DLCシナリオ最終話-例え世界が明日滅ぶとしても
地形改変の計算が引き起こした轟音と雷鳴は、まるで嘘だったかのように消え去っていた。 舞台は灰の地面に変わっていた。火山が吐き出した灰と、マッシュの計算が暴走させた雨が混じり合い、固まった大地。音は風が地表を滑る残響のみが届く。空を覆っていた分厚い雲が、ゆっくりと割れ、光が落ちる。それは、この数日間、誰もが見ることのなかった陽の光だった。
天文台は、その役目を終えたかのように静まり返っていた。 マッシュは机の上に散乱した資料を一枚ずつ拾い上げていた。気候変動の決行の際に焦げた天文図、ダムの水量を計算した羊皮紙、そして「枯れ枝の竜」の硬化に必要な太陽光の収束率を示したメモ。それらは全て、彼が世界を救うために使い、そして世界を破滅させかけた「理屈」の残骸だった。 彼の手の震えは、止まらなかった。彼は学者だった。天体の運行という秩序を解明し、それを数字で証明することだけが彼の存在意義だった。 「言葉」で人を救うことなど、彼は一度もしてこなかった。その彼が今握りしめているのは、望遠鏡のレンズではなく、これから街の仲間たちに向かって読み上げる「演説」の原稿だった。 その行為が彼にとっては計算式の導出よりも難解で、恐怖に満ちていた。目線は常に下を向き、インクが滲んだ原稿用紙から動かない。
「違う、マッシュ。そんな硬い声では論文の発表よ。論文じゃ人は動かないのよ」
イザベルが彼の背後から原稿を覗き込み、その声の抑揚を正した。彼女はスパイであり、人心掌握の専門家だった。
「聴衆は理屈を聞きに来るんじゃないわ。希望が欲しいの。少し、息を使って。言葉を置くように」
彼女はマッシュの肩を掴み、その強張った呼吸のリズムを、指先で叩いて調整した。
「ここの単語。『重力の増加による延命処置』…これでは誰もついてこないわ」
サンドリヨンが、マッシュの原稿の文節を区切り、難解な語を簡単な言葉に置き換えていく。
「『林檎を植える』。あなたはそう引用するのでしょう? ならば、『世界を繋ぎ止める、重い希望』。それだけでいい」
「視線よ、視線!」シャルロッテは、原稿の余白に、観客の視覚を誘導するための簡単な絵を描き加えていた。「あなたが『空』と言うなら、聴衆の目を一斉に空に向けさせなさい。言葉と視線を一致させるの」
彼女たちは、本来の任務を逸脱し、マッシュの演説を必死に手伝っていた。彼が引き起こした天変地異は、彼女たちにとっても計算外だった。だが、その結果として戦争が停滞し、世界が強制的に「リセット」された今、この震える男が紡ごうとしている言葉に、人としての純粋な希望を見出してしまっていた。 その目は柔らかく、任務の色が薄れていくのが分かった。
フィナは、そのリハーサルの光景を、天文台の割れた窓から静かに見つめていた。 彼女の視線はマッシュの震える指に注がれていた。 以前初めて会った時、彼は「自転をズラす」と豪語する、傲岸な天才に見えた。直近の告白で彼は過去に怯える、脆い逃亡者に見えた。 だが、今は違う。 スパイである女優たちに囲まれ、声の出し方や呼吸の仕方を必死に練習している姿。その理屈の男が、不器用なまでに「言葉」で人を繋ぎ止めようとする姿に、フィナは初めて彼を、ただの**「人間」として認識した**。 彼女の眉がわずかに動いた。 その「雨」と共に冷え切っていた彼女の心に、小さな熱が戻った。
静寂が再び街を支配していた。 地形改変の計算が引き起こした一時的な天変地異は収まり、天文台前の広場は、灰が洗い流された後に残った残骸と、再建途中のクレーンが林立する戦場と作業場の境界のような場所だった。
人々は静かに集まっていた。工員、技師、そして、リハーサルでマッシュの言葉を磨き上げた女優たち。彼らは広場に点在し、群衆の数は少なく、誰もが俯き、顔を上げてマッシュの演説を待つ。
雲の切れ間から久しぶりに光が差した。それは世界を焼き焦がすほどの光ではなく、湿った灰色の地面をわずかに濡らす遠慮がちな光だった。誰も歓声を上げない。聞こえるのは、風が吹き抜ける音と、マッシュが演台に置いた紙が擦れる微かな音だけだった。
マッシュは、演台の前に立っていた。 彼の体は震えていたが、訓練の成果か原稿を見ることはしなかった。顔は上げず、視線は聴衆の足元に落ちている。
彼の声は、震えながらも、広場に響いた。それは、彼の声ではない。彼の計算が、彼の口を借りて世界に語りかけているかのようだった。
「――たとえ明日、世界が滅ぶとしても」
その言葉は、彼が以前嘲笑したルターの引用だった。 彼の脳裏には、地形改変を強行した時、自らの計算が暴走し世界を壊しかけた罪の記憶がフラッシュバックしていた。それは、学者としての誇りから発せられた言葉ではない。一呼吸。彼の口から言葉が出るまでの沈黙が、懺悔の時間のようだった。
「今日、私は林檎の樹を植える」
その一言に、彼は科学者としての誇りを込めなかった。ただ、自分の計算が招いた結果に対する**「罪の告白」に似た祈りだった。彼の「林檎」は、神話でも信仰でもない。それは、彼が世界を破壊することでようやく掴み取った、「重力」という名の、物理法則が提示する「約束」**だった。
聴衆の中で、最初にわずかにすすり泣く音が響いた。 それは、シャルロッテだった。彼女は女優であり、観客の感情を誘導するプロだったはずだが、今は自分が観客となっていた。理屈ではない。ただ、この震える男の言葉から、「私たちはもう一度、生きていい」という、「救われた」と感じる純粋な感動が込み上げてきていた。サンドリヨンは唇を強く噛みしめていた。彼女は自分の感情が露わになるのを必死に堪えている。イザベルは、いつもの嘲るような笑みを顔に貼り付けていたが、その目の奥が濡れている。彼女は、涙を笑顔で隠していた。
マッシュは、一呼吸置き、彼の演説の核心へと入る。
「林檎とは、落ちるものだ」
彼の声が、少しだけ強くなった。これは、ルターの引用から、彼の専門分野である物理学への転換を意味していた。
「だが、落下もまた神が与えた運動だ」
重力。彼が何度も計算し、その結果に翻弄され、そして利用した、世界の最も根源的な法則。
「ならば私は、落ちる方向を選びたい」
彼はここで、重力を信仰に変えた。それは、神の試練や罰としてではなく、人間がその法則を理解し、その上で「選び取る」ことができる、希望の道具として再定義されたのだ。 理屈で語りながら、マッシュは初めて「生きたい」と心から願っていた。そしてその彼の個人的な「生きたい」という願いが、広場の全員の心に、「生きてもいい」という光を灯した。
「私は、落ちる方向を選びたい!」
マッシュの演説が終わった瞬間、広場は沈黙ではなく一斉のざわめきに包まれた。それは、彼の言葉を肯定する歓声ではない。理屈が理解できないことへの戸惑いと、その理屈が引き起こした天変地異への恐怖が混ざり合った不快な轟音だった。
沈黙を破ったのは群衆の最前列に陣取っていた一団だった。彼らは貴族や商人、そして古い教会の信徒たち。マッシュが引用したルターの言葉を、文字通りの信仰として捉え、彼の科学的な再解釈を冒涜だと感じていた。
「神を侮辱する気か!」 貴族の衣装を身に着けた男が、顔を真っ赤にして叫んだ。彼の背後から、さらに鋭い悲鳴のような声が続く。 「天の秩序を弄ぶな!」
彼らにとってマッシュの理論は、世界を壊した未知の力そのものだった。彼らの秩序は神と教会の不変の教えによって保たれている。それを、一つの数式で置き換えようとする行為は、恐怖でしかなかった。彼らの叫びは、秩序を守ろうとする側の、純粋な悲鳴だった。
マッシュは動かなかった。怒号が飛び交う広場を、怯えずしかし声を荒げないまま受け止めていた。彼は演台から一歩前に踏み出し、沈黙が支配する空間を探した。
「私は、神を壊す気などない」
彼は、一言ごとに声を落としていく。彼の声は物理的には小さくなっているはずなのに、怒鳴り声の奔流の中で、かえって響き渡った。
「私は神の“数式”を見た」
彼の視線が初めて群衆を捉えた。その目には狂気や確信の色はない。ただ、無限の空虚と、そこから導き出された理屈だけが宿っていた。
「だから、もう一度世界を造りたいだけだ」
そして、彼は沈黙した。怒声や罵倒よりも長く、深く、重い沈黙。マッシュは沈黙という名の重力で、騒ぎ立てる観衆を包んでいった。
その沈黙が支配した一瞬。 乾いた、鋭い音が三つ、同時に響いた。
パン、パン、パン。イザベル、サンドリヨン、シャルロッテの三人が同時に、そして完璧なタイミングで拍手した。 その音が導火線となり、堰を切ったように広場に集まった工員や技師たちからも拍手が起こり始める。
怒鳴っていた群衆の罵声が音の暴力に打ち消され、止んだ。
三人の女優は、広場を見渡した。彼女たちは、王国の貴族を欺き、諜報活動を成功させてきた、舞台上のプロだった。 だが、今。演説という名の舞台の外。この現実の演出を、彼女たちは初めて成功させた。
彼女たちの瞳の奥に、自らの力が戦争を終わらせるかもしれないという希望の光が確かに宿った。
演説の余熱が冷めたのはその夜だった。 雨はもう降らない。地形改変の計算が世界を書き換えたあの轟音と豪雨は、まるで嘘のように止んでいた。天文台から遠く見下ろす街は、夜の帳の中で静寂を取り戻していた。
経済の沈静は目に見える形で訪れていた。マッシュの演説で現実を突きつけられた商人たちは損失を受け入れた。戦争が終わり、経済が安定したことで彼らは新たな市場の再構築に意識を向け始めたのだ。 広場では軍人が武器を置き、負傷者や瓦礫の片付けに回っている。彼らが信じるべき「神聖な戦い」はマッシュの理論によって「無駄な消耗」へと再定義された。市場に静かな秩序が戻り、街の空気は、これまで感じたことのない安堵に満ちていた。
フィナは天文台の広々とした石の床に立っていた。窓から入る月光が、磨かれたレンズと、その奥で作業を終えたマッシュの後姿を照らしている。彼女は、あの憎むべき「情熱」と、あの崩壊的な「計算」がもたらした世界に立っている。その全てを受け入れることが、この街を守る唯一の道だと知っていた。
「……貴方が壊した世界を、私が続ける」
彼女の声は命令でも批判でもない。それはマッシュという孤独な天才に対する許しであり、彼が作り出した新しい秩序を自らの手で運用していくという、共同の誓いだった。
マッシュは、フィナの言葉に振り返らなかった。彼は、望遠鏡のレンズ越しに夜空を見上げる。騒乱が収束した今、レンズが捉える星々の軌道は、彼の計算通り、確かに安定していた。この壮絶な実験は、彼が恐れた「計算の暴走」を証明したが、同時に、その計算が世界を救う力を持ち得ることも証明した。
「君達は世界に花を知らしめた。ならば私は、未来にそれを残す」
彼はそれまでの理論家としての自分を終えるかのように、机に寄りかかり静かに筆を置いた。その仕草は、理論の構築から、未来の安定へのコミットメントへの移行を象徴していた。
マッシュの計算台の机の上。一本のペンが転がっている。その横で林檎がひとつ、転がって止まる。 それは、重力という名の物理法則に従い、地面に落ちる落下ではなく、ただ静止した姿だった。 その林檎が、窓に映る星と、街の新しい秩序を映し出し、世界の再生を象徴する一枚で幕は閉じられた。
マッシュの計算が引き起こした一時的な天変地異は、それが始まった時と同じように、唐突に収束した。世界を終わらせるかのように降り注いだ雨は止み、空は分厚い雲の隙間から、祝福のような光を漏らしている。
修復中の天文台。割れた窓の枠はそのままに、そこから差し込む朝の光が、床に散らばった割れたレンズの破片を叩いた。その破片が、小さなプリズムとなって、部屋の隅に七色の虹を作っている。
外からは、石畳の修復を知らせるカンナの槌音と、静かな鳥の鳴き声が聞こえてくる。それは、この数日間の絶望的な静寂を破る、ようやく戻ってきた**「普通の朝」**の音だった。
フィナは、天文台の一角、日が差す窓辺に座っていた。 彼女の足元には、黒く焦げた土と、新しい栄養が混ぜ込まれた植木鉢が並んでいる。彼女は、その鉢の一つを静かに覗き込み、残った芽を指先で整えた。泥と血に塗れた根を洗い清め、土の中に戻す。その単純な作業の中に、彼女は、戦場で失った秩序と平和を、再び見出しつつあった。
「やっと……花の手入れができる」
彼女の声に疲れはない。ただ、極限の緊張から解き放たれ、やっと戻れた日常の手触りを確かめている。
その時、マッシュが、開け放たれた扉から、静かに天文台の外へと歩み出た。彼は、泥と灰にまみれた工具と、新しい花の鉢を並べている。彼の視線は、天文台の望遠鏡の足場に向けられた。数日前まで、あの足場には、天を測るための精密な機械が据え付けられていた。だが、今は、隙間から伸び始めた生命力の強い蔓植物が絡まっている。
彼は、その光景を見て、微かに笑った。
「秩序も、自然には勝てないな」
それは、彼がルターの言葉を引用し、**「重力という名の約束」**を語った後の、素直な感想だった。
フィナが、そのマッシュの隣に、新しい木の鉢を置いて座る。ふたりの会話は、ようやく呼吸が合い始める。
マッシュは、静かにフィナの隣に座り、彼女の植木鉢に目を落とした。
「君達は前、世界に花を知らしめてくれた。ならば次は、未来に知らしめるべきだ」
彼は、真面目な顔をしている。だが、その語尾でわずかに照れた。彼の視線は、植木鉢の土の表面を滑っている。
フィナは、マッシュのその照れを見逃さなかった。彼女は苗木を植えながら、口元に薄い笑みを浮かべる。
「未来ね……そのくせ、泥だらけじゃない」
彼女は、マッシュの作業着の裾に跳ねた泥の染みを指差す。マッシュは、それを見て、苦笑した。
「科学者も畑仕事を覚えるさ」
それは、彼がこの街で生きていくという、理屈ではない、距離の近さを示す会話だった。
マッシュは、ふと笑みを消した。彼は、土に手を置き、その冷たい感触を確かめる。そして、これまで抱えてきた恐怖と、自らの才能への責任を、全て込めて真面目に言う。
「私の野望は決まった。科学を使って、この花を育てよう。それも今まで以上に、恒常的に戦火に巻き込まれないように」
彼の声は柔らかく、どこか少年のようだった。それは、彼が過去のトラウマから解放され、初めて真の希望に才能を使うことを誓う声だった。
フィナは、その言葉を聞きながら、苗の土を固めていく。その手つきは、優しく、しかし確固としている。
「その野望、半分は私のものにしておくわ。あなた、一人だとまた変な理論立てるでしょう?」
二人の笑い声が混じる。その笑い声と共に、天文台の軒先に下げられた風鈴の音が、静かに響いた。
広場はもはや戦場ではなかった。瓦礫が撤去され、再建途中の劇場の前には小さな花で飾った市が開かれている。通りには、焼き菓子の甘い香りが漂い、行き交う声が、この世界の新しい生活音を作り出していた。
イザベルは小さな屋台で花飾りを売っていた。かつて、彼女の強烈なカリスマは任務を達成するための武器だったが、今は違う。
「似合うなら付けてやらんこともない、なんて言ってたけど……」
彼女は、花飾りを買っていった子供の頭にそっと乗せた。その子は無邪気に笑った。彼女は、その光景を見て、ふと、戦場では見せたことのない、柔らかな笑顔を見せた。
「……似合うわね。」
サンドリヨンは劇場の隅で、新しい舞台衣装を縫っていた。
「布のほつれも、戦場の地図に似てる」 彼女は、自らの役割が世界という大きな舞台の裏方になったことを実感していた。 「でも、縫えばちゃんと戻るのね」
シャルロッテは、小さな演劇教室を開き、集まった子どもたちと発声練習をしていた。
「せーの、『明日は晴れる!』」
子供たちの声が、戦争で傷ついた街に響く。その声は、マッシュの理論や、フィナの秩序よりも、早く、人々の心に希望を植え付けていた。
フィルは修理された街灯を取り付けながら、梯子の上から背後を振り向いた。彼は、もはや剣を振るう兵士ではなく、都市の機能を修復する工員だった。
「リミナ、あの劇場、明かり届いてるか?」
リミナは劇場の二階から、手を振った。彼女の顔は硝煙ではなく、汗と光に濡れている。
「ばっちり!ちょっと明るすぎるくらい!」
二人の声が混ざる。戦いを経て結ばれた彼らの声が、この世界の新しい生活音だった。
夕方の広場。女優たちは自分たちが作ったアクセサリーを街灯に飾っていく。マッシュが直した灯り。その光が反射して通りが花色に染まる。
イザベルが笑いながら言う。 「次こそは私が勝つ!」 「何に?」 「観客のハートに!」
全員笑う。それは血を流し、裏切りの任務を負いながらも生き残った彼女たちだからこそ理解できる、冗談で終わる温かさだった。
天文台の屋上。風が、静かに吹く。 フィナとマッシュが、再建されつつある街を見下ろす。夜には、街灯が灯り、女優たちが飾ったアクセサリーが、ささやかに光を放っている。
マッシュは、その光景を、レンズを通さずに見た。
「人は、理屈で街を作り、笑いで守るらしい」。
フィナは彼にしか聞こえない声で答える。
「じゃあ、私は笑顔の秩序でも作ろうかしら」。
二人が笑う。 風が吹く。




