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花、咲き揃うまで。  作者: 伊阪証


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DLCシナリオ第七話-煙る

キィン、という甲高い金属音がフィルの鼓膜を突き破った。 それは激しい加速から引き続く、海泡の巨体が整備された石畳を削る滑走音だった。強光が、大気中に舞うエトナ火山の灰の粒子を乱反射させ、三人の視界を白く焼いていた。馬車の車輪が限界を超えた速度に耐えきれず、耳障りな軋みを上げ続ける。 ゴウ、と風の唸りが全てをかき消そうとする中で肌を叩く灰の粒の感触だけが、今ここが現実であることを三人に伝えていた。

フィルは馬車の手網を握りしめていた。 その指は細かく震えている。 イザベルのキスによって引き起こされた精神的な高揚は、まだ彼の全身を支配していた。だが、それはもはや甘美な熱ではない。彼の知覚を異常なまでに鋭敏にさせ、浅い呼吸を繰り返させる一種の呪いとなっていた。 握る手に力が入りすぎる。馬車がわずかに蛇行した。

(落ち着け) 彼の頭の中で冷徹な声が響く。それは姉、フィナの理性の声だった。 街を守るという使命。その秩序が彼の行動を縛る。 だが、その理性をあざ笑うかのように別の記憶が思考を焼く。唇に触れたあの理解不能なイザベルの熱。あの熱は彼の制御を、彼の秩序を内側から溶かそうとしていた。 自己否定の感覚が、昂る使命感と衝突し、彼の精神を削っていく。彼は、ただこの責務を果たすためだけに冷静さを装っていた。

「フィル、速度が落ちない! 灰はもう撒けないわ!」

荷台の後方で、リミナが叫んだ。彼女は風に飛ばされそうになる身体を支え、フィルの横顔を不安げに見つめていた。 彼女の手元にはまだ半分以上残っているエトナ火山の灰の袋があった。だが、直前に実行した「加速滑走」の奇策は、海泡を誘導ルートに乗せることには成功したものの、スリップの分よりも多いくらいにその速度を制御不能な領域へと叩き込んでしまった。 これ以上灰を使えば、海泡はさらに加速し、この馬車を引き離し、完全に見失うだろう。

リミナの胸には恐怖と責任感がせめぎ合っていた。 だが、彼女が何より恐れていたのは海泡ではない。あの高揚感に飲まれ、尋常ではない集中力で手綱を握るフィルの姿だった。 (これ以上やればフィルが壊れる) あの一件以来彼の精神は張り詰めすぎた弦のように危うい。これ以上の負荷は彼を人間ではない何かへと変えてしまうかもしれない。彼女は、攻撃的な手段(灰の散布)と、守りたいという本能の間で唇を噛むしかなかった。

「このままじゃ見失う。かと言って、街も危ない」

馬車の内部で地図とコンパスを睨みつけていたジアが短く呟いた。 彼女だけがこの作戦のさらに奥にあるマッシュの計画を知らされている。この誘導作戦は単なる陽動ではない。海泡をエトナ火山へ誘導するという「実績」を、外部への交渉材料とし、最終的には彼女の父が所属する海軍へ連絡するための布石だった。 だが、この制御不能な速度では、予定していた通信ポイントを遥かに逸脱してしまう。理性で焦燥を押さえ込みながら、彼女はこの膠着状態を打破する術を模索していた。

「速度、落ちたか」

フィルが防風板に叩きつけられる灰の粒を睨みながら問うた。

「まだ! でも灰は撒けない」

リミナが叫び返す。 風の唸りが強くなる。海泡との距離がわずかに、しかし確実に開き始めていた。このままでは、陽動も、マッシュの計画も、全てが失敗する。

ジアが硬い声で二人に問いかけた。 「もう一手ないか」

ジアの乾いた問いかけは疾走する馬車の車輪の軋みに掻き消される。

その一瞬の膠着を破ったのは、海泡でも彼らの決断でもなかった。

「―――!」馬車の影から突如として別の集団が現れた。 それは、この戦場にはあまりにも不釣り合いな、熱狂に浮かされた笑い声と悲鳴の群れだった。彼らは武装していない。その手には、泥に汚れた花束や、イザベルの肖像が描かれた横断幕が握られていた。どこで手に入れたのか、香料の煙が、エトナ火山の灰が舞う空気と混じり合い、むせ返るような異臭を放つ。

彼らは、先日の戦いの結末から引き続く、イザベルの熱心なファンの一部だった 。

「来るな!」フィルは反射的に怒鳴る。だが、極度の緊張で酷使した声は掠れ、風の唸りにかき消されて届かない。 馬車の速度と、海泡の滑走音。その二つの巨大な理屈の狭間に、彼らファンという非合理な現象が割り込んでくる。フィルは、その熱狂の渦の中心に数日前の幻影を見た。

(…イザベル…) あのキス。あの理解不能な熱の残滓が今、外的現象として目の前に再出現していた。 フィルの理屈では理解できない存在への恐怖と、あの瞬間に感じた抗いがたい魅了が彼の思考を麻痺させる。一瞬だけ、手綱を握る指の力が緩んだ。馬車がわずかに軌道を逸らす。

「フィル、しっかり!」

リミナの叫び声がフィルの意識を引き戻した。 リミナは迫るファンの群れを見据え、冷静に「彼らは敵じゃない」と判断した。彼らに殺意はない。ただ、盲目的な熱狂があるだけだ。 だが、彼らが焚く香料の煙とリミナが撒いたエトナ火山の灰の匂いが混じり合い、彼女は咳き込んだ。

(私たちが…悪者?) この灰は、海泡を誘導するための「正義」のはずだった。だが、無関係な彼らを巻き込み、苦しめている。(“彼らが敵でないなら、自分たちが悪なのか”)。その錯覚が、彼女の正義を揺るがせた。

「チッ…邪魔だ!」ジアはその感情の揺れを意に介さず、即座に物理的対応を開始した。彼女の目的はただ一つ、進路確保だ。 彼女は馬車の側面を蹴り、ファンの集団と海泡の間に積荷の空箱を投げ捨てた。

「リミナ、伏せて!」

海泡がその新たな障害物と、割り込んできたファンの集団に気を取られ、わずかに進路を変える。その巨体がファンの集団のすぐ脇を掠め、数人がパニックを起こして散り散りになる。衝突は誰の悪意でもない、偶然の連鎖として発生した。

ファンの一人が、仲間に押され、体勢を崩す。その瞬間、ジアは咄嗟にリミナを庇う動作で、自らの身体を彼女の前に割り込ませた。 その直後、体勢を崩したファンの一人が馬車の後輪に接触し、倒れる。

甲高い悲鳴が上がる。 フィルは手綱を強く引き馬車を立て直す。 だが、その一瞬の混乱と、新たな「血の匂い」が、海泡の注意を完全に惹きつけてしまった。

ファンが倒れ、血の匂いが空気を満たした。 海泡の巨体がその新たな刺激に反応し、誘導ルートから逸れてファンが倒れた地点へと明確に進路を変える。加速から続いた制御不能な滑走は、最悪の形で「獲物」を見つけて停止しようとしていた。

リミナが息を飲む。ジアが舌打ちする。 だが、フィルの反応が最も早かった。 彼の頭の中で、数瞬前まで響いていたイザベルの熱に浮かされたような高揚感が、急速に冷却されていく。代わりに、冷徹な声が響いた。姉の声。フィナの秩序。 (…違う。これでは、街を守れない)頭の中で理性の声が響く。彼はこの状況を打開するための計算を瞬時に完了させた。

「リミナ、灰を! あの岩だ!」

ジアの言葉が馬車の軋む音に吸い込まれる。濁音の奔流。だが、それはもうフィナの声ではない。 『ガシャン!』という金属の棚か何かが倒れる衝突音。遠く統率を失った人の叫び。そしてノイズの向こう側でザアアア、と空気を覆い尽くす雨の始まりの音。

街からの報告ではない。秩序が音を失っていくその瞬間の記録だった。フィルは目をそらせない。 何事かを発しようと口が開く。だが、それより早く馬車の屋根を現実の雨粒が叩き始めた。

雨音が彼の言語化できない喪失の声を消した。 リミナは馬車の隙間から空を見上げた。空は暗く、加速作戦から舞い続けていたエトナ火山の灰が今や始まった雨に混ざっていた。 黒い筋が彼女の頬を濡らす。指先で触れたそれは冷たい泥だった。涙と錯覚するにはあまりにも重い現実の汚れだった。

ジアは地図を睨んだまま次の行動を考えようとしていた。 だが、声が出ない。彼女は焦燥に息を吐く。その息が白くなった。気温が下がり始めている。

視点は馬車の中から遠ざかる街を望む。 街のシルエットは雨に霞み、煙(暴動による火の手)が低く立ち上っている。 その立ち上る煙の源が、街の中心にある巨大な樹木だと、ジアは悟った。 制御を失った樹木が、フィルの力に呼応し、街そのものを内側から締め上げているのだ。

「戻れないわ」

ジアの声は、もはや感傷ではなかった。彼女は、通信が途絶した通信盤に触れ、冷徹な兵站管理者の顔に戻った。 「街は、私たち自身で焼却を始めた。ここにはもう、帰る場所はない」

「フィル、リミナ。作戦を続行する」

「あの灰と、私たちの持っている全てを、次の『舞台』で使い果たす。それが、崩壊した街から託された、私たちの最後の任務よ」


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