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第五章-宵が明くまで嵐しか知らず

羽音と衝撃音が消え去った世界は、奇妙なほど静かだった。鼓膜の奥で鳴り続けていた金属的な共振が、ゆっくりと現実の音に塗り替えられていく。風が、破壊された建物の隙間を吹き抜けていく微かな音。遠くで聞こえる、誰かの荒い呼吸。そして、自分自身の、早鐘のように打つ心臓の音。

鼻をつくのは、勝利の匂いなどではなかった。焼けた蜜の甘ったるい匂いと、硝煙の辛辣な香り、そして踏み躙られた無数の花々が放つ、むせ返るような青い香りが混じり合い、広場全体に重く垂れ込めている。アロンソの一撃が穿った地面は黒く抉れ、そこから立ち上る地熱が、まるで大地そのものが傷口から熱を出しているかのように、空気を歪ませていた。

誰もが、その場から動けずにいた。アドレナリンという名の燃え盛る薪を使い果たし、今はただ、消耗しきった心身にのしかかる、途方もない疲労感に耐えている。

カンナは崩れた防壁に手を触れ、その表面を走る亀裂を、まるで手傷を負った仲間の肌を確かめるように、無言でなぞっていた。彼女の眉間には、悔しさと、次なる修復への算段が複雑に刻まれている。アロンソは、無骨なクレイモアに付着した黒い体液を、黙々と布で拭っていた。その表情は、神話的な武勇を見せた後とは思えぬほど静かで、彼の戦いが、喜びや昂揚とは無縁の、ただ遂行されるべき「義務」であることを物語っていた。

そしてフィルは、自らの武器であるスコップの柄に額を押し付け、激しい戦闘の反動で震える指先を、ただ見つめていた。彼の調整が、仲間たちの連携が、この勝利を導いた。しかし、そのために支払われた代償の大きさを、目の前の光景が何よりも雄弁に語りかけてくる。散り散りになった花弁の一枚一枚が、守りきれなかった命のように思えて、彼の胸を締め付けた。

その、誰もが言葉を失い、破壊の現実に打ちのめされていた静寂を破ったのは、フィナだった。

彼女は、傷ひとつない落ち着いた足取りで、広場の中心へと歩みを進める。その目は、悲嘆に暮れる仲間たちでも、積み上がった敵の死骸でもなく、ただ、大地に散らばった無数の花弁だけを見つめていた。彼女はその場に膝をつくと、泥と体液にまみれた花弁と土を、ひとすくい、手のひらに乗せた。

そして、静かに立ち上がると、仲間たちへと向き直った。その声は、穏やかだが、この場の誰の心にも届く、確かな力を持っていた。

「戦闘の被害状況を確認しましょう」

フィナは、手のひらの土と花弁を仲間たちに見せるようにして、厳しい現実を告げる。

「防壁は半壊、花畑の三分の一が機能を停止。このままでは、街は次の襲撃に耐えられない。…街が、もたないわ」

その言葉は、冷徹な事実だった。誰もが薄々感じていた、しかし認めたくなかった現実。オリヴァーが顔を伏せ、リミナが唇を強く噛んだ。しかし、フィナの言葉は、そこで終わらなかった。彼女の瞳には、絶望ではなく、その瓦礫の先にある、確かな光が灯っていた。

「でも、散った花は無駄じゃない」

彼女は、手のひらの土と花弁を、指の隙間からゆっくりとこぼしていく。それは、まるで種を蒔くような、祈りにも似た仕草だった。

「この花たちは、役目を終えたわけじゃないの。これは、次の命を育むための、何よりの礎になる。…肥料として、また新しい花を植えられるわ。前よりも、もっと強く、もっと美しい花をね」

再生と循環。破壊の果てにある、新たな創造。それは、この街が、そしてフィナという人間が持つ、揺るぎない哲学。その言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、仲間たちの疲弊した心へと静かに浸透していく。

フィルが、ゆっくりと顔を上げた。彼の目に、再び闘志の光が宿る。そうだ、終わりじゃない。ここから、また始めればいいのだ。

フィナは、その変化を見届けると、具体的な指示を出す。 「カンナ、あなたは防壁の修復を。まずは応急処置でいい。次の波が来る前に、最低限の守りを固めて」 「オリヴァー、アロンソ。二人は周囲の警戒と、まだ動ける蜜猟の残党狩りを。一体も、この街の内側で死なせてはならないわ」 「そして、リミナ、フィル。あなたたちは私と来て。この花を集めるわ。…私たちの、次の希望のためにね」

その声に、仲間たちは弾かれたように動き始めた。顔にはまだ疲労の色が濃い。しかし、その足取りには、先ほどまでの絶望的な重さはない。フィナが示した、明確な「次の一歩」が、彼らを再び奮い立たせたのだ。

広場では、泥と花弁にまみれながら、次の戦いの準備が始まった。それは、ただの後片付けではない。絶望の瓦礫の中から、未来の希望を一つひとつ拾い集める、神聖な儀式にも似ていた。


フィナの言葉によって、街には、瓦礫の中にあっても確かな「次の一歩」が生まれた。仲間たちがそれぞれの持ち場へと向かい、広場には槌音や資材を運ぶ声が響き始める。それは、絶望的な状況の中にあっても、この街がまだ生きていることを示す、力強い心音のようだった。

しかし、その希望の響きが届かない部屋が、一つだけあった。

戦闘の興奮という名の麻酔が、ゆっくりと切れていく。アドレナリンの奔流が引き、静寂が戻ってきた時、ベルの意識は、これまで経験したことのないほどの、純粋な激痛の奔流に飲み込まれていた。失われた腕。そこにあるはずのない腕が、まるで灼熱の鉄塊と化したかのように、彼の精神を内側から焼き尽くしていく。幻の指先が、助けを求めるように虚空を掻きむしり、そのたびに神経の断端が悲鳴を上げた。

だが、本当の恐怖は、それだけではなかった。

彼の体を蝕んでいたのは、もはや刃による傷だけではない。蜜猟の顎が彼の肉を食い破ったあの時、打ち込まれていたのだろう。微量だが、しかし確実に致死性を持つ毒が、彼の血管を伝って全身へと回り始めていたのだ。それは、熱を伴う痛みとは正反対の、全てを凍てつかせるような冷たい無力感だった。体の芯から力が奪われ、指一本動かすことすら億劫になる。呼吸は浅くなり、肌は血の気を失い、まるで蝋細工のように青白く変じていく。

痛みの灼熱と、毒の氷塊。その二つの相反する責め苦が、彼の小さな体の中で、その魂を削り取るように暴れ回っていた。

「ベル…!」

スレアは、彼の傍らで必死に看病を続けていた。ラヴェルから教わった全ての薬草を試し、解毒作用のある花の汁を布に含ませ、彼の唇を湿らせる。しかし、何の反応もない。つい先ほどまで、痛みにかすかに顔をしかめる反応を見せていたベルが、今はもう、人形のように動かなくなってしまったのだ。開かれたままの瞳は、天井の染みを映してはいるが、その奥には何の光も宿っていない。

彼女は、彼の冷たくなっていく手を握りしめる。彼女の役割は、記憶と喪失に寄り添うこと。だが、今まさに目の前で失われかけている命に対して、彼女はあまりにも無力だった。これまで蓄えてきた知識も、経験も、この未知の毒の前では何の意味もなさない。

「ベル…ベル…!どうして…」

その声は、嗚咽に近かった。彼女は、ただ祈るように、彼の名を呼び続けることしかできない。

外で響く、街の再建の槌音が、この部屋だけは、まるで遠い世界の出来事のように聞こえていた。希望の槌音は、かえってこの部屋の静けさと絶望を、残酷なまでに際立たせる。

スレアは、為す術もなく、ただ、ゆっくりと熱を失っていく少年の手を、握りしめていることしかできなかった。


ベルの病室は、希望が死に絶えたかのような、冷たい静寂に支配されていた。外で鳴り響いていた再建の槌音は、いつしか止んでいた。スレアの必死の看病も虚しく、ベルの呼吸は糸のようにか細くなり、その肌は命の温もりを急速に失っていく。仲間たちは、なすすべもなく、ただその光景を見守ることしかできなかった。

フィナは、部屋の入口で腕を組み、その怜悧な表情を固くこわばらせていた。あらゆる事態を想定し、常に次の一手を計算してきた彼女の頭脳が、この、ただ生命が失われていくだけの状況の前では、何の役にも立たない。フィルは、壁に背を預け、固く拳を握りしめていた。彼の桁外れの力は、この静かなる敵、毒の前では無力だった。どんなに強い一撃も、病を打ち砕くことはできない。その無力感が、彼の心を焦燥感で焼き尽くしていた。

スレアの嗚咽だけが、部屋の静寂をかき乱す。彼女が握るベルの手は、もう何の反応も返してはこなかった。

その、誰もが絶望の淵に立たされた、その時だった。

部屋の空気が、ふ、と変わった。蝋燭の炎が、風もないのに大きく揺らめき、薬草の匂いに混じって、どこか古びた土と、名も知らぬ夜来香のような甘い香りが、その場に漂い始めた。仲間たちがはっとして振り返った戸口に、いつの間にか、メルリウスが立っていた。先の戦いで単身、街の外の脅威を相手にしていたはずの彼は、その衣服に一片の汚れもなく、まるで散歩から戻ってきたかのような涼しい顔で、部屋の中の光景を眺めている。

彼の表情は、謎めいていた。その瞳には、目の前の凄惨な状況に対する同情や憐憫の色はない。ただ、まるで難解なパズルを解くかのように、深い探究心と、全てを見透かすような静かな光だけが宿っていた。

メルリウスは、音もなく室内へと歩を進め、ベルのベッドの傍らに立った。彼は、ベルの身体に直接触れることはしない。代わりに、懐から取り出した一枚の、見たこともない植物の葉を、ベルの顔の近くにかざした。すると、瑞々しかったはずの緑の葉は、まるで猛毒に触れたかのように、見る見るうちに黒く変色し、塵となって崩れ落ちていった。

「…蜜猟の毒か。厄介なものに手を出されたな」

彼の呟きは、絶望的な状況を再確認するものであったが、その口調には不思議と焦りがなかった。彼は、崩れ落ちた葉の残骸を一瞥すると、顔を上げ、途方に暮れる仲間たちへと視線を向けた。

そして、彼は、まるで世界の真理を告げるかのように、静かに言った。

「薬学に秀でた人物が一人いる」

その一言が、部屋の淀んだ空気に、一筋の光を投げ込んだ。スレアが顔を上げ、フィルとフィナの視線が、鋭くメルリウスに突き刺さる。希望。その言葉が、全員の脳裏をよぎった。

しかし、メルリウスは、その表情を崩さぬまま、残酷な現実を付け加える。

「だが、この街から遠く離れた場所にいる。道中には、先の戦いで我々が敵と認識した、王国の軍隊もいるだろう。…一人では、到底たどり着けん。危険すぎる」

それは、希望の光であると同時に、あまりにも過酷な試練の提示だった。ベルの命が尽きるのが先か、その危険な旅路の果てに救いを見出すのが先か。仲間たちは、再び、重い沈黙の中に突き落とされた。しかし、その沈黙は、先ほどまでの諦観に満ちたものではなかった。それは、次なる決断を迫られた者たちが抱く、覚悟のための沈黙だった。


メルリウスが提示した、唯一の、しかしあまりにも危険な希望。その言葉に、部屋は重い沈黙に包まれた。ベルを救うためには、誰かがこの街を出て、敵が徘徊する地を抜け、遥か遠くにいるという人物の元へたどり着かなければならない。誰が行く? この、一人でも戦力が惜しい状況で、誰がその危険な任に就けるというのか。フィルが、何かを決意したように一歩前に出ようとした、その時だった。

「私が行きます」

静かな、しかし凛とした声が、その場の全員の耳に届いた。ラヴェルだった。彼女は、いつの間にか部屋の隅から進み出て、メルリウスの正面に立っていた。普段、口を開くことの少ない彼女。だが、その瞳には、ベルを必ず救い出すという、燃えるような、そして揺るぎない決意の光が宿っていた。

「ベルは、私が守ります」

繰り返された言葉に、もう迷いはなかった。その場にいた誰もが、彼女の覚悟が本物であることを理解した。メルリウスは、ラヴェルの目をじっと見つめ、そして、満足したように深く頷いた。

「ラヴェル、お前が護衛につき、彼を連れて行け。都市周辺には軍隊もいる、気をつけろ」

メルリウスの言葉に、フィナとジアが、安堵のため息を漏らしたのが分かった。「ラヴェルが行くなら、大丈夫だ」という、絶対的な信頼が、その表情に浮かんでいる。その様子に、リミナだけが戸惑いを隠せずにいた。

「え、でも…ラヴェルさんって、薬師でしょ…? 戦うのは…」

その、素朴な疑問に答えたのは、フィルだった。彼は、どこか誇らしげな、そして心からの信頼を込めた声で言った。

「ラヴェル姉の戦い方は、僕やアロンソさんとは全然違うんだ。姉さんの戦いは『受け止める』こと。どんなに重い攻撃も、速い一撃も、あの盾で完璧に威力を殺して、相手が体勢を崩した、ほんの一瞬だけを狙って、盾そのもので殴り飛ばす。…ただ、それだけ。でも、僕も、この街の誰も、本気になった姉さんのあの盾を、まだ破れたことがないんだ」

ラヴェルは、仲間たちの会話を聞くでもなく、黙って旅の準備を始めた。しかし、その準備は、リミナの想像とはかけ離れていた。彼女は、重い鎧を身につけることも、剣や槍を手に取ることもない。ただ、いつも背負っている、自分の背丈ほどもある巨大な盾の位置を、背中で確かめるように調整しただけだった。

そして、彼女はベルが眠るベッドへと向かう。ラヴェルは、意識のないベルの体を、まるで壊れ物を扱うように優しく、しかし、片腕だけで、軽々と抱え上げた。その光景に、リミナは息をのむ。細身の、どこか儚げにさえ見える彼女の、どこにこれほどの力があるというのか。

ベルを片腕に抱き、巨大な盾を背負い、もう片方の手はいつでも薬草を取り出せるように空けておく。それが、彼女の旅のスタイルだった。

ラヴェルは、仲間たちに一度だけ静かに頷くと、決意を秘めた足取りで、部屋の出口へと向かっていく。その、あまりにも頼もしい後ろ姿を、リミナが呆然と見送っていると、隣に立ったフィナが、彼女にだけ聞こえるように、そっと囁いた。

「ラヴェルはね、花畑みたいな足場の悪い場所や、武器がないっていう条件なら、フィルに勝てる程度には強いわよ」

フィナは、こともなげに続ける。

「あの大盾で、本気を出せば城壁だって壊せるし…。なんというか、前線で奇跡を起こすタイプの、ジャンヌ・ダルクね」

リミナは、言葉を失った。あの物静かな薬師が、この街最強のフィルを凌ぐほどの力を持ち、城壁すら砕く怪物じみた強さを秘めていたとは。

(まさか…そこまで強いなんて…)

彼女は、遠ざかっていくラヴェルの後ろ姿に、畏怖と、そして絶対的な信頼の眼差しを向けていた。


ラヴェルがベルを抱え、西の門から旅立っていく。その小さな、しかしあまりにも頼もしい後ろ姿を、仲間たちは言葉もなく見送った。彼女が完全に視界から消え去ると、フィナはすぐに踵を返し、自らの持ち場へと戻っていく。感傷に浸っている時間はない。ラヴェルが信じて託してくれたこの街を、一刻も早く立て直さなければならない。その決意が、残された者たちの間にも静かに伝播し、それぞれが再び槌を、スコップを、あるいは武器を手に取った。

街には、再び再建のための槌音が響き始める。しかし、その音の裏で、誰にも感知できないはずの「異変」が、既に始まっていた。

メルリウスは、再建の輪から一人外れ、街の外周を縁取る巨大な樹の根元に、静かに佇んでいた。彼は、目を閉じ、その掌をごつごつとした樹皮にそっと触れさせている。植物を深く理解する彼は、その根を通じて、大地が発する微細な悲鳴を聞き取っていた。先の蜜猟の襲来とは、明らかに質の違う振動。それは、無数の軍靴が、寸分の狂いもなく隊列を組んで大地を踏みしめるような、冷たく、無機質な律動だった。

風向きが変わる。森の方角から吹いてくる風には、土や草花の匂いが混じっていなかった。代わりに、鉄が錆びる匂いと、何かを燻したような、化学的な悪臭が微かに含まれている。その風に触れた樹の葉が、まるで毒に侵されたかのように、その縁から僅かに丸まっていくのを、メルリウスは見逃さなかった。

新たな脅威。それも、自然の摂理から外れた、純粋な破壊のためだけに組織された軍勢。彼は、その正体を悟ると、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、驚きも恐れもない。ただ、自らの庭を荒らしに来た害虫を駆除する庭師のような、冷徹な静けさだけが宿っていた。

この敵は、アロンソの剛勇や、フィルの奇策、フィナの戦術といった、仲間たちの力を以て対処すべき相手ではない。彼らを巻き込めば、その消耗は計り知れない。そして何より、これから自分が振るう力は、あまりにも異質で、仲間たちに見せるべきものではなかった。

彼は、フィルの元へと向かった。フィルはリミナと共に、フィナの指示通り、散り散りになった花弁を肥料にするための一角に集めている。その懸命な作業に、メルリウスは声をかけた。

「この先は、私の仕事だ」

その声は穏やかだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は、街の外、新たな脅威が潜む森の方向を顎で示す。

「私が、押さえる。だから、ここはフィル、お前に任せる」

それは、問いかけではない。全幅の信頼を置いた、指揮権の委譲。フィルは、その言葉の真意を即座に理解した。師が、たった一人で、次の巨大な嵐に立ち向かおうとしている。その覚悟を受け取り、彼は泥に汚れた手で、強くスコップを握りしめた。

メルリウスは、もう何も言わない。ただ、フィルの肩を一度だけ軽く叩くと、身を翻し、東の門へと、静かに、しかし確かな足取りで歩き去っていった。


メルリウスが東の門の向こうへと消え、その姿が完全に見えなくなるまで、フィルはただ一点を、身動きもせずに見つめていた。先ほどまで師が立っていた場所には、もう誰もいない。しかし、その空気には、彼の言葉の重みが、まるで物理的な質量を持ったかのように、ずしりと残っていた。

『ここはフィル、お前に任せる』

それは、命令だった。そして、あまりにも大きな信頼の証だった。街の再建を指示するフィナの声、カンナが振るう槌音、仲間たちのざわめき。それらの音が、急に遠くなる。フィルの世界は、今、自分に託された「街を守る」という、たった一つの責任だけで満たされていた。

彼は、ゆっくりと自分の手のひらを見つめた。泥と花弁の汁で汚れ、先の戦闘の反動で微かに震えている。この手で、守り切れるのか。花の魔術師、剣の達人、そして自分たちが「師匠」と呼ぶ、あの規格外の存在が抜けた穴を、この小さな手で、埋めることができるのか。傍らに立てかけたスコップが、今はただの、あまりに頼りない鉄と木の塊に思えた。

無理だ、と本能が叫ぶ。メルリウスが一人でなければ抑えられないほどの脅威が、今まさにこの街へと迫っている。その事実が、鉛のように重く彼の心に沈み込む。恐怖が、彼の足元から這い上がってくるようだった。

しかし、その恐怖を打ち消したのは、他でもない、メルリウス自身の姿だった。フィルは、去り際の師の背中を思い出す。そこには、悲壮感も、焦りも、一切なかった。ただ、庭師が自らの庭を手入れしに行くような、絶対的な自信と、静かな日常の空気があった。

そうだ、とフィルは思う。師匠は、自分たちが負けることなど微塵も考えていない。だからこそ、この街を自分に「任せた」のだ。それは、試練であると同時に、お前ならできる、という師からの信頼そのもの。その信頼を、裏切ることなど、できるはずがなかった。

フィルの手の震えが、ぴたりと止まった。

彼は、顔を上げる。その瞳には、もう迷いも、恐怖もなかった。彼は、今まで杖のように寄りかかっていたスコップを、その柄が軋むほど、強く、強く握りしめた。それはもはや、土を掘るための道具ではない。この街を、仲間たちを、そして師匠が信じてくれた自分自身を守り抜くための、覚悟の象徴だった。

彼は、共に花弁を集めていたリミナへと向き直り、そして、広場で作業する仲間たち全員に聞こえるよう、力強く叫んだ。

「師匠が押さえてくれている間に、僕たちが街を守るんだ!」

その声に、槌音を響かせていたカンナが、汗を拭いながら振り向いた。高台のオリヴァーが、地図を広げていたフィナが、一斉にフィルへと視線を向ける。彼らは見た。そこに立っているのが、ただの小柄な少年ではないことを。師から街を託され、その重責を真正面から受け止めて立つ、一人の「指揮官」の姿を。

仲間たちの間に、無言の、しかし力強い意志が交錯する。フィルの決意は、彼ら全員の決意となった。

フィルは、もう立ち止まらない。彼はスコップを担ぎ直し、カンナが作業する防壁の方角を指差した。

「リミナ、こっちの区画の花は任せる! 僕はカンナさんの所へ行く! 防衛設備の配置を、もう一度根本から見直すぞ!」

その背中は、師であるメルリウスと比べれば、あまりにも小さく、頼りないかもしれない。しかし、その一歩一歩には、この街の未来の全てが、確かに託されていた。


フィルの叫びは、街全体に新たな意志を吹き込んだ。師から託された重責を、彼は一人で背負い込んだのではなかった。その決意を、仲間たち全員が、自らの決意として共有したのだ。メルリウスという絶対的な盾が、今この瞬間も自分たちのために戦ってくれている。その信頼が、彼らを絶望の淵から引き上げ、次なる戦いへと突き動かしていた。

フィナは、広場に広げられた地図を前に、指揮官としての役割を完璧に遂行していた。彼女の冷静な声が、的確に指示を飛ばす。 「カンナ、西側の防壁の修復を最優先で。敵はそこが最も手薄だと知っているはず。ただ塞ぐのではなく、あえて侵入経路を限定させるような形で再建して」 「ジア、調達してきた武器の分配を。火薬は貴重品よ、無駄弾は許されない。オリヴァーには、威力の高い特殊な矢を優先的に回して」 彼女の言葉には一切の迷いがない。戦術の全てが、彼女の頭の中では既に組み上がっているのだ。

その指示を受け、カンナは破壊された防壁の前で、一人、黙々と作業を続けていた。彼女の細身の腕が、巨大な石材を軽々と持ち上げ、寸分の狂いもなく積み上げていく。その瞳に宿るのは、虫に対する純粋な憎悪。その憎しみが、彼女の身体に人間離れした力を与えていた。彼女が振るう槌音は、ただの作業音ではない。来るべき敵に対する、彼女の怒りの表明そのものだった。

遥か高台の監視塔では、オリヴァーが膝をつき、毒矢の製作に集中していた。彼の指先は、かつて膝を砕かれた時の震えを、今はもう見せてはいない。ラヴェルが残していった、麻痺性の高い花の汁を、彼は一本一本の矢尻に、祈りを込めるように丁寧に塗り込んでいく。彼の役割は、遠距離から敵の急所を確実に射抜くこと。その一射が、仲間たちの命運を分けることを、彼は誰よりも理解していた。

そして、街の倉庫では、ジアが海賊船から調達してきた物資の仕分けを行っていた。彼女の目の前には、火薬や武器の他に、予想だにしなかったものが山と積まれている。それは、驚くほど質の高い、応急処置のための道具一式だった。

「…なんなのよ、これ…」

ジアは、綺麗に洗浄され、消毒用のアルコールまで添えられたメスや縫合針を手に取り、思わず呟いた。海賊たちが使っていたとは思えないほど、衛生的で、専門的。まるで、熟練の外科医が使う道具だ。彼らは、独自に高度な医療技術を確立していたのだ。

その事実が、ジアにある一つの恐ろしい確信をもたらした。彼らは、なぜこれほどの準備をしていたのか。それは、これほどの道具がなければ、生き残れないほどの脅威から、逃げていたからに他ならない。金よりも、命よりも、優先すべき恐怖。その正体は、メルリウスが今まさに一人で対峙している、あの計り知れない敵なのだ。ジアは、仕分けた医療品をスレアの元へ届けながら、来るべき戦いの苛烈さに、改めて身を引き締めていた。

街の誰もが、それぞれの持ち場で、迫りくる嵐に備えていた。その静かで、しかし確かな営みは、メルリウスという絶対的な守護者への信頼によって支えられている。彼の行動の真意を誰も知らない。だが、彼がそこにいるという事実だけで、彼らは自らのなすべきことに集中できるのだ。街は、静かに、しかし着実に、次の戦いへの牙を研いでいた。


陽が傾き、街が長い影に覆われ始める頃、あれほど喧噪に満ちていた再建の槌音は、次第に数を減らし、やがて静寂が訪れた。しかし、それは疲弊や諦めからくる静けさではなかった。来るべき夜と、それに続くであろう嵐の前の、息を潜めるような、研ぎ澄まされた静寂だった。

街の誰もが、メルリウスの行動の真意を詳しくは知らない。彼が今、どこで、どのような敵と、いかにして戦っているのか。その謎めいた力の片鱗さえ、想像することはできなかった。彼が勝利したのか、あるいは苦戦しているのか、その安否すら定かではない。

だが、それでよかった。

あの花の魔術師が、街と外の世界を隔てる巨大な防壁として、今この瞬間も、ただ一人、立ってくれている。その絶対的な事実だけが、仲間たちの心から純粋な恐怖を遠ざけ、自らのなすべき作業に集中するための、揺るぎない礎となっていた。彼の存在が、この街の精神的な支柱そのものだった。

フィナは、広場の指揮所で最後の指示を出し終えると、一枚の布を手に取り、アロンソが戦いで汚したクレイモアを、黙って磨き始めた。それは、彼女なりの、歴戦の騎士への感謝と信頼の表明だった。ジアは、仕分けを終えた武器と医療品の一覧を、記憶と寸分違わぬ正確さで帳簿に記していく。来るべき戦いでは、一つでも物資が足りなければ、それが誰かの死に直結する。彼女のペン先には、街の全員の命が乗っていた。

高台のオリヴァーは、矢の製作を終え、今はただ、静かに街の外を見据えている。彼の目は、闇に慣れようとするかのように、水平線の彼方を、瞬きもせずに見つめ続けていた。カンナは、応急処置を終えた防壁に背を預け、自らの仕事に一点の抜かりもなかったかを、厳しい表情で検分している。

そしてフィルは、自らに託された「指揮官」という役割の重さを、改めて噛み締めていた。彼は、仲間たち一人ひとりの働きを目に焼き付け、この街が決して自分一人の力で成り立っているのではないことを、深く、そして誇らしく感じていた。師匠が信じてくれたのは、自分だけではない。この街に生きる、全員の強さなのだと。

街は静かに、しかし着実に、次の戦いへの準備を完了させていた。窓から漏れる灯りは、以前よりもずっと少ない。しかし、その一つ一つの光は、決して消えることのない、強い決意の光となって、夜の闇の中で、力強く輝いていた。彼らは、もう嵐を恐れない。ただ、その訪れを、静かに待つだけだった。


ラヴェルが旅立ち、メルリウスが単身で脅威に立ち向かう中、街はフィルとフィナの指揮のもと、つかの間の、しかし濃密な静寂に包まれていた。誰もが、次なる嵐が森の方向から来ると信じ、その一点に全ての意識を集中させていた。

その均衡を破ったのは、海だった。

「…水平線に、何かが」

監視塔に立つオリヴァーの、緊張をはらんだ声が響き渡る。仲間たちが一斉に、街の背後である港へと視線を向けた。そこには、信じがたい光景が広がっていた。地平の彼方に、黒い船影の列。それは、昨日まで戦っていた海賊の寄せ集めなどではない。統一された設計、整然とした隊列、そして掲げられた旗。街の焼却を画策する、あの組織の海軍が、威圧するように、しかし一切の迷いなく、港を目指して進軍してきていたのだ。

街の背後、完全に警戒の外側からの奇襲。フィナの顔から、初めて冷静さ以外の色が消え、険しいものへと変わった。

だが、脅威はそれだけではなかった。

海軍の船団に呼応するかのように、海岸線の崖や岩陰から、無数の蜜猟が姿を現し始めた。ブゥン、という地を這うような重い羽音が、海からの湿った風に乗って街へと届く。彼らは上陸するでもなく、街に突撃するのでもなく、ただ、砂浜の上に集結し、アロンソただ一人を睨みつけるように、分厚い壁を形成していく。海からの軍勢と、陸からの怪物。完璧に連携された、二正面からの波状攻撃だった。

「…まずい」

フィルの口から、思わず声が漏れる。仲間たちが育てた花畑は、全て街の内陸側にある。この、広々とした海岸線には、彼らの戦いを補助する花も、敵の動きを阻害する棘も、何も存在しない。特に、アロンソの「響き渡る一撃」は、強固な足場があってこそ、その威力を最大限に発揮する。柔らかな砂浜は、彼の衝撃を吸収し、その人間離れした力を半減させてしまうだろう。ここは、アロンソにとって最悪の戦場だった。

「アロンソ!」

フィナが決断を下す。その声は、街全体に響き渡る、悲痛な、しかし力強い指令だった。

「街は私たちが守る! あなたは、上陸を阻止して!」

その言葉に、アロンソはただ、静かに頷いた。彼は、仲間たちに背を向け、一人、クレイモアを担いで砂浜へと歩を進めていく。一歩、また一歩と、柔らかな砂に足を取られながらも、その歩みは揺るがない。

彼の目の前には、空を覆い尽くすほどの蜜猟の群れ。 そして、その背後には、着実に距離を詰めてくる、鋼鉄の船団。

絶望的な戦況。圧倒的な戦力差。そして、自らの力を最大限に発揮できない、最悪の地形。 その全てを、彼はただ一人で、受け止めようとしていた。


アロンソは、眼前に広がる絶望的な光景を、ただ一瞥した。眼前の砂浜を埋め尽くす蜜猟の群れ。その向こう、海を黒く染める軍艦の列。常人であれば、その光景だけで戦意を喪失するだろう。しかし、彼の選択は、常人の理とはかけ離れていた。

彼は、逃げも、守りもしない。ただ、前へ。

重装鎧が砂を蹴り、地響きのような足音を立てて、アロンソは海へと向かって突撃を開始した。その姿は、まるで陸から海へと進撃する、一体の攻城兵器。彼の前進を阻もうと数匹の蜜猟が飛びかかるが、彼はクレイモアを振るうことすらせず、その分厚い肩と腕で弾き飛ばし、突き進んでいく。

波打ち際に到達した彼は、速度を緩めることなく、そのまま海へと飛び込んだ。水飛沫が巨大な華のように咲き乱れる。腰まで海水に浸かりながらも、彼の歩みは止まらない。沖合では、軍艦から降ろされた上陸用の小舟が、兵士を満載して岸へと迫っていた。

「海は、お前たちのような輩が踏み入れる場所ではない!」

アロンソの咆哮が、海鳴りにも似て響き渡る。彼は、目前の上陸艇へとクレイモアを振りかぶった。しかし、狙いは船体ではない。そのすぐ横の、海面。

ゴォンッ!!

剣が海を叩き、凄まじい衝撃波が水中を走った。次の瞬間、小舟の真下の海が、まるで海底火山の噴火のように、巨大な水柱となって爆ぜ上がる。衝撃波と水圧に煽られた小舟は、木の葉のように宙を舞い、兵士たちを海へと投げ出しながら、真っ二つに砕け散った。彼の「響き渡る一撃」は、大地だけでなく、海すらも武器に変えるのだ。

アロンソは、次々とその神業を繰り返す。海を叩き、水柱を上げ、軍の上陸部隊を赤子の手をひねるように無力化していく。その圧倒的な光景に、砂浜で待機していた蜜猟の群れが、僅かに統率を乱した。

その、一瞬の隙。それを見逃す者ではなかった。アロンSOは海から陸へと向き直り、蜜猟の群れを睨みつけた。

その時、蜜猟の群れが、モーゼの前の海のように、左右に割れた。その奥から、一体だけ、明らかに他とは違う存在が姿を現す。一回りも二回りも巨大な体躯。黒曜石のように硬質で、鈍い光沢を放つ甲殻。そして、その頭部に鎮座する、王冠にも似た金色の突起。蜜猟の女王、「蜂皇」だった。

蜂皇は、他の蜜猟のような無機質な羽音ではない、まるで意思を持つかのような、低く威厳のある唸りを上げて、アロンソへと一直線に突進してきた。

アロンソもまた、それを真正面から迎え撃つ。渾身の力を込めて振るわれたクレイモアが、蜂皇の硬い殻と激突した。

キィィィィンンッ!!

これまで、あらゆるものを粉砕してきたはずの一撃が、初めて、止められた。衝撃音は共振せず、甲高い金属音となって周囲に響き渡る。火花が散り、アロンソの巨体が、生まれて初めて、力負けして一歩後退させられた。彼のクレイモアの刃に、信じられないことに、僅かな刃こぼれが生じている。

蜂皇の甲殻は、アロンソの理を超えた力すらも通用しない、規格外の硬度を誇っていたのだ。蜂皇は、アロンソの一撃を防ぎきると、その巨大な毒針を、まるで熟練の剣士が振るうレイピアのように、鋭く、そして正確に、アロンソの鎧の隙間へと突き込んできた。

アロンソは、辛うじてそれを盾で受け流すが、彼の顔には初めて、焦りと苦戦の色が、はっきりと浮かび上がっていた。


はい、承知いたしました。 アロンソが切り札を使い、蜂皇との戦局を打開しようとする場面ですね。二つの剣を手に、絶望的な状況を覆す彼の戦いを、アクション描写をさらに増量して執筆します。


アロンソは、初めて力負けするという屈辱に、奥歯を強く噛みしめた。蜂皇の甲殻は、彼のクレイモアが放つ「響き」の理すら通用しない、絶対的な硬度を誇っていた。単純な力押しでは勝てない。その事実を、歴戦の騎士は即座に受け入れた。そして、次なる一手へと移行する。

彼は、蜂皇の鋭い毒針をクレイモアの腹で受け流しながら、巧みに後方へと跳んだ。海水が彼の足元で激しく跳ね、一時的に二人の間に距離が生まれる。その、ほんの僅かな時間。アロンソは、空いた左手で背中に手を伸ばし、これまで誰も見たことのなかった、もう一振りの剣を引き抜いた。

それは、剣と呼ぶにはあまりにも異質で、そして美しすぎる代物だった。

刀身は、まるで深海の水をそのまま固めたかのような、透明度の高い硝子で形成されている。月明かりを乱反射し、その輪郭は淡い光の虹を纏っていた。それは、この地の海底に生息し、二酸化ケイ素で自らの巣を構築するという稀有な生物「海泡」の結晶組織を、極限まで鍛え上げて作られた特殊な武具だった 。あまりにも鋭利で、あらゆるものを切り裂くが、一度でも強固なものに当たれば、その刀身は自らの鋭さに耐えきれず、粉々に砕け散る。破壊されることを前提とした、一度きりの必殺剣。「硝子剣」。

アロンソは、右手に重厚なクレイモアを、左手に軽やかな硝子剣を構えた。静と動、破壊と必殺。二つの相反する理をその両腕に宿し、彼は再び、蜂皇へと対峙する。

蜂皇は、その異質な武器を警戒したのか、これまで以上に激しい猛攻を仕掛けてきた。しかし、アロンソの戦い方は、先ほどまでとは明らかに変わっていた。彼はクレイモアを、攻撃のためではなく、ただ、蜂皇の毒針を受け流すための「盾」としてのみ使用する。重い一撃をいなし、体勢を崩さず、ひたすらに耐えながら、その目は、ただ一点だけを狙っていた。蜂皇の分厚い甲殻、その胸部の中央に存在する、僅かな継ぎ目を。

そして、好機は訪れた。蜂皇が、アロンソの防御をこじ開けようと、最大の一撃を突き込んできた。アロンソはそれをクレイモアで受け流すが、あえて衝撃を殺しきらず、その身を大きく後方へと飛ばされる。それは、敗北の体勢ではなかった。次なる一撃のための、完璧な布石。体勢を崩した蜂皇の胸元が、ほんの一瞬だけ、がら空きになった。

アロンソは、吹き飛ばされた勢いを殺さぬまま、空中で身体を回転させ、地を踏みしめるのと同時に、その全身の力を、左腕の硝子剣へと注ぎ込んだ。

「────」

声なき気合と共に、硝子剣は、光の軌跡を描きながら、蜂皇の甲殻の継ぎ目へと、吸い込まれるように突き刺さった。

パリンッ、という軽い音と共に、硝子剣は砕け散った。しかし、それはただ壊れたのではなかった。刀身は、無数の、目に見えぬほどの微細な刃となって爆ぜ、蜂皇の甲殻の内部へと食い込んでいく。それは、硬い装甲の表面に、無数の亀裂を刻み込む、必殺の「楔」だった。

蜂皇が、初めて苦悶の声を上げる。その硬直は、一秒にも満たない。 だが、アロンソにとって、その時間は、永遠にも等しかった。

硝子剣が砕け散った、その直後。彼は、がら空きになった右腕で握るクレイモアを、今度は、海水を抉り上げるように、下から上へと、全力で切り上げていた。

狙いは、先ほど硝子剣が穿った、ただ一点。

ゴォンッ!!

これまでとは明らかに違う、鈍く、そして重い破壊音が響き渡った。アロンソの響き渡る一撃が、硝子剣が作った無数の亀裂に叩き込まれ、ついに、あの絶対的な硬度を誇った蜂皇の甲殻を、内側から粉砕したのだ。

黒い体液が、噴水のように夜空へと舞い上がる。蜂皇は、耳を劈くような絶叫を上げ、大きく後方へと吹き飛ばされた。

アロンソは、硝子剣の柄だけが残った左手と、クレイモアを握る右手を構えたまま、荒い呼吸を繰り返す。彼は、多大な代償と引き換えに、ついに、この海の女王に、初めての一太刀を浴びせたのだった。


アロンソが振るうクレイモアが、夜の闇を切り裂き、蜂皇の弱点へと迫る。その、コンマ数秒にも満たない時間の中で、彼の脳裏には、託されたもう一つの剣の記憶が、鮮明に蘇っていた。

硝子剣。 それは、彼が仕える主君から、この任に就く際に授けられた、文字通りの「一振り」だった。その刀身を構成する「海泡」の結晶組織は、現実世界のウラン鉱石がそうであるように、衝撃によって砕けることで、より鋭利な破片と化して対象を穿つという、特異な性質を持つ。硬いものに当たるほど、その破片は鋭さを増し、敵の甲殻を内側から蝕むのだ。だからこそ、この剣は破壊されることを前提として作られている。人の柔らかな肉体に対して使えば、ただ過剰なだけの破壊を引き起こす。これは、人ならざる者、分厚い甲殻や鱗に覆われた、神話の時代のような怪物と対峙するためだけに存在する、対怪物用の切り札。そのあまりにも専門的すぎる性質と、それを振るうために必要な人間離れした膂力故に、この剣はアロンソに託されたのだった。

そして今、その「一振り」は、確かに役目を果たした。

ゴォンッ!!

硝子剣の破片が穿った一点に、アロンソの全力の一撃が叩き込まれる。これまで彼の力を完全に弾き返していた蜂皇の甲殻が、ついに、砕け散るガラスのような、甲高い悲鳴を上げた。分厚い装甲が内側から破裂し、黒い体液と、虹色に煌めく硝子の破片が、夜の海へと盛大に撒き散らされる。

蜂皇の巨体が、凄まじい絶叫と共に、くの字に折れ曲がった。勝利。アロンソは、確かにこの不落の女王を打ち破ったのだ。

しかし、その勝利は、彼が望んだ結末ではなかった。

アロンソの一撃は、あまりにも、その力が強すぎた。彼の膂力と、クレイモアの質量、そして蜂皇自身が後方へ跳んだ力が合わさり、凄まじい相乗効果を生み出してしまったのだ。蜂皇の巨体は、ただ後退するのではなく、まるで砲弾のように、ありえない速度で、沖合の、海軍の船団がいる方角へと、一直線に吹き飛ばされてしまった。

夜の海に、巨大な水柱が上がる。しかし、蜂皇が沈んだ気配はない。傷を負いながらも、彼女は海上に浮かび、体勢を立て直そうとしている。そして何より、彼女は今や、アロンソの手が届かない、味方の艦隊のすぐそばまで退却してしまったのだ。

砂浜に残っていた蜜猟たちが、女王の危機を察知し、一斉にその後を追って海へと飛び込んでいく。彼らは、もはやアロンソを攻撃しようとはしない。ただ、女王を守るため、そして再編成のために、海軍の元へと撤退していく。

アロンソは、その光景を前に、立ち尽くすことしかできなかった。彼の目的は、女王を討ち取ること、そして何より、この海岸線から敵を一掃し、上陸を「阻止」することだった。しかし、結果として、彼は敵の指揮官を、その本隊の元へと送り返してしまったのだ。

「くそっ…」

彼は、硝子剣の柄だけが残った左の拳を、怒りと共に、膝元の海面へと叩きつけた。

「力加減を、間違えたか…!」

その声は、誰に聞かせるでもない、彼自身の、痛恨の呟きだった。彼は目の前の決闘には勝利した。しかし、この海岸線を守るという、より大きな戦いにおいては、決定的な失敗を犯してしまったのだった。


夜の海から、アロンソが一人、戻ってきた。彼の全身は、潮と、蜂皇の黒い体液、そして自らが流したであろう血で濡れていた。その巨躯からは、疲労よりも、目的を果たせなかったことへの、静かで、しかし燃えるような憤りが滲み出ている。彼がその場に立つだけで、戦いの凄まじさと、そして訪れた「失敗」という名の結末を、仲間たちは痛いほど理解した。

広場に設置された、フィナを中心とする臨時の作戦指令室。その中央に置かれた地図の上に、アロンソは、柄だけになった硝子剣を、ことりと置いた。

「…蜂皇は退けた」

その声は、低く、そして悔しさに満ちていた。

「だが、仕留め損ねた。奴は、海軍の本隊と合流しただろう。こちらの切り札も、見せた。…俺の、失態だ」

その言葉に、誰もアロンソを責める者はいなかった。彼が、どれほど人間離れした戦いを繰り広げたかは、遠目にも明らかだったからだ。しかし、その結果が、街をより一層、絶望的な状況へと追い込んだことも、また事実だった。

フィナは、地図の上に置かれた硝子剣の残骸を、厳しい目で見つめていた。彼女の思考は、既に次の局面へと移っている。 「いいえ、あなたの失態ではないわ、アロンソ。敵の指揮官が、こちらの予想を上回る強度を持っていた。ただ、それだけのこと。…でも、これで状況は最悪になった」

彼女は、地図上の、港を指し示す。 「敵は、こちらの最大の戦力であるあなたの力を、その目で見た。次は、あなたのその力を上回る物量で来るか、あるいは、あなたの力が通用しない、もっと別のやり方で来る。…そして、今の私たちに、その両方に対応する力はない」

フィナの冷静な分析が、仲間たちに、覆い隠しようのない現実を突きつける。 メルリウスは、森に潜む大軍を一人で抑えている。 アロンソは、海からの侵攻を、今や手負いの女王が率いる、より警戒心の強い軍勢相手に、一人で支えなければならない。 街に残された戦力では、どちらか一方でも支えきれるかどうか。

「防壁の修復も、次の波が来れば無意味だ。物量が違いすぎる」 カンナが、土に汚れた手で、悔しげに呟いた。

「私たちだけじゃ、もう…」 フィルの声が、震える。

その、誰もが打開策を見出せずに、重い沈黙に支配された、その時。 フィナが、顔を上げた。その瞳には、苦渋と、そして、これまで決して選ぶことのなかった選択肢へと向かう、悲壮な決意が宿っていた。

「アロンソ一人の力では、上陸を完全に阻止することはできない。このままでは、街は焼かれてしまう」

彼女は、仲間たち一人ひとりの顔を見渡し、そして、はっきりと言った。

「私たちは、誰かの助けが必要よ」

その言葉は、これまで自らの力だけで街を守り抜いてきた彼らにとって、ある種の「敗北宣言」にも等しかった。しかし、もう、意地や誇りで乗り切れる局面ではない。フィナは、街の指導者として、最も困難な、しかし唯一残された道を選んだのだ。

では、誰に助けを求めるのか。王国から「囮」として見捨てられたこの街に、手を差し伸べる者など、いるというのか。 仲間たちが、新たな、そしてより困難な問いを前に、再び沈黙した、その時だった。 これまで静かに戦況を見つめていたジアが、ふと、何かを思いついたように、その瞳を鋭く光らせた。


フィナが絞り出した「誰かの助けが必要」という言葉。それは、この街に残された、最後の、そして最も不確かな道だった。仲間たちが、一体誰に、どうやって助けを求めればいいのか、答えを見出せずに沈黙する中、ただ一人、ジアだけが、既にその先の地図を描いていた。

彼女は、作戦司令室と化した広場のテーブルから静かに立ち上がると、フィナに向かって言った。

「助けを求める、と言っても、ただの傭兵や貴族じゃ意味がないわ。私たちが相手にしているのは、王国の中枢、焼却計画を主導する、顔の見えない巨大な組織。なら、こちらも同じ土俵で戦える相手でなければ、交渉のテーブルにすら着けない」

その言葉には、旅商人として数々の裏取引を潜り抜けてきた彼女ならではの、冷徹な現実認識があった。彼女は、自分の懐から、古びた羊皮紙の切れ端と、特殊なインクの入った小瓶を取り出す。

「心当たりが、一つだけある。…父が遺した『情報網』の中にね」

海軍将校であった彼女の父は、その公的な地位の裏で、王国中のあらゆる勢力と、独自の繋がりを築いていた。それは、清濁併せ呑む、危険な蜘蛛の巣。ジアは、その使い方を、幼い頃から叩き込まれていたのだ。

その夜、ジアは一人、街で最も高い鐘楼の、小部屋にいた。そこは、街の人間ですら滅多に立ち入らない、忘れ去られた場所。彼女は、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、羊皮紙に、誰も解読できないはずの、複雑な文様を描いていく。それは手紙ではない。遠いどこかにいる「誰か」にだけ通じる、光学的、かつ魔術的な暗号通信の準備だった。

準備を終えた彼女は、窓際に特殊なレンズを設置し、月光が羊皮紙の文様を通り抜けるのを、息を殺して待った。やがて、文様は淡い光を放ち、その光が、部屋の隅に置かれた水盤の表面に、複雑な波紋を描き出した。その波紋の中心から、人の声ではない、しかし明確な意志を持つ、奇妙な反響音が、微かに響き始める。通信が、繋がったのだ。

ジアは、その見えない相手に向かって、一切の動揺を見せずに、静かに語り始めた。

「…ええ、聞こえているわ。あなた方が、喉から手が出るほど欲しがっている情報を持ってきてあげた」

彼女は、水盤に映る自分の顔を見つめながら、言葉を続ける。その口調は、助けを乞う者のそれではない。対等な、あるいは、それ以上の立場から語りかける、交渉人のものだった。

「焼却計画の指導者…『あの人』のせいで、あなた方の商売ビジネスも、裏社会での立場も、随分と危うくなっているそうじゃない? このままでは、あなた方も、あの人の養殖した虫のエサになるか、王国の炎に焼かれるか、選ばなくてはならなくなる」

彼女は、相手の弱みを、その胸元にナイフを突きつけるように、的確に、そして容赦なく抉っていく。水盤の波紋が、僅かに乱れた。相手が、動揺している証拠だ。

ジアは、その変化を見逃さず、唇の端に、微かな笑みを浮かべた。勝機はこちらにある。彼女は、最後の切り札を切った。

「だから、取引しましょう。あなた方の敵を潰すために、この街の力を使わせてあげる」

彼女の声は、静かだが、絶対的な自信に満ちていた。 「花の街が持つ、規格外の戦闘力と、あの花の魔術師の知識。これら全てを、あなた方の悲願成就のために、期間限定で貸し出す。…もちろん、見返りは、私たちの街の完全な保全と、あなた方が持つ最大戦力での『援軍』よ」

水盤の波紋が、完全に静止した。見えざる相手が、息を飲んでいる。ジアは、その返事を待つ。この、街の存亡を賭けた、あまりにも危険な取引の行方を、彼女はただ一人、この薄暗い小部屋で、静かに見定めていた。


水盤に響く、見えざる相手からの返答。それは、勝利の宣言でも、敗北の宣告でもなかった。ただ、絶対的な強者の立場から発せられる、冷徹な要求。

『街を救うことはできる。だが、その代償として、お前たちの最も大切なものを差し出せ』

その言葉に、常人であれば恐怖し、竦み上がるだろう。だが、ジアの唇には、逆に、不敵な笑みが浮かんでいた。彼女は、この返答を完全に予測していた。そして、そのための「手土産」も、既に用意してある。

彼女は、傍らに置いていた、みずみずしい花々で編まれた美しい花束を手に取った。それは、この街でしか咲かない、特殊な効能を持つ花の種を巧妙に隠し持たせた、未来への投資そのもの。

「私たちの、最も大切なもの…。ええ、分かっているわ。それは、この街の花が生み出す『可能性』、そのものでしょう?」

ジアは、その花束を、まるで祭壇に供物を捧げるかのように、そっと水盤の中へと差し入れた。花束は、水面に触れた瞬間、淡い光となって溶け、見えざる相手の元へと転送されていく。

「この花束には、その全てが詰まっているわ。未来を約束する希少な花の『種』も、そして、現在の私たちの主力商品もね」

彼女は、あえて花束の中に、この街が誇る最高品質の「媚薬」の小瓶を忍ばせていた。それは、あまりにも大胆不敵な、彼女ならではの賭けだった。

「…あなた方、嘘や隠し事は全て見抜けると豪語していたわよね? なら、この花束が、私たちの覚悟の証である『本物』か、時間を稼ぐための『偽物』か、その中身に嘘がないか、すぐに分かるはずだわ」

水盤の波紋が、一瞬だけ、激しく揺らめいた。見えざる相手が、彼女の真意を探っている。しかし、相手の自称する「嘘を見抜く力」は、ジアの策略の前では無力だった。花束に込められたものは、種も、媚薬も、全てがこの街で生み出された「本物」。彼女は、嘘など一つもついていないのだから。

やがて、水盤から、承諾を示す、低く、しかし明確な反響音が返ってきた。相手は、ジアの差し出した「本物」を、問答無用で肯定したのだ。

取引は、成立した。

その瞬間、ジアは、一切の余韻に浸ることなく、通信を繋いでいたレンズを無造作に懐にしまい込み、装置を蹴り倒して機能を停止させた。彼女は、用が済んだとばかりに、身軽な動きで鐘楼の暗い階段を駆け下りていく。

広場まで戻り、一人、月明かりの下で息をついた、その時だった。

「…しまった」

彼女は、自らの額を、ぺちん、と軽く叩いた。

「で、結局、どこのどいつだったわけ?」

街の存亡を賭けた、一世一代の交渉。そのあまりの緊張感と、自らの策略に集中するあまり、彼女は、交渉相手の「正体」を確かめるという、最も基本的な情報収集を、すっかり忘れてしまっていたのだ。

しかし、彼女は、すぐに肩をすくめて、悪びれもせずに笑った。

「まあ、いいわ。こっちの『保険』も、ちゃんと伝えておいたしね」

彼女は、誰に言うでもなく、夜空に向かって独りごちる。 「もし約束を破って援軍を出さなかったら、こっちが海賊から鹵獲した軍艦とありったけの火薬で、あなた方の本拠地ごと、この街を跡形もなく焼け野原に変えてあげるから、そのつもりでってね」

それは、交渉などではない。相互確証破壊をも辞さないという、狂気の脅迫。

彼女は、街を救うための、最も確実な「援軍」の約束を取り付けた。その代償に、街は、正体不明の、しかし極めて危険な勢力と、運命を共にすることになった。その事実を、まだ、ジア以外の誰も知らない。


ジアは、鐘楼から戻ると、作戦司令室と化した広場のテーブルで待つ仲間たちに、事の顛末を報告した。その口調は、まるで大きな商談をまとめてきたかのように、あくまで軽く、そして明るかった。

「援軍の約束、取り付けてきたわよ」

その一言に、仲間たちの間に、驚きと、そして一縷の希望の光が差した。しかし、彼女が続けた言葉は、その希望を瞬く間に、底知れぬ不安へと変貌させた。

「代償として、私たちの『最も大切なもの』…花の未来の種と、主力商品を渡したわ。それと、万が一約束を破ったら、海賊から鹵獲した軍艦で、この街ごと相手の本拠地を吹き飛ばすって脅しておいた。…ああ、それで、肝心の相手がどこの誰だったか、聞くの忘れちゃった」

悪びれもせずに、彼女はぺろりと舌を出した。

その場は、凍りついたような沈黙に支配された。最初に口を開いたのは、フィナだった。彼女の声は、静かだったが、その奥には、これまで見せたことのないほどの、激しい怒りが宿っていた。

「…あなた、正気なの? 正体も分からない相手と、街の存亡を賭けた取引をしたというの!? しかも、こちらの全てを焼き尽くすような脅迫までして!?」

アロンソもまた、その無骨なクレイモアの柄を、強く握りしめていた。 「名も名乗らぬ輩など、信用できるはずがない。背後から刺されるのが関の山だ。あまりにも、危険すぎる」

仲間たちから次々と上がる、非難と不安の声。しかし、ジアは、その全てを真正面から受け止めて、一切の笑みを消した顔で、静かに言った。

「ええ、そうよ。正体不明、目的も不透明。最高にイカれた取引だわ。…でも」

彼女は、仲間たち一人ひとりの顔を見渡し、そして、冷徹な事実を突きつけた。

「他に、道があったっていうの? 王国に見捨てられて、正体不明の軍隊と怪物に、同時に攻め滅ぼされようとしているこの状況で、支援相手を選り好みしてる、そんな贅沢な時間が、私たちにあったとでも?」

その言葉に、誰も反論できなかった。そうだ、彼らにはもう、選択肢など残されていなかったのだ。ジアのやり方は、狂気の沙汰としか思えない。しかし、その狂気だけが、この絶望的な状況をこじ開ける、唯一の鍵だったのかもしれない。

重い、重い沈黙が、再びその場を支配する。誰もが、この苦渋の決断を、自らの心の中で、反芻していた。やがて、フィナが、深く、そして長い息を吐いた。

「…分かったわ」

その声には、怒りではなく、全てを受け入れた者の、覚悟が滲んでいた。

「あなたの狂気に、この街の未来を賭けるしかないようね。…いいわ、その援軍、受け入れましょう」

フィナの決断に、他の仲間たちも、無言で、しかし力強く頷いた。それは、希望に満ちた選択ではない。毒を以て毒を制す、あまりにも危険な賭け。だが、今はもう、その道を進むしかなかった。

その、重苦しい覚悟が満ちた空気の中で、これまで黙って成り行きを見守っていたフィルが、一歩前に出た。彼は、戦闘で無残に踏み荒らされた花畑の残骸を一瞥し、そして、仲間たちへと向き直った。その瞳には、この街の未来の全てを背負う、強い光が宿っていた。

「また花を育てよう。いつか、きっと、前よりももっと綺麗な花を、この街いっぱいに咲かせるんだ」

彼は、一度言葉を切り、そして、自らの武器であるスコップを、大地に突き立てるように、強く握りしめた。

「でも、そのために、街だけは、この、みんながいる場所だけは、絶対に守り抜く」

それは、純粋な理想だけではもう戦えないと悟った少年が、それでも守りたいもののために、現実と、そして悪魔との取引すらも受け入れた、痛々しくも、力強い成長の誓いだった。


束された援軍。しかし、それがいつ到着するのか、誰も知らない。その、希望とも絶望ともつかぬ猶予期間に、街は、これまでで最大規模の攻撃に晒されていた。海からは、アロンソが退けたはずの海軍が、隊列を組み直し、無慈悲な砲撃を開始する。その砲撃を盾にするかのように、陸からは、女王を失い、統率を失ったはずの蜜猟の群れが、ただ憎悪と破壊の本能だけに突き動かされ、怒涛の如く押し寄せてきた。

仲間たちは、もう何日も眠っていない。その身体は、鉛のように重い疲労に蝕まれ、思考は鈍り、動きは明らかに精彩を欠いていた。しかし、彼らの瞳から、まだ光は消えていない。

この絶望的な戦況の、まさに要として機能していたのは、意外にも、これまで後方支援に徹していたクレアとジアだった。クレアは、この街で採れる特殊な鎮痛効果を持つ花の成分を、レンガに混ぜ込むという奇策を編み出していた。そのレンガは、見た目も、重さも、他の瓦礫と全く見分けがつかない。しかし、知性を持つ蜜猟がそれを破壊しようとすると、砕けた瞬間に、感覚を麻痺させる微細な粉塵を撒き散らすのだ。

賢い個体は、すぐにそのレンガの危険性に気づいた。だが、それは更なる罠だった。一度危険だと認識した蜜猟は、同じ色、同じ形の、ただのレンガの瓦礫にすら過剰に反応し、無駄な攻撃を繰り返してしまうのだ。クレアの策略は、敵の知性を逆手に取り、その消耗を誘う、静かで、しかし極めて効果的な罠だった。

ジアは、そのクレアが作った「罠」の配置を指示しながら、戦場全体を駆け回っていた。 「オリヴァー、三時の方向、指揮官タイプよ! 優先して叩いて!」 「カンナ! 西の防壁に蜜猟が集中してる! そっちの瓦礫を、もっと派手に崩して!」 彼女の情報網は、今や、敵の位置を正確に把握し、味方の損耗を最小限に抑えるための、街の神経回路そのものとなっていた。

そして、この地獄のような戦場で、最も苛烈な働きを見せていたのは、フィルだった。彼は、もはや近接戦闘に固執してはいない。彼の武器は、スコップと、そして、足元に無限に転がる「瓦礫」。

彼は、カンナが意図的に崩した壁の、クレアの罠が仕込まれたレンガの破片を、スコップで掬い上げる。そして、全身のバネを使い、まるで砲弾を投擲するかのように、その瓦礫の塊を、蜜猟の群れの中心へと叩きつけた。

高速で射出されたレンガの破片は、空中で砕け、広範囲に散らばる「散弾」と化す。その一撃は、蜜猟の硬い甲殻を容赦なく砕き、貫き、あるいはその鋭利な破片が体表に突き刺さり、致命傷を与えていく。それは、この街の破壊された残骸そのものを、最も強力な武器として敵に叩きつける、あまりにも悲壮な戦い方だった。

しかし、その奮闘も、無限に湧き出る敵の前では、徐々に限界を迎えつつあった。防衛線は、じりじりと、しかし確実に後退させられていく。ついに、フィルとフィナは、自分たちが育んできた花畑を守る、最後の防衛線へと追い詰められた。背後には、もう何もない。

フィルは、荒い呼吸を繰り返しながら、隣で銃を構える姉へと、声を振り絞った。 「姉さん、僕たちが、この街の最後の防壁だ」 その声は、疲労でかすれていたが、その奥には、決して折れることのない、鋼のような意志が宿っていた。フィナは、フィルの言葉に、力強く頷き返す。 「ええ。この街と花、そして希望を、絶対に守り抜くわ」 それは、勝利の約束ではない。たとえここで力尽きようとも、自分たちの全てを犠牲にしてでも、守るべきものを、未来へと繋ぐという、二人の、魂の誓いだった。その誓いをあざ笑うかのように、最後の、そして最大の蜜猟の波が、二人へと襲いかかった。


街の防衛線が、今まさに崩壊しようとしていた、その時だった。西の森、街の外れで、もう一つの死闘が繰り広げられていた。

「…くっ!」

ラヴェルは、巨大な盾を構え、執拗に迫る追っ手の攻撃を受け止めていた。彼女たちが治療法を探す旅の途中で遭遇した、王国の追跡部隊だ。ラヴェルの守りは完璧だった。しかし、彼女の背後には、守るべき、あまりにもか弱な存在がいる。その事実が、彼女の動きを、普段の彼女からは考えられないほど、慎重に、そして防戦一方にさせていた。

そのラヴェルの背後で、ベルは、自らの無力さに、ただ歯を食いしばっていた。自分さえいなければ。自分が、足手まといでさえなければ。ラヴェルは、もっと自由に戦えるはずだ。そして何より、彼の、異常に鋭敏になった聴覚には、すぐ近くの街から響いてくる、仲間たちの苦戦の音が、痛いほどに届いていた。フィルの叫び、カンナの怒号、そして、無数の蜜猟が立てる、死の羽音。

仲間たちが、死にかけている。自分を庇うラヴェルもまた、消耗している。その全ての原因が、自分にある。その事実が、彼の心を限界まで追い詰めていた。もう、嫌だった。ただ守られているだけの、役立たずな自分は。

ラヴェルが、追っ手の一人を盾で殴り飛ばし、ほんの一瞬だけ、隙が生まれた。 その瞬間を、ベルは見逃さなかった。

「役に立たずなのは、嫌だ!」

それは、悲痛な叫びだった。彼は、ラヴェルの制止を振り切り、もつれる足で、戦場と化した街の方角へと、全力で走り出したのだ。彼は、ラヴェルから「逃げた」のだ。守られることから、逃げ出したのだ。

森を抜け、彼がたどり着いたのは、地獄の釜の縁のような、戦場の端だった。フィルとフィナが、最後の防壁として、押し寄せる蜜猟の波に、必死に抗っている。その光景に、ベルは息をのんだ。自分も、何かをしなければ。そう思った、その時だった。

異変が起こる。

フィルたちに集中していたはずの、数十匹の蜜猟の動きが、ぴたり、と止まった。彼らの複眼が、一斉に、戦場の端に立つ、小さなベルへと向けられる。その瞳には、飢えでも、殺意でもない、まるで何かに引き寄せられるかのような、抗いがたい渇望の色が浮かんでいた。

ベルは、その視線に、そして自分自身の身体から発せられる「何か」に気づき、凍りついた。彼の、失われた腕の傷口。そこは、蜜猟の毒によって、その細胞が、特異な変質を遂げていた。その傷口から発せられる微かな匂いは、他の蜜猟にとって、女王のフェロモンにも似た、抗うことのできない、強烈な誘引物質と化していたのだ。

彼が、戦場に足を踏み入れた、その瞬間から。 彼は、この戦場で、最も価値があり、最も脆弱な、「餌」となっていた。

「ア…」

声にならない悲鳴が、彼の喉の奥で消える。フィルたちを攻撃していた蜜猟の群れが、その大半が、目標を変更し、ただ一人、戦場の端に立つベルへと、一斉に殺到を始めたのだ。彼は、役に立ちたかった。しかし、その結果として、彼は、自らの意志とは無関係に、街の仲間たちの攻撃を引き受ける、最も危険な「囮」になるしかなかった。

それは、薬と恐怖の全ての組み合わせが悪かった。

普段なら彼は軽々と未來視の様に気付いて避けれただろう。食われた記憶と、薬の強さと、敵の数…全てが想定外だった。


ベル、というあまりにも脆弱で、しかし蜜猟たちにとっては抗いがたいほどの魅力を持つ「餌」の出現により、戦場の全ての均衡は崩壊した。街の防衛線に集中していたはずの蜜猟の大群が、その目標をただ一点、戦場の端に立つ少年へと変更し、黒い津波となって殺到する。

「ああああああっ!」

ベルの、子供特有の甲高い悲鳴が、戦場の喧騒を突き抜けて響き渡った。蜜猟の硬い脚が、鋭い顎が、彼の小さな身体に容赦なく食い込んでいく。失われた腕の傷口から発せられる匂いに、蜜猟たちは狂ったように群がり、彼を生きたまま食い尽くさんと、その肉を引き裂き始めた。

「ベルっ!!」

その光景を、フィルは、目の前で見ていることしかできなかった。彼の身体は、仲間を救うべく、既に限界を超えた速度で駆け出そうとしていた。スコップを握る手には、砕いたレンガの散弾を叩きつけるための力が、漲っていた。

しかし、その一歩が、踏み出せない。

彼の脳裏に、自らが放った攻撃の、あまりにも無慈悲な結果が焼き付いていた。彼のスコップが投擲する瓦礫は、広範囲に散らばり、敵を「面」で制圧する散弾と化す。その威力は、蜜猟の硬い甲殻すら粉砕するほどだ。だが、その破壊の雨の中に、ベルがいる。もし、今、自分がこの力を解放すれば、その破片は、蜜猟だけでなく、ベルの身体をも、等しく、そして確実に引き裂いてしまうだろう。

彼の力は、あまりにも強大で、そして、あまりにも大雑把すぎたのだ。仲間を守るための力が、今この瞬間、仲間を殺す刃と化している。その絶対的な矛盾が、彼の身体を、まるで鉛のように、その場に縫い付けていた。

「くそっ、手が出せない!」

フィルの口から、血を吐くような、絶望と憤怒に満ちた叫びが漏れた。仲間が、目の前で、生きたまま食い荒らされている。だというのに、自分は、ただそれを見ていることしかできない。その無力感が、彼の心を、ずたずたに引き裂いていった。

その、誰もが絶望に凍りついた、その時だった。

「どきなさいっ!!」

鋭い、しかし決して諦めてはいない、強い声が響いた。リミナだった。彼女は、ジアが守る後方の物資庫から、何か小さな袋を鷲掴みにすると、信じられないほどの速度で、ベルへと迫る蜜猟の群れへと突っ込んでいったのだ。

彼女は、フィルやアロンソのような超人的な戦闘能力は持たない。しかし、彼女には、彼女だけの「武器」があった。

リミナは、ベルを囲む蜜猟の群れの、わずかに空いた頭上へと、その小さな袋を全力で投げつけた。袋は空中で破裂し、中から、黒く、そして不気味なほど微細な「灰」が、ふわりと舞い散る。

それは、彼女が故郷から持ってきた、エトナ火山の灰。神話の怪物テュポンを封じるとされる、曰く付きの聖遺物 。

その灰が、蜜猟の身体に触れた、瞬間。 蜜猟たちの動きが、一斉に止まった。彼らは、まるで灼熱の鉄に触れたかのように、甲高い悲鳴を上げ、その身を激しく震わせる。灰は、彼らの呼吸器官を塞ぎ、その感覚器を、内側から焼き焦がしていく。それは、彼らの生命の本能が、絶対に触れてはならないと警鐘を鳴らす、神聖、あるいは呪われた物質だったのだ。

蜜猟たちは、ベルを食らうのも忘れ、我先にと、その死の灰が舞う空間から逃げ出していく。 リミナは、その一瞬の隙を見逃さなかった。彼女は、灰がまだ舞う中へと躊躇なく飛び込み、傷だらけで意識を失いかけているベルの身体を抱え上げると、全速力で、仲間たちが守る防衛線へと帰還した。

フィルは、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。自分の力が及ばない状況を、彼女が、たった一つの、知恵と機転で覆してみせた。その事実に、彼は、安堵と、そして自らへの、深い無力感を、同時に感じていた。


リミナが、灰にまみれたベルを抱えて、命からがら防衛線へと帰還した。しかし、それで危機が去ったわけではない。ベルの悲鳴と、彼の傷口から発せられた特殊な匂いは、蜜猟の群れにとって、抗いがたい集結の合図となってしまったのだ。街の防衛そっちのけで、蜜猟のほとんどが、ベルが運び込まれた救護所のある一帯へと、その目標を再設定し、殺到し始めていた。

「まずい、全員こっちに来る!」 フィルが叫ぶ。仲間たちは、傷ついたベルを守るため、そして街の中枢への侵入を阻止するため、絶望的な防衛陣を、その場で即席に組み直すしかなかった。アロンソも、海からの脅威を警戒しながら、一時的にこちらへと駆けつける。しかし、疲弊しきった彼らでは、この狂乱した大群を支えきれる時間は、もはや幾ばくも残されてはいなかった。

まさに、その時だった。

地平の彼方から、蜜猟の羽音とは明らかに異質な、地を揺るがすような轟音が響き渡ったのは。それは、蹄の音。鬨の声。そして、無数の、しかし統率の取れていない、多種多様な銃火器の発砲音。

仲間たちが、はっと息をのんでその方向を見る。丘の向こうから、朝日を背にして、雪崩のように駆け下りてくる、巨大な軍勢の姿があった。それは、王国の正規軍ではない。掲げられた旗も、鎧の色も、装備も、見事にバラバラ。屈強な傭兵団、どこかの地方貴族の私兵、そして、ジアがかつて交渉した、海賊の生き残りとおぼしき者たちまで混じっている。統一性のない、まさしく「寄せ集め」の軍勢。

彼らは、街の正門を目指してはいなかった。その目標は、ただ一点。蜜猟が異常なほど密集している、この場所。ベルの悲鳴が、結果として、彼らにとっての最適な突撃目標を示す、巨大な狼煙となっていたのだ。

フィルは、その予期せぬ光景に、一瞬、新たな敵の出現かと身構えた。その硬直した彼の肩を、リミナが強く掴む。

「フィル、落ち着いて! ジアが呼んだ、援軍が来たわ!」

その声が、現実を告げる。援軍は、蜜猟の群れの背後から、無慈悲な鉄槌となって叩きつけられた。先頭を駆ける重装騎士団が、蜜猟の陣形を中央から食い破り、左右に展開した傭兵たちが、容赦ない一斉射撃を浴びせる。戦いの流れは、一瞬にして逆転した。

しかし、それは一方的な蹂躙ではなかった。蜜猟たちは、その憎悪の全てを、新たに現れた敵へと向ける。援軍は、凄まじい勢いで敵を駆逐していくが、その代償として、彼ら自身もまた、甚大な被害を受けていた。騎士が馬から引きずり下ろされ、傭兵が蜜猟の顎に砕かれる。血で血を洗う、壮絶な消耗戦。

数時間後、最後の蜜猟が断末魔の叫びを上げて沈黙した時、広場には、味方と敵の、区別のつかないほどの死体が転がっていた。街は、救われた。だが、それは、あまりにも多くの犠牲の上に成り立つ、辛勝だった。

戦いが終わり、寄せ集めの軍勢の、指揮官らしき者たちが、フィナたちの元へと近づいてくる。しかし、その顔ぶれは、あまりにも多種多様で、誰が本当の代表者なのか、フィナですら判断がつかない。その中の一人、どこかの貴族の代理人らしき男が、ジアを見つけると、にやりと笑って言った。

「素晴らしい『お品』だったと、我が主も感心しておられたぞ、情報屋。約束通り、力は貸したが…あの『花束』の、更なる献上を期待している」

ジアは、その言葉に、笑顔で応じながらも、内心で舌打ちしていた。彼女の命がけの交渉は、街を救うと同時に、「媚薬の一段階上のものがある」という、新たな、そして極めて厄介な火種を、これらの胡散臭い権力者たちの間に、ばらまいてしまったのだから。

この後、ジアは暫く媚薬用の花畑で延々と栽培をさせられる地獄に突入した。


街の仲間たちが、眼前の絶望と死闘を繰り広げている、その同時刻。 街から数キロ離れた、深く、そして古い森の中。メルリウスは、ただ一人、迫りくる「嵐」の前に立っていた。

彼の前に広がるのは、王国の一軍団と、彼らが手懐けた巨大な軍用昆虫が混じり合った、およそ千は下らないであろう大軍勢。その先頭に立つ指揮官が、森の中にただ一人で佇むメルリウスの姿を認め、侮蔑の笑みを浮かべた。老人が一人、死に場所を求めてさまよい出たのだと。指揮官が、無造作に、全軍へと突撃の号令を下した。

地響きを立てて、兵士と虫の津波が、メルリウスへと殺到する。

しかし、メルリウスの表情は、変わらない。彼は、腰に差した剣に手をかけることすらせず、ただ、傍らに立つ巨大な樫の木に、そっと、その掌を触れさせただけだった。

「…来たか」

その呟きは、誰に聞かせるでもない。だが、それは、この森そのものに対する、合図だった。

次の瞬間、世界が、反転した。

軍勢の足元、固く踏み締められていたはずの大地が、まるで生き物のように、脈動を始めたのだ。地面から、無数の、そして、槍のように鋭く尖った木の根が、何の予兆もなく突き出し、兵士たちの足を、軍用昆虫の腹を、下から容赦なく貫いていく。

「なっ…!?」

指揮官の驚愕の声は、兵士たちの絶叫によって、すぐにかき消された。だが、悪夢は、まだ始まったばかりだった。メルリウスの周囲の木々が、一斉に、その枝を、ありえないほどの長さとしなやかさを持った、巨大な鞭へと変貌させたのだ。枝は、人間と虫の区別なく、空気を切り裂き、鎧を砕き、甲殻を粉砕し、その進軍を、無慈悲に、そして平等に打ち据える。

森が、泣いているのではない。森が、怒っているのだ。メルリウスという、この森の真の主の意思に応え、侵入者たちに、その牙を剥いていた。

彼の力が、仲間たちと共にいる時に、あくまで「蔦で縛る」「木で防ぐ」といった、防御や拘束に留まっていた理由。それは、この力があまりにも無差別で、広範囲に及ぶからに他ならない。仲間たちが傍にいれば、この森の怒りは、彼らをも巻き込んでしまうだろう。しかし、今、彼は一人。彼を縛るものは、何もなかった。

彼は、森の怒りの中心で、静かに歩を進める。根に貫かれ、枝に打たれ、それでもなお、彼へと迫る屈強な兵士たち。その手にした剣が、メルリウスの首を捉えようとした、その刹那。

メルリウスは、初めて、腰の剣の柄に手をかけた。しかし、それは鞘から抜かれたのではない。柄から、まるで植物の蔓が伸びるように、瞬時に、鋭い「木刀」が形成されたのだ。彼は、その使い捨ての剣で、兵士の突きを軽くいなすと、返す刃で、その兜ごと頭部を、躊躇なく叩き割った。

逃げ惑う虫の一匹が、空へと飛び立とうとする。それを見上げたメルリウスは、ただ、その虫がいた地面を、杖の先で、ことり、と突いただけだった。すると、その地面から、巨大な一本の若木が、爆発的な速度で天へと突き抜け、逃げようとした虫を、串刺しにした。

一人だからこそ、彼は強い。加減をする必要がない。仲間を守るという、枷がない。 彼は、ただ、自らの庭を荒らす害虫を駆除するように、淡々と、そして効率的に、千の軍勢を、森ごと、蹂躙していた。


街の全てが、傷を負った女王「蜂皇」の、最後の破壊の前にひれ伏そうとしていた、その時。蜂皇は、目前の無力な人間たちから、ふと、興味を失ったかのように、その憎悪に満ちた複眼を、街の外、西の森へと向けた。

街を破壊するだけでは、この屈辱は晴らせない。この街を生かしている、力の源泉そのものである、この忌々しい森ごと、全てを焼き尽くしてくれる。彼女は、最後の力を振り絞り、森を焼き払うための、高熱の腐食液を、その顎に溜め込み始めた。

その、蜂皇が森へと敵意を向けた、まさにその瞬間だった。

森の奥深くから、まるで散歩でも終えて戻ってきたかのように、メルリウスが、ゆっくりと姿を現した。彼は、蜂皇がもたらした破壊の惨状を一瞥すると、やれやれ、とでも言うように、小さく肩をすくめた。

彼のその、あまりにも場違いな、穏やかな佇まい。それが、蜂皇の怒りの全てを、彼一人へと向けさせた。蜂皇は、街への攻撃を中止し、その巨体を反転させ、メルリウスただ一人を、完全に破壊するため、突進を開始した。

メルリウスは、動かない。彼は、剣を抜くことすらせず、ただ、その右手の指先を、静かに蜂皇へと差し向けただけだった。

彼の指先から、数本の、緑の蔓が、まるで生き物のように、高速で射出される。その蔓は、蜂皇の巨体に絡みつくと、次の瞬間、ありえない速度で、無数の、美しい花を咲かせた。

しかし、その花は、ただの植物ではなかった。開いた花弁は、まるで鋼の刃のように硬質化し、その先端は、剃刀のように鋭利な刃と化していく。花弁の刃は、あの、アロンソのクレイモアすら弾き返した蜂皇の硬い甲殻を、まるで熟れた果実を裂くかのように、容易く、そして静かに、貫いていった。

絶叫を上げ、身をよじって振りほどこうとする蜂皇。その女王を救おうと、生き残っていた数匹の蜜猟と、海軍の兵士たちが、メルリウスへと一斉に攻撃を仕掛ける。

しかし、その全ての攻撃が、彼に届くことはなかった。

兵士の銃弾が、彼の身体を捉えようとした瞬間、彼の足元の地面から巨大な蔦が伸び、彼の身体を軽々と空中へと引き上げる。空中で、蜜猟の毒針が迫れば、近くの木の枝が、彼の意のままに動き、その攻撃を完璧に防ぎきる。彼は、蔦から蔦へと、まるで遊ぶように飛び移り、敵のどんな攻撃も、彼に触れることさえ許されない。

それどころか、彼が一度指を鳴らすと、戦場の木々や蔦は、その硬度を、鋼鉄以上に変質させていった。兵士たちが振るう剣は、蔦に当たった瞬間に砕け散り、銃弾は、木の幹に当たって、虚しく弾かれる。

もはや、戦にすらなっていなかった。

その、絶対的な力の差を前に、蜜猟の中に、ついに諦める個体が出始めた。彼らは、メルリウスを攻撃するのをやめ、その行き場のない怒りと破壊衝動を、近くにいたはずの「味方」、海軍の兵士たちへと向け始めたのだ。裏切られた兵士たちが、応戦し、戦場は、敵同士が殺し合うという、混沌の極みに達した。

その、地獄のような光景を、メルリウスは、高い木の枝の上に腰掛け、まるで退屈な芝居でも見るかのように、静かに見下ろしていた。彼は、ふぁ、と、隠す気もない、大きなあくびを一つした。

そして、そのあくびが終わると、彼は、まるで邪魔な虫でも払うかのように、花弁の刃に縛り上げられた蜂皇に向かって、その指を、くい、と軽く曲げた。

合図。 蜂皇の全身を貫き、縛り上げていた花弁の刃と蔦が、一斉に、内側へと収縮を始めた。

蜂皇の、鋼鉄の甲殻が、軋み、ひび割れ、そして、 大きな破裂音もなく、圧壊していく。絶叫を上げる間もなく、絶対的な女王は、ただの、美しく、そして残酷な花のオブジェの一部と化し、その命を終えた。

全ては、ほんの一瞬の出来事だった。 森を吹き抜ける風が、静寂を取り戻した戦場に、ただ、無数の花弁を、舞い散らせていた。


メルリウスのあくびが終わるのと、彼が枝の上から、縛り上げた蜂皇に向かって、その指を、くい、と軽く曲げたのは、ほぼ同時だった。

合図。 蜂皇の全身を貫き、縛り上げていた花弁の刃と蔦が、一斉に、内側へと収縮を始めた。しかし、それは単なる圧殺ではなかった。花弁の刃は、蜂皇の甲殻を突き破った先で、その先端を、まるで注射針のように、彼女の体組織の奥深くへと伸ばしていく。

巣を持たない蜂。その進化の結論は、全ての栄養と、次世代を生み出すためのエネルギー源を、自らの体内に、高純度の「蜜」として蓄え続けることだった。だからこそ、その蜜の採取は、本来であれば極めて難しい。だが、メルリウスの植物たちは、その蜜が蓄えられた貯蔵器官の場所を、正確に把握していた。

蔦は、まるで生き血を啜る吸血鬼のように、蜂皇の体内から、その黄金色の蜜を、一滴残らず抜き取り始めたのだ。黄金の蜜が、半透明の蔦の中を脈動しながら、メルリウスの元へと吸い上げられていく。蜂皇は、必死にもがき苦しむが、その力は、命の源泉である蜜と共に、急速に失われていった。

やがて、メルリウスの眼前に、抜き取られた全ての蜜が、巨大な黄金の球体となって浮かび上がる。彼は、その球体に向かって、指先で静かに円を描いた。すると、液体だったはずの蜜は、瞬く間にその輝きを増しながら、美しい、巨大な琥珀色の結晶へと姿を変えていった。

その結晶が完成した時、蜜を抜き取られ、完全な抜け殻となった蜂皇の巨体は、ことり、と音もなく、絶命した。

女王の死。それを察知した残りの兵士と蜜猟たちは、ついに完全に戦意を喪失し、我先にと、森の奥深くへと逃げ惑い始めた。

しかし、メルリウスは、それを見逃さない。

彼は、結晶を静かに懐へとしまうと、今度は、森全体に向かって、その両腕を大きく広げた。彼の意思に応え、森の木々が、再び、その牙を剥く。巨大な根が大地を割り、逃げる兵士たちの足を砕く。鞭のようにしなる枝が、空を飛ぶ蜜猟を叩き落とす。蹂躙し、抉り、バラバラにしていく。

そして、メルリウスは、指を鳴らした。乾いた木々が擦れ合い、自然発火する。炎は、彼の意のままに、瞬く間に森全体へと燃え広がり、生き残った全てのものを、その業火で浄化していった。

だが、彼の本当の目的は、ただ焼き尽くすことではなかった。

炎が、天を焦がすほどに燃え盛った、その頂点の瞬間。彼は、今度は、地面に向かって、強く、その杖を突き立てた。

大地が、呻き声を上げる。そして、燃え盛る森の、その全てを覆い尽くすように、地面から、分厚く、そして一切の光を通さない、巨大な苔のような植物が、爆発的な速度で繁茂し始めたのだ。それは、燃える森を、まるで巨大な蓋で覆い隠すかのように、瞬く間にドームを形成していく。

炎は、酸素を奪われて、急速に力を失っていく。光が遮られ、植物たちの光合成も止まる。そこは、もはや森ではない。全ての生命活動が停止した、巨大な「墓標」。人や虫の生存が終わり、例え何百年が過ぎようとも、決して開かれることのない、絶対的な封印だった。

メルリウスは、静寂を取り戻した森の前に立ち、ただ、静かに、その完璧な仕事の終わりを見届けていた。


メルリウスが、森ごと全ての脅威を封印し、最後の女王が、彼の作り出した花のオブジェの中で沈黙した時、街には、本当に、本当に長い静寂が訪れた。風の音だけが、破壊され尽くした街の残骸を、まるで弔うかのように、静かに吹き抜けていく。

戦いは、終わったのだ。

数日後、街は、静かな活気を取り戻し始めていた。それは、以前のような華やかなものではない。誰もが、失われたものの大きさを、その心と身体に深く刻みつけていた。しかし、彼らの目には、もう絶望の色はなかった。

フィナの指揮のもと、街の再建が始まっていた。その中心にあったのは、他ならぬ「花」だった。戦いの中で踏み躙られ、焼け焦げ、散り散りになった無数の花弁や茎。それらは、決して無駄ではなかった。仲間たちは、それらを丁寧に集め、砕き、そして、黒く焼けた大地へと、新たな命を育むための「肥料」として、混ぜ込んでいったのだ。死が、次の生へと繋がっていく。それこそが、この街の、そしてフィナが信じる、揺るぎない希望の形だった。

フィルは、スコップを手に、黙々と土を耕す。その動きは、もう、敵を打ち砕くためのものではない。新たな種を迎え入れるための、優しく、そして力強い、庭師の動きだった。

その、穏やかな再建の傍らで、一つ、奇妙な騒動が持ち上がっていた。ジアが呼んだ「援軍」の、撤収である。彼らは、街を救った功労者であるはずだった。しかし、その顔には、勝利の栄光ではなく、不可解な疲労と、どこか恍惚とした、締まりのない表情が浮かんでいた。

原因は、花だった。

戦いの中で広場に舞い散った、大量の花弁。その中には、ジアがあの時、交渉相手に渡した花束にも含まれていた、強力な媚薬効果を持つ花の成分が、高濃度で含まれていたのだ。花に耐性のない援軍の兵士たちは、その香りを吸い込むうちに、骨抜きにされていた。ある者は、瓦礫に向かって情熱的な愛を語り始め、ある者は、見知らぬ兵士同士で、涙ながらに生涯の友情を誓い合っている。彼らの指揮官は、このままでは軍の威信が崩壊すると、ほうほうの体で、ジアに撤収の交渉を持ちかけてきた。

「…というわけで、約束の報酬だけどね」

ジアは、困り果てた顔の指揮官を前に、にっこりと、しかし一切の隙を見せない笑顔で言った。

「あなた方も、この花の『効能』は、身をもって体験したでしょ? この街の『力』の一端よ。報酬として、この、比較的効果の穏やかな花をいくつか持っていくので、手を打たない?」

指揮官は、もはや正常な判断力を失っていた。彼は、ジアの提案を二つ返事で飲むと、兵士たちに花を持たせ、まるで悪夢から逃げ出すかのように、慌ただしく街を去っていった。ジアは、一部の花こそ持って行かれたものの、莫大な報酬を支払うことなく、厄介な客人たちを追い出すことに、見事成功したのだった。

そして、その日の夕暮れ。 全ての喧騒が去り、本当に、街の仲間たちだけが残った、その時。 フィルは、新たに植えられた花の苗が並ぶ、花畑の中心に、仲間たちを集めた。

彼は、フィナを、リミナを、カンナを、アロンソを、そして、この街を守るために戦ってくれた、全ての仲間たちの顔を、一人ひとり、ゆっくりと見渡した。その瞳には、感謝と、そして、全てを乗り越えた者だけが持つ、穏やかな光が宿っていた。

「みんな、ありがとう」

その声は、まだ少し、震えていたかもしれない。しかし、そこには、街の未来を背負う者の、確かな覚悟があった。

「これで、街を守れる」

夕日が、新しく生まれ変わろうとしている街と、そこに立つ仲間たちを、優しく、そして力強く、照らし出していた。

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