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花、咲き揃うまで。  作者: 伊阪証


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DLCシナリオ第八話-犭貧或いは黙示録

音はなかった。 地形改変が強行された末に訪れた「新しい世界」はただ静かだった。轟音も、人々の叫びも、侵入した捜索隊の銃声もすべては降り始めた冷たい雨に洗い流され、今はもうない。

崩れた街中心部。空は鉛色に閉ざされ灰の舞う音だけが、しんしんと降り積もっていく。 フィナは崩れた指揮用のテーブルの横で立ち尽くしていた。その手には泥に濡れ、今や黒く変色した花の根が握りしめられている。

彼女の思考は完全に停止していた。 街は守られた。捜索隊は小型の虫の反抗によって撃退された。戦争は意図せぬ気候変動によって終わりに向かうだろう。 だが、その代償として街は「雨が降り続ける地獄」という、取り返しのつかない環境に変貌した。

マッシュの計算は戦術的には成功し、戦略的には過去のトラウマが具現化したように暴走した。 フィナの理性と疲労は境界を失い、目の前の現実をどう処理すべきか次の指示を出せずにいた。

熱も、冷気もない。ただ、虚脱が彼女の全身を支配していた。

「……」 雨に打たれ、冷え切った唇がわずかに開く。だが、言葉は出ない。 虚脱。そして、次の瞬間、内側から熱いものが込み上げてくる。なぜ、こうなった。私の決断が、この街を、この「日常」を破壊した。怒りが、冷えた思考を焼き、波打つように込み上げる。 だが、その怒りもまた、降り続く雨に打たれてすぐに冷えていく。 虚脱。怒り。虚脱。 その交互の波だけが彼女をその場に縫い付けていた。

「……まだ、」

声がした。 フィナは呼吸三拍分遅らせて、ゆっくりと音のした方へ視線を向けた。マッシュが立っていた。 気候変動の際、天文台もまた崩落の余波を受けていた。彼は破損した望遠鏡の金属製の脚を杖代わりにし、かろうじて立っている。その腕には、焦げた図面の束が抱えられていた。

彼の声は掠れて震えていた。だが、その瞳は絶望に染まるフィナとは対照的に、まだ明るい光を宿していた。 彼はフィナの顔を見ない。自らが杖を突く地面に落とした影を見つめながら、必死に言葉を絞り出した。

「まだ、終わっていない」

それは理屈ではなかった。自らの計算が暴走し、この地獄を招いた男の、必死の祈りだった。

フィナの眉が微かに動いた。 彼女は握りしめていた花の根をゆっくりと開いた。泥が雨に濡れた掌に広がる。 彼女はマッシュの祈りを受け取った。そして自らの「虚脱」と「怒り」の先にある、唯一の答えを選んだ。

「……戻すんじゃない。作り直す」

その声量は小さかった。だが、その一言には絶望的な疲労と、それでもなお未来を選択するという覚悟が同居していた。雨と灰が舞う音しかしないこの街に、その残響だけが、確かに響いていた。

空は灰色だった。 地形改変の計算が引き起こした「雨が降り続ける地獄」は、分厚い雲の蓋となって街を覆い、光を均一な灰の色に変えていた。 だが、その灰色の空を貫き、一本だけ、暴力的なまでの光が地上に突き刺さっていた。それはマッシュの天文台だった。

フィナの命令を受け、彼は奇跡的に晴れた一瞬の雲間を捉え、天文台の巨大なレンズを調整していた。

「…っ、…」マッシュの焦点を合わせる手が震えていた。レンズの角度が数ミリずれれば、太陽光はただ拡散し、作戦は失敗する。彼の過去のトラウマが、指先をこわばらせる。

だが、レンズが太陽を捕らえた瞬間、彼の呼吸が止まった。 恐怖ではない。自らの計算が再び現実を捻じ曲げる瞬間に立ち会う、恐怖と快楽の紙一重の昂ぶりだった。

レンズが収束させた光は、街の峡谷に墜落した「枯れ枝の竜」の残骸、その一点を焼き始めた。 ジジ…と水分が蒸発する音が天文台まで届く。フィナは焼ける臭いに眉を顰めながらも、その視線を逸らさなかった。 かつて犠牲を払って封印した、あの「死骸」。その枯れ切ったはずの枝が太陽の熱を受けて、まるで生きているかのように痙攣し、硬質化していく。

「あの熱は生きてる……」

フィナは呟いた。それは、生命と死の境界を実感する声だった。

同時刻。街から遠く離れたエトナ火山の火口付近。 そこは、天文台の光とは無縁の、本物の火山灰が舞う灼熱の領域だった。

「グ、ギギギ…!」

海泡が、最後の抵抗を見せていた。その巨体は加速作戦で勢いを得たまま、火口の縁に追い詰められている。

「…っ、早く…!」フィルは馬車から引き出したロープで海泡の巨体を縛り、その暴れを前に腕の力が抜けかけていた。馬車が火口から滑り落ちないよう、必死に手綱を握る。

「早く……行け!」

彼が怒鳴る声が裏返る。それは仲間を鼓舞する声ではない。自らの限界と、目の前の怪物への恐怖を誤魔化すための怒号だった。

「…ゴホッ、ゲホッ…!」リミナは灰で喉を焼かれながらも荷台の端に立っていた。口元を濡れた布で押さえ、最後の灰を風下に立つ海泡の背後から火口へ向かって撒く。灰を嫌う海泡が、自ら火口へ落ちるように。彼女は咳き込む姿を見せず、ただ淡々と作業をこなす。冷静さを演じる自己防衛だった。

「…これで終わりだ」ジアは馬車を下り、海泡と馬車を繋いでいた最後尾の手綱を、ナイフで切り放した。馬車が大きく揺れる。

海泡が、断末魔の叫びと共に、火口の灼熱へと墜ちていった。 ジアは、火口から立ち上る黒煙を見つめる。

「これで終わらなかったら、また考えればいい」

その声には、諦観と覚悟が滲んでいた。

同じく同時刻。天文台と火口、そのどちらでもない山間の峡谷。 気候変動で始まった「雨」が灰色の空から降り注いでいる。無言。聞こえるのは工具の音だけだった。

カンナが巨大な鉄杭を岩盤に打ち込んでいる。ラヴェル、スレア、オリヴァー、そして片腕を失ったベルも泥水に塗れながら、「枯れ枝の竜」の硬質化した残骸を運び、ダムの基礎として組み上げていた。

カン、カン、とカンナが鉄杭を打つたびに、乾いた音が雨に吸い込まれる。 彼女は、口の中で短い祈りを唱えていた。神にではない。この作業が、一刻も早く終わることだけを願って。機械的な動作を繰り返すことで彼女は、この街が直面している破滅的な現実から意識を追い出していた。

天文台の光、火山の黒煙、そして山間の雨。 三つの作業は、誰に合図されるでもなく、同時に進行していた。

火口に墜ちた海泡の断末魔は音にならなかった。その代わり、エトナ火山が咆哮を上げた。 フィルたちがいた火口の縁が凄まじい振動で崩れ落ちる。海泡の巨体と莫大なエネルギーがマグマ溜まりを直撃したのだ。

シュゴオオオッ、と空気を焼く音。 火山灰ではなく純粋な水蒸気が、赤い噴煙と共に天高く噴き上がった。以前フィルたちが観測した「海の蒸発」が、今、強制的に引き起こされている。

その数分後。天文台。 マッシュは火山の観測値を読み取りながら独り言を重ねていた。気圧計の針が、ありえない振幅で揺れている。 「上昇気流……蒸発……対流……」 彼の計算上、火山の熱と、ダムが作り出す冷気がぶつかれば、局地的な雨雲が発生するはずだった。だが、観測値が示す現実は、彼の計算を遥かに逸脱していた。 火山の熱量が、海泡という予期せぬ燃料の投下により、想定の数十倍に跳ね上がっている。

「…違う、違う、この対流は…」 計算が止まった瞬間、膝が崩れ落ちた。彼が支えにしていた杖(望遠鏡の脚)が、ガラン、と石の床に倒れる。 「あ…」理屈が現実を超える瞬間の恐怖と恍惚が同時に彼を襲った。彼は、自らの計算が再び世界を壊す瞬間に立ち会ってしまった。

ザアアアアアア…音がした。 フィナは天文台の外で、肌を刺すような風を浴びていた。空がマッシュのレンズが収束させた太陽光の白と、火山の噴煙の赤に二分されている。 だが、その二色の境界で空が、まるで巨大なガラス板のように裂ける音を立てた。

「…やめ…!」 彼女は、それが自らの決断が招いた最悪の結果であると悟り、叫んだ。 しかし、その声は、全てを圧し潰す雷鳴にかき消された。止められない現実への怒りと、誰にも届かない無力感が彼女の胸を締め付けた。風が逆流した。火口から噴き上がった灰が、上へと舞い上がる。

そして、世界が一瞬無音化し、再び轟音が響いた。雨が降る。 それは、戦術的な雨などではなかった。熱せられた海水が空で冷やされ、凝縮され、地上へと叩きつけられる純粋な物理現象の暴走。

山間でダムを建設していたカンナが、工具を落とし、空を見上げた。 火口から撤退しようとしていたフィルが、馬車の手綱を握りしめたまま、空を見上げた。 天文台で膝をつくマッシュも、その外で立ち尽くすフィナも。全員の顔が、空から降り注ぐ、その冷たい始まりを、同じ方向で見上げていた。

これは、戦いの終わりを告げる雨ではない。 マッシュの計算が暴走し、世界を書き換えてしまった黙示録の始まりを告げる雨だった。

音は、なかった。 地形改変が強行された末に訪れた轟音と雷鳴は、まるで嘘だったかのように消え去っていた。 舞台は灰の地面に変わっていた。火山が吐き出した灰と、マッシュの計算が暴走させた雨が混じり合い、固まった大地。音は風が地表を滑る残響のみが届く。空を覆っていた分厚い雲が、ゆっくりと割れ、光が落ちる。それは、この数日間、誰もが見ることのなかった陽の光だった。

馬車の残骸のそばに立ち、フィルは雨が止んだ空を見上げていた。彼はゆっくりと手を伸ばす。泥と体液に汚れ、こわばった指。雲の隙間から漏れた陽の光が、その汚れた掌を、まるで罪を暴くかのように白く照らした。 ぽつり、と。 空に残った一滴だけの水が、その指先に落ちて、体温で消えた。 彼は、何も感じなかった。海泡を誘導し、火山を活性化させ、この天変地異を引き起こした。その全てが終わった今、彼の心にあるのは、達成感でも安堵でもない。ただ、使命を終えた兵士の虚無だった。息を吸う。乾いた灰の匂いが肺を満たした。

「……乾いてる……」リミナが、足元の泥を掴んで、手の中で砕いた。水分を失い始めた灰は、ぱらぱらと指の隙間からこぼれ落ちる。ほんの数時間前まで、世界を終わらせるかのように降り注いだ雨が、止んでいる。恐怖が抜けた後の現実への驚きが、彼女の表情を強張らせていた。彼女は、その乾いた灰を、もう一度強く握りしめた。

ジアは、破片を拾い集めるのをやめ、遠くに見える街の方角を、ただ無言で見つめていた。

マッシュは、崩れかけた天文台の中で、望遠鏡の焦点を必死に合わせていた。レンズが捉えたのは、異常な速度で流れていく雲の残骸と、変わり果てた大気の屈折率。 彼は、震える手で羊皮紙に最後の記録を取る。インクが、まだ湿り気の残る紙に滲む。 「……計算、終了」 彼は、それだけを呟くと、そのまま座り込み、顔を上げなかった。自らの計算が招いた「黙示録」が、自らの計算通りに(あるいは計算を超えたまま)収束した。その完成と喪失の同居が、彼の思考を停止させていた。

フィナは、天文台の上で、壊れた手すりに寄りかかり、空を見ていた。 捜索隊との戦闘で飛び散った誰かの血が、彼女の頬についたまま乾きかけている。

「止まった……止まったのね」声は震えていた。だが涙はない。

彼女は、この結果を理解したのではない。ただ、「終わりを認める」という動作として、それを受け入れた。 灰色の水たまりが、彼女の足元に残っていた。水面に映る、どこからか飛んできた花の影が一瞬だけ浮かび、揺れて消えた。 光が、その水面から失われていく。


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