロンソでもない限り、まともに渡り合える相手ではない。花の街の、誰が、この絶望的な処刑の舞台に上がるのか。誰もが固唾をのんで見守る中、一歩前に進み出たのは、意外にも、フィナだった。
しかし、彼女は武器を構えない。ただ、その背筋を、凛と伸ばして立つだけだった。
「お待ちください」
その、鈴の鳴るような、しかし決して折れることのない声が、平原に響き渡る。強敵は、兜の奥で、わずかに眉をひそめた。 「何だ、女。今更、命乞いか?」
「いいえ」と、フィナは静かに首を振った。「これは、神聖なる決闘裁判。であるならば、ただ力に任せて雌雄を決する前に、両者の主張を、ここに集うご歴々の前で、改めて確認するのが、古来からの法と礼儀ではございませんか?」
それは、誰もが否定できない、完璧な正論だった。強敵は、自らが持ち出した「法」によって、その動きを封じられる。彼は、舌打ちをしながらも、フィナの主張を認めざるを得なかった。
「よかろう。だが、戯言は短くしろ」
「感謝いたします」 フィナは、優雅に一礼すると、強敵の待つ、舞台の中央へと、ゆっくりと歩みを進め始めた。そして、彼女は、この裁判の、そしてこの街の真の目的を、高らかに宣言する。
「この裁判は、決闘だけで終わらせるためのものではありません。あなたが、そしてあなたの背後にいる組織が、なぜ、これほどまでに、私たちの小さな街を狙うのか。その真の理由を、ここで、白日の下に、明らかにさせていただきましょう」
それは、決闘を前にした、堂々たる宣戦布告だった。フィナは、ただの時間稼ぎをしているのではない。彼女は、この裁判という舞台そのものを、敵の欺瞞を暴き、その権威を失墜させるための、「第二の戦場」へと変貌させたのだ。
そして、彼女が強敵へと近づくにつれて、戦いは、既に始まっていた。
フィナの衣服には、彼女が特別に調合した、数種類の花の香りを染み込ませた、見えない匂い袋が、巧妙に隠されていた。強敵が、彼女を威圧しようと、その距離を詰めれば詰めるほど、彼は、その花の香りが作り出す、見えざる網の中へと、絡め取られていく。
最初に彼を襲ったのは、精神を苛立たせる、微かな、しかし決して消えることのない、刺激臭。彼の思考の端に、常に、小さな棘が刺さっているかのような、不快な感覚。次に、彼の集中力を奪う、甘く、そしてどこか心を蕩けさせるような、蠱惑的な香り。そして最後に、彼の闘争本能を、内側から鈍らせる、深く、そして穏やかな鎮静の香り。
それは、魔術ではない。花の持つ、薬学的、そして心理的な効果を、極限まで高めて利用した、フィナならではの、静かなる「攻撃」。強敵は、自らの内に起こる、原因不明の不調に、僅かながら、しかし確実に、その思考の歯車を狂わされ始めていた。
フィナが、その卓越した弁舌と、花の魅了で、敵の王を盤上へと釘付けにしている、その裏側。ジアとリミナは、まるで水が砂に染み込むように、ごく自然に、観覧席の喧騒の中へと、その身を紛れさせていた。彼女たちの戦場は、この、諸侯や貴族たちが集う、噂と虚栄の渦巻く「社交場」だった。
ジアは、侍女のふりをして、大陸でも有数のゴシップ好きとして知られる、とある伯爵夫人の傍らへと、巧みに近づいていた。彼女は、夫人の扇が床に落ちたのを、これ見よがしに拾い上げ、その機に乗じて、声を潜め、しかし、周囲の数人にはっきりと聞こえる声で、こう囁いた。
「まあ、奥様、ご存じですの? あの、虫の兜の方…ご本国に、それはそれはお美しい、貞淑な奥様がいらっしゃるというのに、最近、遠征先の街で手に入れた、若い踊り子の奴隷に、ご執心だとか…。あら、私ったら、いけない噂話を…」
その言葉は、一瞬にして、周囲の貴婦人たちの間に、甘美な毒のように広がっていった。彼女たちは、扇で口元を隠しながらも、その目は、好奇と軽蔑の色を浮かべて、舞台上の強敵へと向けられている。
そして、その噂の火に、油を注いだのが、リミナだった。彼女は、その華やかな容姿を武器に、若い貴族たちが集まる一角で、わざとらしく、そして、どこか物憂げに、ため息をついてみせた。
「ええ、その踊り子さん、本当にお可哀想に。お相手は、あれほど立派な体躯をなさっているのに、夜のお勤めは、全く…だそうですわよ」
その、あまりにも具体的で、そして致命的に侮辱的な一言に、若い貴族たちは、堪えきれずに、下品な笑い声を上げた。
ジアがばらまいた「不貞」の噂。そして、リミナが打ち込んだ「不能」という、男の尊厳を根底から破壊する、強烈な楔。その二つの噂は、瞬く間に、観覧席全体を席巻し、さざ波のように、舞台上の強敵の耳にまで、届き始めていた。
強敵は、フィナの、理路整然とした、しかし決して終わりの見えない弁論に、そして、原因不明の不快な香りに、既に、その集中力を削がれ始めていた。そこに、観衆から向けられる、奇妙な、そして、明らかに自分を嘲笑うかのような、視線と囁き声。
彼の、絶対的な支配者としての、完璧な仮面が、音を立てて、ひび割れていく。
「あの男、実は浮気してるらしいわよ!」 「しかも不能らしいわよ!」
どこからともなく聞こえてくる、その声。それは、彼の脳内で、不快な幻聴のように、反響し始めた。彼は、フィナの言葉が、もはや、全く頭に入ってこないことに気づいた。彼の思考は、今や、怒りと、そして、屈辱によって、完全に支配されていた。
「だ、黙れっ!!」
ついに、彼は、耐えきれずに、獣のような咆哮を上げた。 「戯言は終わりだ! 今すぐ、決闘を始めろ!」
その、あまりにも無様な狼狽ぶりに、観衆の失笑は、さらに大きなものとなる。
フィナは、その様子を、静かな目で見つめていた。彼女は、口元に、ほんのわずかな、勝利の笑みを浮かべる。 決闘は、まだ始まっていない。しかし、この情報戦という名の、第一ラウンドは、花の街の女たちの、完璧な勝利に終わっていたのだ。
決闘裁判の舞台は、前代未聞の事態に、奇妙な熱気と、そして予測不可能な緊張感に包まれていた。証人の裏切り、そして、力の象徴であるはずの篭手が、目の前で偽物とすり替えられていたという二重の屈辱。花の街の女たちが仕掛けた、あまりにも鮮やかな情報戦によって、強敵である指導者の威厳は、完全に失墜した。
彼は、もはや交渉や策略といった建前をかなぐり捨てていた。その虫の兜の奥で、複眼を模したレンズの向こう側で、瞳は、純粋な、そして濃密な殺意に燃え上がっている。彼の背後に控える、決闘の代表者であろう巨漢の戦士もまた、主の怒りに呼応するかのように、その岩のような筋肉を、不気味に蠢かせていた。
「…貴様ら」
指導者の、地を這うような低い声が、響き渡る。 「小賢しい真似を…。良いだろう、もはや裁判など不要。この場で、貴様ら全員を、力でねじ伏せてくれる」
その言葉と同時に、彼は、自らの代表である巨漢の戦士ではなく、自らが、腰に佩いた異形の剣を抜き放ち、フィナへと、一直線に襲いかかったのだ。ルールも、儀式も、もはや関係ない。彼は、自らをここまで侮辱した、この女の息の根を、自らの手で止めることしか、考えていなかった。
観衆が悲鳴を上げる。アロンソが、その巨体を動かそうとする。しかし、その全てよりも早く、動いた者がいた。
フィナの前、まるで地面から湧き出たかのように、一つの影が立ちはだかる。ラヴェルだった。彼女は、いつの間にか、フィナの護衛として、その傍らに控えていたのだ。
強敵の刃が、フィナの喉元を捉えようとした、その刹那。ラヴェルは、その巨大な盾を、まるで小さな手鏡でも扱うかのように、軽やかに、そして正確に、その斬撃の軌道へと滑り込ませた。
ガギィィィンッ!!
耳をつんざくような、甲高い金属音。しかし、ラヴェルの盾は、その衝撃を、ただ受け止めたのではなかった。彼女は、盾の表面を巧みに滑らせ、敵の剣の力を、完全に逸らし、受け流してみせたのだ。強敵は、自らの全力の一撃が、まるで柳に風と受け流されたことに、驚愕の表情を浮かべる。
そして、体勢を崩した彼の、がら空きになった胴体へ、ラヴェルは、盾そのものを、巨大な拳のように、叩きつけた。
轟音。強敵の、蜜猟の甲殻で作られた頑強な鎧が、その一撃で、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ、彼は、数メートル後方へと、呆気なく吹き飛ばされた。
決闘が、始まった。
しかし、それは、剣と盾が交錯する、騎士の決闘などではなかった。それは、ラヴェルという、異質な戦士による、一方的な「蹂躙」だった。
彼女は、盾とタックルをメインに戦う。しかし、その戦い方は、常軌を逸していた。彼女にとって、盾は、もはや防御のための道具ではない。その巨大な質量と硬度を、最大限に活用した、攻防一体の「武器」そのものだった。
吹き飛ばされ、体勢を立て直そうとする強敵へ、ラヴェルは、再び突進する。敵が、迎撃のために剣を振り下ろす。ラヴェルは、その刃を、盾の側面で受け流すと同時に、その勢いを利用して、自らの身体を回転させる。そして、その遠心力を全て乗せた盾の鋭利な縁を、巨大な剣のように、敵の肩口へと、叩きつけたのだ。それは、もはや「斬る」というよりも、「断ち割る」という表現が相応しい、凄まじい一撃だった。
強敵の肩の装甲が、悲鳴を上げて砕け散る。彼は、痛みにもがき、距離を取ろうとする。しかし、ラヴェルは、それを許さない。彼女は、盾を、まるでボクサーの拳のように、小刻みに、しかし一撃一撃が致命的な威力を持つ打撃として、敵の鎧の継ぎ目、兜の隙間、あらゆる弱点へと、的確に、そして無慈悲に、叩き込んでいく。
彼女の戦いにおいて、盾が、偶然、敵の攻撃を守ることがあったかもしれない。しかし、それは、彼女が防御を意識した結果ではない。ただ、彼女が、盾を、拳として、剣として、そして槌として振るう、その攻撃の軌道上に、偶然、敵の刃が存在した。ただ、それだけのことだった。
強敵は、完全に、混乱していた。目の前の、鎧もまとわぬ、物静かな薬師の女が、なぜ、これほどの、そして、これほど異質な力を持っているのか。彼の理解を、完全に超えていた。
ラヴェルは、ただ、無言だった。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。喜びも、怒りも、憎しみも。ただ、目の前の、仲間たちに害を為す「障害」を、最も効率的に、そして、完全に「排除」する。その、冷徹な目的意識だけが、彼女を動かしていた。
彼女は、この決闘裁判という、人の法と駆け引きの場で、ただ一人、自然界の摂理…弱肉強食という、絶対的な「理」を、体現していたのだった。
フィルは、決闘裁判の舞台から、少し離れた丘の上にいた。法によって、その場に立つことすら許されなかった彼は、ただ一人、木陰から、仲間たちの、そして、ラヴェルの死闘を、息を殺して見つめていた。
彼の目に映るのは、もはや、かつての物静かな薬師の姿ではなかった。ラヴェルは、巨大な盾を、まるで自らの手足のように、完璧に使いこなしていた。彼女の戦い方は、やはり異質だった。強敵が振るう大剣を、盾で受け止め、その衝撃を殺し、そして、その力を、何倍にもして相手に叩き返す。彼女は、ただの「タンク」ではない。彼女は、敵の力を利用し、それをそのまま破壊の力へと転換する、恐るべき「カウンター」の使い手だったのだ。
その、あまりにも人間離れした光景を、フィルは、ただ見ているだけではなかった。彼の頭脳は、その戦いの「理」を、驚異的な速度で、分析し、学習し、そして、自らの力へと昇華させていた。
(…同じだ)
彼の脳裏に、かつて、アロンソが港で、そして広場で見せた、あの「響き渡る一撃」の光景が、鮮明に蘇る。
(アロンソさんの、あの時の一撃と、理屈は同じだ。ラヴェル姉さんの盾も、ただ殴っているんじゃない。衝撃を、一点に集中させて、そこから、鎧の内側にだけ『響かせて』、内側から破壊してるんだ…)
力と力の、単純な衝突ではない。衝撃そのものを支配し、そのエネルギーを、最も効果的な形で、敵の内部へと送り込む。アロンソは、それを、自らの規格外の膂力とクレイモアの質量で。そして、ラヴェルは、盾という完璧な触媒と、相手の力を利用する超人的な体捌きで。手段は違えど、その根底に流れる力の法則は、全く同じだった。
そして、フィルは、その法則を、完全に理解した。 同時に、彼は、自らの内に眠る、あまりにも巨大な力の、本当の恐ろしさに、気づいてしまった。
(僕の力は、もっと広範囲だ。一点に集中させるんじゃない。一点から、全てを巻き込んで、爆発させる…)
彼の力が、これまで、いかに制御の効かない、危ういものであったか。そして、もし、その力の使い方を、アロンソやラヴェルのように、完全に「支配」できたとしたら。
彼は、丘の上から、戦場全体を見下ろした。死闘を繰り広げるラヴェルと強敵。その周囲で、固唾をのんで見守る、フィナやジアたち。そして、遠くに見える、この裁判の行方を見届けるために集まった、諸侯たちの軍勢。さらにその向こうには、自分たちが、命を賭して守ってきた、花の街の、美しい防壁。
その全てを、彼は、一つの「盤面」として、認識した。
そして、彼の心の中に、一つの、あまりにも冷徹で、そして、あまりにも魅力的な、悪魔の囁きが響き渡った。
(アロンソさんのやり方なら…この、「響かせる」力を使えば…)
もし、自分が、この大地の一点に、自らの力の全てを、衝撃として叩きつけたら。
(敵も、味方も、この裁判の舞台も、そして、あの街ごと…一斉に破壊できる)
それは、全ての苦悩と、戦いを、一瞬で終わらせることができる、究極の、そして、最悪の選択肢。彼は、自らが、神にも、悪魔にもなれる、途方もない力の、その入り口に立っていることを、自覚してしまったのだ。
その、恐ろしい思考が、彼の頭を支配しかけた、その時。
戦場で、ひときわ大きな破壊音が響いた。ラヴェルが、強敵の鎧の、最後の防御を、盾の一撃で完全に粉砕し、その巨体を、地面へと叩き伏せたのだ。
決着。
ラヴェルが、静かに、しかし力強く、勝利を告げる。観衆から、遅れて、驚愕と、そして賞賛の歓声が上がった。フィナとリミナが、ラヴェルの元へと駆け寄っていく。
フィルは、その光景を、ただ、静かに見つめていた。彼の表情に、仲間たちの勝利を喜ぶ、純粋な笑顔はなかった。
彼は、足元に転がっていた、ただの小さな石ころを、そっと拾い上げる。そして、その石を、まるで何かを確かめるかのように、その掌の中で、強く、強く、握りしめた。
決闘裁判は、終わった。街は、守られた。 しかし、フィルの心の中では、今、まさに、彼自身が、これまで経験したことのない、最も恐ろしい敵となって、彼に牙を剥こうとしていた。