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花、咲き揃うまで。  作者: 伊阪証


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DLCシナリオ第六話-途絶

マッシュの天文台が外部の捜索隊に露呈する。その政治的危機と軍事的な脅威が街に新たな決断を強いた。 天文台という一点に敵の意識が集中すれば街は蹂躙される。 フィナが下した決断は陽動だった。敵の目を街から逸らし、まったく別の場所でより巨大な「現象」を意図的に発生させる。 それが「海泡誘導作戦」の真の目的だった。

それから数日後。 再建された街の東門が重い音を立てて開かれた。 朝靄の中、姿を現したのは一両の馬車だった。戦闘用ではなく速度と積載量を重視した商用のものだ。 その操縦席にはフィルが座っていた。 彼と共にこの陽動作戦の任に就くのはリミナとジアの二人だけだった。

フィルは手綱を握る自らの手を見つめた。 指先がわずかに熱を持っている。 数日前イザベルに唇を奪われた瞬間の、あの理解不能な「熱」がまだ彼の精神の表面に薄く張り付いていた。 それは不快感ではない。むしろ知覚が異常に鋭敏になり、視界の端で揺れる花弁の動きすらも明確に認識できるほどの精神的な高揚感だった。 だが、その高揚は先日の騒動で露呈した彼自身の「人間的な脆さ」――意識を失ったという事実と隣り合わせだった。 力が昂るほどその制御が難しくなることへの不安も混在している。 彼は操縦桿を握る手に無意識に力が入りすぎていることに気づき、一度息を吐いて力を抜いた。

「準備はいいわね、フィル君」

荷台で最終確認をしていたジアが声をかける。 彼女の足元には防水布で厳重に覆われた火薬や戦闘用の資材が並んでいた。 彼女の表情はいつもの商人のものではなく、海軍将校の娘としての冷徹な兵站管理者の顔だった。

「灰も、問題ないわ」

リミナが革袋の口を締めながら頷いた。 袋の中身は彼女の故郷、南イタリアから持ち込まれたエトナ火山の灰だった。 かつて彼女が蜜蝋の動きを止めた、あの曰く付きの聖遺物。

「海泡がこの灰の成分――硫黄の匂いを生物的に嫌悪する性質は確認済みよ。魔術じゃないわ。ただの化学反応。これを進路に撒いて、あの巨体を私たちが望む方向へ誘導し、消耗させる」

リミナはその灰の入った袋をまるで貴重品のように胸元に抱えた。 彼女にとってそれは故郷の土であり、今この街を守るための唯一の武器だった。

「……行くよ」

フィルが短く告げる。 馬車が軋みゆっくりと動き出した。

彼らが進む街道はかつての戦いの爪痕を感じさせないほど美しく再整備されていた。 カンナが主導し街の総力で敷き直された石畳は滑らかで、馬車の振動をほとんど感じさせない。 再生の痕跡は道の両脇に植えられた新しい花々にも見えた。 それは観賞用ではない。有事の際に敵の足止めや毒矢の材料となるための戦略的な植生だった。 街は確かにあの敗北から立ち直り進化していた。

三人の間には言葉少ない緊張と、互いの役割への静かな信頼だけがあった。 ジアが地図とコンパスで進路を最終確認し、リミナが風向きを読んで灰を撒くタイミングを測る。 そしてフィルは自らの高揚感を抑え込み、馬車の速度制御だけに意識を集中させる。 街の門が背後で閉じる音が遠く響いた。 陽動作戦は静かに開始された。

馬車は再建された街道を疾走していた。 カンナが指揮し街の総力で敷き直された石畳は、磨き上げられた鏡面のように滑らかだった。 街の復興の象徴であり文明の勝利を無言で語る、美しい道。

だが、その背後には同じく滑らかな軌道で海泡が追従していた。 地を擦る音ではない。 シュル、シュル、という軽快ささえ感じさせる滑走音が馬車の車輪の音に混じって響き続ける。

リミナが荷台の後方からエトナ火山の灰を撒く。灰が風に乗り海泡の進路に薄い幕を張る。 海泡はその灰に触れると明らかに不快そうな挙動を見せ、巨体を震わせた。 進路はわずかに逸れ誘導は機能している。 しかし速度が落ちない。 海泡は灰を嫌いながらも、整備されすぎた道路の上を氷上のように最小限の力で追ってくる。 灰は効いている。だが決定的な足止めにはなっていなかった。

「ダメ、追いつかれる!」

リミナの声に焦りが滲む。彼女は灰の袋を強く握りしめた。

「フィル! 以前のようにロープで足を止めるわよ!」

フィルは高揚した精神状態で研ぎ澄まされた知覚のまま即座に頷いた。彼は馬車の速度をわずかに落とし海泡との距離を詰める。 ジアが荷台から太い牽引用のロープを掴み投げ放った。狙いは正確だった。ロープは海泡の巨大な脚部へと絡みつく。 だが、結果はかつての戦いとは異なった。

ロープは滑らかな石畳の上を何の抵抗もなく滑った。 かつての戦場にあった悪路、瓦礫、土の凹凸といった「摩擦」が存在しない。 海泡は脚に絡みついたロープを余計な装飾品でも引きずるかのように、意にも介さず滑走を続ける。 牽引・巻き込み戦術は、この美しすぎる道路の上で完全に無力化されていた。

「無駄よ、リミナ!」

ジアが冷静な声で制止した。彼女はロープを即座に切り離しながら後方を見据える。

「灰を撒くのをやめなさい。消耗させるどころか単なる道案内になってる!」 「でも、何かしなければ!」 「見て! あの道路を!」

ジアの指差す先、月明かりに照らされた石畳は皮肉なほどに完璧だった。 街の進化が彼らの経験を殺していた。この道は海泡にとって最高の滑走路となっていた。 彼らがあの怪物のために、わざわざ道を作ってやったようなものだった。

戦術は完全に膠着していた。 フィルは手綱を握る手に高揚感とは別の、冷たい汗が滲むのを感じていた。 誘導はできている。だが消耗させることはできない。 このままではエトナ火山にたどり着く前にこちらの馬か、あるいは人間の精神が先に限界を迎える。 三人の間に焦りと、打開策の見えない小さな口論だけが響き始めた。 消耗戦の様相が色濃く漂い始めていた。

フィルの決断は馬車が次の揺れを越えるよりも早かった。

「リミナ、今だ! 脚の先端、内側だけを狙え!」

高揚した精神がフィルの判断を加速させる。 リミナは一瞬ためらった。だが、操縦席から振り返ったフィルの不安と興奮が混在した瞳を見て覚悟を決めた。

「…ジア、揺れを抑えて!」

リミナは風切り音の中で叫ぶと、エトナ火山の灰が入った革袋を掴み馬車の最後尾から身を乗り出した。 海泡の巨体がすぐそこまで迫る。 彼女は滑走する脚の、その先端部分だけに狙いを定め灰を投げつけた。 灰が高速で動く結晶質の甲殻に付着したその瞬間だった。

シュルルルルッ! という金属が擦れるよりも甲高い耳障りな滑走音が響き渡った。 海泡の脚が整備された道路の表面で意図的に摩擦を失う。 だが、海泡の巨体はその推進力を殺せない。 結果、海泡の動きはアメンボが水を蹴るように、あるいは氷の上を滑る石のように爆発的な加速を得た。

「成功した!」

ジアが叫ぶ。 海泡は狙い通り抵抗を失った脚に引かれる形で、エトナ火山方面へと猛烈な速度で滑走を開始した。 だが、その成功の確信は次の瞬間、破滅の予兆へと変わった。

「速すぎる!」

フィルが叫んだ。 海泡の加速は想定以上だった。馬車が軋み、馬が悲鳴のような嘶きを上げる。 もはや三人が追いつける速度ではない。 凄まじい速度で滑走する海泡の巨体はその摩擦で道路の石畳を削り、エトナ火山の灰と自らの体液を霧状にして撒き散らした。

「前が見えない!」

馬車が灰と体液の濃密なスプレーに包まれ視界が完全に悪化する。 防風板に粘り気のある飛沫が叩きつけられる。 灰と風の描写が三人の感覚を奪う。

「・・・ダメだこれ!」

ジアが必死に街へ連絡を取ろうとするが、高速移動による風切り音と海泡が発する滑走は音を掻き消し、そして舞い上がる灰の粒子がやがて土砂の崩落として霧を破る。これが最後の一手だ。 失敗すればここで見失う。成功してもこのままでは追いつけない。

「くそっ、離されるな!」

フィルは高揚感と焦燥が入り混じった極限状態で、手綱を強く握りしめた。 視界ゼロに近い灰の嵐の中、彼はただ耳に残る海泡の滑走音だけを頼りに必死で馬車を操縦し続けた。 成功と破滅の境界線の上を彼らは猛スピードで滑走していた。


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