第一章-衝撃と畏怖
リミナが戻ってきたのは一ヶ月後の事だ。パリの空気は、春のくせに土臭く、腐敗と香辛料が混ざっている。火の気配が消えないのも伝統らしい。市場の裏手、肉屋と靴屋の間を抜けた先でフィルが立ち止まり、鼻を鳴らして深く息を吸い込んだ。
「久しぶりね!フィル君!」
「ここがパリなんですね!凄い!燃えてます!!」
「何に感動してんだ。まぁ、昔からの伝統だ。エティエンヌ・マルセルにでも言ってくれ。」
「今日は少し用事がありましてね、動物の繁殖期なので虫対策が大事なんですよ。」
「解体の仕方なら分かるわ。」
「焼き方もセットでお得ですねー。」
フィルの身長はリミナの肘あたりまでしかない。小さくて可愛いと思いながら撫でたくなる。だが忘れてはいけない、力の入れ方次第で真っ二つにする位には腕の力が強い、興奮なんてさせたら首チョンパを素手で起こされる。
「手を握ってもいいけど気を付けてよ?」
「驚かない様に気を付けます!」
「驚いたら私死ぬの?」
「即死はしません、握り潰すスピードの方が早いので。」
「最悪。」
パリで再開したのは別の目的がある。それが商談中の叔父への差し入れである。
「そうそう、最近妹がまた新しく出来たの。」
「代わりに用意した花が夫婦復縁で有名な奴でしたが・・・危ないですからね。薄めてやっと媚薬に抑えれる奴ですよ?」
「なんでそんな物渡すのよ。」
「希望もそうですけど気温の知識が不足しててですね?」
「・・・はぁ、まぁいいけど。叔父様にも差しい入れてあげれば商談が上手くいく!って思って渡したのですけど・・・。」
「予備は詰めてあるのでミスっても大丈夫です。利益で取り返せます。」
「フィナちゃんは?」
「花の世話でお留守番です。」
「あ、あと約束の灰、多くは持ってこれなかったけど。」
「似た花で再現出来ないか用なので嬉しいです。」
パリの中心部は腐肉と獣脂と火薬の香りが入り混じっていた。昔からの伝統と言えばそれまでだが、久々に訪れた身としては目眩がする程の不快さだった。リミナは眉を寄せ、喉の奥が痺れるのを抑えきれず、無意識にフィルの脇に手を差し込んでいた。臭いから逃れようとするように、そのまま抱え上げる。軽い。想像よりも遥かに。力が抜けた訳ではない。骨格自体が違うのかと錯覚するほどの質量のなさに、むしろぞっとした。だがその瞬間、肺の奥に入り込んだのは別の香りだった。湿気のない乾いた花の香り。発酵の過程を完全に終えた、熟れ切った土の香り。汗や汚れの類は全くなく、ただ土壌の中で濾過された命の残り香だけが柔らかく届いた。あまりに落差が大きくて、リミナは一度腕を緩めかけたが、そのまま強く抱いた。鼻が馬鹿になる程に、この子は清潔だ。香水のような匂いではない。手入れされた花畑に、数時間だけ通された時の記憶と酷似している。抵抗はない。ただ、両足を持ち上げられたフィルが、じっとしたまま地味に抗議してくる。
「・・・くすぐったいです。出来れば、手を少しずらして貰えると。」
「・・・あ、ごめ・・・いや、ちょっと無理。」
「はい、ではそのまま耐えます。あと、呼吸は少し控え目にお願いします。声帯が共鳴して内部に振動が来ます。」
「そんな細かいこと言う!?」
「耐性はありますが、警戒反応も一応出ます。」
「やめてよ、咄嗟に潰されそうで怖いんだけど・・・」
「握ってません。まだ。」
フィルを片腕に抱えたまま、リミナは吐き気を押し殺すように路地を歩いた。もはやこの街の臭いに文句を言う気すら失せていた。代わりに、抱えている小さな体から漂う花の香りを、出来るだけ鼻の奥に染み込ませるように呼吸を繰り返す。正気を保つには、これしかなかった。だが、嗅げば嗅ぐほど思い知る。これが対価無しで享受できる香りではないと。
「ちょっと!アンヌ!今あんたんとこ、台所に動物の血垂れてたでしょ。花、詰めときなさい!」
「え、あのリミナさん!?おかえ──」
「喋らなくていい!あたしが選んであげるから!」
数歩先の肉屋の奥、下働きの男が腸詰を運ぶ隙に花束を投げ込んだ。詰められたカゴはすぐさま香りの核になり、周囲の臭気をわずかに中和する。驚きの声が上がる間もなく、次の家へ足を向けた。
「モニク!赤ん坊いるんでしょ!このままだと肺に黴菌入るよ!あたしの花、干すだけで空気通すから!三輪でいい、今なら包みもつける!」
「え、あの、支払いは──」
「聞いてないわよ!」
肩に抱えたフィルが多少揺れても、誰も気にしない。彼自身も動じない。鼻先だけは彼女の襟元に残されており、どうにかこの悪臭の中で呼吸の形だけを整えている。
「そっちの店も!焼き場の裏に干してある革、何日置いてるの!色で分かる!もう腐ってる!腐ってなくても臭い!今すぐこれ飾って!」
怒鳴るたびに花束が投げ込まれ、手に持った布で包んで渡され、商談は会話なしで完了する。代金の回収は後回し。香りが広がりきる前に街全体の臭気を押し返すのが最優先だった。
リミナの中にある“香り”の価値は、今この瞬間だけ実際の金貨以上だった。
花を配り終えた頃には、既に周囲の空気が一段階澄んでいた。臭いが抜けたというより、抑え込まれていた。街の通りに立つ者たちが次々と彼女に声をかけてくるのを、リミナは全て利用した。誰かが見ている。誰かが聞いている。それなら宣伝になる。
「これ?この子、花畑で育ってるの。肥料の配合から温度の管理まで、自分で判断するのよ?七歳、男の子、薬は不使用。持ってるだけで空気が変わるって、さっき実感したでしょ?」
そう言って抱え直すと、フィルの目線がすっと合った。
「まるで商品みたいな扱いですね。」
「売ってないから安心しなさい。宣伝よ、宣伝。今度出る花束、あんたモデルになるんだから。」
「そうでしたっけ。」
「そうなのよ。」
木箱を引っ掻き回していた染物屋の主が、色素の取れかすを紙に包んで寄越してきた。腐葉土に混ぜれば殺菌効果が高いらしい。続いて皮職人が端材の革を、チーズ屋が発酵の途中で失敗した試作品を、それぞれ「匂いを遮る素材としてどうか」と手渡してきた。リミナは一言も断らなかった。
「頂いておくわ。あと、あんたんとこの肥溜め、今度覗きに行くからね。」
「ほう、行くんすかい。今ちょうど面白い話があって──」
「面白い話って?」
「東の連中が持ち込んだ“黒い土”よ。触ったら熱が逃げるし、汁気が下に落ちて分解が早い。あんたらの花と組み合わせりゃ、何か面白いことになるかもな。」
「・・・それ、本当に東欧?」
「地名までは聞いてねぇが、馬と鶏の骨が混じってる匂いがした。あいつら、火山灰じゃないって言ってたな。」
言いながら羊肉の串焼きを差し出してきた。匂いに負けた。空腹だった。フィルも受け取った。断る理由はなかった。腹が減っていた。──食った。さらに別の屋台からパン、パテ、ドライフルーツ、果実酒の香り。商売の報酬と称して食べ続けた。止まらなかった。
満腹になった。というより、もう動けない程に内臓が詰まった。フィルを抱えたまま、リミナは片膝をついて呼吸を整えた。目の前のフィルが静かに言った。
「そろそろ日が傾きます。静かな場所へ行きませんか?」
「・・・そうね、木の匂いくらいじゃ酔わないし。」
「それ、今日のセリフじゃないですよ。」
「うるさい。」
次の瞬間、向かったのは街の外れの森林だった。空気が通る。腹が重くても、足が動いた。
風が通った。街の空気とはまるで違った。木々の密度が高く、光は葉の隙間を滑っては砕け、土の匂いが呼吸の底まで降りてきた。リミナはようやく息を深く吐いた。腹の中に詰まった食べ物が、重さを残しながら静かに沈んでいく。そのとき、フィルが立ち止まった。
森の端に近い斜面の中腹。一本だけ、角度の異なる影が落ちていた。大きくはない。背丈はあっても、根が浅い。
「あの木は──」
視線の先で、幹の一部が裂けていた。削られたような跡。何かで引き裂かれたような線が、皮の下から僅かにのぞいていた。フィルの声が低くなった。
「記憶する木です。あれは、虫の通った跡を内部に残す木で。」
「・・・記録する、ってこと?」
「はい。でも、近づかない方がいいです。」
リミナは眉をひそめた。理由を問おうとしたが、フィルの目が動かないまま言葉を継いだ。
「何が通ったか、どのくらいの圧力だったか、どの向きに移動したか──全部、木の中に残ります。ですから、傷があるというより、過去がそこにあります。」
「過去、ね。」
「・・・僕たちの畑には、こういう木はありません。生きたものにしか記録できないものは、あまり使いませんから。」
語尾が妙に固かった。理屈ではなく、感情に何か引っかかっているような。
「神聖なものだと思っています。なので、あまり近づかない方が・・・良いです。・・・それ以上に生態を知るとクソ樹木だと思うでしょう。」
「分かった。」
「ありがとうございます。」
それ以上は何も言わなかった。風の向きが変わると、木の根元に積もった枯葉がざわりと鳴った。まるで誰かがそこにいるように、音だけが追いかけてくる。
「少しだけ説明します。」フィルは木を見たまま言った。「この木は燃えます。よく燃えるというより、太陽光の熱を集めて自分の周りの草を焼きます。乾燥すると、葉の反射で地面に焦点を作るんです。生き延びるために、周囲を焼き払って栄養を独占する。」
リミナは目を細めた。焼け跡はなかったが、根の周りの草が妙に少ない。納得するには十分だった。
「虫が住んでいる可能性もあります。でもそれ以上に、この木は“覆う”んです。傷を、火を、音も。」
「音まで?」
「この木、色々異質なんですよ。腐りかけなので楽器にするにも向いてます。」
「・・・神聖な理由が分かるわ・・・これ。」
「根が浅いぶん、水分を保持して振動を吸います。外皮も柔らかくて、潰れる時の音が少ない。だから気付かれにくい。でも、成長は早い。砕けやすくて軽いから──武器にもなります。」
「武器?」
「折って刃にしたり、枝のまま振り回しても使えます。軽いから、よく飛ぶ。人の体にも残りやすい。刃物より厄介な時もあります。」
「・・・へぇ・・・」
「でも染料にも使われます。体液の吸収が速くて、水に混ざりやすいので。あとは灰も柔らかくて沈殿しにくいので、紙にも。」
「便利じゃないの。」
「便利だから人は近づきたがる。でも僕は、あまり好きじゃありません。」
そこには理由はなかった。フィルの言葉はいつもそうだった。結論と情報が並んでいて、そこに情緒があるかどうかは、受け手に委ねられていた。
フィルは言い終えると、腰の後ろから小さなナタを抜いた。刃は短く、幅はあるが反りはほとんどない。刃渡りは彼の腕の半分にも満たないが、握った時の角度に無駄がなかった。
「確認します。」
地面を一歩ずつ確かめるように進み、幹の右側、節の少ないあたりに目を留めた。柄の底でそっと幹を叩く。音が乾いて返ってきた。中は空洞になっていない。だが厚みが均一ではない。傷がある。そう判断したのだろう。
刃が入ったのはほんの一瞬だった。押し込むのではなく、撫でるように。表皮を剥ぐように、角度をずらして裂く。刃先は滑り、木の繊維が一筋浮き上がる。
「・・・これは、やっぱり傷跡ですね。節の再生が少し歪んでます。」
「虫の?」
「大型ではないです。でも、熱が加わってる。皮の裏に、焼けた色があります。」
裂いた箇所の内側、確かにわずかに焦げた茶色が混じっていた。焦げではなく、日焼けでもない。熱に晒された樹液が、繊維の間に染み込んで硬化していた。
「燃えてますね。たぶんここを起点に、草が燃えたことがあります。焼けるというより、“焼いた”という感じ。」
「やっぱり、火を使うのね。」
「だからこそ、音も匂いも残さないで死ねる。戦場には向いてます。」
フィルはそう言うと、ナタを布でぬぐい、折った木屑を慎重に紙袋へ入れた。分析する気らしい。リミナは少しだけ背筋に冷たいものを感じた。
フィルは裂いた木片を手に取り、陽の光に透かした。繊維の中に残る焦げの色、層の厚み、断面の滑り。そこに微かな違和感があった。
「・・・これは・・・。」
木片の端に、通常とは異なる焼けの波形があった。熱の入り方が斜めに偏っている。外からの熱ではなく、内側で滞留した痕だ。フィルは木片を持ち直し、さっきより低い声で言った。
「燃え方が少し違います。普通なら表面が先に炭化して、芯に向かって焦げていくんですが、これは逆です。内部が先に変質している。」
「じゃあ、何が起きたの?」
「虫の熱源が、内部に留まったと考えるのが自然です。」
「そんなの、よくあるの?」
「いいえ。大型の虫が身体の内部で熱を溜めることはありますが、ここまで明確に“芯から焼けた”形跡は珍しいです。」
もう一度、切り口にナタの背を当て、押し割るように木片を分解する。層がほぐれた瞬間、焦げ跡がさらに奥へ走っているのが見えた。
「貫通せず、かといって外に逃げてもいない。発熱器官があった可能性があります。しかも──既存の型とは一致しません。」
「じゃあ、まさか・・・。」
「新種か、変異個体か。どちらにしても、記録に無い虫の可能性が高いです。」
フィルはそのまま黙り込み、小さな花弁のような炭化層をそっと指で剥がした。幹の奥に、何かが通った軌跡がまだ残っていた。
フィルは木片を布に包みながら、静かに言った。
「このまま森の奥に入るのは、避けた方が良いです。」
「・・・そう。戦わないの?」
「はい。今回は撤退判断です。」
即答だった。熱はない。怒りの気配もない。ただ、芯だけが明らかに硬くなっていた。無感情なようで、逆に何かを強く拒絶している。リミナは口を開きかけて、言葉を飲んだ。
戦ってくれると思っていた。怪物の痕跡を見て、そこに立ち向かう姿が浮かんでいた。けれど、違った。彼はまず安全を見て、撤退を選んだ。周囲を気にして、手順を守った。
「怒ってるの?」
「はい。ですが、衝動で動くわけにはいきません。」
その言い回しに、胸の奥が少しだけ熱を持った。守られる側ではなく、守るために感情を制御する。誰に教えられた訳でもないのに、その姿勢だけで惚れそうになる。
「でも、そうね・・・正義とか、あんたの大事な人たちとか、居るんでしょ?」
「はい。街にも、花畑にも、関係者はいます。」
「だったら、今のうちにそっちに向かう理由を作っておかないとね。」
「理由?」
「つまり──調査、ってこと。もう少し、このまま一緒に歩かない?」
フィルは黙って数秒、木の根元を見つめていた。
「了解です。記録を整理しながら、案内します。」
「良かった。」
「ただし、あまり深くまでは入りません。あくまで記録の範囲で。」
「はいはい、デートとは言ってないわよ。あくまで、花を見に行くだけ。」
「そうですね。観察対象の変化を共有するための同行です。」
「言い方、どうにかならないの?」
「どうなれば正解なのかは、まだ不明です。」
それは答えではなかったが、悪い気はしなかった。
光の粒が静かに揺れていた。薄く開いた木枠の窓から差し込む朝日が、布団の縁を斜めに撫でている。外はまだ完全に目覚めていない。風も音も、眠っている側に近かった。
リミナは先に目を開けた。・・・と思ったが、次の瞬間、すぐ隣で同じように目を細めている影に気づく。視線が合った。目覚めた瞬間の、まったく同じ動きだった。
「・・・おはよう。」
「おはようございます。」
会話の間に、半拍の静けさが挟まる。何かを確認するような、あるいは探るような。
「・・・よく眠れた?」
「はい。寝返りの干渉もなく、適度な湿度と密度で快適でした。」
「感想がそれ?」
「客観評価です。」
視線を外さず、少しだけ体を起こす。枕元に残っていたのは、一輪の花だった。夜のうちにどこからか落ちてきたらしい。香りは薄い。けれど枯れていない。布団の端に軽く押し花の形を残していた。
「・・・これ、あんたの匂いじゃない?」
「僕は寝ている間に分泌量が上がる傾向があるので、香りは定着しやすいです。」
「だからって、自分の匂いが染みた花を残していくのはどうなのよ。」
「残していったのではなく、自然に残ったのだと思います。」
「どっちでも変わらないじゃない。」
「違います。意図か無意識かは大事な要素です。」
「・・・難儀な子ね。」
それでも、怒る気にはなれなかった。香りは清潔で、空気の重さを忘れさせてくれる。朝の街に向かう前の、ほんの少しの静かな時間。その中に、花と、息と、言葉だけがあった。
朝の陽が完全に昇る頃には、畑には既に数人の人影があった。リミナは手を後ろで組みながら、少し離れて様子を見ていた。フィルは道具を持たず、手袋すらせずに土に触れていた。領主の立ち会いもあった。畑の一角が特別に開かれている。
「この土は、水を含んでから七時間経ってます。下層に沈む前に、浅根用の花を植えた方が良いです。」
「そうか、それなら・・・ここを二列分空けておくか?」
「いいえ。空けずに広葉を配置すれば、虫が通りにくくなります。防衛と誘導を兼ねて。」
静かなやり取りだったが、領主は何度も頷いた。土に対する判断も、日照に対する布石も、全てが実戦に基づいていた。単なる園芸ではなかった。
「一応、防衛用と誘導用に分けて、育成計画は立てておきます。」
「花でか?」
「はい。一定の距離を保ちながら、帰還と同時に配置すれば、行動ルートの補完にもなります。」
「敵が来ると分かるのか?」
「定期巡回であれば、どの地点で反応があるかが明確になります。距離と角度、応答速度を記録すれば、計算可能です。」
「計算・・・?」
「農学者と数学者に伝えます。」
そのままフィルは立ち上がり、作業道具の並ぶ方へ歩いた。背後で領主が苦笑いしながら、布を渡しているのが見えた。何かを拭いたのだろう。リミナは遠くから見ていただけだが、それだけで充分だった。
「面白がられてるわけじゃない・・・本当に、気に入られてるのね。」
フィルはその後、計測道具と記録紙を持って戻ってきた。数人の学者と立ったまま会話を交わし、必要な本数、土壌条件、開花日数、湿度の範囲など、情報を確認し始めた。
蒸気の濃度が肌を這うように滑り、湯気の奥から複数の視線が突き刺さった。
フィルは黙って顔を覆っていた。目元から下は、濡れた布で完全に隠している。露出はほとんどない。だが、空気の層が違った。
「・・・この子、花の香りがする・・・。」
「え、嘘でしょ、近寄ったら分かる、すっごい、これ、何の花・・・。」
「ちょっと、誰が入れたの!?この子!」
「静かに、喋らないであげて、香りが逃げちゃう・・・。」
空間の中心で、タオル一枚の少年がただ座っていた。抗う素振りは見せない。されるがままという訳でもない。ただ、受け流している。鼻から下を覆い、目線を上げないように。まるで気配だけを消すように。
「・・・息苦しくないの?」
「湿度が高いので、香り成分が充満します。鼻を出すと、その分、出力も上がります。」
「・・・何言ってんの?」
「・・・耐えてます。」
周囲の湯の表面に花びらが浮かんでいた。誰かが撒いたものではない。彼が連れてきた香りが、空気を変え、水を変え、花を寄せた。
誰もが知っていた。出ていかせれば、空気が元に戻ると。だから、囲んでいた。少女のように扱う者もいれば、女神のように崇める者もいた。
「・・・出ます。五分後に。」
「まだいいじゃない、もう少し・・・。」
「限界です。」
タオルの下、呼吸が浅くなる音がかすかに聞こえた。誠実な拒絶だけが、そこにはあった。
湯けむりの中、花の香りが一層濃くなっていた。誘った訳でも、撒いた訳でもない。フィルの体温と湿気に反応し、香りの層が空気を占有しはじめていた。
「・・・すごい、なんか・・・お姫様みたいな匂いする。」
「ちょっと、触っていい?服じゃなくて、手だけ。」
「えー、でもこのままだと逃げられない?じゃあさ、あたしたちで──。」
小さな手が二つ、三つ、肩に回される。フィルは瞬間、筋肉を僅かに緊張させたが──そのまま、動かなかった。押し返さず、声も上げず、ただ黙って連れて行かれた。彼女たちは騒ぐでもない。楽しそうに笑い、柔らかく腕を引き、湯の奥へと導いた。年齢は同じくらい。見た目にも力は無い。けれど、だからこそ。
──この力加減で返したら、彼女たちの骨はどうなるか分からない。
フィルは知っていた。だから何もしなかった。ただ、目を伏せて布で口元を隠し、気配だけを最小限に抑えていた。
時折、くすぐったい指先が首筋を撫でた。肩口に押し当てられる視線。くすぐりには弱い体質だが、それすらも動かず耐えていた。
「・・・この子、ぜったい妖精でしょ。」
「わたしたち、捕まえちゃったのかな。」
「だとしたら、バチ当たるくらい大事にしないと・・・。」
静かな混乱の中、時間だけが過ぎていく。けれどそれは、彼にとってずっと続く戦場だった。
──そして、リミナはその気配を感じ取っていた。
浴場の入り口。湯気の向こうに少年の姿が戻ってくる。その手には未だ布。口元を隠したまま、目だけがまっすぐリミナを見つめていた。
「・・・誘拐された、の?」
「はい。」
「抵抗は?」
「してません。筋肉の力率的に、握っただけで関節が外れる可能性があったので。」
「・・・偉いわ、フィル君。」
「判断としては最適でした。」
「そういうことじゃないわよ。凄く、優しかったって話よ。」
布の向こうで、フィルのまつげがほんのわずかに揺れた。
器が手元に置かれると、ふわりと香草の香りが鼻先を撫でた。フィルは深く頭を下げてから、静かに手を合わせる。
「ありがとうございます。いただきます。」
「たくさん作ったから、遠慮しないでね。」
「はい。」
穏やかに返し、匙を手に取る。豆とチーズの混ざった部分を一口すくい、熱さを確かめてから口に運ぶ。咀嚼して、飲み込み、きちんと息を整える。
「・・・美味しいです。」
「よかった。」
リミナは少し肩の力を抜いて、自分の分も並べた皿に手を伸ばす。だが、次の瞬間、目の前にもう一つの器が差し出された。
「・・・リミナさん、良ければ、こちらも少しどうぞ。」
「えっ、私に?」
「はい。お返しというより、対等にするためです。」
「・・・フィル君、それ、あなたの分よ?」
「まだ半分残っていますので。」
フィルは悪びれた様子もなく、穏やかに差し出していた。だが、リミナは思わず小さく息を呑んだ。
「あ・・・そうか、私・・・。」
自分の器には、明らかに二人分の量が盛られている。嬉しさのあまり、あげすぎていたのだと今さら気付いた。
「つい・・・可愛いから、いっぱいあげたくなって・・・。」
「それは嬉しいですが、僕にも食べる権利はあります。」
「うん・・・ごめん。ありがとうね。」
リミナは器をそっと引き寄せ、姿勢を整える。少し照れたように笑って、そして向かいのフィルを見つめた。
「ちゃんと、自分の分も食べてね?」
「はい。リミナさんも、ですよ。」
そして、すぐに団欒も終わるが、外に出て尚会話は続いた。
枝先を剪定し、花弁の端を摘む。白い手袋越しに小さな棘が触れるが、フィルはまったく動じない。陽を浴びて花々が揺れる中、彼の手元だけが驚くほど正確だった。
「ねぇ、これって何の花?」
「麻痺を誘発して花畑の拡大や縮小を防ぐものです。食べると筋弛緩剤になります。」
「麻痺・・・あんまり良い言葉じゃないわね。」
「でも、役に立ちます。」
リミナが笑うその時、視界の端で何かが揺れた。風ではない。フィルの手がわずかに止まる。
「・・・草の音が、四重に増えました。」
「誰か来てるの?」
「はい。三人。金属音と軋み──革の乾き方で、剣帯が擦れてます。」
その一瞬後、花畑の縁から影が飛び出した。長衣に外套、顔を布で覆い、剣を携えた男たち。
「子どもか・・・だがそれでもいい、抑えろ!」
リミナが口を開くよりも前に、フィルの身体が動いていた。
一人目が腕を振り上げる。フィルは地面に低く滑り込み、背中から腰の位置を突いた。ナイフは使わない。ただ、脇腹に一瞬だけ重心を預ける。
ぐらりと崩れた男が前のめりになった瞬間、足を払われて落ちる。後頭部が石にぶつかり、短く呻いて動かなくなった。
「早すぎて・・・見えない・・・。」
リミナが言う間に、もう一人が駆け寄る。
「小僧ッ──。」
肩口を掴まれた瞬間、フィルは逆の手を取る。小柄なはずの身体が、相手の重心を崩し、二歩目の踏み込みで肘を固めて押し倒す。腕がひしゃげる音。痛みで叫ぶ声。そこへ正確な拳が側頭部を叩いた。
三人目が、戸惑いながら剣を抜いた。
「おい・・・なんだこいつは──。」
「剣の鞘の素材。南方製です。正面からは動きづらい。」
フィルが静かに言い、足元から土を蹴り上げる。土と花粉の混ざった粉塵が舞い、相手の視界が途切れる。
次の瞬間、花の茎を束ねたロープが足に絡み、前のめりに倒れた。
「まさか、草ごと・・・。」
声を漏らす間に、フィルはその頭を押さえ込み、首筋を軽く叩いた。神経を狙った正確な一撃。三人全員が倒れていた。
呼吸を整えるフィルの横で、リミナがようやく近づく。
「・・・凄い、何も殺してない・・・。」
「殺す理由がありません。農業区域ですから。」
「そうじゃなくて・・・いや、やっぱりそうね。」
花畑の風が戻る。倒れた男たちを見下ろしながら、リミナは目を細めた。
「・・・あれ、傭兵よね。貴族の紋、背中に刺繍されてる。」
「気付きませんでした。」
「わざわざここまで来て子どもを狙うなんて・・・人質。狙いは多分、そこよ。」
「都市との対立が関係あるとすれば・・・確かに、そういう選択も。」
「・・・少し、考えないといけないわね。」
「それはそれとして服は剥いで洗って売り飛ばし、残りは川にでも投げときましょう。」
「・・・それはどうなのよ。」
リミナは眉を寄せて、倒れた傭兵の顔を見下ろす。
「禁欲主義系の所属です。まぁ異端の側ですね。過激派でしょう。」
「・・・あー、通るなって言われるわ私も。」
「ワインが取れる取れないで変わるものですよ。花の影響力が警戒されてますね。」
「・・・それ、つまり私が花売ってるせいで過激派が動いたって事?」
「明確には判断できませんが、貴族の意図なら辻褄は合います。」
「・・・待って。なら、あの背中の紋・・・やっぱり、貴族の傭兵か。」
「人質目的で動いたなら、納得はできます。失敗しましたけど。」
「・・・そっか。王とパリ市長、それと貴族の対立・・・その線で見れば、この襲撃は──。」
倒れた傭兵たちの衣服を見下ろしながら、フィルはゆっくりと口を開いた。
「利益を求めた襲撃・・・という風に考えるのが妥当でしょうが、今はかなり不味いです。」
声は静かだった。だが、その語尾にはわずかに固さがある。歯を噛むような緊張が滲んでいた。
「虫が近くに居る状態で、遭遇すれば軍隊が壊滅し・・・。」
言葉がそこで一拍だけ途切れる。花を揺らす風の中、リミナは思わず息を飲んだ。
「パリに他国の軍勢を送り込まれ・・・。」
普段と変わらぬ声調のはずだった。だが、それは明らかに“非常事態”を告げる響きだった。
「貴女の故郷まで帰れなくなる可能性もあります。」
言い終えてから、フィルは顔を少しだけ伏せる。その瞳には迷いはなかった。数多の花が風に揺れる中、その姿は──小さいのに、誰よりも現実の重みを背負っていた。
フィルはゆっくりと後ろを向いた。肩を落とし、あくまで静かに、表情を変えずに。
だが、そこにあったリミナの顔には、深刻さなど一欠けらも無かった。
目を輝かせて、口元を引き締めながら言い切る。
「ここが稼ぎ時だろ?失敗したらゼロから稼げる!しかも復興なんて、条件付きで債務に出来るのよ!」
嬉しそうで仕方がない、といった笑顔だった。
「街が壊れるって事は、再建予算も復興利権も同時に動くって事。つまり、影響力と供給力を握った者勝ちなのよ。」
「食料が足りなきゃ保存品を貸せば利子がつく。水が濁れば、浄化薬と一緒に花粉の吸着剤も売れる。医薬品?騎士団と修道院で争奪戦よ。どれも高値で取引されるわ。」
「しかも貴族と都市が揉めてる間に地方路線が空けば、直接売り込む道もできる。長期的には・・・そう、わたしが一番乗りで“必要な物”を揃えてれば、後から全部集まってくるの。」
「・・・分かる?被害が出ても、出なくても、どっちに転んでも美味しいのよ。」
フィルはその目を見つめた。何かを見透かすような、そうではないような不思議な顔で。それから、ごくゆっくりと小さく頷いた。
「・・・なるほど、よく分かりました。リミナさん、貴女は本当に優秀な方ですね。」
その言葉を残すと、フィルは踵を返し、さっきまで整えていた花畑に戻っていく。
だが、手にした剪定鋏を一度見つめると、即座に放り出した。
「こんなヘボい作業じゃダメですね!」
気合の入った声とともに、近くの支柱に掛けられた太めの鍬を担ぎ上げる。
「まずは畑の境界を五センチ削って全周囲の排水性を高めます!水たまりで腐敗して虫を寄せる訳にはいきませんから!」
「ついでに空気の流れも確保して花粉の拡散率を計算しておかないと!」
まるで別人のような速さで作業を開始するその背中を、リミナは頬を緩めて眺めていた。
「・・・可愛いし有能だし、何よりこういう所がたまらないのよね。」
・・・彼女は、金銭を数えていないのだ。
どちらが先に動くかで、しばらく沈黙が続いた。けれど、身体は互いを選んだまま変わらずにいた。指は離れず、まぶたは落ち着きを取り戻していた。
「もう少しだけ・・・このままじゃだめかな。」
「だめじゃないけど・・・今日も忙しくなるよ。」
「わかってる。でも・・・うれしいんだ。」
声は低く、喉の奥でくぐもっていた。嘘のない声だった。ああ、と思う。彼はそれだけで、また抱き寄せた。胸と胸が重なって、朝のぬくもりに溶けていく。何もしていないのに、何かを済ませたような静けさが満ちていた。だが、それでも朝は待ってくれない。
彼女は額を離し、そっと首を傾けた。
「・・・起きる?」
彼は息を飲んだだけだったが、彼女はそれを了承と受け取った。体をほどく動作は、ほどくというより離れがたいものを押し戻すようで、どちらの手も時間を惜しんでいた。
「顔、近かったね。」
「うん。」
「・・・寝てるとき、何考えてた?」
「・・・起きたら、君が目の前にいて、うれしかった。」
彼女は声を返さなかったが、動きで答えた。立ち上がる途中、手をつかみ、そのまま引いた。よろめく彼を引き寄せたまま、彼女はくすっと笑った。
「朝ごはん作るから、手伝って。」
「ああ。」
会話の一つひとつに、昨日までなかった湿度が残っていた。水音がする。薪を入れる音。陶器のぶつかる音。ふたりの生活は、音から重なりはじめていた。
陽が高くなる前に、畑の外れに異変が見つかった。倒れた茎、踏み荒らされた土、粉々に散った花弁。彼女は足を止め、口を噤んだ。
「虫?」
「・・・違う。踏み方が違う。これは人間の足跡だ。」
彼は屈み、潰された茎の向きと、浅いながらも複数残された足跡を指でなぞった。
「多分、盗賊だ。花を追って来てる。」
「どうして・・・こんな奥まで?」
「理由は簡単だ。こっちが花を都市まで繋げてる。それを辿れば、都市の位置が分かる。」
彼女は視線を落とし、花の列の続く先を見つめた。かすかに香る甘い匂いが、風に乗って街のほうへと引き延ばされている。
「でも、虫も来るよね・・・あの花に惹かれて・・・。」
「そう。虫も盗賊も、同じ道を通る。だから途中でかち合う。」
「ぶつかれば・・・時間が稼げる・・・?」
「そのためにやってる。今日中に撤退と誘導を済ませる。それまでに少しでも遅らせればいい。」
「でも、都市の人は?」
「花の流通を宣伝する。『この花は都市に届く』と。市民が受け入れることで、価値が生まれる。盗賊も、それを見逃せなくなる。」
「それって、罠・・・?」
「そう思わせれば十分だ。奴らが急がなくなれば、それだけ時間が稼げる。」
彼は目を細め、花畑の先を睨んだ。花はまだ咲き誇っていた。その美しさが、やがて戦場に変わる。だが彼の眼差しは、今も一輪一輪を正しく見ていた。
夜の帳が落ちる頃、馬車の横に土が積まれた。袋を破って、素焼きのプランターに花と一緒に詰めていく。彼は一つずつ手で押し固め、崩れないように土を縁まで盛った。
「これ、こっちが匂い誘導用で・・・」
リミナは別の箱から摘んできた花を差し出した。茎は短く、花弁はやや開きすぎている。見た目には向かないが、香りだけは濃い。
「ちゃんと咲かせなくても匂いさえすればいいなら、むしろ土に埋まるこれの方が良いです。でも花が馬車から落ちているのを示す為に、見せる用の花はそっちで投げてください。」
「了解。」
フィルは頷き、見た目の良い花を選んで、表に向けて投げた。風に乗って、数輪が地面に滑っていく。遠くから見れば、荷崩れにしか見えない。
「匂いのラインは、このまま街道まで?」
「うん。でも最終地点までは引かない。都市の入口で切る。中に虫が入ったら、意味が変わるから。」
リミナはプランターの位置を微調整しながら言った。彼女の指先は正確で、間隔は歩幅に合わせて等間隔に並んでいく。
「投げるのって、意外と難しいな。」
「置くくらいの感じで良いです、僕は投げたいので投げます。」
「・・・攻城兵器みたいな勢いなのは触れないでおくわね。」
フィルはもう一度試しに花を放った。地面で弾んだ花弁がひとつ、月明かりの下で回転して止まった。それだけで、この道が誰かを導くように思えた。
月は高く、土は冷えていた。リミナは黙々とプランターを並べ、花を整え、匂いの強い個体を手際よく仕分けていった。最初は間隔を測るのに時間がかかっていたが、次第に迷いが消え、手の動きも早くなっていた。
「・・・私、ちょっと得意かも。」
そう口にした直後だった。
乾いた空気を裂くような爆音が、遠くの闇から響いた。彼女は肩をすくめ、反射的に手を止めた。
「多分接敵しました。虫が火薬にやられましたね。」
「火薬入れたの!?」
「言ってなかったですか?」
「・・・寄らなかったらリスクばかりじゃないそれ。」
「盗賊とかち合っても盗賊が数秒でくたばるので火薬ですよ。盗賊なんて実力的に信用出来ないんで。」
リミナは目を丸くしたまま、空のほうを振り返った。夜の静けさが戻るまで、彼女の指は土に触れなかった。
花の香りは風に乗って流れていた。だが、それは自然のものではない。意図された導線、制御された強さ、計算された揮発。彼女は薬瓶の蓋を閉じ、指先をぬぐった。
「これで、匂いは充分・・・。」
「筋弛緩剤も撒いた。逃げる気配は無い。」
「火薬、着火。三、二・・・。」
乾いた音とともに煙が上がった。その数秒後、赤い閃光が地面を穿つように現れた。突進だった。
「来た!」
馬車の上で、彼は体を沈めるようにして伏せた。視界にはもう影が見えている。
「火薬と筋弛緩剤、それに香り・・・三つ全部揃えてようやくスタートラインって何よ・・・。」
「間違えたら即死ですし。寄られたらまず終わりですし。」
「笑ってるの・・・?」
「いえ。」
もう一発、火薬の導火に火が移った。虫の軌道がそれた。その隙にリミナは瓶を投げた。狙いは正確だったが、爆風と土煙で見失う。
「・・・次、投げるよ。」
「はい、次は左。花の残香がそっちに流れてます。」
赤兜が見えたわけではない。だが、振動が、熱が、土の下からこちらに迫っていた。
「赤兜の解説いりますか?」
「いらない!」
「デカいカブトムシですか低空飛行しか出来ない奴です。突進に関しては気を付けて。操縦は任せました。」
「・・・やるしかないか、ホント嫌になるわ。」
フィルはロープを手にして馬車の側面を蹴った。反動を利用して体を外に投げ出すと、足裏の滑り止めが音を立てて地面を削った。靴の底が軋む感覚を堪えながら、体勢を低く保ち、後ろ向きのまま滑走する。地を引かれながらも視線だけは正面を向き、片手は腰の花弁入りの瓶に添えられていた。最初の衝突まで、あと数秒だった。
「第一波!直に叩きます!」
フィルは滑走の勢いを殺さぬまま腰のボウガンを引き抜いた。振り返りざまに構え、反動も迷いもなく引き金を引く。
矢は月明かりを割って飛び、赤兜の右目の下、甲殻の継ぎ目に見事に刺さった。甲高い音と共に赤兜の頭がわずかに傾き、突進軌道が逸れる。
フィルはもう次の矢を装填していた。手元の花瓶から香りの強い個体を抜き取り、矢尻に結びつける。手際は早く、無駄がない。
「次弾装填!第三準備良し!」
小さく呟きながら、別の花を手に取り、次の矢にそっと添えた。赤兜の動きは止まらない。だが、それでもこちらの動きも止まらなかった。
フィルは呼吸を殺し、反動を溜めるように姿勢を低くした。風は敵の動きを教えなかった。何も聞こえないのが、逆に速さの証だった。
「酔いはまだ回らないか。」
フィルは呟きながら姿勢を低くし、次の突進に備えた。
音もなく赤兜が迫る。地を擦る振動の前に、彼は一歩だけ踏み込み、蹴りを放った。爪先が赤い外殻を正面から捉える。鈍い衝撃が返り、敵の軌道が逸れる。赤兜の脚が土を滑り、僅かにバランスを崩した。
しかし、その反動は彼にも返った。ブーツの底が土にめり込み、膝に力が集まる。止めはしたが、距離が縮まる。
「・・・こっち来るな。」
低く、唇の裏で吐いた。視線は逸らさず、しかし背後の気配にだけ意識を向けた。
「触らせないからな、絶対に。」
その言葉を聞いて、リミナが嬉しそうに後ろを向いた。肩をすくめるようにして首を傾け、頬を赤らめながら、誰にも見られないような笑顔を浮かべていた。
「良い赤同士の勝負じゃない!」
「赤が似合ってる人に言われても!」
フィルが叫び返すと、リミナは嬉しそうに片目を細めた。
「私達お似合いだからね!」
その言葉に一瞬呼吸が詰まり、力みすぎた。フィルの蹴りが直撃し、赤兜の角が折れた。乾いた音が夜に響き、次の瞬間、虫の胴体が震えた。
「あ・・・。」
フィルは足を引きながら小さく漏らした。赤兜が顔を上げ、花弁より赤い目で睨んできた。
「すいませんがこのまま都市まで継続戦闘です!」
叫びながら、もう矢を構えていた。リミナも笑顔を崩さず、背中を預けてきた。風は止まらなかった。戦いもまた。
それから二時間が経っていた。
矢は何度も尽き、そのたびに拾い直し、花の香りも土の熱で飛んでいた。赤兜の脚は土を削り、馬車の車輪は二度傾いた。
フィルはまだ立っていた。だが、腰が限界を訴えていた。
「こ・・・腰が・・・。」
「何お父様みたいな事言ってるのよ!将来頑張って貰うんだから!」
「おごご・・・どういう事ですか!」
返しながらも、身体は止まっていなかった。肩越しに花瓶を投げ、足元の礫を赤兜の進路に滑らせた。リミナも片手で香り袋を振りながら、もう片方でプランターを投げている。
「あいつ、動きが鈍くなってきた。」
「そっちも相当じゃない?」
「それでも・・・あと少し・・・。」
フィルは息を整えながら、赤兜の足元を見つめた。足裏の沈み込みが浅くなっている。
「・・・なるほど、重力か。」
「どういうこと?」
「恐らく山の上の方で生まれたんじゃないか?と予想してます。・・・だから・・・だから・・・。」
言いながら、脚を一歩引いた。矢筒は空に近い。馬車の板も砕けている。
「これからもっとヤバくなります。」
「・・・え!?」
「まぁでも、出来るでしょ?」
「言われなくても!!」
ふたりは笑いながら、次の足音を待った。疲労も、恐怖も、夜の風も超えて、ただ前を見ていた。
敵がまだ終わらないのなら、こちらもまだ、終わらせないだけだった。
都市の空気は緊張していた。花の香りはまだ遠くで揺れている。だが、それは確かに近づいてきていた。
オリヴァーは通りの中央に立ち、肩の高さまで砲台を引きずり出していた。車輪の音は地面を這うように響き、装填した薬莢がカランと鳴った。
「通りの線はここだ。あとは風が逸れなければ・・・。」
彼は花畑の縁に足を運び、腰の袋から粉末を撒いた。風が運び、花弁の輪郭がくっきりと浮かび上がる。外からも、警戒すべき境界が見えるようになった。
カンナは城壁の脇に立ち、風の向きと地形を確認していた。
「方角、確定。北東から来る。全部閉めて、ここだけ開ける。」
彼女は一枚の扉だけを開け、他の門を次々に固く封じていく。
「通るならこっちだけって分からせる。それが一番効率いい。」
ジアは建物の上に登り、狼煙筒に火を入れた。
「はい、点火!見てろよ、こっちが本拠地だって教えてやる!」
白煙が勢いよく上がり、空に線を描く。それは合図であり、挑発でもあった。
クレアは何本ものロープを確認しながら、一本を強く引いた。
「起動信号。これで通路の仕掛けが連動する。」
小さな音とともに、地下で複数の装置がカチリと音を立てた。通る者にしかわからない、だが確実な殺意がそこに宿った。
ラヴェルは静かに盾を手にして立っていた。鎧はない。だが、腕と脚に巻かれた包帯が、既に戦う準備が整っていることを示していた。
「来るのなら受ける。来ないのなら、それもよし。」
その声を聞いたベルが、草陰に身を寄せて耳を澄ませた。
「・・・六歩分、ズレた。風が違う・・・いや、違うな、足音が重なってる。」
小さく言いながら、手にした紙を広げ、周囲に指を向けた。彼の感覚が導線を再調整する。
スレアはそれを確認して、前に出た。彼女の手には札と短冊、背には巻物がある。
「位置調整完了。動線確定。次、交代と交戦の段取りを維持して。」
彼女の声は大きくはない。けれど、誰よりも静かに、皆の間に秩序を走らせた。
「弾薬は節約して。食料と回復は第三箱から。優先順は花の保持者。盾役は右に集中。」
誰も答えなかった。けれど全員が、既に動いていた。
都市は眠っていない。花が咲く限り、守る者たちは、戦う理由を忘れなかった。
馬車の車輪が石畳を削る音が、まだ静かな都市の広場に響いた。扉が開き、駆け寄ってきた衛士が手綱を受け取る。
「フィナ様、無事──」
「大丈夫、荷台も無事よ。あとは──」
言いかけて、フィナはふと振り返った。
荷台には、薬草の束と備品の袋、そして花の詰まったプランターが揺れていた。だが、そのすべての間に──彼の姿はなかった。
「・・・え?」
視線をもう一度巡らせる。屋根の上、荷台の下、馬の影。どこにも、いない。
「フィル・・・?」
声は届かない。代わりに、馬車の後ろから風が吹き抜けた。遅れて到着した粉の香りが、焦げたように甘く、残滓を引いていた。
「あれ・・・どうして・・・。」
口の中が乾く。背筋が冷たくなる。誰かが無事だと言ってくれたわけでも、彼が戻ってきたわけでもない。
「・・・なんで、いないの。」
花の香りだけが、空になった荷台を漂っていた。それは目的地に着いた証ではあったが、一番乗っていなければならない人間が、そこにいなかった。
フィナは、言葉にならない息を吐いた。
風向きが変わった。何かが、遅れて届きかけていた。
「・・・後ろを向いて。」
フィナは誰に言うでもなく、けれど確かに伝えるように言った。都市の広場に集まっていた兵士も、仲間たちも、その言葉に振り返る。
そして全員が、目を見張った。
都市の坂道を下る街道。その真ん中に、ひとり立っていた。
フィルだった。
彼は動いていなかった。縄を切った音は既に過ぎていた。足元には擦り跡すらなく、馬車に繋がっていたはずの制御用のロープは、断たれて地に落ちている。
身体に力みはない。だが、すでに構えはできていた。
赤兜が真正面にいる。陽のない空の下、その赤い外殻は地熱を吸って黒くなりつつあった。低く構え、角を揺らし、前脚を地面に打ちつけている。
けれど、フィルは動かない。花も、矢も、武器も持っていない。ただそこに立ち、相手を見据えていた。
「──来るよ。」
フィナが呟いた。けれど、その声には焦りも驚きもなかった。
信頼だった。
その言葉の通りに、赤兜が一歩踏み出す。けれど突進はしない。距離を測っている。虫にしては、慎重すぎるほどの間合いの取り方だった。
それだけで分かる。
相手も、見ていた。
フィルは足を一歩ずらす。土を掴むように指先で感触を確かめ、ゆっくりと腰を落とす。花の瓶が揺れる音がする。矢が鞘の中で重なる音がする。
でも、まだ撃たない。
相手が「強い」からではない。
“勝てる”ことが分かっているからこそ、フィルは無理をしない。待っている。
フィナは深く息を吸って、口を閉じた。
もう言葉は要らなかった。
この街は守られる。
──あの背中がいる限り。
フィルは視線を動かさず、背中だけで声を投げた。
「リミナ、心配させて申し訳ない。ここからが本番ですよ。安心して・・・ジュースでも貰って見ていると良いです。」
言葉に力はなかった。だが、その抑えられた抑揚こそが確信だった。
彼の右手が腰の裏に伸びる。革の帯からそっと抜き取られたのは、一振りの木刀。
削り痕がそのまま残り、色褪せた刃筋に文字のような線が刻まれている。
それは、覚えている。使った回数も、避けた打撃も、打ち払った感触も、全て。
──記憶する木の木刀。
手にした瞬間、フィルの姿勢が微かに変わった。地に足が根を張り、風が身体を避けて通る。
赤兜が低く唸る。彼もまた、それに応じて、ゆっくりと構えた。
この木の剣は・・・忘れない。
彼がそれを抜いたとき、誰もが理解した。
ここからが、本番だった。
「記憶する木は、受けた攻撃に耐性を持つから、とりあえず武器にしておくと相手に対抗する武器になるのよ。」
「へー。」
気の抜けた返事とともに、リミナは腰を下ろしていた。砲台の影に背を預け、手には渡されたばかりの果実ジュースがある。冷えているわけではない。けれど、喉の渇きがそれを許した。
服は濡れていた。汗が襟元に染みて、脇の下から腰にかけて細い水の線を描いている。立ちっぱなしの体勢、投擲の動作、咄嗟の移動。それらが積み重なり、布は背中に張り付き、脚の付け根にしがみついていた。
香り袋を扱っていた指先がまだ甘い匂いを残しており、ジュースの果汁と混ざって手元がさらに瑞々しく見える。
喉を鳴らして飲んだ瞬間、首筋に滴が垂れた。
「あっ・・・。」
慌てて拭おうとしたが、服の袖も既に湿っていた。リミナは肩を落とし、絞り取るように胸元の布地を摘まんだ。すると、かすかに透けた色が浮き上がる。
「弟に刺激が強いから、私の服、着る?」
涼しい声が頭の上から落ちてきた。振り向くと、フィナが腕を組んで立っていた。目だけが笑っていない。
リミナは慌てて首を横に振りながら、服の裾を握って膝の上に引き寄せた。
「お願い、フィルに見せれないよ、こんなはしたない姿・・・。」
その言葉を聞いた瞬間だった。フィナの目の周りにわずかに影が差した。笑っていた唇はそのまま、だが目の輪郭だけがじわじわと暗くなる。まるで静かな夜にだけ出る雲のように。
「・・・ふぅん。」
リミナはその視線に気づかず、うっかり足を投げ出したまま、まだ片手でジュースを口に運んでいた。
その姿は、戦場の端にありながら、あまりに色っぽく、無防備だった。
そして──誰よりも近くでそれを見ているのが、フィナだった。
「(・・・私って女の子こんなに気にしてたっけ・・・。)」
・・・とは思うがその実家族愛として大好きなフィルの匂いが染み付いているので気になっているだけだ。
(・・・私って、女の子こんなに気にしてたっけ・・・。)
リミナが飲んでいるジュースの音、濡れた服の擦れる音、それらがやけに耳に残った。
普段の自分なら、気に留めることなんてない。けれど今は、なぜか落ち着かない。
──きっと匂いだ。
リミナの肌、髪、服の繊維、そこに残っているのは、あの子と同じ戦場を潜った者だけが持つ匂い。
火薬と土、焦げた花と汗。
戦いをくぐったばかりの人間にしか出せない、それが“彼”のそれと同じだということが──妙に気になる。
けれど、理由がわからないまま、視線がそこに戻ってしまう。
「(このクソアマ・・・私の弟に手出ししやがったな・・・?)」
戦場では、フィルが正面から赤兜を受け止めていた。
その向かい側に、盾を構えたラヴェルがいた。
彼女は鎧こそ纏っていないが、その盾の構えは一切の隙がなく、音ひとつ立てずに敵の動きを誘導していた。
赤兜が突進に移る前のわずかな予備動作。
角が動く瞬間、ラヴェルの盾が滑るように位置をずらし、外殻のラインを制御するかのように受け流す。
そのタイミングに、フィルが動いた。
一歩、踏み込む。
次の瞬間、記憶する木刀が反動をなぞるように走り、赤兜の肩口を撃った。
一発ごとに、虫の動きが遅くなっていく。
だが、フィナはまだそこまで目が届いていなかった。
彼の背中と、リミナの髪の間にある“共通する何か”──その正体に、自分の感情が反応していることすら、まだ認めきれないでいた。ただ、胸がざわつく。それだけが、今は事実だった。
赤兜が跳ねた。
角を振るい、斜めに跳躍しながら、暴れるように軌道をずらす。
それは狙い定めた突進ではなかった。死を悟った者が、最後に何かを壊そうとする本能的な動きだった。
──都市の端、門近くの城壁が砕けた。
鈍い音とともに、外壁の一角に亀裂が走る。
クレアがロープを咄嗟に引く。罠の起動が遅れ、煙だけがわずかに吹き上がった。スレアが手元の札を確認し、方角と距離を叫ぶ。
だが、その全てより早く、前に出ていたのはフィルだった。赤兜が跳ね上がるよりも一拍先に、彼はその足を読み切っていた。すでに、ラヴェルの盾が地面に突き立てられている。
盾の縁が角の軌道を受け流し、衝撃を逸らす。
その反動、わずかな揺れ。
そこに、フィルが滑り込む。
低く踏み込み、振りかぶることなく、ただ振るう。
刃ではない。記憶する木の、厚みある斜線が赤兜の羽根の付け根を叩いた。
──砕ける音。
固いのに、もろい音。
一瞬、空気が止まり、羽根が地に落ちた。
赤兜が絶叫する。けれど、声はない。ただ、地面が鳴る。
ラヴェルは動かない。フィルも構えを解かない。
だが、それが終わりとは限らない。
都市に兵はいない。迎える者も、支える盾も、自分たちだけだ。
そう思いながら、フィルは木刀を持ち直した。
ラヴェルとは視線も交わさないまま、
だが二人の間に、一拍の呼吸だけが同じように揃っていた。
ジュースは、もうとっくに飲み干していた。けれどリミナは、まだその空の紙コップを手に持っていた。くるくると指で回しては止め、また回していた。
風が吹いた。砕かれた羽根の粉塵と、花の香りと、火薬の残り香が混ざっていた。けれど──その中に、もっと濃く、肌に刺さるような汗と土と木と、もうひとつだけの“誰か”の匂いがあった。そしてその匂いが、自分の肌にも染みついていることを──リミナは、理解していた。
(・・・私、あの子の匂いが気になってたんじゃなくて──自分の中に残ってる、それを・・・。)
目の奥が熱くなった。感情じゃない。何かに引かれていた。
「行かないで。」
フィナの声は、優しかった。でも、引き止める力はなかった。
リミナは目だけで答えた。視線を落とすことなく、ただ前を見た。
「行くの?」
カンナの問いは、責めるように尖っていた。
リミナは、うんともすんとも言わない。ただ歩く。その肩に手が伸びかけたが、カンナの手は寸前で止まった。
「勝手にすれば・・・でも、怪我したら怒るから。」
その隣で、オリヴァーは黙っていた。何も言わず、何も動かず、ただ道を空けた。手に持っていた火縄を、ゆっくりと腰に戻した。
──リミナは走った。誰にも止められなかった。道の途中で風に煽られ、花弁が足に絡む。それを振り払うこともなく、ただまっすぐ進む。
戦場の気配が肌を刺すように強くなっていく。それでも怖くはなかった。彼がそこにいるなら、それだけでいいと思えた。
──そして辿り着いた。瓦礫を越えたその先、空気が焼けていた。赤兜はもう片膝をついていた。ラヴェルの盾が僅かに揺れる。その横で、彼が──フィルが、立っていた。
振り返らずに、ただ声だけが届く。
「近くで見たいのか?」
その声は、いつもの軽口混じりのものとは違った。静かで、でも重く、深く、なにより格好良かった。震える心が、音を立てて崩れた。
リミナは、そこで完全に落ちた。自分でも気づかぬうちに、頷いていた。
「・・・うん。」
その声が届いたとき、彼は初めて振り向いた。光の中に立つ彼の顔が、ひどく綺麗に見えた。
リミナは小さく呟いた。
「・・・私、自分の匂いに引かれてる。」
誰に言ったわけでもなかった。ただ、その場に立つ理由が、確かなものに変わった気がした。
フィルが、ちらりとこちらを見た。だが、否定もしなければ答えもしなかった。
彼はすっと片手を挙げ、合図のように振った。
「ラヴェル!」
名前を呼ばれた少女が、盾を構え直す。赤兜の動きが鈍った一瞬を見計らって、フィルは静かに歩み寄った。
そして──ためらいもなく、リミナの身体を軽々と持ち上げると、そのままラヴェルの方へと投げた。
宙を舞ったリミナの視界が回転する。思わず小さく叫びかけたそのとき──
「・・・っと。」
ラヴェルの腕が、しっかりとリミナの身体を受け止めていた。
衝撃はあったが、投げた者も、受け止めた者も、計算の上だった。
ただ、ラヴェルの顔には薄く驚きが浮かんでいた。
それでも、腕の中のリミナが軽く笑っているのを見て、彼女はすぐに視線を戦場へ戻した。
「却ってここに来てくれて好都合だ、多分突進していた。」
フィルの声は冷静だった。赤兜の角度、動き出す足──それを、僅かな視線の揺れだけで見抜いていた。
ラヴェルが盾を構え直す。衝撃は増しているはずなのに、彼女の表情には焦りがなかった。むしろ、さっきよりも余裕がある。
フィルは口元を僅かに歪める。
「脳が少ない。この図体の癖に馬鹿だこいつ!」
突進は直線的すぎる。予備動作が大きい。全てが大味で粗い。
その単調な軌道に対して、ラヴェルが耐え、フィルが狙う──ただそれだけの戦いだった。
だが、油断はない。突進の勢いを利用して致命傷を与えたところで、終わらせるまで気が抜けない。
「・・・楽には終われないな。」
その呟きに誰も返さない。風と、唸りと、咆哮の音だけが響いていた。
突進の圧が再び迫る。赤兜が地を穿つ勢いで突き進み、空気を裂いて迫ってくるのを、フィルは真正面から受け止めた。
「──っ、来るか。」
肩を落とし、軸足をずらし、正面からではなく斜めへと誘導する形で体を滑らせる。土煙が舞い、角がかすめる。フィルは木刀を払うでもなく、視線だけをその先端に留めた。
「・・・なんだ、今の感触。」
角が重い。だが、硬質ではない。しなりがあり、わずかに削れた手応え。フィルは即座に間合いを保ち直し、動線を観察した。赤兜は再び地を蹴る。突進に特化した身体、重心の乗せ方、そして突端──角の動きだけが微妙に遅れている。
「角が遅れてる・・・あれは本来の武器じゃない。自前の成分じゃないな・・・素材が違う。」
跳ね返った反動、摩擦の痕。フィルは滑るように横へと下がりながら、次の一撃で確かめる覚悟を決めた。
「よし、なら・・・折ってみるか。」
木刀を握る手に力が籠もる。その材は、記憶する木──一度触れた衝撃の角度も圧力も、既に刻まれていた。
フィルは方針が決まれば行動は早い。
木刀を構えたまま間合いを詰めると、地を蹴る音より早く角の軌道を予測し、重心をずらす。そのまま脇をすり抜け、柄の側で一撃。甲殻の表面に当たった感触はやはり違和感のある反響だった。
(重心がずれている・・・いや、違う。角そのものの重さが変則的だ。)
振り向きざまにもう一撃。木刀の腹で突くように叩くと、先端ではなく付け根付近に微かな弾力を感じた。角が固定されていない──いや、接合が甘い。
(構造的に不自然だ。素材を接着しているか、体内から生えていない可能性がある。)
赤兜は再び突進を繰り返す。が、直線的な攻撃に変化はない。盾があれば弾けるレベル。
(知能が高いわけじゃない・・・繁殖行動に基づく“記号化”された動きだ。)
背後に回り込み、脇腹へ斬り上げるような一撃。木刀は軽く軋みを上げたが、甲殻に亀裂を刻んだ。赤兜の動きが鈍る。だが反撃はない。
(発情期の信号。威圧と示威行動・・・あの角は、仲間を集めるための“象徴”だ。)
一歩引いて呼吸を整える。赤兜が角を振るう。狙いは正確ではない。むしろ“見せつけている”ような軌道だった。
(なるほど・・・角の素材は異質、造形も左右非対称。自作か?山から降りてきた個体──他の虫と接触がないなら、自分で“主張”しなければいけない。)
左足で滑り込みながらの一撃。赤兜の左前脚が崩れる。そのまま、間合いの中に角の基部が現れる。
(この角さえ砕けば──奴は、自分を見失う。)
フィルは木刀を逆手に持ち替え、強く踏み込んだ。次の一撃で、象徴を砕きにいく。
角を砕くべく踏み込んだ瞬間、予想よりも遥かに軽い手応えが返ってきた。
「・・・え?」
木刀が叩いたのは硬質な武器ではなく、乾いた殻のようなものだった。
(・・・おかしい。角って、こんなに脆いか?)
続けて赤兜の脇を走り抜け、腹部に軽く一撃を加える。逃げる様子はない。獰猛性も急速に鈍ってきている。
(さっきまでの突進、あの勢いと方向性・・・武器に自信がある個体の行動だと思った。)
だが、砕けた角は継ぎ接ぎのようにいびつで、左右非対称だった。血管も神経の通った跡もなく、接合部は明らかに後付け。
「・・・あれ、自作か?」
思わずつぶやいた。直後に地を踏み鳴らし、木刀の背で再び肩口を殴る。赤兜は反応を見せるが、やはり真正面からの反撃はない。
(これ、もしかして・・・?)
脳裏をよぎった仮説に、ぞくりと背筋が震えた。
(角は“象徴”だ。繁殖競争の象徴だ。なら、それを真似てる・・・?)
山岳地帯、地下に巣を作ることもできない。周囲には他の虫も少ない。
(自ら“角を作り”、他個体を引き寄せようとしている・・・!山の上からでも分かるように!)
そう考えると、今までの全ての行動が一致してくる。角で見せつけ、群れの中心になろうとし、だが同族は来なかった──。
「・・・擬態じゃない。擬装だ。あれは、孤独に抗う形だ・・・。」
その瞬間、赤兜が微かに震えた。角の残骸がこぼれ落ちる。フィルはもう、斬る気を失いかけていた。
(まるで、演技が破れた舞台装置のように──。)
繁殖の構造は単純だった。赤兜のような種族において、強い個体が繁殖の中心となり、他の個体を惹きつけ、支配し、次世代を残す。それは本来、オスの役割であり、その象徴が角だった。角は誇示の器官であり、戦闘と威圧のために存在する。角があることで、他の虫たちはその個体に群がり、遺伝的強さを選別する。
だが、あの個体の角は違った。あまりに脆く、あまりに不均等で、あまりに浅かった。砕けた断面に血管はなく、繋ぎ目は粗雑だった。──後天的に、素材を寄せ集めて“作った”もの。
つまり、あれはオスではない。メスだ。
てっきり自分はオスが折れたのか、元々折れる想定で作っているのかと思っていた。
そして、山岳地帯においては、土に産卵することができない。地中に巣を構築するための安定した湿度も、敵から隠れるための土壌もない。ならば、子を守るためには常に晒される必要があった。自らが、外敵を退ける“巣の盾”にならねばならなかった。
その環境下で──赤兜は、オスのように角を持ち、主張し、戦う必要に迫られた。だがそれは、選択ではなく必然だ。メスとして孤独に取り残された末の、生存の形式だった。
フィルは今までの全てが合致した感覚を覚えていた。突進の直線性。攻撃の抑制。角の造形。周囲への示威。繁殖の希望。それら全てが、たった一つの行動原理に収束していた。
──仲間を集めたかった。子を残したかった。自分の価値を示したかった。
それが、角の正体だった。力の証ではなく、孤独の結果だった。
角さえ折ればいいなら──。
フィルはそう結論づけた瞬間、身体全体から無駄な力をそぎ落とし、集中を一点に絞った。木刀を握る手に熱が集まる。記憶する木は、既に角の質感と硬度を刻んでいる。それでも砕ける保証はない。だが、それでも──「力を込める理由はある」。
一歩。赤兜が身構える。
二歩。木刀が背中に風を切る音を発する。
三歩目で地を滑り、踏み込んだ。
最初の一撃は鋭く、斜めに滑らせるように角の基部を打つ。振動が腕を抜け、甲高い反響が空気を刺す。だが角は、崩れない。
二撃目は刃を寝かせ、重さを乗せた打ち込み。関節が軋む。赤兜が呻く。角の表面にひびが走る。
三撃目。フィルは跳躍した。空中で全体重を乗せるように、真上から打ち下ろす。木刀の根本がわずかに軋み、白い亀裂が入る。角の片側に深い断面が刻まれた。
それでも足りない。
四撃目。脚の反動を殺さずに踏み抜くように叩き込む。角がきしむ。赤兜が後退する。
五撃目。前の反動を肩で吸収し、そのまま連撃のように返す。砕けるのは木刀か、それとも──。
六撃目で手元が振動に震えた。木刀の柄が砕け、先端がひしゃげる。粉塵と音と共に、角の基部が真っ二つに裂けた。
赤兜の動きが止まった。角の残骸が、地面に散らばった。
フィルの呼吸が乱れている。木刀の柄だけを手に、何も言わずに相手を見据えていた。既に戦意はない。そこにあるのは、静かな終わりの気配だった。
カクヨムマジで伸びないので移植した。