第三章-害虫スクランブル
リミナは、扉の前から動けずにいた。
朝はもうとっくに過ぎていた。日差しは高く、空気は甘く湿り、遠くから聞こえる羽音は、もう花畑の防衛線が破られかけていることを物語っていた。それでも、彼女は扉を叩かなかった。言葉をかければ、彼が起きる保証はどこにもなかったし、今この瞬間に彼が起きたとして、戦況が好転するわけでもないと分かっていた。分かっていたのに、何度も挨拶の言葉を胸の内で繰り返していた。
「おはよう」「フィル、起きて」──そんな簡単な言葉さえ、今の彼に届くとは思えなかった。
リミナはただ、扉の木目を見つめた。繰り返し、無意味に、数を数えるように。扉の上の鉤が揺れていた。風ではない。遠く、爆ぜるような音が地を伝ってきていた。土を揺らし、草花を揺らし、神経を削ってくる音だった。虫の羽音だ。規則正しくはない。大きさも、音の種類も、いつもと違う。何かが近づいてきていた。
視界の端で、ラヴェルが通りを渡っていくのが見えた。いつものように黙って、体を傾け、盾を引き摺るようにして歩いていた。彼女の盾はもう限界だった。板の合わせ目が剥がれ、補修した皮は湿気で剝がれかけていた。それでも、ラヴェルは黙っていた。盾を修復しようとしないまま、立ち位置だけを調整していた。攻撃を防ぐのではなく、通路の幅を狭め、時間を稼ぐための動きだった。
さらに遠く、門の上にはオリヴァーの姿があった。彼は矢を継いでいたが、その手が明らかに遅れていた。足元には折れた矢が散らばり、膝の関節が限界を訴えていた。彼の矢筒はすでに空に近く、顔を上げるたびに息を詰める仕草が増えていた。
鐘楼にはベルがいた。小柄な体を丸めて、耳を塞ぎ、鐘の傍に膝をついていた。周囲の音を感じないようにしているのではない。感じすぎて、遮断せざるを得なかったのだ。虫たちの羽音は、人には聞こえないはずの周波数を含んでいた。高く、低く、ねじれ、響き、共鳴し、ベルの頭を締めつけていた。鼻血が出ていた。それでも彼は、鐘を鳴らさなかった。誰かを呼ぶための音ではなく、今は音そのものが彼にとって毒だった。
門の外では、野生の動物たちが応戦していた。数は多くなかった。けれど、鶏が跳びかかり、猫が虫の背に爪を立て、犬たちが列をなして喉を噛みに行っていた。人間の命が足りないことを、誰もが知っていた。だから、言葉も持たない命たちが、人の代わりに戦っていた。
第二防衛線が崩れたのは、それからすぐだった。
羽音が一段階大きくなった。まるで、風そのものが濁ったような音だった。地を這う虫ではない。飛ぶ個体が増えていた。ラヴェルが盾を構えた。彼女の姿勢はまっすぐだったが、盾が鳴った。甲高い音が響き、次の瞬間、合わせ板の継ぎ目が爆ぜた。剥がれた皮が舞い、木片が弾け飛んだ。ラヴェルの腕がわずかに後ろへ折れた。
崩れた盾の隙間から、一体の虫が突っ込んできた。
それに反応したのは、スレアだった。何の加護もない通路の先に、彼女は立っていた。花も咲いていなければ、建物の影もなかった。そこだけは、誰もが「通ってはいけない」と知っていた場所だった。
だが、スレアはそこにいた。いつの間にか。誰に言われるでもなく、誰の命令でもなく。ただ、そこに立っていた。
虫が彼女に気づいた。翅を震わせ、突進の体勢に入る。その目は赤く、濁っていた。だがスレアは一歩も動かなかった。杖を構えることもなく、目を逸らすこともなく。ただ、見ていた。まっすぐ、冷静に。
そして──虫の首が、飛んだ。
風が切られた。音が砕けた。視界の中に、銀の線がひとつ走った。刃だった。硬い殻ごと両断された虫の胴体が、スレアの足元を跳ねて転がる。赤黒い体液が、彼女の靴の先に滴る。
剣を振るった者がいた。鎧をまとい、顔を隠し、何も言わぬまま、もう一体の虫へと歩を進めていた。誰もが彼を見たが、誰も彼を知らなかった。
虫の首が転がり、泥に落ちた花弁が揺れた。血と花粉と、焼け焦げた葉の匂いが空を染める。
だが、斬った騎士は剣を振り返ることなく、そのまま一歩、静かに前へ出た。
「──名乗ろう」
風の隙間を縫うように、その声が響いた。戦場にふさわしくないほど整った、朗々とした声。だが、誰一人として嘲る者はいなかった。今の今まで、自分たちの誰もがこの地に到達できなかった“切断”を、彼は成したのだから。
騎士は剣を静かに土へと下ろし、胸に手を当てる。
「バスクの地より参上せし者──アロンソ・エスカランテ・デル・リオ。この名、聞き覚えはないだろうが、それで構わぬ。名乗りとは、声を張るものではない。誰かのために己の居場所を示す行為だ。」
彼は辺りを見渡した。崩れかけた家屋、破れた幕、血に濡れた花。そのすべてに、静かな眼差しを向けた。
「私は旅をしていた。北にも東にも、王国の彼方にも。どこに向かうべきかを誰に問うでもなく、ただ歩き続けていた。だが、そんな折、一つの便りを受け取った。──一人の人物が、ここを気にかけているという話だった。」
誰も言葉を発さなかった。だが、耳を傾けていた。
「その者は名を名乗らなかった。いや──あえて名を伏せたと言うべきか。高き地位にあり、自らは旅をせぬ者だ。だからこそ、道を知る者に託したのだ。おまえのように旅を続けてきた者ならば、あの都市の行き方を知っているかもしれないと。」
アロンソは、足元に落ちていた虫の脚を払った。刃に付着していた血を、花の葉で拭った。
「その言葉を聞いて、私は道を変えた。理由など、それだけで十分だった。なぜならその人物は──花を讃えた。ここに咲く花の、力と脆さと、その価値を認めていた。」
彼の言葉には、何の装飾もなかった。だが、重みだけはあった。
「自らが来られぬなら、代わりに見る者が必要だ。代わりに聞く者が。代わりに斬る者が。だから、私は来た。私の剣は命じられて振るわれたのではない。受け取った言葉に、私が頷いたのだ。」
ようやく、彼は視線を正面に戻した。焦げた柵の向こう、息を潜めている者たちへ。
「私はこの都市の民ではない。だが、咲いた花の価値を知る者の代理として、ここに立っている。名のない者の想いを、そのまま剣に乗せて、踏み込んだ。」
彼の立つ地面に、影が揺れていた。羽音が戻り始めていた。
アロンソは剣を握り直した。
「よって今ここに、私の命もまた花に捧げよう。──その者が見たがったものを、私の目に焼き付けるまで。」
剣だけが──おかしかった。
彼の身体能力は、決して桁外れではない。実際、走る速さも、跳躍も、反応も、フィルのような瞬発力には及ばない。あの少年の動きは、時に外付けの補助機構すら想起させる不自然さがあったが、アロンソにはそれがない。あくまで“人間”の身体としての強さ、訓練と経験によって積み上げられた動作に過ぎなかった。
だが──その剣だけは、違った。
一見して質量は常識的な範囲にある。装飾も少ない。刃身は太く、どこか“骨”のように見える箇所があった。金属とも石ともつかぬ、焼き固めた殻のような不定形。鍛冶による整形の痕跡がない。
形は“剣”だが、造りは“生物”に近い。
おそらく、虫だ。
ただの鉄ではない。あの剣は、かつて何らかの巨大な虫の一部だった可能性が高い。腹節か、脚節か、あるいはまだ分類すらされていない甲殻生物の核──そうした想像が浮かぶほどに、剣から発される気配が常軌を逸している。
問題は、それが何なのか誰にも分からないという点だった。
あの街に記録されたすべての標本、文献、検体のいずれにも一致しない。形状も、反応も、重量も、何もかもが未知の領域にあった。
そして何より、振るわれた時の“結果”が、すべてを裏付けていた。
斬るのではない。裂くのでも、押し潰すのでもない。
あの剣は──叩き割るのだ。対象の構造そのものを理解し、力点を選び、たった一撃で崩壊させる。
だが、それを可能にしている要素は何なのか。技術か、材質か、構造か。
誰にも説明できなかった。技術でも筋力でもない“何か”が、あの剣には宿っていた。
虫由来。だが分類不能。戦士の手にあるが、戦士の範疇を越えている。それだけは確かだった。
フィルは相変わらずふらついていた。目は覚ましているのに、立ち上がるとすぐ膝が抜ける。見かねたリミナが「もう、いいから」と言って、彼をひょいと抱き上げた。
思っていたより軽かった。骨が細いとか、筋肉が足りないとか、そういう問題じゃない。彼の体重そのものが、全体的に空気を含んでいるように感じられた。リミナはひとつ息をついて、そのまま歩き出した。
「・・・ちょっと、悪いけど私が運ぶからね。」
「・・・うん。」
返事は小さく、喉の奥から漏れるようだったが、拒否ではなかった。
抱きかかえたまま、花畑の端に出る。リミナは片腕でフィルを支えながら、もう片方で花の根を確かめる。花弁は軽く震えていた。先端に小さな虫が触れていたが、まだ影響は出ていない。
「・・・で、水やりってどうやってやってるの?」
「バケツ・・・二重の・・・下が小さい穴・・・いっぱい・・・ある。」
「ふうん?」
「・・・それを・・・ぶん回す・・・回転で・・・散る・・・。」
リミナは思わず吹き出した。
「それ・・・この前聞こえてたやつ?朝からずっとゴウンゴウンって音してたやつ!」
フィルはこくりと頷いた。
リミナは笑った。完全に虫だと思ってた、と笑いながら、抱えたままのフィルの額に軽く汗を拭った。
「攻城兵器の予行か、虫の大群かと思ってたのに・・・花への愛情だったとはね。悪かったね。」
「・・・ううん。」
フィルの返事はかすれていたが、目はちゃんと笑っていた。
会議の部屋は簡素だった。地図も紙も不足し、記録係のクレアは別室にいたが、それでもジアは人々の前に立った。彼女の手には一枚の汚れた布切れが握られていた。そこには、煤と粘土が混ざった跡が付着している。
「・・・まず、昨晩の被害。三ヶ所で火が上がってる。でも、燃えたのは物置と納屋、それに街道沿いの小屋だけ。住居や花畑には火が回ってない。」
声の調子は普段より抑えていた。軽口を挟むこともなく、事実の羅列を続けた。
「放火の方法は、油じゃなくて、干し藁に火をつけて突っ込んだ痕跡がある。火口の位置から見て、投げ込んだ距離は八~十歩前後。火力も精度も高くない。・・・つまり、火は脅し。破壊目的じゃない。」
静かに周囲の視線が集まる。ジアは何も気にせず、次の証拠を示した。短く折られた木の杭。先端には傷がつき、引き摺られた跡があった。
「花の盗掘もあった。根を掘ったあとに細い道具を通してる。スコップじゃなくて移植鏝に近い。持ち運ぶ意志があったってこと。荷台の跡はないけど、歩幅と踏み込みの深さからして、一人当たり十五キロ前後を背負ってた可能性が高い。」
「・・・つまり、荷物持ちがいた?」
リミナの声が割り込む。ジアは小さく頷いた。
「運搬係、火付け役、掘り出し係、それぞれ分業されてる形跡がある。規模は小隊。五から八。個々の動きが雑で、訓練された傭兵ではない。でも、全員が同じ靴跡ってわけでもない。複数の派閥が合同してる可能性がある。」
ジアは布切れを軽く広げ、付着した粒子を指先で擦った。
「この煤、粘土質で黒い。近隣でこれが採れるのは南の廃窯だけ。廃村になったとはいえ、昔から流れ者の溜まり場だった。最近になってまた使われてると見て間違いない。」
数秒、誰も動かなかった。
「・・・結論から言うと、これは山賊の偵察だと思う。武器はまだ使われてないけど、杭の割れ目に詰まってた木片は、おそらく投槍の先端。武装は軽め。でも踏み込まれれば被害は大きい。夜間はもっと減る。」
「彼らはまだ本気じゃない。でも、その分こっちも、潰し合いに誘導できる余地がある。虫よりも、相手の目を見られるぶん、やりようはあるってことだね。」
ジアはそう言って布をしまい、何食わぬ顔で腰を下ろした。部屋の空気は変わっていた。恐怖ではなく、次の一手を考える静けさだった。
記録に残された限りでも、敵対勢力はすでに複数確認されていた。
森から侵入するのは「樹下の鉈」と呼ばれる山賊集団だった。木々を削り、畑を焼き払い、必要なだけの物を奪っては姿を消す。その日暮らしの連携型襲撃者でありながら、略奪の技術だけは洗練されている。
海沿いに出現したのは「潮火の梟」。交易の名を借りて掠奪を正当化する、火と煙を好む海賊団だ。香料や花粉といった持ち出し可能な資源を狙い、夜陰に紛れて上陸し、静かに集落を奪う。
雇い主を選ばず動く武装集団も確認されている。「灰鎧隊」と呼ばれる傭兵集団で、武器と金の計算だけで戦場を測る。彼らは花を焼く契約のもとに動いている可能性が高く、撤退も早いが、破壊には一切のためらいがない。
そして、もっとも警戒すべきは「無印軍監察局」の名を持つ斥候部隊だった。彼らは王国の本隊ではない。だが、都市の戦力と住民の対応を記録する役割を持ち、報告次第では本格的な介入の口実を与える。
いずれの集団も、虫より厄介な意図を持っていた。
だが、逆に言えば──話の通じる敵でもある。
どれだけ同士討ちをさせるか、それがこの戦いを決定付けるのだ。
港の倉庫前で、ラヴェルの盾が鈍い音を立てた。
地面に倒れた男の頭から、短く息が抜ける。海賊だった。肌は塩と埃に焼け、腰の鉈にはまだ血が乾ききっていなかった。だが、抵抗はなかった。彼はただ、物陰に隠れていた。それを見つけたラヴェルが、何も言わずに一撃を加えただけだった。
「・・・生きてる?」
ジアが覗き込んで訊いた。ラヴェルは無言で小さく頷いた。すぐに、カンナが無言で腹を蹴った。骨が鳴る音がした。
「早く喋らせればいいのに、黙ってるから・・・こうなるんだよね。」
リミナがため息混じりに肩をすくめ、太ももに力を入れて横から蹴った。
「この前もさ、港で暴れてたやつ、フィナが睨んだだけで泡吹いて倒れたよね。」
「・・・それは偶然よ。」
そう言いつつ、フィナも無表情のまま足を上げ、足首で一撃を加えた。四人目の蹴りで男の意識が完全に途切れた。
「・・・って、殺すつもりじゃないからね?ね?」
ジアがラヴェルの肩を叩いた。ラヴェルは何も答えなかったが、首だけは小さく振った。男は死んではいなかった。ただ、話すにはしばらく時間がかかりそうだった。
建物の半分は崩れていた。波止場の板は外れ、倉庫の扉は鉄ごと外へ落ちている。塩の匂いに混じって、血と火薬の残り香が残っていた。砲門があったわけではない。だが、何かを吹き飛ばすだけの力が、ここで使われたのは間違いなかった。
港の縁に、老婆が一人だけ座っていた。周囲に人影はなかった。聞き込みで判明したのは、生き残った住人が三人、うち一人はすでに運ばれており、残りの一人は行方不明ということだけだった。
街の片隅に咲いていた花は、土ごと抉られて消えていた。誰かが持ち帰ったか、あるいは踏みにじられたのか、それすら判別できなかった。
波止場に残されていた船は、ほとんど沈みかけていた。
船体の右側が裂け、縄の補修痕もすでに膨張していた。だが、ジアはそれを一瞥するだけで、工具を取り出した。木片を斜めに噛ませ、板を押しつけて、短く詰める。何本かの釘を沈めた頃には、水の染み上がり方が止まっていた。
「・・・乗れるかどうかじゃなくて、浮くかどうかの問題だしね。」
ジアは軽く船底を蹴って、浮力の感触を確かめた。
ラヴェルがそばで、無言で石材を抱えていた。ジアは合図だけで、それを三つ、順に船の中央に置いていく。船体がわずかに傾き、波が沿って寄る。ジアはそれを目測で測った。
「・・・一人十五、武装込みで二十。それが五、六、七・・・いや、八までは沈まないか。」
リミナはその横で、死体を一つずつ、海から引き上げていた。動かすたびに骨が鳴り、花を踏むような音が背中に響く。砲弾を受けた死体は半ば炭になっていた。身体の形が崩れていても、胴体の質量だけは残っている。
「・・・だめ、判別しきれない。数を見積もるより、余裕を見た方がいい。」
そう言って、リミナは数体をまとめて船に乗せた。浮き具合は、石材と同程度だった。舷側の高さが変わり、バランスが偏った。
ジアがその動きを目で追いながら、数式を口にせずに処理していた。
「・・・砲撃の数と逃げた人数、積載から逆算して、残ってる死体は四。撃沈想定で十二から十五。逃げた数を差し引けば・・・襲撃時は、ざっと二十人前後。」
「意外と少ないようで、ちょうどいい数ね。」
リミナは倒れた死体の一体から、折れた銃を拾った。
銃床の内側には、割れ止めの金具が二重に仕込まれていた。手入れされた銃だった。もう一体の腰には刃こぼれのない短剣。治癒薬と包帯が外装の下に隠されていた。
「・・・素人集団じゃない。撃ち合いで死ぬ前に、撃たれた時の対処法を知ってる人たち。しかも、短期の陸戦想定。」
「準備してたんだ。」
「うん。でも、撤退が早いのもそうだし・・・この感じ、なんか読んだことあると思ったら・・・」
リミナは少し笑って、海に浮いた花弁を拾った。
彼らは略奪のために来た。でも、全員が死ぬ気ではなかった。生きて帰ることが前提で、それでも撃った。
それが、ここに残った痕跡だった。
リミナは倒れた死体の袖をまくり、腕の内側に巻かれた布を丁寧に剥いだ。焦げ跡のある皮膚の下から、乾きかけた薬草の匂いが立ち上る。焦げていない。焼灼の痕はない。布には酒の香りが染みていた。
包帯は二重巻きで、内側には薄い木片が添えられていた。圧は均一で、巻き直した形跡もある。傷口に混ざっていた異物は除去された後があり、再出血を防ぐように緩めの固定が段階的に強く締められていた。
もう一体の腰には、使い古された止血帯と共に、乾いた麻の布がたたんで差し込まれていた。表面には黒ずんだ油が滲んでおり、口に当てるように形が折られていた。
「・・・水銀も瀉血もしてない。焼いてもない。血を止めて、洗って、固定して・・・しかもこれ、途中で巻き直してる。使い捨てじゃなくて、本気で治そうとしてるやつ。」
リミナはもう一度、布の端を握りながら呟いた。
「マジで、王都の病院より上手いかも。・・・っていうか、陸の医者より、海賊の方が正しいって、どういうことなの・・・。」
彼女はわずかに笑ったが、その声には戸惑いが混じっていた。
治すための知識を、命を奪う集団が持っているという事実が、場の空気を歪ませた。
都市に戻ったのは、夕暮れが地平を染めた頃だった。
空には色のない雲が浮かび、街の輪郭がぼんやりと霞んでいた。花の香りは風に溶けていたが、それが街を隠す手助けになっていることだけは、誰もが分かっていた。
広場の片隅に簡易の会議台が設けられ、報告と対応策が一気にまとめられた。砲撃の規模、死体の数、船の浮力。ジアたちが港で確認してきた情報は正確だった。だが、それは同時に、楽観を許さない証拠でもあった。
「・・・三勢力、同士討ちは狙えないわけじゃない。でも、簡単じゃない。」
リミナがそう言って、地面に広げた地図を指でなぞった。
街を中心に、三方向から接近する可能性のある道が引かれていた。西の山道、北の旧街道、南の湿地帯。どこも道幅が狭く、物資の運搬に制限がある。だが、それは侵入が困難だという意味ではなかった。
「山賊、軍隊、傭兵。それぞれ目的も足並みも違う。そもそも歩いてくる速さも違う。だからこそ、逆にその“違い”を使える。」
「時間をかけさせるってこと?」
「そう。どれかを待たせて、どれかを急がせる。行軍時間をずらして、合流前に別の勢力に鉢合わせさせる。」
ジアが指を鳴らした。
「道の一つに障害物を置く。もう一方には“近道”の情報を流す。焦って先に動いた奴と、遅れた奴が衝突する。・・・あくまで、誘導の範囲でね。」
「それでも問題はある。狙ったとおりに鉢合わせしてくれるかは、かなり運がいる。」
「だからこそ、虫。」
ジアは即答した。ベルを呼ぶべきだと考えていた。虫の特性、反応する音、振動、餌の匂い。もし誘導が必要なら、それを最も正確に操れるのは虫しかいなかった。
「虫の波がぶつかった場所に、別の勢力を送り込めばいい。人間同士の小競り合いに、群れが入れば、それだけで崩れる。」
「問題は・・・。」
リミナが声を落とした。
「海賊だけは無理ってこと。」
そこにいた誰もが頷いた。港で確認された海賊は、組織化されており、上陸戦のタイミングをすべて外していた。散開して動き、火力で足止めし、撤退すら計画のうちだった。隙がない。しかも、損耗を嫌っている。
「火器持ちに虫をぶつけるのは危険。焼ける。」
ジアの声に、誰かが短く息を飲んだ。
「じゃあ、海賊にどう対抗するかって話になるけど・・・。」
「アロンソよ。」
フィナが言った。
その名が出た瞬間、空気が変わった。
「彼は一人で虫を断ち切った。装備も技量も、侵入者対処に向いている。・・・街に入られる前に叩くなら、彼が最適。mフィルが戻れば交代も考えるけど、今は全戦力が必要。残り三つには、虫。運と流れに頼るけど、今はそれしかない。」
フィナは静かに言い切った。その言葉の先に、誰も反論はなかった。だが、その時だった。
「・・・焔がいる。」
沈黙の中で、スレアが呟いた。
「名前は、源氏焔。」
その言葉は、空気に小さく落ちたが、誰よりも重く響いた。
ジアが目を細めた。リミナは小さく眉をひそめた。ラヴェルだけが反応せず、遠くを見ていた。
源氏焔。
それは──虫の名前だった。
スレアは視線を逸らさなかった。誰の疑問にも答えるように、少しだけ声を落として続けた。
「・・・源氏焔は、異邦の伝説に出てくる虫。山を焼く蛍。姿は分からない。焼かれた者が、形を伝えられないから。」
誰かが息を飲んだ。だが、スレアの声は変わらなかった。
「でも、焔が現れる時期だけは、いつも決まってる。“メルリウスが現れてから、一ヶ月以内”。」
「・・・メルリウスって、フィルの・・・?」
リミナの問いに、スレアは頷いた。
「そう。“花の魔術師”と呼ばれる彼が現れると、焔を探す者たちが動き出す。年に一度、どこかで必ず出ると信じられてる。」
ジアが眉をひそめた。
「・・・でも、姿が分からないのに、どうやって探すわけ?」
「痕跡が残るから。山肌の焼け跡。花の焦げ方。飛び去ったあとに散る、羽の残骸。それを辿ると、誰かが焔に焼かれてる。だから、確かに“いた”と分かる。」
スレアはポケットから乾いた花を取り出した。重く濁った色の花だった。
「この花は焔を避けるって言われてる。匂いが嫌われる。植える配置、灯の置き方、風の読み方まで、退けるための“手順”が共有されてる。・・・殺し方を知っているのは少ない。」
「そんなにやばいのに、殺せるの?」
リミナが信じられないという顔で言った。
「殺せるからこそ、広まった。たとえ姿が見えなくても、“殺せた例”が記録されてる。特別な武器じゃない。誰でも使える方法がある。・・・殺せなきゃ、報告も出来ないし大半は燃えて終わり。」
スレアはそこで言葉を区切り、指先で花の茎を挟んだ。
「ただし・・・焔は一匹じゃない。最初は、すごく繁殖する。火のように群れる。でも、共食いするの。最後には数匹しか残らない。」
「つまり、残った“生き残り”が最も強いってことか・・・」
ジアが呟いた。
スレアは何も答えなかった。だが、花を指先で折った。
フィルがいなくなったのは、ほんの一瞬のことだった。
目を離したわけではなかった。声も聞いていない。だが、次に気づいた時には、彼の姿がどこにもなかった。
場所の特定は早かった。花が教えてくれた。
香りが異常に強くなっている一帯があった。色も、音も、虫の動きすらも違っていた。
そこに、傭兵団の一部が侵入していた。
三人いた。すべて武装していたはずだった。だが、そのうちの二人は、身体の形を留めていなかった。花畑の中央、土が抉れた場所に、赤い液体が広がっていた。刃ではない。圧砕。腕の骨がひしゃげ、肋骨が砕けている。頭部は見当たらなかった。
その中心に、フィルがいた。
彼は立っていた。だが、その目は焦点を結んでいなかった。手は震え、呼吸が異常に浅く、喉から断続的に音を漏らしていた。
第三の傭兵が後退しかけた瞬間、彼は踏み込んだ。速度は目に見えなかった。
──その時、アロンソが動いた。
剣の柄で、後頭部を打った。寸前で力を抜き、斬らずに止めた。フィルの身体は音もなく崩れた。地面に倒れた彼を抱きかかえ、アロンソは静かに首を振った。
「これは・・・暴走だ。」
その言葉に、リミナが駆け寄った。スレアも遠巻きに見ていた。
「過剰だ。花粉の供給量が常人の十倍近くある。反応は感覚で処理しきれない。精神が外に押し出されてる。意識が、遮断できてない。」
アロンソは、フィルの背を支えながら言った。
「これは、病ではない。過剰供給による暴走。・・・敵が近くにいたから暴発しただけ。次も同じ条件で、同じように発動する。」
ジアが地図を見ながら言った。
「つまり、暴走の矛先を調整できるなら、敵にぶつけることもできる・・・?」
「それは、誘導というより、“檻を開ける”という行為だ。」
フィナが言った。視線は冷たかった。
「今の彼を使うということは、彼を殺す可能性に目を瞑ることと同じよ。」
スレアが一歩前に出た。
その声は淡々としていた。
「確実に言えるのは、死を覚悟して近くにいるか、一人にして彼が死ぬ可能性の下に置いてしまうか。どちらか。」
言葉の重さに、誰もすぐには応えられなかった。
リミナはしばらく考えていた。
地図も記録も見ずに、ただフィルの横顔だけを見つめていた。
そして数分後、何も言わずに立ち上がった。
「・・・よし、やってみようか。」
ジアが眉を上げた。フィナは無言だった。カンナは工具を持ったまま、顔だけ向けた。
「何を?」
「恋よ。」
そう言って、リミナは指を鳴らした。
「フィルを抑える方法、さっきアロンソが言ってたでしょ。“感覚が開きすぎてる”って。それなら、逆に過剰な感情を一点に集中させれば、他の反応を抑え込めるかもしれない。」
「つまり?」
「恋。恥ずかしさ。羞恥。逃げたい気持ち。それを一定量ぶつければ、自動的に心が落ちるって理屈。」
ジアが笑った。
「・・・つまり、囲って可愛がって、恥ずかしがらせる?」
「そう。そして限界が来たら、一斉に引く。」
「そんな上手くいく?」
「知らない。でも、こっちも命がかかってるし。」
作戦はすぐに実行された。
フィルが目を覚ますと、目の前にはリミナがいた。その肩越しにフィナがいて、さらに横にはカンナとジアが控えていた。
四方向を囲まれた状態で、誰もが穏やかな笑みを浮かれていた。
「フィル、元気そうじゃない。」
「さっきは暴れちゃったけど、大丈夫、私たちが見てるから。」
「手、触っていい?」
「ねえ、目逸らさないで。」
フィルの顔が真っ赤になった。耳まで赤く染まり、息が詰まったように口を開けた。
「・・・まっ・・・ま、・・・っ、・・・。」
次の瞬間、全員が一斉に跳び退いた。
誰も言わなかったが、空気が震える予兆があった。誰かが一歩でも遅れていたら、花がまた吹き飛んでいたかもしれなかった。
「・・・よし、あと二、三回繰り返せば慣れるかも。」
「これ、訓練に入るの・・・?」
「作戦行動よ。精神的収縮反応の制御訓練。」
フィナはため息をついたが、表情はどこか満足そうだった。
フィルはその場に座り込んだまま、顔を手で覆って動けなかった。
研究は続いた。
フィルは連日、選抜された女性陣──おおむね彼の年齢より十歳以上上の、いわゆる“お姉様方”に囲まれ、可愛がられ、褒められ、抱きしめられ、そして爆発した。
最初の頃こそ耐えきれずに意識を飛ばしかけていたが、徐々に発動の兆候が掴めるようになり、意図的な“溜め”も成功しはじめた。
心拍数の変化、感情の揺れ、筋肉の反応──それらが技の発動に直結していることが明確になった頃には、制御訓練も本格化していた。
「もうちょっとで出そう?・・・じゃあ一回目を閉じて深呼吸して・・・はい、爆発して。」
「はい、可愛がります、四方囲みます、五秒耐えたら解除します。」
「こっち見て?かわいいね、ああ、今ちょっと技チャージしたでしょ。」
リミナが主導した一連の実験は、記録上“花粉誘発型過剰反応制御訓練”と名付けられた。
だが、実際には“恥ずかしさチャージ式感情開放技術”と呼ばれていた。
そして──ついに、その時が来た。
フィルは目を閉じ、恥ずかしさの中で深呼吸し、静かに拳を握った。
技は発動した。爆発は起きた。範囲は抑えられ、出力は必要以上に逸れず、着弾点も選べた。
制御成功だった。
だが、問題もあった。
「・・・発動条件、なくなりました。」
フィルは立ったまま言った。
「今、可愛がられても、全然動揺しません。・・・むしろ、落ち着くようになりました。」
リミナが手を止めた。ジアが頭を抱えた。カンナが舌を鳴らした。
「・・・実験し過ぎたね。」
「慣れた・・・?」
「うん。感情の限界を超えて、“定常化”した。好きなタイプのお姉様方に囲まれても、“通常運転”になった。」
フィルはどこか遠くを見ていた。顔に赤みはなかった。
技は完成した。だが、それは“慣れ”という形で、ひとつの代償を伴っていた。
空気が少し落ち着いていた。
フィルは平然と立ち、囲まれながらも反応ひとつ見せずに呼吸を整えていた。ジアが口を開けかけた時、フィナがその袖を軽くつまんだ。
「・・・待って。」
全員の視線が向く。フィナはゆっくりとフィルに歩み寄り、表情を崩さずに観察した。
「顔色、安定してる。体温も下がってる。目も濁ってない。・・・反応過多が止まってる。」
「つまり・・・?」
リミナが首を傾げた。フィナは一歩下がって指を立てた。
「花粉に対する過敏反応は、“感覚が開きすぎる”ことで起こるとアロンソは言った。フィルは感覚の総量が多いから、過剰な花粉供給で精神が振り切れて暴走する。」
「でも今は?」
「安定してる。可愛がられて、感情を使い果たして、“反応できない状態”になった。言うならば、感情の放電直後の無感覚状態──。」
「・・・賢者タイムだ。」
ジアが呟いた。カンナが肩を揺らして吹いた。
「これ、真面目な話だよね?」
「もちろん。」
フィナは表情を変えずに頷いた。
「“慣れ”によって起きた精神的な無風状態──これこそ、感覚遮断を自然に維持できる唯一の安定条件。」
「つまり、フィルを“賢者状態”に保てば、暴走しない?」
「理論上は、抑制ではなく、“無効化”になる。」
全員が無言になった。
フィルだけが、小さく震えながら顔を伏せていた。
「・・・なにこの役割・・・。」
誰も答えなかった。だが、最悪の暴走を防ぐ鍵は、ついに見つかったのだった。
作戦は、会議というより宣告に近かった。
敵は港沿いに再上陸を始めていた。夜の風が変わり、波が荒れた。焔の兆候もあった。焼ける花の匂いが微かに混じっていた。
「迎撃はアロンソ。主戦場は南の崖下。」
フィナが地図を指で叩いた。
ジアが頷く。フィルの位置は街の中央から動かさず、花の濃度が一定以上に保たれる区画に留めることが前提だった。
「・・・フィルは感情誘導班を付けて、“爆発→鎮静→爆発”のインターバル戦術で使う。暴走じゃない。制御型。動かすのは、私とリミナ、ジア、カンナ。」
「間に合うの?」
「爆発のタイミングに合わせて敵の波を分断すれば、リズムを崩せる。ラヴェルと交代で前衛を担当。攻撃を吸い、爆発の予兆が出たら離脱。」
カンナが手を上げた。
「後衛の誘導係がやられたら、フィルも暴れるだけになるわよ。」
「だから、背後には火を付ける。ベルに任せる。」
全員の視線がベルに向いた。
彼はすでに用意を始めていた。火種と鏡、それに調整用の金具。街の旧倉庫跡に設置された投光台には、花の油を用いた小型燃焼灯が並べられていた。
「・・・源氏焔は共食いする。光を狙う。だから火と鏡で道を作る。逃げ道がなければ、背後に突っ込んでくる。」
「そんなの、あんたが一番危ないじゃない。」
リミナが言った。ベルは首を振った。
「危険は承知。でも、最も精確に虫を誘導できるのは僕だけ。耳で感じる音のゆらぎ、花粉の散り方、空気の反響・・・全部読む。」
ジアが地図に線を引いた。
誘導の射線はフィルの爆発範囲を越えて、港と海賊の背後を分断するように設計された。焔が通れば、後方は燃える。後退も補給も困難になる。
「誘導の炎は一度きり。鏡の位置も、光の向きも、全部計算通りにいかないと崩れる。」
「でも、全部決めたら、焔は進む。」
スレアがぽつりと言った。
彼女の手には、あの焦げた花が握られていた。
「焼くの。全部。光の向こうへ。」
準備は整っていた。
戦いは、始まる寸前だった。
戦場の空気が張りつめていく中で、アロンソは小さな裏庭に立っていた。
その背に、歩み寄る足音があった。フィルだった。花粉の過剰反応は沈静し、呼吸は安定している。
爆発の気配はなかった。ただ、微かに焦げた匂いだけが、袖口に残っていた。
アロンソは振り返らなかった。だが、言葉は投げかけた。
「・・・騎士になるつもりはあるか。」
唐突だった。だが、問いそのものには棘がなかった。
フィルは少しだけ驚いたように眉を上げ、そして微かに笑った。
「ないよ。僕は、花を育てるのが一番合ってる。」
「そうか。」
アロンソはそれ以上言わなかった。
剣の柄に触れていた指を離し、風の中で首だけを傾けた。
「ならば、何も言うまい。」
フィルはその言葉を聞きながら、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「でも・・・あなたとは、ちょっと似てる気がする。」
アロンソは振り返った。視線が静かに重なった。
「あなたは守ってる。剣で。僕は、花で。違うようで、少しだけ・・・同じものを、見てる気がする。」
「・・・否定はしない。」
アロンソは微かに頷いた。
その頷きは、同意でも同情でもなかった。
ただ、実感だけがこもっていた。
「お前は、選ぶべきものを知っている。それがある限り、立てる。」
「あなたも。」
二人の言葉はそれきりだった。
だが、それだけで十分だった。
剣と花。守る形は違えど、何かを託された者としての在り方に、二人は共通するものを見出していた。
・・・最速の接敵は騎士に、数の推定で最も少ない海賊を狙った。
アロンソはゆっくりと歩き出した。
そして、剣を引き抜いた。
その刃は、これから戦場へと向かうための光だった。
アロンソが進むと、道を作るように敵が退く。
その足元で砂埃が舞い、周囲の空気が少しずつ熱を帯びる。
彼の姿はまるで圧倒的な巨像そのものであり、動くたびに何か大きな力を内に秘めていることを感じさせた。
戦場において、彼の体は常人のものとは思えなかった。
鎧の下に刻まれた無数の戦の痕は、数多くの試練を物語っていたが、その一撃一撃があまりにも速く、重すぎて誰も追いつけない。
海賊が進撃してきた。
弾道のように飛び込んできた砲弾を、アロンソはただ拳で打ち砕く。
その拳はまるで鋼のように硬く、砲弾はあっけなく砕け散り、鉄屑が空に舞った。
「・・・重さが違う。」
アロンソの動きに、フィルの目が見開かれた。
その剣を奪っても、アロンソは鎧の重さを物ともせず突進する。
武器を持つ意味さえ感じさせないその動きに、恐怖すら感じた。
自分の攻撃は、鎧に弾かれ、どんな技を仕掛けても打ち砕かれる。
無駄な力を使う必要はない。彼にとって、戦う相手の強さは関係なかった。
「・・・ならば、威力を調整するしかない。」
フィルが自分を振り返ると、アロンソは一撃のように動き、そして一瞬で足元の相手を沈黙させた。
「・・・だが、威力を調整するか、命中率を調整するか。」
アロンソの目がわずかに眩しく光った。
誰もがその強さを知っているが、逆にその選択肢がないことを恐れる。
「選ぶのは、最速か最強かだ。だが、もう後戻りはできない。」
アロンソの背中には、無数の戦の勲章が宿っている。
遍歴の騎士として、数々の戦場を駆け抜け、数え切れない巨人を討ち取った者である。
その力を、誰もが理解できない。
だが、理解しようとする前に、彼の一撃を受けた者は倒れ、戦の塵と化す。
「人間ではない。」
その言葉は決して誇張ではなかった。
アロンソの力は、もはやその形容を必要としない。
彼は、巨人を討つに相応しい騎士なのだ。
その力が証明されるたびに、敵は目の前で崩れていった。
フィルは、落ち着いて迎撃を目指していた。
感情は沈み、力は制御され、爆発の間隔も把握されていた。リミナは後方に待機し、交代の段取りも整っていた。アロンソは前線へ向かい、ベルは虫の誘導に集中していた。
だが──事態は、誰もが予期しなかった形で変わった。
源氏焔が、敵をほぼ全滅させた。
その蛍は、燃える帯となって山を下り、砲台を破壊し、退路を焼き払い、海賊の隊列を灰に変えていった。群れはすでに共食いで絞られていたはずだった。だが、その“残った一匹”が、最も苛烈な炎を持っていた。
そして、斜面の一角に、赤く焼けただれた何かが落ちていた。
──ベルの片腕だった。
それ以外は、見当たらなかった。
影も、声も、存在の気配さえなかった。
ただ、焼けた肉の残骸が、地面に沈んでいた。
誰かが悲鳴を飲み込んだ。フィルの表情が崩れた。
その瞬間、花の迎撃機構が砕かれた。
砲弾が飛び、地面を抉った。フィルの足を掠め、花の根が裂けた。花弁砲は倒れ、粉塵が舞い上がった。
制御は断たれた。力は臨界に達した。リミナが一歩遅れていたら、爆発が始まっていた。
だが──その時だった。
「・・・大丈夫、奥の山を見て。」
リミナが手を差し出した。
フィルの視線が揺れる。彼女の指先が、煙の向こうを示していた。
「・・・ほら、あそこ。光が揺れてる。」
投光器はもう使えなかった。だが、光はあった。
焼けた木々の間に、鏡で反射された小さな光が揺れていた。灯ではない。虫でもない。
人が動かしている光だった。
「・・・生きてる。ベルは生きてる。まだ動いてる。」
リミナは笑った。
「残り一体。簡単でしょ?」
フィルは何も言わなかった。だが、呼吸は戻っていた。手が開き、視線が正面を向いた。
力は収束し、花は再び立ち上がろうとしていた。
「・・・敵残党を潰すために、早く片付けましょ?・・・今日こそ、ご飯、一緒に食べるからね。」
リミナは銃を抜いた。
そして、フィルに並んだ。
源氏焔は、静かだった。
だが、静けさの中で常に光が揺れていた。蛍と呼ぶにはあまりにも眩しく、山の奥で燃え残った火が、まるで意志を持つように漂っていた。
フィルは剣を構えていた。
木刀ではない。今の彼には、それすら重すぎた。
握っていたのは、刃渡りを詰めた細身の剣。切っ先は短く、力を乗せれば歪むほどに軽量だった。
それでも彼は構えを崩さなかった。炎が揺れ、光が走る。その動きに合わせて、剣が弾道を捉えた。
源氏焔の軌道は不規則だった。
小さな光が空中を漂い、周囲の空気を燃やしながら跳ねる。剣で正面から受ければ熱に焼かれ、横から切りかかれば目が潰される。
それでも、フィルは逸らした。刃の角度で、重心の残し方で、光をずらし、炎を払った。
背後から銃声が走る。
リミナだった。煙の中で伏せ撃ちを繰り返し、弾を光の外縁に打ち込む。爆ぜる音と共に、焔の動きが一瞬乱れる。
その隙にフィルが踏み込む。だが、足場が崩れる。
「こっち!」
リミナが叫んだ。膝を曲げ、肩を前に出す。フィルはその肩に飛び乗り、次の瞬間には蛍の真上へ跳ね上がっていた。
「ご、ごめんなさい!」
「いいから行って!」
叫びが熱に溶ける。
フィルは跳躍の末端で剣を振るう。空中で火が散る。反射する光が乱れ、焔が小さく身を捩った。
追撃を狙って再び落下。だが、地面には踏み場がない。
「足!」
リミナの声に反応し、彼女の手を踏む。
「ごめんなさい!」
今度は手首、次に腰。跳ねながら、肩を踏む。銃が抜かれ、発砲。フィルの背を風が撫で、焔の進路が逸れる。
炎が背後を焼く。だが、熱はまだ届かない。
「あと三つ・・・。」
リミナの声が、かすれた。息が切れていた。
だが、フィルは止まらない。
短い剣を握り直し、再び前へ跳んだ。
これは──作戦である。
ただの迎撃ではない。ただの決死の戦いではない。
虫には聴覚がある。だが、それ以上に焔は“視る”──その眼で世界を把握しようとする。
源氏焔が戦場に出た瞬間、真っ先に行うのは“燃やす”ことだった。
敵を焼くのではない。場を焼く。空間を変える。地形を塗り潰し、情報をリセットするように火を撒く。
それは──「目」が関係している。
源氏焔の複眼は、視覚情報を過剰に受け取る。色、熱、動き、反射光。すべてが一斉に飛び込み、処理能力を超える。そのせいで、空間を単純化する行動──焼くという選択を取る。
視覚による世界把握が過剰であるがゆえに、身体が重く、光を引き連れ、飛行しながら火を撒くしかない。
それでも生き延びてきたのは、共食いすら厭わない繁殖力があったからだ。
知能は追いついていない。だが、性能は“強い”。
フィルは、そこに付け込んだ。
短く、はっきりとした合図を送る。
リミナが頷き、スレアが起爆用の花を準備する。カンナが残った花弁砲を最後の調整にかける。
砲台が花を乗せる。花の中に、花粉誘導香、麻痺性の細粒、発光の種子。すべてが混じり合い、光と粉と音とで視界を染め上げる。
「──号砲、いける!」
フィルが叫ぶ。空に剣を突き出す。
そして、砲が放たれた。
打ち上げられた花が空に弾ける。
見上げた瞬間、空が満開になる。
花は視界を埋め、光を乱し、風を攪拌する。花粉が舞い、風の粒子が音を吸う。焔の複眼が瞬き、焼ける熱が一瞬止まる。
麻痺が走る。
光に迷い、焔は一瞬、空中で停止した。
その刹那──地上では、剣が走る。
空に散った花が、焔の複眼を遮った。
色と光と粉が折り重なり、風が騒がしくなる。焔は空中で体勢を崩し、周囲に反応しきれずに熱を外した。
視覚を封じた。それが第一手。
そして、第二手は──錯覚だった。
リミナが走る。フィルの右手に触れ、定位置に身を沈める。いつもなら、その瞬間に足を踏み、跳ねる。
だが、今回は違った。
「今!」
リミナが叫び、肩を出す──だが、フィルは踏まない。
焔が反応し、早まった動きで熱を放つ。狙いは完全に外れ、炎は虚空を裂いた。
そのわずかなズレが、すべてを決める。
「ごめんなさい!」
声と動作が、今度はずれた。フィルは一拍遅れて、リミナの腰を踏んだ。
その遅延が軌道を変える。焔が反応した時には、すでに剣が振り下ろされていた。
──叩き込む。
短い剣が、熱を巻いた外殻の隙間に食い込む。
焔の光が歪む。蛍の輪郭が崩れる。反射光が砕け、身体の重心が落ちる。
フィルは着地せず、空中で力を込めた。
もう一度、踏み切る。
肩を、背を、腕を。リミナの支えに連なって跳ね、もう一撃、剣を深く沈めた。
焔が叫ぶような音を放った。
それは虫の鳴き声ではなく、焼ける空気が音を捩ったものだった。
熱が散り、光が外れた。
そして──音が、止まった。
決着は、訪れた。
──そう、思った。
光は消えた。炎は止まった。音も、風も、蛍の残響も、もうそこにはなかった。
フィルは剣を下ろし、呼吸を整えようとしていた。
だが、その時だった。
地面が、変だった。
踏み込んだ土の感触が、いつもと違う。柔らかいのではない。妙に滑る。砕ける。乾いているのに湿っている。
──死体だ。
だが、どこのものだ?誰のものだ?
フィルの中で、何かが一気に繋がった。
ジアとリミナは、死体の数と重さから敵の規模を推定していた。だが、それを誰がどう集めたのかは、深くは問われていなかった。港で砕かれていた死体、回収されていた残骸。
「もし、死体を集めるのが“目的”だったとしたら──?」
言葉にならなかった。
だが、思考は止まらなかった。
「もし、源氏焔を討たせるための“舞台”だったなら?」
そう口にした瞬間だった。
地面から、何かが伸びた。
「──っ!」
足首を掴まれた。
土を破り、血と泥にまみれた腕が、フィルの脚を引きずり込もうとした。即座に蹴って砕け散らせる・・・しかし。
「なに・・・これ──。」
死体は死んでいなかった。あるいは、それすらも“偽装”だった。罠。全てが、罠だった。
誰かが叫んだ。リミナが振り返った。フィルは剣を振りかけていた。だが、足はもう沈みかけていた。
決着の直後。
新たな戦いが、始まりかけていた。
そうだ──と、フィルは思った。
敵は侵入しづらいのなら、無理に数を押し込む必要などない。
目標地点さえ目指せばいい。
そして、追いつきさえすればいい。時間がかかろうと、道中が地獄であろうと、それは問題ではない。
ならば──一人でも生き残れば、支障はない。
そこにあったのは、意地だった。
目的を捨てずに届けばそれでいい。
プライドの塊のような命令に、騎士団は動かされた。ただそれだけだ。
そして、それ以外の者たちは──使い捨てだった。
だから、こんな真似ができた。
焼けた死体を積み上げ、砲撃を引き寄せ、焔を討たせるという前提で舞台を整える。
仲間の死など、最初から織り込み済みだった。
騙すために、囮にするために。死を偽装し、生を撒き餌にする。
「・・・犠牲にする前提でしか、構成できない戦い。」
フィルの声は震えていなかった。
だが、その目の奥にあるものは、静かな怒りだった。
その怒りが、次の一手を生み出すだろう。
戦場の正面──アロンソは圧倒していた。
剣を捨てても、拳と鎧だけで十分だった。砲弾は砕き、突撃は止め、火線を弾き返す。
前衛の海賊たちは、彼一人によって文字通り叩き潰されていた。
だが、それでも──抜けられる。
アロンソが相手を破壊するまでの時間、その合間を縫って、数人が走る。
重装に耐えられない軽装兵、速度に賭けた斥候、弓持ちの援護兵。
彼は善戦していた。だが、速度ではどうしても追いつけない。
その撃ち漏らしを、オリヴァーが拾っていた。
高台に陣取った彼は、ボウガンを構え、風を読んで引き絞る。
矢はまっすぐ飛び、火の手前で敵を貫いた。
花の香気を仕込んだ矢は、花粉と共鳴して敵の動きを鈍らせる。毒ではない。感覚を乱し、追撃を容易にするための矢だった。
だが──数が、足りなかった。
「・・・花弁矢、あと五。」
オリヴァーが呟く。隣の箱には空の鞘ばかりが並んでいた。
通常の矢でも止められるが、花を通さない矢は、反応速度を半分に下げられない。追撃が遅れれば、突破を許す。
アロンソが正面で抑えている今、ここを通されたら意味がない。
彼は再び矢を引いた。だが、狙うべき敵は三。矢は二。
「足りない・・・っ!」
次の瞬間、矢が放たれた。だが、すぐに別の影が走る。
その先には、まだ守りきれていない通路があった。
戦場の圧力が、静かに傾き始めていた。
焔は、まだ動いていた。
討ち果たしたはずだった。
剣は届いた。跳躍も成功した。視覚は奪った。
だが──それでも、焔はなお、上を向いていた。
光の残滓が空に集まり、残された熱が羽ばたこうとしていた。
羽音が風に変わる。
山の端に向かって、焔が最後の飛翔に踏み切った──その時だった。
「・・・今。」
フィナの声が、風を切った。
花の号砲──第二射。
弾道は真上へ。
花弁を詰めた砲が咲き、光と香と音が空を砕いた。
前方に向かおうとしていた焔の飛翔軌道を、真横から打ち崩す。
光が混じり、花粉が熱に触れる。
焔の羽が破れた。熱が暴走した。
そのまま、空中で姿勢を崩し──燃えたまま、落ちた。
──落下。
重力に引かれたその身は、ただの蛍ではなかった。
光の塊。熱を溜め込み、空気を溜め込み、何かを抱え込んだまま沈んでいく。
フィルが気づいた。
あれは、飛ぶための空気ではない。燃えるための空気だ。
中に、燃料がある。残された発光核が、揺れている。
そして──着地。
次の瞬間、焔の体内で何かがはじけた。
破裂音は風を突き抜け、火柱が立った。
残っていた花粉が一斉に燃え、光が衝撃波となって地面を叩いた。
周囲に潜んでいた敵は、悲鳴すら上げられなかった。
空から火が降った。燃える蛍の身体が粉砕されながら撒き散らす熱に、頭上から直撃を受け、大半が即死した。
木々が焼けた。土が割れた。
そして、それは全て、作戦だった。
「・・・第二射、命中。」
フィナは銃を下ろしながら呟いた。
その目は、煙の向こうを見据えていた。
焔は──まだ、生きていた。
空から落ち、爆ぜ、燃え尽きかけた身体を引きずりながら、焼け焦げた足を動かしていた。
羽は裂け、光は濁り、音は死にかけていたが、それでも、燃え続けていた。
その前に立つのは、フィルだった。
剣は手の中にある。短く、細い。
だが、足取りは乱れていなかった。
息を殺すように、一歩ずつ詰める。
炎の残光が、顔を照らしていた。
周囲では、戦いは終わっていなかった。
ジアが弾を撃ち、カンナが刃を振るう。
軽装で逃げようとする残党たちを、女性陣が次々に撃ち殺していく。
怒りはなかった。ただ、沈黙があった。
彼女たちは、最初から生かすつもりなどなかった。
そして、フィナは動かなかった。
投射器の狙いを外さない。
焔を、ずっと追っていた。
誰よりも早く、次の動きを読むために。
フィルが倒れた瞬間に、撃つために。
焔が立ち上がる。
フィルと視線が交わる。
言葉はない。
ただ、互いに“知った”。
まだ動けることを。
まだ、終わっていないことを。
フィルが踏み込む。
焔が羽を開きかけ──
──音はなかった。
刃が、光を断ち切った。
振り下ろされた剣は、焼けた胴体を両断し、光の残響すら残さずに焔を沈めた。
崩れる音もなかった。
ただ、灰が舞った。
煙の向こうで、フィルが立っていた。
剣を握ったまま、何も言わなかった。
フィナは照準を下ろした。
それで、すべてだった。
炎が消えた。
焔の身体が崩れ落ち、光が土へと還ったその瞬間──地面から咲いた。
誰も気づかなかった。
火に焼かれたはずの地面一面に、突如として花が芽吹いた。
そして、そのまま伸び上がった。
それは根ではない。蔓でもない。
明確な“意志”を持っていた。
敵の脚を絡め、背を這い、首を吊し上げた。
「・・・なに──。」
ジアが叫ぶ間もなく、残された敵兵たちは一人残らず空へと持ち上げられた。
絞る。締める。叩きつける。
花は、殺していた。
火に焼かれ、塵になったはずの場所に、命が咲いた。
だが、その命は、優しさではなかった。
「・・・先生!」
フィルが叫んだ。
花の奥、黒焦げの花弁の中央──。
煙を割って、一人の男が立っていた。
長身。灰と白の混じるローブ。
その足元に咲く花は、一切の熱にも揺るがない。
顔は穏やかに笑っていた。
「よくやった、ヴェルヌ姉弟・・・見事だ。」
その声は、静かに、深く、全員の耳に届いた。
アンブロシウス・メルリウス。
ローマの時代から生きる、花の魔術師。
花を咲かせるだけの面白人間──。
だが、その正体は、幻術と剣術のプロフェッショナル。
誰よりも遠くから花を見てきた男。
彼が歩み寄るたびに、花が道を作った。
残された血も、死体も、花弁の中に沈んでいった。